部屋の中ではすでに戦闘が始まっていた。先客の汚泥おでいがいたのだ。

 葡萄酒ぶどうしゅの大だるで五、六樽ぶんもあろうか。わずかにかかっている赤みも葡萄酒を連想させる。汚泥の体色にも個体差があって、混ざり合うと色が変わるようなことがあるのかもしれない。が、それよりむしろ、食べたものの影響と考えるほうが自然だった。

 最初に逃げ込んだならず者は、頭と右腕だけを残して飲み込まれていた。飲み込まれた部分は透けて見えた。歯もあごもない汚泥に、まるで噛み砕かれるように押しつぶされるようすが。

 大腿だいたいがあらぬ方向へ曲がった。肋骨が内側に折れ、胸がへこんだかと思うと逆から押されて飛び出した。流れ出る血が煙のようにたなびいて、汚泥の体内に溶けていく。気泡が現れ、結合し、消える。

 アトクスンと赤狼は狂ったように武器を叩きつけていた。ザローだけが冷静で、逃げろと怒鳴っていたが、ふたりの耳には届いていないようだった。

 扉を押し破り、通路の汚泥が流れ込んできた。もうひとりのならず者が飲み込まれた。

 流れ込んできた汚泥はひどくゆったりとうねりながら、先客の汚泥へぶつかった。

 岩場へ打ち寄せるふたつの波がひとつの波になるように、汚泥どうしは混ざり合った。粘性の高い流体が描く、人の手で計算するには複雑すぎる動きを、胸甲の男は柱のうしろで呆然と見ていることしかできなかった。



 ピアニーは柱の陰に隠れていたが、顔を上げ、汚泥の前に進み出て、優雅に両腕をかかげた。水鳥が翼を広げるようなしぐさには、神々こうごうしささえ感じられた。その口から発せられる耳慣れない響きには、若さとともに威厳が満ちていた。

 女魔術師は汚泥を指さした。

 指先から電撃が放たれた。稲光が八方へ飛び、見えない壁で反射して、汚泥を打った。

 彼女はさらに同じ呪文をもう一度唱えた。

 その次には、何本もの魔法の矢がきらめきながら、宙に美しい弧を彫って飛び、汚泥に突き刺さった。

 それからささやかな竜巻が。かわいらしく荒れ狂う炎の嵐が。異世界から呼び出された非力な小鳥の群が。

 ――汚泥には、まったく通用しなかった。

 力尽きて気を失ったピアニーを、胸甲の男が抱き上げ、背負った。ザローと赤狼、荷担ぎも集まっていた。アトクスンは両のくるぶしまでかりながら、まだ斧を振るっていた。

 波は打ち合ってはね返り、はね返っては打ち合い、どこに飛ぶか予測がつかなかった。ひつぎを盾にしながら、彼らは壁伝いに出口までたどりついた。その背後で、アトクスンの頭上に波が落ちてきた。

 一行は通路を走った。早足で歩きさえすれば追いつかれることはなく、大きな足音を響かせればかえって別の汚泥を呼び寄せるだけだとわかってはいても、走らずにいられなかった。

 ようやく恐慌から解放され、立ち止まったとき、ザローがつぶやくようにいった。

「閣下、アトクスンを見ましたか?あいつは自分の脚を切り落とそうとしてました」

 そして引きった笑みを浮かべた。

「あのバカ、脚なしでどうやって逃げるつもりだったんでしょうね」



 アトクスンを失ったことは、一行にとって戦力の致命的な低下を意味していた。

 胸甲の男は探索を省略するべきだと判断し、それでも中止はせず、ただ最奥部にある宝物庫へ到達することだけを宣言した。途上にある細い脇道や、玄室のものと思われる扉には目をくれず、彼らはただ先へと進んだ。

 全員が横並びになっても余る幅の通路は、大きな両開きの扉で行き止まりになっていた。

 ピアニーのまぶたはまだ閉ざされていた。彼女を背負ったまま、胸甲の男は一同を見渡し、扉に手をかけ、押し開けた。

 中はほのかに明るかった。これも魔法なのか、どこから射しているともわからない淡い光が、うっすらと室内を照らしていた。おかげで、全体を見渡すことができた。

 面積にして一帝町歩もあり、部屋というよりちょっとした広場だった。

 床には高低差が作られ、五、六段ほどの短い階段で上り下りできるようになっていた。太い円柱が整然と建ち並び、装飾だけが目的のアーチを支えていた。陽光の届かない地下で草花は育つまいに、花壇のようなものさえ見受けられた。

 この地下迷宮が古代の王族の墓所だとすれば、ここは埋葬された高貴な死者たちが遊ぶための庭園かと思われた。かつては美しかったのだろう。しかしいまでは、迷宮のほかの部屋と同じように、ひどくいたみ、崩れ、じめじめして、悪臭がした。

 部屋の中央が最も高い壇になっていた。そこは方形の大きなプールで、噴水らしき設備と給水路があった。もちろん、何百年も前にれ果てていた。

 その、干上がったはずのプールから、注意して見なければわからないほど少しずつ、なにかが盛り上がっていた。あたかも、表面張力で形を保った水が、ふちからあふれ出さないでいるように。

 濁った色の波が、おそろしいほど緩慢に、震えながら高まっていった。

 やがて、見上げんばかりにそびえ立った半透明の壁は、もうこれ以上背伸びできないとでもいいたげに、ゆっくりと崩れ落ちてきた。

 落ちてきた汚泥は床に当たってしぶきを上げた。水のように波頭が細かく砕けるのではなく、無数の偽足ぎそくが四方に突き出し、引っ込んだ。そして幅の広い石段を、溶けながら流れ落ちてきた。

 頭上に降りかかる偽足を、ザローは反射的に振り払おうとし、刀身にからみつかれた。無駄な悪あがきをせず、とっさに剣を手放した。

 しかし、流れてきた汚泥に足をすくわれて転倒した。

 足首にしがみつく偽足を松明たいまつで追い払ったものの、反対の手首が別の偽足に捕まった。

 気がつけば、彼は海に浮かぶ小島のように、汚泥に囲まれていた。

 松明の火が消えた。



※一帝町歩:約1ヘクタール



 胸甲の男はピアニーを背負ったまま走った。

 円柱を回り込み、アーチ橋をくぐり、石段を駆け上り、駆け下りた。

 壁に、等間隔で扉がついていた。いちばん近い扉は見せかけで開かなかった。隣も、その隣も。いくつ目かの扉を蹴破るようにして、彼はなんとか部屋から出た。

 赤狼と荷担ぎもついてきていたが、荷は半分に減っていた。偽足に捕まり、捨ててきたのだろう。松明も残っておらず、彼らは真っ暗な通路を手探りで進むしかなかった。

 長いこと押し黙って歩いたあと、赤狼が力のない声でぼそりといった。

「あいつも死んじまったか」

 胸甲の男が前を向いたまま答えた。

「ザローは私の部下の中でいちばん目端の利く男だった」

「死んだのが、あいつじゃなく俺だったらよかったと思ってるんだろう」赤狼が投げやりな口ぶりでいった。

 間を置いて、胸甲の男は肩越しに目をやった。

「お前は生きてる」

 赤狼は肩をすくめた。

「でもよ、今度あのクソゲロが出たらどうするんだ。こんな真っ暗じゃ、足もとにいたってわからねえぞ」

 そのとき、暗闇の中にピアニーのささやくような詠唱が響き、彼らの前に小さな光が現れ、あたりを照らした。

「目が覚めたのか」

 父親が娘に朝の挨拶あいさつをするような穏やかさで、胸甲の男が声をかけた。

「はい」と答えた声はよわよわしかったが、はっきりとした口調だった。

「大丈夫なのか」

「まだ、このくらいの力は残っています」とピアニーは強がるように微笑んだ。

 彼女の呼び出した魔法の光は宙に浮かびながら先へ進み、ついてくるのを待つように小さく揺れていた。周囲を照らすだけでなく、正しい道や危険な罠を教えてくれる、とピアニーはいい、それから真顔になって続けた。

「あれはもう、この先に現れないのではないでしょうか」

「どうしてわかる?」

 ピアニーは少し考えて、答えた。

「死者の眠りを妨げないよう、墓所全体にも術がかけられたはずです。墓所の奥深くほど、術の力は強いでしょう。入口にかけられた術は年月を経て弱まり、大トカゲやあれの侵入を許したのでしょうが、この先はその力をまだとどめていそうに思います。

 それと、あれは古代の魔術師によって生み出されたものが繁殖した、とも伝えられています。作った者なら、近づけない方法を知っていてもおかしくありません」

「ふむ」

 赤狼は「信じていいんだろうな」といったが、疑っているのではなく、当てにしているような口ぶりだった。

 光に導かれ、一行は小さな部屋にたどり着いた。



 小部屋は簡素な造りで、三辺がほぼ立方体の比率をしていた。損傷や湿気、不快な臭気がないところを見ると、ピアニーのことばどおり、古代の術がまだ力を残しているようだった。奥の壁に祭壇がしつらえられ、ほかの三方には壁龕へきがんがあった。魔法の光のおかげで、祭壇の陰に引きづなが隠されているのがわかった。

 仕掛けを作動させる前に、四人は食事をした。ピアニーは汚泥に襲われたときに食糧を落としたので、胸甲の男が分けてやった。それも計算に入れると各自残り二食、帰りは探索の必要がないかわりに、道がわからない。

 食事を終えると、胸甲の男がいった。

「この先が宝物庫だろう。この部屋に術が効いているのなら、そこも守られているはずだ」

 そして、厳しい口調で命じた。

「ピアニー、援護しようとするな。私が倒れても、魔法は逃げるためにだけ使え。いいな」

 たとえ威力が小さくても、魔法で攻撃すれば宝物の守護者の注意を引く。もしそうなったら、いまの彼女などひとたまりもないだろう。

 抗弁しようとするピアニーを手で制して、胸甲の男は続けた。

「赤狼、彼女を守れ」

 赤狼は目をむき、顔をしかめ、口を開きかけて思い直し、間を置いて、鼻を鳴らした。

「では、行くぞ」

 胸甲の男は立ち上がり、引き綱を引いた。祭壇が横に滑り、下り階段が現れた。四人は階段を下り、短い一本道を歩いた。

 宝物庫に通じる扉の前で、ピアニーがひとりひとりに守護の呪文を唱えた。電撃を放つ詠唱の威圧的な響きと違って、切々と祈るような抑揚だった。

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