水晶の夜

 ***


 案内されたミネンの部屋は、たくさんの分厚い本と地図と、なんて書いてあるか読めない紙が散らばっている。少し埃臭くて、メルは学者のような部屋だと思った。ランプがひとつしかない薄暗いままの部屋は、外と変わらないほど寒い。が、ミネンがホットミルクを用意してくれたので手元は温かかった。


 メルは背後にあるベッドに寄りかかり、ちまちまとホットミルクを飲む。向かいのミネンは何も言わず、無表情のままホットミルクを飲んでいる。


 先に沈黙を破ったのはミネンだった。


「別にこれは独り言ですけど、私、あの男が嫌いなんですよね」


 はぁ、と盛大なため息をつく。コンと机にカップを置いた彼女は普段の笑顔ではなく、嘲るような歪んだ笑みを携えていた。


「でも、二人は婚約者では?」

「仲悪かったんです。親の決めた婚約ってそんなもんですよ。大体あいつ、たまたま菓子づくりが人よりできるからって、歌姫様をこの町に閉じ込めようとしているんです」


 歌姫様。そう呼ばれたのは久しぶりで、頭の動揺をさらにひどくさせる。長く続いた「独り言」はメルに向いた。ミネンはメルの横に素早く移動し、力強く手首を掴んでくる。コップの中のミルクが揺れて、少し零れた。


「貴女は幸せになるべきお方です。私、貴女が今までどんなに悲しい目にあって来たかも全て存じております……。本で読みました。貴女の悲劇に関することは全て」

「待ってくださ___」

「今までの態度については大変申し訳ないです! でも貴女様があの男に騙されていることが許せなくて!」


 まるで激流のようにミネンの声は止まらない。彼女は早口で、本に書かれたメルのこれまでについて熱弁する。歌姫様、歌姫様、歌姫様と悲劇の話は続いていく。今までの明るくて華やかなミネンはここにはいない。


 ひとしきり語り終えると、ミネンの瞳が鋭く冷たいものに変わった。


「あいつ、母親の形見が出たって喜んでましたよね?」

「……なんでそれを」

「そりゃあ婚約者でしたからね、反吐が出そうですけど」


 舌打ちを混ぜながらミネンは笑う。女性のナイフのように危ない部分を丸だしにした彼女が、美しくも恐ろしい。何も言えないままのメルを愛おしそうに見つめた後、彼女はまた嘲るような笑みを浮かべた。


「あれ、全部ただの硝子ガラス細工ですよ。水晶玉なんかじゃない。ただの硝子玉! あはは、笑えないですよね」


 言葉が出ない。だんだんと熱を失うカップを握りしめる。同時にミネンが手首を握る力を強めてきた。


「……あいつは偽物を本物みたいに見せるのが上手い。嘘が上手いんです。分かるでしょう」


 ミネンはメルの手首から手を離す。そしてそのまま体をメルの方へ倒し、細い腕でメルを抱きしめた。柔らかい身体の熱が容赦なく伝わってくる。


「私と一緒に行きましょう、歌姫様」


 花の香りがする。甘くて強い、香水の匂いだ。


 ミネンが自分を好きだということも、彼女がローズを嫌いだということも全く気が付かなかった。長年の旅で他人の感情に敏感になったと、メルは自負していた。だが本当は違う。


 他人の感情など誰にも分かる筈がないのだ。気が付くのはすれ違いや、自分に向けられた悪意だけ。


 ふっ、と肩の荷が下りた。そうだ、誰の感情もわかりっこない。水晶だと思っていたものがガラス玉かもしれないし、その逆もあるかもしれない。


 メルは小さく口を開く。


「これは独り言だけど、私はミネンさんよりずっと年上なの」


 誰の感情も分かるわけがないが、自分の感情だけは分かる。ただ一つ言えるのは、ミネンと旅に出る気はない。彼女の手はどうしても取れない。


「大きな力を目にした人は、受け入れるのに誰かの一生分の時間がかかるの。私のような得体のしれない力をもった人間の本が出てるっていうのはつまり、ことだよ」


 何かが切れたように耳元で喋り出すメルに、ミネンは瞬きを繰り返し、腕の力を強める。行かないでと止めるように。


「ほ、本の話とは違って随分とおしゃべりですね。物語の歌姫様はもっと__」

「人生は物語じゃないよ」


 メルは自分でも冷ややかな声だと思った。いつの日かローズに伝えたかった言葉は、彼女を力強く突き放す。


「私は自分の人生に悲劇なんて言葉ついてほしくないの。ミネンさんが好きなのは物語の私だから、私じゃないんだよ」


 きっと悲劇の文字に「劇」が付く限り、ミネンはメル自身を見ないだろう。ミネンは多分、メルの人生を小説や劇と同じものと考えている。

 

 抱き寄せる彼女の肩を押し、立ち上がる。相も変わらずこの部屋は寒い。メルは部屋の椅子に掛けたコートを取る。コートに袖を通して少し考えた後、ローズから貰ったバスケットも手に取った。


「そんなの言葉のあやです! 私は、わたし、あんな男に嘘をつかれる貴女を救いたくて」


 心の奥でメルは、真実を話すミネンよりも嘘つきのローズを選んでいる自分に気が付いていた。真実の方が良い。良いけれど。


「ありがとう。ならもっと早く、本当の話がしたかった」


 縋る彼女の声を振りほどき、小さな声でさよならと告げる。考えるよりも前に足は進み、メルは町の出口へと向かっていた。



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