#4
「リアセド」
彼女に、1人の天使が歩み寄ってくる。
そちらに顔を傾けると、『彼女』は、僅かに顔を輝かせた。
「流石です。この、短時間で」
それは笑顔といっても相違ない表情だった。陶器に、僅かな艶が光ったような、極微小の変化。だが、天使同士であれば理解できる。
「お前達は」
リアセドは、
「先に戻っていろ」
取り合わなかった。
顔を背ける……先程までの現場をみる。キリングフロア。転がる屍はすべて動かず、血で塗り込められた背景に同化している、はずだった。
「う、ううう……」
そこに、ひとつだけうごめくものを見つけたのだ。まだ1人生きている……たかが1人、されど1人。しかし、自分だけで十分だ。
冷静な計算である。そこで芋虫のように動いている存在がどれほど苦しそうに血を吐いても、まるで関係がない。
「了解しました」
もう1人の天使が駆け寄ってきて、2人並んでリアセドに言った。
2人の天使のほうをちらりと向いて、わずかに頷く。
「あの――」
声。遠慮がちな。
「なんだ」
問う。負傷した側の天使である。やや癖のあるショートカット。すこし、ほんの少しだけ眉を寄せて、憂いの相を帯びている。
「わたしの心は、乱れていますか」
リアセドは一瞬言葉の意味を考えたが、すぐ理解した。
「今感じている痛みも、あるいは私を前にしておぼえているあこがれも――お前を規定するのに必要な感情だ。ならば、障害ではない。戻れ」
「はいっ!」
彼女は、やや声を張り上げて返事をした。安堵が滲んでいる。
リアセドとしては事実を言っただけだった。
すぐに、2人に背を向ける。
彼女たちもまた、歩き始めた。先程まで自分たちを追いつめていた者達の死骸には、何の感慨もなかった。
「相変わらず……すさまじいな、リアセドは」
天使の1人が、コートを翻しながら、『生き残り』に向けて歩みを進めるリアセドを見ながら言った。
もう1人が、相づちを打つ。
「それでも、全盛期の半分の力にも満たないと聞いたけれど……」
「詮無いことだな。彼女はあの裏切り者を処刑したときから、首筋が――」
ショートカットの天使が、振り向いた。
リアセドが、最後の1人に銃口を向けている――。
「っぐああああああああああ!!」
のどが張り裂けそうな叫びが、殺戮現場のがらんどうに響く。
苦し紛れに突き出した腕は、リアセドの足裏にふみつけられ、あっさりと砕かれる。そのまま、動けないように踏み続けている。
目を見開いて、血管という血管から激痛と、怒りと、それ以上の後悔をほとばしらせながら……男は今、最後の抵抗を行おうとしていた。
「お前で最後か。答えろ」
――貴様の苦しみなど、知ったことではない。
まさに、その通り。リアセドは無慈悲に、言い放つ。彼女の長い髪が作り出す影が、血塗れの彼に覆い被さる。
「がはっ、おれで、最後だって? ははは、違うね……」
痰の混じった血をごぼごぼと吐き出して、男は言った。彼は口の端を曲げていた――笑みのつもりであるらしい。
「あいつは、あいつは生きている――おれたちの全てを持って逃げているあいつが――これで時間は稼げた……おれたちはお前等に勝てない……だが、負けないことだって……」
「知っているか」
言葉を無慈悲に割り込ませる。
魂胆は、十分伝わった。
これ以上喋らせるのは酷というものだろう。
「天使は、2人一組で動く」
……男の顔から、表情が消える。
死の青と紫が、滲み始める。
「……!!」
「先回りさせていて正解だった。情報提供に感謝する」
◇
「な、あ……」
言葉がでない。のどの奥が干からびて、強い痛みを感じる。身体の芯が凍り付いて動けない。目の前の光景から、顔をそらせない。なんだこれは、自分は何を見ているんだ――。
「逃げられると、思っていたの?」
――男の目の前。
袋小路の、行き止まり。
1人の天使がいた。
あざけるような目をして、うっすらと笑いを浮かべながらこちらを見ていた。そう、見ていた。
「そんな、……」
男の思考が高速で回転を始める。散っていった全ての仲間達の顔が頭に浮かぶ。この状況を打開するための方策を考える。しかし――すべては、目の前の天使によって塗りつぶされる。破局、破局、破局……。
じわりと、股間が塗れてシミが広がる。脚がガタガタとふるえ出す。
終わるのだ。
ここで、自分の逃走は、終わりを迎える――。
「そんなわけないじゃない。天使は、どこにでも、いるんだから」
そう言って――天使は、背中から巨大な武装を取り出した。
それは、命を削り取り、滅殺するカタチをしていた。
「あ……あ……ああああああああああああ!!」
叫び。天使の笑み。
――間もなく、視界から天使が消えた。
次の瞬間、『彼女』は目の前にいた。
その姿は、美しかった。
……彼の全ては、そこでとぎれた。
◇
絶句。
彼の最期の時は今この瞬間、絶望一色に染まったのだ。
「もう。諦めろ」
これ以上絶望させる必要はなかったから、そう言った。
「てめえらは、てめえらは……」
死にかけている男が、譫言を繰り返していた。自分に向けられている銃口のこともすっかり忘れているのか、その目はどろりと濁り、ここではないどこかを見ていた。
「制御感情に従うのは簡単だ。そこに疑問を抱かず、ただ心を『沿わせれば』いい。そうすれば余剰感情が域値を越えることもない。シンプルな話だ――」
「てめえらはなんにも、わかっちゃいねえ――」
だが、男は今、最後の力を振り絞ったらしい。目に光は戻らない。既に死んでいるようなものだった。だが、言葉は続いた。リアセドは遮らない。意味のない事柄が、命のない者によって吐き出されるだけだからだ。
「人間に生まれついてあるものから目を背けて、蓋をして……それで秩序を、平和とやらを作った気でいやがる……だが、そいつは大きな勘違いだ……俺たちは、このアタマの中にあるものから逃げられねえ。見捨てようと思ったが最後、そいつは悪魔になって追いかけてくるんだぜ。なあ、天使さんよ……本当にそのやり方でこの街を守りたいんなら、その腕も、口も目も、何もかも捨てるこった……――お前等は、お前等が思ってる以上に、ただの人間なんだぜ――」
「……――」
銃声。
男は喋らなくなった。
茫洋とした笑みのようなものを浮かべたまま、硬直して冷たくなった。
残響が消えると、そこには、差し込んでくる複数の光を浴びながら、ひとつの死骸を見下ろしているリアセドだけが残った。
「……」
彼女は、袖に十字架をしまい込んだ。
落ちた羽根に、血が滲んでいる。
「そっちは終わった? こっちもよ」
死骸を見おろすリアセドに向けて、彼女よりもやや高い声が聞こえた。
そちらを見ると、暗闇から1人の天使が歩いてきた。
片腕はひらひらと彼女に向けられ、もう片方の腕は……1人の男の死骸を掴んで引きずっている。胴体がずたずたに引き裂かれた状態で、苦痛に顔を歪めた状態で硬直している。
この天使が、やったのだ。
「目当ての品は回収したわ。連中、こんなものを必死に守ってたのね」
ひらひらさせた手は、薄汚れたUSBメモリを持っていた。
もう片方の腕の死骸が持っていたのだろう。
リアセドは彼女を見た。天使は彼女を見て、少し笑った。奇妙に冷静で、独特の笑みだった。
「どうやら終わったよう、ねっ……」
死骸が投げられて、さきほどリアセドが殺した男の上に藁のように重なる。ぱさり、という無味乾燥な音だけが聞こえた。
「帰りましょ?」
彼女は肩をすくめた。ウェーブのかかった、長い髪。目元のほくろ。
リアセドの相棒である。
「ああ」
返事をする。
プロペラ音とともに、複数のヘリが廃墟の前に降り立つ。
風が起き、雑草がなびいて、瓦礫が吹き飛んだ。
展開されたタラップから、重厚な防護服に身を包んだ者達が降下して、隊列を組みながら走ってくる。
あとは、『処理班』が片づける。
リアセドは、彼らが次々と廃墟の殺戮現場に向かっていくのを横目で見ながら、その場を後にする。
数十分もすれば、彼女達が処理した死骸は、跡形もなくこの場から消え去るだろう。そして、『何もない場所』になるのだ。
街中の至る所にミカエルの顔がある。
その、憂いと慈悲に満ちた声が響いている。
「リアセド」
相棒が呼んでいた。
彼女は、処理班がなんらかのスプレーを吹きかけているいくつかの死骸から目を離して、身を翻した。
それから足早に、迎えのヘリに乗り込んだ――。
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