夕方と夜


 おしゃべりを楽しんだメルはカフェを出る。別れ際に「明日は午後から来て。午前は掃除するから」と言われ、頷きながら手を振って歩き出した。


 羽織った黒いコートは袖の辺りが大きくて、冷たくなってきた指先まですっぽりと隠れる。元はローズの物だったので当然だ。ローズに「子供ですら厚着するのに何考えてんの?」と馬鹿にされて無理やり渡されたものだったが、案外気に入っている。


 真っ暗な中、枯れ果てた落ち葉をパキパキと踏み鳴らし歩く。獣道を少し進むと煉瓦の街並みが見えてくる。


 少し前まではローズの家に寝泊まりして、実質同居していた。お互いに桃色の感情は無かった。今までの旅で、家に泊めてあげると言いながら下心満載の態度を取る男に何度も出会って来たので、ローズの家族のような接し方はとても有難かった。


 歩みを進めるほど木が減り、しばらくして煉瓦の町へ一歩踏み出す。道はきちんと舗装されていて、街灯の光がまぶしい。


「あ、メルさん! おかえりなさい」


 やけに高い声がメルの足を止めた。


「……ただいまです」


 果物や野菜がいっぱい入ったかごを持った、貸本屋の娘、ミネンが明るく笑う。今お世話になっている宿屋の女将さんとミネンのお母さんが仲良しなので、彼女とはその関係で知り合った。


 知り合った、だけで特に仲が良いというわけではない。


 足を止めると、ミネンが顔を見てニコリと口角を上げる。少女の笑顔は踊り子のように整っているが、歪さの欠片もないところが何故か恐ろしく感じる。


「今日寒いですねぇ。多分今夜は雪だし、風邪ひかないよう気を付けてくださいよ」

「そうですね」


 吐いた息が白く染まっていく。彼女のかごを持つ手は赤くなっていた。


「じゃ」

「あ、あの」


 そのまま離れていきそうなミネンを呼び止める。別に仲良くなりたいとかそういうわけじゃない。ただ指先が見ていられないくらい赤かったから、それだけだ。


「温かいものじゃないんだけど、キャラメルです」


 誰が作ったのかは言わない。彼女の冷たい手に乗せると、「ありがとうございます!」と目を輝かせる。ぱあっと擬音が付きそうなほどで、言ってはなんだが大袈裟だ。


「これ、ローズさんのですよね。前も食べたんですけど、美味しかったです」


 明るい少女の笑みの奥に、艶々とした威圧のような何かがいる。背筋を寒気が這いずり回って、恐ろしささえ僅かに感じた。


「……じゃ、本人に」

「はい! 今からお家に行くのでその時に直接伝えます!」

「……はい」

「じゃ、私はこれで」


 駆けていく彼女にぎこちなく手を振り返し、ゆらりと背を向ける。


 歩いても歩いても、先ほどのミネンの逆らえない笑顔が振り払えない。彼女の威圧感を混ぜた笑顔を見るたび、心臓の手の届かないほど奥で、黒い何かが渦巻いていく。


『あの町に入りづらいんでしょ。分かるよ、僕もそうだ』


 いつかの声が蘇っては消える。優しげな声の、小さな嘘。


 ローズは嘘をついている。シフォンケーキみたいに柔らかな嘘だ。


『あんたが人と話したがらないのを知ってね、同じ境遇なら話してもらえると思ったんじゃないかねぇ? 多分、あんたに警戒心を与えたくなかったんだ』


 宿屋の女将さんはそう言って、眉を下げて笑っていた。


 何でも前町長、つまりローズの父親は評判が良くなかったらしい。ローズが起こした事件により隠し子や愛人への冷遇が発覚し、それが決定打となって町長の座を降りたことで、町の人はおおいに喜んだそうだ。そのきっかけを作ったのは紛れもないローズ。それ以来町の住人と親しくなった彼は、メルに話したようなひとりぼっちの身の上ではなかったのだ。


 真実を聞いた日、メルは流れ星を見たような、ささやかな胸の高鳴りを感じた。嘘は嘘でも、歩み寄る様な、気が付いたら隣にいるような嘘。今までの旅で吐かれたどんな偽物の言葉よりも、ローズの声で紡がれたそれは尊いものに思えた。

 

 なのに、ミネンがローズの家に行く度に喉の辺りが苦しくなる。


 ローズは「自分は町の人に避けられている」なんて嘘を貫くために、食料などは町の人に届けてもらっている。おまけにミネンはローズに食料を届けるという名目で話をしに行っている。恋する乙女の顔をしながら。


 そんな嘘、溶かしてチョコレートにでも混ぜ込んでよ。「ごめんね」って軽く謝ってくれればそれでいいのに。そんなことを思いながら足を速めていく。宿屋の前に着くころには指先が寒さでかじかんでいた。


 自分の赤い指を見ながら、ミネンとローズは今頃どんな話をしているのだろう、と考えない方がいいようなことを考えてしまう。コートの袖を伸ばして、ぐっと握りしめる。胸に渦巻くこの感情が何なのか。そんなことはメル自身にも分からない。


 ただ、このコートは誰にも渡したくない。それだけが確かだった。

 

 

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