第八章…「その手探りで進む道は。」
「あったよ…、確かにあった…。僕にも何かにすがってでも取り戻したいモノがあった。自分の命を犠牲にしてでも…、欲した、ひたすらに手を伸ばしたモノ。それこそ、夢でもいいから、会いたい「人」が、一緒にいたい人がいた」
「それがあの女性か?」
「・・・、ああ。僕の妻だ。気の弱い僕を、いつも引っ張って行ってくれる、とても頼もしい女性。一昨年、癌で逝ってしまったけどね」
「・・・」
「それはもうショックだったよ。暗闇を進み中の明かりが消えて、何の光もなく進む気分だった。何も手に付かず、何も聞こえない。そんな状態が長く続いてね。それこそ勤め先に首を切られるかもしれないって所まで、あの時の僕は使い物にならなかった。そんな時だ。全ての音が、声が、何もかもが雑音としか思えなくなっていた時、その声だけが、耳にはっきりと届いた。この場に、自分と、そいつだけが、それ以外に人なんていないかのように、はっきりと、この耳に届いたんだ。ビルとビルとの間、ビルの室外機が並ぶだけの場所に、そのお婆さんはいた」
---[01]---
婆さん…老婆か…。
「深々とマントを被って、顔ははっきりと見えなかった。でもその声からして、女性の老人だったと思う。何かの占い師かとも思ったけど、それにしてはそう言った商売道具は見当たらなくてね。お婆さんの前に置かれた机の上には、何のまとまりも無い雑貨が並んでいたよ」
「そいつから夢を贈るって言われたか? 金銭なんていらない、ただ夢を贈るだけだって」
「…ッ!?」
「金銭はいらないって言うくせに、対価の話はする。でも最終的には夢を贈るだけだって言って、金銭を受け取ろうとはしないとか…」
「そ、それは…」
利永は最初こそ俺の発言に驚いたような表情を浮かべたが、それもすぐに消え失せて、納得したように、再び珈琲へと視線を落とした。
---[02]---
「じゃあ、君も、会ったのかい?」
「さてね。同一人物かどうかはわからないが、俺の前にも現れた。夢を贈ると言ってきた老婆がな」
「君も、その日からあの夢を見ているのか?」
「ああ。最初は、ただただ…リアルな夢だな…程度にしか思っていなかったけど、それも寝る度に見たり、起きる度に夢を見ていた時間分、現実で時間が進んでいたら、そりゃ普通の夢とは思わなくなる」
「なるほど…、僕と君、求めた夢が違うのは当たり前として、それ以外の類似点は多いという訳だね」
「信じたくはないがな」
「そう…だね。僕も、ここにいるのは単なる偶然で、そんな事は無いってまだ頭に言い聞かせているんだけど、それでも次から次へと信じなきゃいけないと、証拠を突きつけられている気分だ」
---[03]---
「それはこっちだって同じだ」
「もしかしたら、ここが現実じゃなくて、自分はまだ夢を見ているのかも…」
「言いたい事はわかる。結局、共通点が多く出てきて、納得せざるを得ない状況になってきていても、夢なんて何でもアリだ。でもさ、事ある事にそれを言い訳に出して来たら、話は何も前に進まなくなる」
「でも…」
場所が違う、世界が違う、ただそれだけの現実としか思えない夢が、2人の間にここが夢なのか現実なのか、そんな境界すらもあやふやにしていく。
「埒が明かないって言っているんだ。あの世界は夢、こちらが現実。それを前提に話を進めなけりゃ、何も進まない」
それでは困る。
進まなきゃいけない、進まなきゃいけないんだ。
---[04]---
利永の出現が、あの夢の謎をより一層深ませ、夢なんだから…、そんな単純な言葉で括れる一線を越えた。
自身の家族のために、このままでいいや…と、出てきた謎…疑問を放置する気にはなれない。
だから俺は、自分が夢を見るようになったきっかけやら、夢の中での自分の立ち位置やら、自分のわかっている事を、順を追って話していく。
「そうか…、君はあの交通事故の」
「知ってるのか?」
「まぁ、うん。あの頃は今ほど荒んでいなかったからね。というかあの頃は幸せを謳歌していたかな、夢の中で。ニュースも普通に見ていたし、あの時の地元のニュースの中では、一際強烈な印象だった。大変だったろう?」
言葉が詰まった。
---[05]---
上手く感情を口にできなくて、俺は利永の言葉に静かに頷く。
親戚連中とか身の回りの連中に、そういった慰めをされるのは、うんざりしていたというか、そんな気休めはいらないから放っておいてくれ…と、鬱陶しくて…、嫌で…、苛立ちを覚えるモノでしかなかったけど、利永のその言葉は、何故か受け入れられた。
失った悲しみを知っているからか…、いや、失った経験なんて大なり小なり、誰だって感じているはずだ、なら、こいつの言葉を受け入れられたのは、やっぱり同じ夢を見る体験をしているからか。
俺と利永、2人の例しか知らないし、他に同じような体験をしている連中がいるかどうか、それもわからない。
でも、その夢を贈られる程の地獄を味わったという、共通の苦しみがあるからこそ、その言葉を受け取れた。
---[06]---
まぁ、夢を贈る選定基準とかがあるかどうかはわからないけど、とりあえす俺達2人がそれに選ばれるほどの経験をしたという意味では間違いじゃない、完全なランダムかもしれないけど、考えたって答えは出ない。
「まぁ自分の所に残ったモノは、無機質なモノばかりだし、大変ではあったかな、確かに」
「そうか…。・・・、そんな大変な事があっても、今の君は、幸せかい?」
「なんだよ、急に?」
「僕は…、まだ自分が何をするべきなのか…、それが分からないんだ。ここに自分の意思で来てはいるけど、それが何かのためになるのか、それが分からない…、それに怖い」
「不安に思うぐらいだったら、当たって砕けろ。やらずに後悔するより、やって後悔しろって言うだろ?」
---[07]---
「それはそう…だけど…」
「・・・、あんたの質問だが、俺は幸せを謳歌しているつもりだ。現実でも、夢でも、自分がそこに居ていいんだって思える場所になってる。どちらも捨てる気はない」
「はは…、それは羨ましい…。僕にも救いが少しでも残っていたら、あの夢とも、もう少し向き合えたのかな…」
「さてね。それは俺にはわからない。でも、俺から言わせれば、あんたはもう少しあの夢と向き合うべきではないかと思うよ」
「・・・」
「あの夢には、少なくとも自分の求めていたモノが存在する。・・・、自分が求めたモノ、あの夢の中にいるその存在に、少しばかりの疑いの気持ちができてしまった俺が言うのもなんだけど」
---[08]---
「どうして君は、あの世界にそこまで真剣になれるの? あそこは結局の所、夢だ。誰かが何かの目的で作ったかもしれない夢なんだよ? 夢の中で会う存在というだけじゃない、誰かの手の平の上、作られた世界だ」
「それなら尚の事、…その地に立っている以上、知る義務がある。あそこが夢じゃなく、もう一つの世界だというなら、俺の求めたモノが、偽物である可能性がもちろんあるけど、それは同時に本物である可能性もあるって事だろ? 俺という存在は確かにあの世界には存在しないけど、フェリスとしての俺は存在する。そんなデタラメが通用している世界なら、あそこにいるのが本物である可能性は、確かにあるんだ…」
「アレが…、本物…か」
「あんたはどうして、そこまで欲したモノを突き放すんだ? あの世界に少なからず幸せを感じていたのなら、それが崩れるだけの理由があるだろ? それは何だ?」
---[09]---
「幸せと思っている程、些細な事で足元は崩壊するモノだ。君は、ブループの一件の被害がどれだけのモノか…、知っているか?」
「・・・、確か軍人の中に数人の犠牲者がいたはずだが、一般人の中にけが人はいても、それ以上の被害は無かったはずだ」
「そう…。まぁ当然ではあるか」
「何が言いたい?」
「一般人の犠牲者はいた。あの瞬間のあの場に…、確かに存在したんだ」
俺はあの一件の後処理が進められている間、孤児院のベッドの上で寝続けていた。
実際に命を落とした人がいたとしても、それをこの目で見る事は出来ない、そもそもそんな事があるのなら、フィアやイクシアと話をしている時に、その事も聞くはず。
それを聞いていないという事は、誰かが意図的に消さない限り、記録として存在していないという事だ。
---[10]---
普通なら、利永の言葉を…それは嘘だ…と一蹴するだけに終わる。
しかし、それも今となっては昔の話だ。
「無かった事にされたって事か? あの怪物に…」
俺の言葉に、利永は小さく頷く。
「アイツの存在を強く認識したのが、その事件の時だよ。今まではチラチラと一瞬だけ視界に入っては消えていて、見間違いだと思うだけだった」
「そいつが何をしていたんだ?」
「・・・、何と言えばいいか…、とりあえず順を追って話すよ。あの日は、天気も天気だったから、仕事場に行かずに家でくつろいでいたんだ。でもアイツ…いや妻は、済ませなければいけない事があると言って、家を出て行った。それは些細な事、特別な事でもなんでもない。妻が出ていった後、家に残って家事を済ませていた時、外で雨とは違う音がした。雷みたいな音とか、土砂崩れを彷彿させる音とか…、とにかく普通に生活する上では絶対に聞こえるはずのない音。心配になった僕は、彼女を連れ戻そうと思って、仕事場へ向かったんだ。そこにはまるで、怪獣映画の撮影を実際の建物を使って行ったかのような、そんな惨状が広がっていた。離れた場所に見えた巨影に、腰を抜かしそうになったけど、その影を見た瞬間に妻の事がとても心配になってね。震える足で走ったよ、でも仕事場は倒壊、僅かに残った柱が、壁だったモノの残骸を少しだけ残し、そこには軍の人達が数人倒れていた。そして見てしまった」
---[11]---
「・・・。」
「君が怪物と呼ぶアレと、ぐちゃぐちゃでそれが何かもわからない程に、原形をとどめていない肉塊が、自分の妻の形に模られていくのを…。最初は何かの見間違いかと思ったけど、確かにそれは妻だった。自分が望んだモノ、失いたくないと願ったモノ、見間違えるはずがない。でも違う、その時の妻の眼はアレと同じ。真っ赤な眼をしていた」
真っ赤な眼…か。
その言葉に、あの怪物の姿を思い出す。
赤く…光る様に…浮かび上がっているかのように見えた、あの眼、まだ薄暗いあの場で、はっきりと見えたあの眼は、とても冷たかった。
思い出すと同時に、ゾクッと背中を悪寒が襲う。
「最初は何かの見間違いかと思った。少ししてから妻の眼は、普段の黒い目に変わっていたから。そして、妻が家を出た時と同じ姿になった時、アレは僕の前から消えた。霧が消えていくのと同じように、その存在が無くなるかのように消えたんだ」
---[12]---
「・・・、その話までだと、あんたが手をかける動機としては弱い気もするな」
「ああ、確かに。その時は妻が戻ってきた事への喜びの方が強かったからね。でも、その時から異変が起き始めた。あの場にいた兵の人達を探し出して、話を聞こうしたけど、誰も枯れもその記憶がない。夜に妻が一人で起きて、外で空をずっと見続けていたり、彼女の記憶が虫食いのように穴が空き始めもした。そしてそれが起きる時に限って、彼女の眼は赤く染まるんだ。体の怠さを訴えたり、頭痛を訴えたり、今まで起きなかった事が、あの日を境にドンドン起きるようになっていった。極めつけは、彼女が夜に外へ出る時に目を覚ましてしまった事だ。いつも僕が気付ける範囲で中に連れ帰っていたけど、その時は様子が違った。話声が聞こえたんだ。いやアレは話声というより独り言に近い。物音を立てない様に外の様子を伺うと、妻の頭を掴んで何かをしているアレの姿があった。辛うじて残っていた足場が崩れ去るような感覚がしたよ。妻という存在を信じる事ができなくなった瞬間さ。その時だ。僕が初めて妻に手を掛けたのは」
---[13]---
微かに見て取れるだけだった利永の手の震えが、はっきりとわかる程に増す。
特に酷い右手の震えを、左手で押さえるが、それでも震えが見て取れ、手を掛けた瞬間の利永の感情…が分かるような気がした。
それでも当事者ではない俺は、計りきれていないのだろう。
自分の大切だったものに、自分自身が手をかける…そんな事、想像するだけで吐き気がする。
「でもその瞬間に意識を失って、気が付けばいつもと変わらない朝だ。日に日に回数を増していた現実ではなく夢の世界で目を覚ます現象はあったけど、それは慣れたモノ、僕が恐れたのは妻の存在だ。確かに手に掛けたのに、彼女は何事も無かったかのようにそこに居た。朝昼晩…人のいない場所にいる場所、どこで手を下しても同じ結果、事後に見ていた人に話を聞きに行っても、何事もなく挨拶してくれて、そんな事なかったよと冗談はよせと一蹴される。その時、あの兵達も覚えていないんじゃないて、覚えていられなかったんだって悟ったよ。僕が何をしても、無かった事にされるってね」
---[14]---
利永が話をする度に肩を落としていく中、店員が周りを気にしてやってくる。
『お、お客様、他の方の迷惑になるので、お店でそういった話をするのはご遠慮いただけますか?』
「あ? あ、あ~、すいません。俺ら、そろそろ帰るので、お会計…お願いできますか?」
申し訳なさそうな作った顔をする店員に、同じく申し訳なさそうな表情を作って返す。
軽いお辞儀をして戻っていく店員を尻目に、俺は利永へと視線を戻した。
店員の横槍のおかげか、意識が逸れたおかげで、手の震え等は幾分か収まったらしい。
「話は終わりかい?」
「まだ聞きたい事はある。でもここで今みたいに話を続けたら面倒だろ? 何より一度に聞くには重すぎる」
---[15]---
俺は残っていた飲み物を飲み干し、松葉杖を取って立ち上がる。
「ほら行くぞ」
「あ、うん」
さっさと注文伝票を持ってレジへと進む俺の後ろを、利永は慌てたように追った。
「お金、ぼ、僕が払うよ」
「いい」
「で、でも」
「学生とか社会人とか、年上が奢らなきゃとか、そういった話はいいよ、しなくて。奢る奢らないの話をするなら、それはここに連れ出した人間が言う台詞だろ? 今回は俺が来いって言ったんだ。俺が払う。それが嫌なら、自分の分を払ってくれるだけでいい」
「なんか、怒っているかい?」
---[16]---
「怒る怒らないじゃないさ。そういうのが好きじゃないだけ。怒っているかではなく、単純に不機嫌なだけ。話を整理しきれてなくて、虫の居所が悪いのは確かだけど、そっちが気にする事じゃない」
お互いに自分の分の料金を払って、店を後にする。
どこに行くか…、聞きたい事はまだあるが、またどこかの店に入って話をするのも、今の店の二の舞になりそうで気が引ける。
あんな堂々と話をしていて、その内容を変に捉えてしまう人はいないとは思うけど、絶対とも言い切れないし、低い可能性に対しても配慮したい。
そこで、話で出てきた利永が老婆から夢を贈られたという話が、頭に浮かぶ。
「あんたが、夢を贈られたのって、この近くか?」
「家の最寄り駅だから、ここから数駅行った所かな。近いとはちょっと言い難い」
「・・・、でも終電にはまだまだ時間はあるし、そこに連れて行ってくれ」
---[17]---
「あそこにかい? 行った所で何もないと思うけど」
「こんな奇想天外な体験をしている以上、常識的な考え方だけじゃ心もとないだけだ。できる限り情報を共有して、手掛かりを見つけていきたい」
「わかった。じゃあ案内するよ」
外は暗く、街灯やら、並んだビルやら店やらから、こぼれる光が道を照らす。
そんな本道から一本裏に入った、賑わいの色の失せた暗さを帯びたビルの密集地を、利永の案内で歩いて行く。
「向寺君、大丈夫かい?」
「何が?」
「その…、足の事もあるし、疲れたりとか…してないかなって」
「気にしなくていい。もう慣れたもんだから」
---[18]---
「そ…そうなの?」
「ああ」
正直な所、嘘を言っている部分はある。
松葉杖を挟む脇とか、一日の疲労もあって少し痛いし、なんだかんだ普通に歩くのとは全然違うから、疲れが出るのも早い。
利永の歩く速さが、そこまで速い訳では無いのが、ある意味救いの1つとも言える。
こいつもこいつで、俺に気遣っているのか何なのか、喋り出したら長々と話すくせに、しゃべる回数自体はさほど多くは無いので、今何を考えているのかが分かりづらい。
そんな俺も問題は無いなんて言って、自分の本音を隠している訳だが、お互い様って事にしておこう。
---[19]---
こいつが嘘をついている…という可能性が消え去らない。
夢で会った男がこの利永で間違いはないだろうが、それ以外、本人だったとして、そいつが真実を語っているかはわからないという意味でだ。
しかし、こいつの話を信じたいと思っている自分もいる。
利永が、あの世界がどんなものなのか、それを知る手がかりであるのなら、そいつの言葉を信じたいのだ。
「ここだ」
そう言って、利永はビルとビルの間を指差す。
2つの雑居ビルの間、ただでさせ暗い場所あるせいか、指差された方向はさらに暗い。
塀などと言った隣のビルとの境目もなく、その奥には建物の背中が立ちはだかり、ここからでもわかる行き止まりだ。
---[20]---
確かに室外機が並んで、奥に行こうとすれば狭い道にも関わらず、左右に避けながら動かなければいけない。
「俺の所は、まだ民家の玄関とかがあって道というか路地…て感じがしたんだが、ここはもはやただの隙間じゃねぇか」
「そうだね」
「よくもまぁ、声がしたからって入っていったもんだ。俺が言うのもなんだが」
「全く持って耳に痛い言葉だ」
「はぁ…」
普通に考えてあり得ないだろう、と思えてしまう程、利永が追い詰められていたって事にしておこう。
その経過はどうでもいい、それがきっかけでこいつは夢を得て、今こうして俺といる、その結果だけで十分だ…今は。
---[21]---
それ以上の粗探しなんて意味が無い。
ここまで歩いてきた疲れ、周りに悟られない様に、軽く深呼吸を置いて、俺はその隙間へと足を延ばした。
利永が老婆と会ったのが、つい最近の出来事ではなく、だいぶ前の事である以上、ここに入っていった所で、何か得られるとは思えないけど、何かの手がかりを…という思いだけが前へと俺を動かす。
この隙間を作る雑居ビルは、両方とも人気が無く、室外機も動いてはいない。
細い道…隙間、閉鎖的な空間のおかげか、入る前よりも静寂が体を包む。
一歩、また一歩、ゆっくりながら足を進めていくと、肌を刺す寒さもまた、より一層の冷たい風を、俺の頬に与えてきているかのよう。
『向寺君、大丈夫かい?』
「ああ、問題ない」
---[22]---
あと少しで一番奥にまで進み入るという時、足元から体を刺すかのようなピリピリとした感覚が襲う。
気のせいなのかもしれないけど、その…かもしれない…という考えが、俺に緊張感与え、唇は渇き、その渇きを少しでも紛らわせようと、舌で舐めたり、生唾を飲んだり…。
子供の頃にやらされた肝試しだって、ここまでの状態にはならなかったのに…。
進み終わった隙間の行き止まり、何の変哲もない壁、地面。
見るからに何もないその場所、俺は横のビルの壁に片方の松葉杖を立てかけて、ズボンのポケットから携帯を取り出し、ライトをつけて地面を照らす。
でもその結果は、最初から分かっていたモノ、何もない。
『どうだい、向寺君?』
「何もない」
---[23]---
そうだろうなと思っていた事だから、その結果自体はすぐに受け入れる事はできたけど、その考えの中にほんのひと摘まみ分の、あってくれという望みがあったせいで、落胆もまた俺の心を染めた。
『好奇心は、時としてその身を滅ぼす。君はそんな事も知らないのかい?』
「ッ!?」
それはまるで遠くから聞こえる車の走る音のように、近くから発せられていないのに、確かに俺の耳にソレは届いた。
かすれた聞きづらい声。
確かにその声は聞こえた。
それを証明するかのように、体中の毛が総毛立ち、悪寒も体中を襲う。
同時にふらつく体、手に持っていた携帯は地面に落ちて、空いた手は横の壁に付き、脇に挟んだままだった松葉杖を握る手に力が入る。
---[24]---
『だ、大丈夫かい、向寺君?』
「・・・」
心臓がドクドクッと激しく鳴り響き、その振動が全身を震わせているかのよう…、いや、実際に体が震えている。
妄想…考え…、そんなモノが体にここまでの影響を与えるとは…。
本当にそんな声が聞こえたのか…、それを証明するモノは何もない。
その声は利永の声ではなかった。
ここからではわからないけど、この隙間に入る時は、周りに人気なんてなかったし、それらしい気配もない。
そして、落とした携帯のライトが照らす、俺の前方方向にも、それらしいものは何もなかった。
ズルッ…。
---[25]---
体が下手に強張って、バランスを崩す。
壁に付いていた手が滑り、俺の体は後ろへと傾いた。
それは片足が動かない俺にとって致命的だったが、俺の背中や後頭部が地面に激突する事は無く、誰かが倒れ行く俺の体を支えてくれたおかげで事なきを得る。
『大丈夫かい、君?』
それは利永ではなく、見ず知らずの男性だ。
その男性の力を借りて、何とか体勢を整えた俺は、手を引かれるように、ササッとその隙間から出されるのだった。
「あ、ありがとう、ございます」
男性は、俺を隙間から出した後、そこに残った俺の松葉杖と携帯を回収して持ってきてくれる。
「あんな所で何をしていたのかは知らないけど、いついかなる時、何が起こるかわからない。特に夜は魑魅魍魎が起き出す時間…てね。まぁとりあえず怪我が無いみたいで良かった。いい時間なんだから、すぐに家に帰った方がいいよ? あんたも、どう見たって年上なんだから、年下が道を間違えようとしてるのを正してあげなきゃ」
---[26]---
「は、はい。ご親切に、ありがとうございます」
「それじゃ、帰り道気を付けて」
その男性は言いたい事を言いきって、その場を去って行った。
「今の、知り合いか?」
「い、いいえ、初対面です」
「そう、か」
体の力が一気に抜けそうになって、またふらつき、今度は倒れまいと自分の体を近くのビルの壁に預ける。
「だ、大丈夫かい?」
「ああ、体に異常はないよ」
「何かあったのかな? なんか様子がおかしかったけど」
「・・・。いや、特には…。ただ、声が…聞こえたような気がした」
---[27]---
「声?」
「あの怪物の声だ」
「え!? で、でもここからは何も聞こえなかったし、何も見えなかったよ!?」
「だから、気がした、て言ってるだろ? 俺も何かを見た訳じゃないし、正直、本当に聞こえたかどうかもわからない」
「そ、そうか」
「はぁ目ぼしいモノは…なかったな。わかっていた事だけど」
「これからどうするんだい?」
「できる範囲で、調べてみるさ。こっちでも…な。まぁすぐ壁にぶち当たりそうだけど…」
「ぼ、僕に手伝える事なら…手伝うよ」
「はぁ。それは有難い限りだな」
---[28]---
利永もどこまで本気なんだか。
今はとりあえず、その言葉を信じる事にしよう。
「こっちもそうだが、向こう…夢の方でも調べられる事は調べて行かないとな」
「向こうもかい? あそこが作られた世界なら、情報も都合の良いように作られているんじゃ…」
「その可能性もあるな。まぁその辺は調べてみないとわからないさ」
息も整ってきて、心拍の方も…多分正常だと思う。
松葉杖をしっかりと脇に挟んで立ちあがる。
「じゃあ、そう言う事で今日は解散。次は向こうで会おう」
「う、うん、そうしよう。じ、じゃあコレ」
「何?」
利永が懐から取り出したメモ帳に何かを書き留めて、それを千切って渡してくる。
---[29]---
「僕の携帯の電話番号。役立たずかもしれないけど、出来る範囲で手伝おうと思うから、連絡が付いた方が、何かと便利でしょ?」
「そう…だな」
利永が言っている事は正しい、俺は素直にその電話番号の書かれた紙を受け取る。
「じゃあ、タクシーか何か呼ぼうか? 今から家まで帰るのは、大変じゃないかい?」
「いやいい。丁度良い運動だ」
「で、でも」
まだ何かを言おうとする利永の言葉を、聞き終わる前に拒否しながら、俺は帰路に着いた。
結局、分かった事というか聞いた事と言えば、老婆関係に、利永がああなった経緯ぐらいだ。
あの夢の事は少ししか進んでいない。
その辺の情報を頭の中で整理しつつ、足を進めた。
夢の中で、何の操作もない正確な情報が得られるようにと願い、俺はまた夢を見る。
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