第十四章…「魔が作るモノ。【下】」
夢から目が覚めた…。
見えるのはアパートの自室の天井。
今日は平日のはずなのに…。
今はまだギリギリとはいえ太陽の沈んでいない夕暮れ時、いつもならまだ仕事をしている時間だ。
僕は身体を起こす。
体中に重りでも付けているかのように、全身が怠さに包まれて、動くのも嫌になるほどに重い。
視界に入った部屋の隅に積まれたゴミ袋の山が、余計気持ちの悪さを増長させる。
1人で生活するには、広い部屋、男物以外のいくつもある女物の道具…家具の数々。
自分が夢を見る理由がそこにはあった。
「はぁ…」
---[01]---
まだ明るい外の光景に反比例して、僕の心は真っ暗で、無意識に溜め息をこぼした。
枕元に置かれた携帯を開き、メールを確認していく。
今日の…自分が夢を見ていた間の時間に、現実で何があったのかをおぼろげに思い出しながら、大事な案件で連絡が来ていないかを探してみるが、特にこれと言った重要案件などありはしない。
目に映るのは、同僚から届いている…お大事に…という僕の事を気遣うメールが数件。
「そうか…。体調不良で早くに帰って来たのか…」
うっすらと思い出す現実での記憶は、早い時間に電車に乗って家に帰る道すがらの光景だ。
---[02]---
何とか帰ってきた僕は、ベッドに倒れ込んで、そこで記憶は終わっている。
「はぁ…」
どうせ今日はもうどこにも行く予定もないから、僕は携帯片手にベッドへと、再び体を預ける。
頭がはっきりとしてきたからか、退社直前に言われた上司の言葉が蘇ってきた。
確か…そんな死んだ金魚みたいな顔をしてたら、営業先でなにも出来んだろうが、今日はいるだけ無駄だから、さっさと帰れ…だったかな?
その通りだが、言い方はどうにかならなかったかなぁ…。
日頃の疲れも含め、その発言はある意味でトドメの一撃と言えるかも…、今日はもう何もやる気が起きない。
体の怠さに身を預ければ、もう一度夢を見られるかも。
そうすれば、リータ君の手伝いの続きをできるかもしれない。
---[03]---
夢から目が覚める直前の記憶を思い起こせば、調べ物もろくにできずに目を覚ましているし、このまま彼に顔を合わせるのは、どこか申し訳なさもある。
このまま寝れば翌日の朝に目が覚めるだろう。
そうなれば、リータ君が徹夜でもしていない限り、彼は夢を見ていないと思うけど、その時はその時だ。
僕だけでも、調べ物のために足を延ばそう。
夕暮れの光が差す窓、その目に刺さる様に感じる光をカーテンで遮って、僕は再びベッドの中に潜っていく。
携帯に充電器のコードを刺して、淡い光が漏れ入る天井を眺めながら、僕は目を瞑った。
目を覚ました後、どうするかを考える。
---[04]---
リータ君に話を通した方がいいだろうか、そもそも調べ物をしに行くのはいいとして、フラウにはなんて言えば…、調べ物をするにしても何から調べよう…。
「・・・」
考えても仕方ないか…。
外は暗い…。
テーブルに突っ伏した形で寝息を立てていた僕は、その暗闇に目が慣れるのを待たず、手探りでこの部屋の明かりを探す。
光が照らす部屋は、きちんと整理整頓が成され、ゴミの山が作られているという事もなく、清潔感を保っている。
悪い言い方をすれば、散らかす程にモノが無いとも言えるが、それでも掃除をこまめにしているかどうかで、部屋の雰囲気というのはかわるモノ。
---[05]---
「・・・」
無事に夢を見始めた僕は、部屋の姿に普段とは違うモノ寂しさを感じた。
目的があって夢を見始め、それを切り捨てようとしていた自分が、再び誰かに求められたからと言う理由だけで、この夢に意味を持とうとしている。
でも目を覚ましてみれば、まだ夜。
目的は果たせないし、手伝えと言ってきたリータ君に会いに行く時間でもない。
やる事もなく完全に路頭に迷う形だ。
日が昇り、調べ物ができるようになる時間まで、僕は何をしていればいいのだろう。
まだ夜だから朝まで寝よう…なんて事ができる身でもなし、やる事もなく朝まで起きているというのは、それはまた苦行の1つに思える。
---[06]---
にしても、僕は何でテーブルなんかで寝ていたのだろうか。
僕自身が夢を見ている間、その終わりである眠りに落ちる時でさえ、ちゃんと寝床に入るというのに。
現実で目を覚ましている間の夢の僕に、寝床に入って寝ない理由など、僕には見当もつかない。
寝床で寝ない理由でもあるのだろうか。
ちょっとした疑問。
寝室へと僕は足を向け、その扉の先を見る。
そこに人の気配は無かった。
明かりを灯して、誰もいない事をはっきりと確認する。
アイツはいない、まだ帰ってきていない。
---[07]---
いつもなら、日が暮れる前に帰ってきているはずのアイツは、珍しく普段通りの行動を取っていなかった。
恐怖の対象がいないとわかったはずなのに、今の僕は全然安心できていない、ホッとできない。
この夢を見ている事自体が問題だからか、それとも…。
恐怖の対象が個ではなく全だから?
なんにしても、今の僕に落ち着きは無かった。
最近の自分を思い返せばなんらおかしな事ではないけど、それは、怖いからと今までアイツを手に掛けてきた事実、その理由を見失わせる。
自分でわからなくなってしまう。
他にも、時間とかわからない事は少なからずあるけど、自分がこの世界の何に恐怖しているのか、それが曖昧であるのか…、それを考えてしまうのが、今の自分にとって一番の問題だ。
---[08]---
完全な宙ぶらりんな状態。
こんな状態では、自分の方向性も曖昧なモノになってしまう。
いや、既に自分の方向性など、あってないようなモノ、少なくとも僕自身の思う方向性など無いに等しいか。
「はぁ…」
溜め息がとめどなく溢れ出す。
いくらつこうが気分が変わる事などない。
トントンッ…。
意味もなく、少しでも気分を変えようと、水でも飲もうと水場に向かおうとした時、家の扉が叩かれる。
普段、この家に来客が来る事などほとんどない。
日が暮れた後なら尚更だ。
アイツが帰って来たなら、そもそも扉をノックする事なんてない。
---[09]---
頭を過るのは赤い眼をした怪物の姿。
この世界に魔力と言うモノがあっても、僕自身はただの人間で、その扱いもわからずリータ君のように戦う事なんてできる訳じゃない。
そんな僕に対して、不意を突いて命を取ろうなど…、ナマケモノ相手に対人装備で万全を期すほどに無駄な事だ。
怪物だって、そんな事は百も承知のはず。
なら、この家に訪れたモノは純粋な来客だろう。
僕は水を飲むのを止め、玄関の方へと足を進める。
扉を開けると、その先に立っていたのは、アイツでも怪物でもない女性、そして、リータ君でもなかった。
「どちら…様?」
目を閉じ、ジッとこちらに顔を向けているのは、見知らぬ女性。
---[10]---
いや、正確には知っているけど、話をした事もない文字通り他人の女性だ。
「・・・確か、工場区の方で…、花を育ててる…方…ですよね?」
話をした事もない他人ではあるけど、よく工場区…仕事場付近で目にする事のある女性だ。
だけど、それが分かっても何の解決にもならない。
だって、赤の他人の家を訪ねる人など早々いないから。
現実でなら、セールスとか、郵便物とか、地域の交流会…行事への参加要請とか、色々と誰かが来る理由はあるけど、この夢の世界でソレに関係する事は別に…。
リータ君が来た事自体、もしかしたらこの家への来客として初めてかもと思う程だ。
「あなたは、フェリスさんと比べて、とても分かりやすい色をしていますね」
「フェリス…さん?」
---[11]---
フェリス…、確か、リータ君の名前がそれだった気がするけど、それなら彼女はリータ君の関係者という事か?
「ん?」
彼女がどんな人物なのか、その容姿に目を向けた時、不意に目に入った手に持っている淡い光を放つ剣。
ゾッとした。
全身鳥肌が立ち、恐怖のあまり腰を抜かしそうになる。
リータ君の事を知っていて、普通じゃない剣を持つ女性、そこは女性である必要は無いかもしれないけど、今の僕にはその存在が恐怖する対象でしかなくなった。
考えも無く、彼女から離れたくて後退りするが、そこまで広くもない家であるため、その限界はすぐにやってくる。
背中が壁へと当たり、行き止まりという文字だけが、僕の頭を何度も過っては消えていく。
---[12]---
「怖がらせてしまいましたか? すみません、私はあなたに危害を加えるつもりはありません」
「そ…そんな事…、信用…できない…」
「すみません。私が軽率だった事は認めます。ですが、今はあなたの信用を回復させるのに時間を割いている時間はありません。事態は急を要するので、ついて来てもらいたいのです」
「付いて行くって…何処へ?」
「軍基地。そこであなたにも関わりがある事が起きています」
「・・・?」
「赤い眼をした人ならざるモノとの問題…と言えばわかりますか? アレは最終的に人へ害を成す存在。今、フェリスさんと私の知り合いがそのモノに立ち向かっています」
---[13]---
「赤い…目…怪物とリータ君が…」
つい最近、あの怪物やこの世界の事を調べようと話をしたばかりなのに、急すぎる。
僕が目を覚ましていた短時間の間に、この夢の世界で何が起きたっていうのか。
それとも、僕が思っている以上に眠りについてから起きるまでの時間、かなりの時間が流れたとでも?
「ただ終わらせるだけなら、あなたがいなくても解決できるでしょう。ですが、それはあってはならない。失う事の辛さを知っている方ならば尚更、別れの場に行かないなんて事はあってはなりません」
「何が…言いたいんですか?」
「最愛の人を失う事、その辛さを忘れないで欲しいのです」
「・・・」
---[14]---
失う事の辛さは…他人に言われなくたってわかってる…。
だから何だというのか…。
この世界で、その辛さを味わう事なんて…。
「私の名前はトフラ・ラクーゼ、この島で孤児院を営んでいる者です。私の事を信用できないのはわかります。しかし今は私と共に来てほしい。きっと彼女も、それを望んでいます」
「彼女?」
誰の事だ?
リータ君か?
「あなたの事を一番に思う人。その思いに、あなた自身が報いてあげて欲しい」
自分の事を一番に思う人?
---[15]---
誰だよ…、誰の事だよ…。
アイツか?
でも、アイツはもう…。
「先ほどの言葉が嘘だと言うつもりはありません。私が彼女の立場なら、同じ事を思うと思いましたので、ああいう言い方をさせてもらいました。ですが…。言い方を変えましょう…、・・・いえ、言い方ではありませんね」
ラクーゼと名乗った女性は、一歩二歩とこちらに近づき、人差し指をこちらの胸に当てる。
「これは、あなた自身の始まりから繋がる問題でもあります。そして私も…、あの悪魔とは少なからず因縁がある。形は違えど同じ苦しみを持つ者同士として…、いえだからこそ、力を貸していただけないでしょうか?」
「・・・」
---[16]---
「では…。時間もありませんので、最後に言わせていただきます。先ほども言いましたが、あなたがここで時間が過ぎるのを待つだけでも、この悪魔との問題は解決します。でもそれはあくまで今後の起きえたかもしれない悪事を止められるだけ、今起きている事に関しては、完全に解決する事は出来ず、きっとあなたの中にしこりとなって残ります」
「でも…、あなたは来いと言うが、僕には何もない…。戦う力なんて無い…」
「相手を打ち負かすだけが力ではありません。あなたにはあなたにしかできない事があります」
「・・・」
「私から言える事はこれが全て。私は行きます」
ラクーゼさんは、こちらの返答を待たずに、家を出る。
「待っ…」
---[17]---
「思い出しなさい。この世界に求めたモノを…」
こちらの制止を聞かず、ラクーゼさんは暗闇へとその姿を溶かしていく。
「・・・」
言いたい事だけ言って…。
何が言いたい…、僕に何をさせたいんだ…。
ここで夜が更けるのを待つ…朝日が昇るのを待つ…、それだけでも問題は解決するんだろ?
なら僕が基地の方に行く必要は無いじゃないか…。
基地には強い人がいるだろう、リータ君もいるなら尚更だ。
そんな所に僕が行ったって何にもならない。
リータ君だって、僕に戦う事なんて望んでいないだろう。
---[18]---
・・・一体誰が僕を待っているというんだ?
わからない…、わからない…。
第一、ほぼ初対面の女性にあんなまくしたてられたって、何かが変わるという訳でも…。
「・・・」
この世界に求めたモノ…。
背中を壁に預け、ズルズル…とそれを擦りながら座り込む。
求めたモノ…、求めたモノはある…、あるよ。
あるけど…それは変わってしまった。
いや、元から求めていたモノじゃなかった…なかったんだ。
絶対…。
アレは…アイツは、僕の求めたモノじゃ…。
---[19]---
「・・・」
否定…できない。
あんなに…、あんな…、あんなひどい事をしたのに…。
僕は…。
僕は…、彼女に会いたいのか?
妻と同じ顔をしたアイツに…会いたい…のか?
「・・・たい…。会いたい…」
アイツは、妻と同じ笑顔を向けてくれる。
同じように僕を気遣って…、同じように声を掛けてくれる…。
会いたくない訳がない…。
最後の、最後の、妻の面影を…その存在を感じる事の出来る存在なんだから…。
少し前なら、そんな事を考える事も出来なかった。
僕は僕自身の、今の考えの変わりように驚く。
---[20]---
何がきっかけだろう?
いや、そこは考えるまでもない…か。
この世界で唯一、初めて会う事の出来た現実という繋がり、リータ君の存在だ。
彼の存在が、火中のど真ん中にいた僕をその外へと出してくれた。
そのおかげで、頭を冷やす事ができた…と言えるだろう…、そして冷静になったからこそ、見えてきたモノ、それがこの感情、考えだ。
一人になった今なら、もう少しラクーゼさんの言わんとした事、それが分かる…ような気がする。
悪魔…、それがあの怪物に対しての呼称?、種族名みたいなモノかな。
大それた名前だ、余計に関わり合いになりたくない。
でもあの悪魔は間違いなく僕を狙っている。
彼女が言ったように基地の方で、今戦いが起きているというのなら、その事件…問題は他人事ではなく、自分の問題だ。
---[21]---
僕がそこに行く理由はある…と思う。
でも何ができるのか。
戦う事の出来ない僕。
彼女は相手を倒す事ができるだけが力ではないと言ったけど、僕が行って何ができるんだ?
戦えない僕が行く事で役に立てる事があるのか?
「・・・」
いや、彼女は僕に一切…戦え…とは言っていない、ただ一言も。
彼女は来なければ後悔する、来ないで問題が解決してしまえば後悔すると言っただけだ。
何を後悔する?
---[22]---
失う事の辛さを知っているなら?
それは…。
あの悪魔と関係しているから来い、それは僕…そしてもう一人…アイツ…。
「・・・!」
背中を預けていた壁から放す。
息が荒くなる。
心臓が強く脈打って、その速さを増していった。
失う?
アイツを失うのは怖くない…怖くない怖くない…こわく…ない…。
「・・・いやだ…」
アイツは妻自身じゃないかもしれないけど、でも、大事な…大事な繋がりだ。
僕の前からいなくなってしまった…妻とを繋ぐ…、最後の繋がり…。
---[23]---
現実で、忘れたくないからと残してある妻の形見たちとは違う、その存在…そこに確かに居たという事を証明する曖昧なモノじゃなく、アイツという存在は、妻の…声を…顔を…笑顔を…妻自身を感じさせてくれる…大事な…。
アイツは覚えていない、僕が自分に何をしたのか、アイツは覚えていない。
今、この世界に何を求めて、自分がどんな悲痛な叫びから、この世界を欲したのか、それを思い出せた…。
求めたのに、なのに…、なのに僕は、恐怖から…あんなひどい事を…。
謝りたい。
アイツが覚えているかどうかは関係ないんだ。
酷い事をしてしまった。
だから謝らなくちゃいけないんだ。
---[24]---
全てを振り出しに戻す事はできなくても、アイツに拒絶させるかもしれなくても、許してくれなくても、このままじゃ妻に顔向けできない。
あんな事をしたんだ、顔向けなんて段階はとうに過ぎてるかもしれないけど、ケジメは着けないと。
悪魔の問題がこのまま解決してしまって、アイツが帰ってきた時、同じ気持ちでいられるかわからない。
問題の解決に立ち会わない事で、後悔する、しこりが残るという事を言っていた。
それが意味する所は、もしかしたら…。
胸騒ぎがした、だから行かなきゃ、後でいいなんて考えは当然ないんだ。
「今じゃ…今じゃなきゃダメなんだ」
足元を照らす明かりを持たず、記憶を頼りに基地の方へと走っていく。
---[25]---
工業区に入った時には、夜にも関わらず、行こうとしている方向が明るく空を照らす。
まるで山奥で開かれたコンサート会場を遠くから見た時のようだ。
基地に近づくにつれて、その光は確かなモノになっていく。
建物を照らし、地面を照らし、基地へと誘ってくれる光のよう。
基地の扉を通り、ドンドンと何かを壊すかのような音が耳へ届き、自分がその場に付いた時、目を開けていられないような突風が吹き荒れる。
「うわっ!?」
咄嗟に顔を手で覆ってしまい、何が起きたのかが分からない。
恐る恐る開く視界の先に彼の…リータ君の姿が見えて、自分が中心に来たんだと実感した。
---[26]---
口の中が乾く。
鼓動は信じられない程に早く脈打って、体がここは危険な場所だと信号をこれでもかと送ってきた。
でも僕は逃げちゃいけないんだ。
一番やってはいけない、殺人をやっておいて、危険な場所だから逃げる…なんて選択肢、僕には元から無い。
あったとしても、僕はそんなモノは投げ捨ててやる。
大した勇気なんて持っちゃいないけど、引いちゃいけない。
恐怖で震わす足の言う事を聞いちゃいけないんだ。
だから、僕はここにいる…と叫ぶために、それを知らせるために、僕はこの瞬間自分にできる事を考え、彼の下へと走る。
---[27]---
「リータ君ッ!」
彼の名前を叫びながら…。
「あなた、なんでここに!?」
彼は驚いたような表情を見せるも、すぐに目尻が上がり、怒りが籠ったかのようなモノへと変わる。
「ここは危ない」
「で、でも」
戦いで役に立てないのはわかっている。
彼が僕の腕を掴み、この場から離れさせようとする中、僕は自分の目にあの姿を見た。
姿はだいぶ変わっているけど、あれほどに人外の姿をしていれば、誰だってアレが異常の中心だと気付く。
---[28]---
同時に胸を鋭利なモノで抉られるかのような衝撃…痛みを覚えた。
「…「佐奈」…」
口からこぼれ落ちるように、その名はこぼれた。
妻の名前…、独り言のようにつぶやく事しかできなくなった名前…。
目は赤く、怪物の一部にでもなったかのような姿の、もはや怪物としか言えなくなったアレに対して、僕は妻の…本当の妻の名前を漏らした。
ガクッと視界が落ちる。
足に力が入らない。
腕を掴まれていたから、倒れる事こそしなかったものの、崩れた体は地面に膝を付く。
怪物が怪物としての本性を現している…、そこに恐怖こそすれ、なんで…なんで僕は、こんなに悲しい…。
なんでこんなにも胸が締め付けられるのだろう…。
「馬鹿ッ!」
---[29]---
リータ君が何かを叫んでいる。
僕の視界に映るのは、こちらに迫る怪物の姿だ。
怪物もまた、何かを叫びながらこちらに突っ込んでくるが、その間にリータ君は僕の腕を離して割って入った。
僕に対して伸ばされた手を、その剣で弾き、体勢を崩した相手に向かって、その右横腹へ剣を振るう。
彼の体よりも一回り…二回り大きい体の相手を叩き飛ばす。
「死にたいのかッ!?」
「ぼ、僕は…」
何をしに…。
「チッ…」
思わず舌打ちが出る。
トフラの登場で、私達だけなら、何とかなるかもしれない…そんな希望が見えたのに、そこへ現れたヴァージットの存在は、私にとってただ邪魔な存在でしかなかった。
---[30]---
『フェリスさん、集中を』
いつの間にか近くまで来ていたトフラが促す。
ハッと気付いた時には、体勢を立て直した悪魔が近づき、咄嗟にヴァージットを安全な方へと投げ飛ばし、悪魔が振るう拳を受け止める。
「んぐっ!」
ズルズルと衝撃を受け止めきれずに、足が地面を削る。
『邪魔ヲスルナ…するな…スルナッ!』
「何がッ!」
受け止めた相手の拳がグイグイとこちらに押し付けられるのを、剣を逸らしてすっぽ抜かせる。
自分の横を勢いよく通過する腕を横目に、今度は悪魔の首目掛けて剣を振り下ろした。
---[31]---
肉を斬る感触は確かにある。
『グぅ…』
悪魔が膝を付き、そこへ私が攻撃するよりも早く、トフラの剣がその右横腹へ。
突き刺さった剣は、より深くへ突き刺すように彼女が動くと、もう一つの剣と言えばいいか、強い風が剣を覆い、その巨体を吹き飛ばず。
「どうなってるの、それ?」
見た目はパロトーネで作られた疑似武器にしか見えないのに、それから繰り出される攻撃は明らかに違う。
相手に危害を加えない武器としての認識が強い疑似武器だが、悪魔相手に使うだけあって、トフラの持つそれは明らかに凶器だ。
「私からでなくても、いずれ聞く時が来ます」
そして、彼女は、その剣の切っ先を立ち上がる悪魔へと向けた。
---[32]---
悪魔は自身の頭を抱え、ブツブツと同じ文言を繰り返す。
邪魔をするな…、私のモノだ…、喰わせろ…、壊れたラジカセのように何度も何度も、その言葉が不気味に耳へと届く。
「存外に効いているようですね」
「効いている?」
「人の子供を演じるような外道を行う相手、それが今は知能の欠片もない存在になり果てている。エルンが相手の冷静な判断を封じた結果です」
エルンが悪魔に何かをやってから、不気味にその姿を含めて変わる変わる新しいモノを見せていたけど、やはりそれは彼女の仕業か。
「一応聞いておきたいんだけど、今の悪魔はどういう状態なの?」
「・・・そうですね。言うなれば「魔力酔い」…といった所でしょうか。その身に余る量の魔力を注ぎ、体の節々が支障を来す。今の悪魔は、魔力量自体はあれども、制御できずに持て余している状態です」
---[33]---
「そしていずれ耐え切れずに体が崩壊する?」
悪魔の左半身が爆ぜた時の光景を思い出す。
「はい。そうでもしなければ、悪魔の不確定な能力によりこちらが不利になります。私達人間以上に魔力に依存し、魔力の性質に強く影響を受ける悪魔だからこそできる手法です。そして、今の悪魔は、体の崩壊を止めるため、新たに体が必要なのです」
「体?」
「あの悪魔の影響下にある体です。この場合、後ろの彼の事ですね」
「だからまたこちらに攻めてきた訳ね」
「・・・私が彼をここへ呼びました」
「え!? なんでそんな事!」
「彼にはやらなくてはいけない事があるからです。フェリスさん、あの状態の悪魔を倒す事、それがどういう意味を持つかわかりますか?」
---[34]---
「意味?」
悪魔へと視線を向ける。
醜い姿、不釣り合いで不気味な五体満足…、今や五体以上あるけど、それだって分けてみれば2つの存在の混合体だ。
その悪魔を倒す事、命を奪う事、それはつまり混合体の死を意味する。
ならその体の一部になった彼女…フラウはどうなるのか…。
「・・・く…」
トフラが言いたい事はきっとそこ。
もしフラウだけを切り離したとして、元に戻るか?
ブループの件で酷い状態になったフラウを治したのは、ヴァージットの話だとあの悪魔だ。
---[35]---
エルンに同じ事ができればいいが、そもそも体を元に戻して解決する事なのか?
この夢の世界なら…とそれこそ希望を持ってしまうけど、それこそ絵空事、夢を見過ぎているのかもしれない。
「…何も言えない別れなんて…辛いもんな…」
悪魔を倒す事で生まれる事実、それが現実の自分と重なった。
此処にヴァージットがいなかった場合の可能性が、自身に起きた現実と重なった。
自然と悔しさが…悲しさがこみ上げる。
「これがあいつらの作るモノだと? どうなってもこちらに良い知らせなんて来ないじゃないか」
フラウがあんな姿になってしまう前に助ける事ができていればと、考えが過る度に、それができないな事実に苛立つ。
---[36]---
しかも、それが他人事ではない事実に、言葉にできない感情が込み上げる。
それが姿を似せて作られた存在だったとしても、出てくる答えは…一切変わる事がない。
甘い蜜だと思っていた毒、それを今まさに浴びているのは私ではないけど、自分の事として受け取る。
同じ蜜を吸ってしまっている身として、私は…。
「私はあの悪魔を倒す。その結果も、背負う事になるモノも受け入れる」
胸を強く締め付けられるような感覚に、私は歯を食いしばって、その「魔」へと目を向けた。
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