第3話

第三話


 えっ!? と、俺の心臓が瞬間最大の脈を打つ。


 先輩が俺にふくよかなそれを押し当てている状態で……つけていない発言だと!?

 それってつまり、いま先輩はノーブラ……ってこと?


 マ、マジで!? なぜに!?? 痴女か!


「い、いや別に……つ、つけてないからって、ど、どうってことないっすよ?」


 必死に平静を装って俺は答えるが、案の定動揺は隠しきれていない。

 一方で月原先輩のニヤニヤも止まらなかった。

 さらにグッと身を寄せ、つけていない状態の双丘を俺の腕に強く押し当て――


「でも、いい香りするシャンプーでしょ? 香水なんてつけなくてもいいぐらいに」


「………………え?」


 思わず変な声を上げてしまう俺。


「つけてないの、いつもの香水。でもほら、私こんなにいい香り♪」


 先輩はわざとらしいぐらいのニッコリ笑顔を俺に向けてくる。


 ……『つけてない』ってそっちのことか!


 よくよく思い返せば、香水なのかシャンプーなのか甘い香りが、って自分で布石打ってたじゃんか! ちくしょー……これはやられた!


 言葉では言い表せないような屈辱感でいっぱいだった。気持ちの中ではもう、床をゴロゴロ転がって悶絶している。むしろ実際にしちゃったほうが気も楽になりそうだ。


 そして、そんな俺の心境すら見透かされていたのか、月原先輩はお腹を抱えて笑い出した。そんなにおかしいですか? ……おかしいですよね、わかってます。

 ひとしきり笑い終えた先輩は、息を整えながら立ち上がる。


「くっ……ふふっ。いやー、やっぱり小野っちはからかい甲斐あるなぁ、あはは」

「そりゃどうもっす。ってかそろそろ仕事させてください。俺、部活控えてるんで」

「うわお。さすが小野っち。マジメだなー」


 月原先輩はわざとらしく驚いたリアクションを取ったあと、


「でも小野っちのそういうところ、好きだよ。頼りにしてるね」


 なんて恥ずかしげもなくあっさりと言ってのけて、他の役員のもとへ絡みにいった。


 ……好きってのはあれだ。生徒会役員として、あるいは後輩としてだ。

 真に受けて平常心を忘れるな、俺。深呼吸しよう。


 それにしても、まったく。人の作業を邪魔するだけ邪魔して「ごめんねー」もなしですか。しかも、他に人がいる環境でよくあんな露骨にからかえると思う。


 とはいえ、実は先輩にからかわれるのって、全然イヤではないんだよね。

 むしろ美人でスタイル抜群な年上の女性が、こうしてからかってくれる状況……それ自体はかなりおいしいと思っている。


 きっと以前の俺じゃ、月原先輩みたいな人に絡んでもらえるどころか、気にも留めてもらえなかったからなぁ……。

 だからこそ俺は、月原先輩にたくさんからかってもらえるこの距離感を、結構楽しんでいた。ちゃんと俺という存在を意識してもらえているみたいですごく嬉しい。



 ……あとぶっちゃけ、一回ぐらいはあのおっぱいに顔を埋めたいし、揉みしだきたい。

 こうして仲よくしていれば、そんな機会もワンチャンあるよね…………ないか。




 生徒会役員の職務を終えた俺は、部室で着替えをすませ体育館へ向かう。

 館内では、バドミントン部とバレーボール部が男女とも声を出し合って練習していた。どちらの部も県内では強豪チームだからか、緊張感のある活気に満ちていた。


 けど、俺はそんなバド部やバレー部の練習風景を横目に通り過ぎる。

 目指すは、コート四分の一程度を使ってこぢんまりと練習しているバスケ部だ。


「――あ、小野瀬先輩! お疲れさまです」


 コートの隅で練習を眺めていた女子生徒が、柔らかい笑顔で迎えてくれた。


「未央ちゃん、お疲れ。ごめんね、遅くなっちゃって」

「本当ですよぅ。先輩いないと、あの人たち全然まとまらないんですからね」


 そう言ってわざとらしく頬を膨らませるジャージ姿の女の子は、俺が部長を務めるバスケ部のマネージャー、洲(す)崎(ざき)未(み)央(お)ちゃん。

 俺より頭ひとつ以上背のちっちゃい、見た目も存在もかわいらしい一年生だ。


「……なんて、冗談です。先輩、生徒会と兼任だからしょうがないですよね」

「まあね。でもまとまっていないように見えて、あいつら、なんだかんだ仲よくやってるしさ。大丈夫でしょ」

「確かに……ふふっ。やることは自由ですけど、やり始めるとみんな一斉に足並み揃うからおかしいですよね」


 未央ちゃんが笑うと、ツインテールも少しだけ楽しげに揺れた。


 彼女は、遙香みたいに感情を全力で爆発させるタイプでもなければ、月原先輩のように余裕のある態度をとるタイプでもない。

 笑うなど感情が動くときは、柔らかく表に出すような大人しめな子だった。


「だねー、自由だねー。だってほら、俺たちバスケ部ってさ……」


 そんなマネージャーの横に立って、俺は部員たちを眺めながら言う。


「くっそヌルいじゃん?」

「……そうですね、ヌルヌルですね……あ、はは」


 ふたりして苦笑いを浮かべるほど、ここ竹乃宮高校――通称『竹高』のバスケ部は、県内でもかなりの弱小チームだった。部員だって二チームに分かれてミニゲームができるギリギリの人数と、マネージャーである未央ちゃんの計十一人しかいない。


 二年生の俺が五月頭ですでに部長を務めているのも、先輩がさっさと責任逃れ――もとい引退したからだ。まあそうは言っても、たまに息抜きで遊びには来るんだけど。


 なので活動自体もかなりヌルい。本気で上を目指そうと思って部活を続けている部員は、おそらくいないと思う。いたらとっくに辞めている。単にバスケが好きで、仲間と楽しみたい……そのぐらいの気持ちで入部した連中ばかり。


 練習メニューなんてほとんどお飾りで、基本的にやることは自由だった。

 準備運動をしたらすぐ五対五のミニゲームや3×3(スリー・バイ・スリー)を始めるか、フリースローや3ポイント勝負を始めるか、おもしろ動画を撮ろうと遊び始めるか。今は何人連続でダブルクラッチ決められるかゲームをやっているらしい……そんで、しょっぱなから外してる。


「……未央ちゃん的には、イメージと違って残念だった?」

「え?」


 俺が突然訊いたからか、未央ちゃんは弾かれたように振り向いた。


「だってマネージャーやりたいってことは、強くて一生懸命なチームのメンバーを支えたい、って気持ちがあるからじゃないの? 俺らじゃどうがんばっても全国大会になんか連れてってやれないよ?」

「最初から諦めてるのが、もううちのバスケ部って感じですね」


 こっちの自虐ネタをしっかり拾い、笑ってくれた未央ちゃん。

 嫌みに感じないのは、やっぱり笑い方が優しいからなんだろうな。まさに天使だ。


「でも、いいんです。わたしがここでマネージャーしたい理由は他にあるので」

「へえ、そうなんだ。教えてよ、今後の参考に」


 ちょっとだけ未央ちゃんの顔を覗き込む。「え~?」と嫌そうな、だけどかわいらしい反応を見せてから、彼女は人差し指を立てて口元に添えた。


「ナイショなんです。誰にも」

「なんだよそれー。……へへへ」

「ふふっ」


 未央ちゃんとのやりとりで心臓が蕩けるかと思った。普通に話しているだけでもふわふわと気持ちよくなってくるのに、ちょっとしたあざとさすら感じるかわいい仕草までされたら、キュンとなるのは必至だ。

 こんな素敵な子がマネージャーとして入ってくれるんだから、ぬるぬるのお遊びバスケ部も捨てたもんじゃないと思う。


 実は俺、小学生のミニバスからずっとバスケを続けているんだけど、好きなわりに運動神経がないせいかお世辞にもうまくなんてなかった。

 だから中学のときはずっと二軍で楽しめなかったので、中学卒業を機に辞めてしまおうかとも考えていた。けど竹高のバスケ部を見学してみたらヌルく楽しそうなノリだったので、それに惚れ込んで入部したのだ。

 ただそんな部活だから、マネージャーなんて入るわけがないと半ば諦めていた。


 ところが今年の春、未央ちゃんがマネージャーになりたいと見学に来て、今ではこうして隣にいる。

 未央ちゃんがバスケ部に入ろうと思った理由はこれまでもはぐらかされてばかりだったけど、まあ部活は楽しいし花もできたんだ。

 いちいち気にするのも野暮というものだろう。


「あー、小野瀬やっと来た。そういうの、重役出勤って言うんでしょ」


 俺の姿に気づいたバスケ部員がひとり、声をかけてきた。

 彼の名前は常(とき)盤(わ)直(なお)樹(き)。このゆるいバスケ部の副部長だ。


「しかも……ねえみんな! 小野瀬がマネージャー口説いてるけど、どうする?」

「「「ぶっ殺ーす!」」」

「物騒なこと言ってんじゃねぇ! 生徒会だったんだから遅れるのはしょうがないだろ」


 そういうときは本当にびっくりするほど息が揃うよな、あいつら。

 やいのやいのと捲し立てる姿も暑苦しいことこの上ない。


 でもそういう環境が、俺は嫌いじゃない。

『仲間!』とか『青春!』って感じがして、これはこれで楽しいんだ。


「わかってるって。兼任も大変だよね。ってか小野瀬が来て人数揃ったし、そろそろミニゲーム始めようか。小野瀬も、いつまでもマネージャー口説いてないでこっち来なよ」

「だから口説いてねーって!」


 などと悪態をつきつつ、俺は羽織っていたジャージを脱ぐ。

 するとなにも指示していないのに、未央ちゃんはジャージを自ら受け取ってくれた。


「行ってらっしゃい、先輩。がんばってきてくださいねっ」


 これぞまさしくマネージャーの鑑ってやつだろう。素晴らしすぎる!


「――オッケー!」


 未央ちゃんのかわいい笑顔に見送られ、俺はキュッとバッシュを鳴らした。




 熱い展開を見せたミニゲームは、ギリギリ俺の属するチームの勝利に終わった。


 コートにへたり込んで荒々しい息を整えていると、未央ちゃんがみんなへスクイズボトルを配ってくれた。さらには肩がけの小さなクーラーボックスから、なにやら取り出して部員へ手渡している。


「はい、これは先輩のぶん。特別に三つあげます」


 手に乗っかった瞬間、心地よい冷気が広がった。ピンポン玉サイズの小さいカップに、果肉入りでオレンジ色をしたゼリーが入っているようだ。


「今日はオレンジ味のゼリーを作ってみました。ビタミンは疲労回復にもいいですし」

「マジか、これ手作り? しかもみんなの分を? すげぇ、ありがとう!」


 さっそくペロリ。甘酸っぱい果汁が舌に広がり、渇きを潤しながらつるんと喉を通る。

 ああ、これは確かに染みるわ……。しかもうまい!


「ふふっ。ありがとうございます。でも、ゼリーなんて誰でも簡単に作れますよ? ゼラチンで固めるだけですし」

「いやいや。ゼリーがすごいっていうか、差し入れを手作りで持ってきてくれることがそもそもすごいよ。ほんと嬉しい。いつもありがとう」

「そう言ってもらえると、がんばって作った甲斐があります」


 未央ちゃんはこちらからお願いしたわけでもないのに、なにかしらの差し入れを準備してくれる。それもほぼ毎日だ。

 さすがにその都度手作りのものを、ってわけじゃないけど、自分の判断で、ときにはリクエストを訊いて、運動後の俺たちへ向けて準備してくれる。

 未央ちゃんの、とにかく気の利く一面だ。三歩後ろに下がって自主的にサポートに徹してくれる、まさにマネージャーの鑑。こんなお遊び部にはもったいない逸材だ。


「マネージャー、ごめん。そこのハシゴんとこにかけてるタオル、取ってくれない?」

「あ、はーい」


 こうして部員からなにかお願いされたときも、未央ちゃんは素直に対応してくれる。


 未央ちゃんは、壁際に備え付けられているハシゴみたいな器具(これ、小学校中学校のときにもあったけど、なにに使うの?)にかかっているタオルを取ろうと近くへ向かう。

 でも彼女の身長では腕を伸ばしても届かない場所にかかっているようで、背伸びをしたり、ピョンピョンと跳ねたりしている。


「ううー……高い」


 なんて言ってがんばっているマネージャーを眺めながら、俺はもう胸がホッコリだ。

 昇って取ればいいことに気づいていないちょっと抜けているところも、背伸びしたりジャンプしている一生懸命なところも……存在そのものが癒やしなんだよなぁ。


 なんて思いながら温かい目で未央ちゃんを拝んでいると、視界の隅に人影が入り込んだ。

 体育館側面の引き戸の辺り。制服姿の女の子がひとり、体育館の中、しかもバスケ部のほうを窺っていた。制服のリボンの色からして一年生らしい。


「……ねえ未央ちゃん。あの子、友達?」


 どうせうちの部の男子はみんな女っ気がないとわかっている(八割は決めつけだけど)ので、ならば未央ちゃんに用事がある生徒だと考えるのが自然だ。

 俺が訊ねて引き戸のほうを指さすと、未央ちゃんはすぐさま反応した。


「あ、はい。クラスメイトです。ちょっと行ってきていいですか?」

「もちろん」


 わざわざ確認するところも律儀だなぁ。気にしないでいいのに……。


 すたすたとクラスメイトのもとへ会いに行き、なにやら話し始める未央ちゃん。

 するとしばらくして、なぜか俺が未央ちゃんに手招きされる。

 なんだろう。呼ばれる心当たりはなにひとつとしてないんだけど……。

 首を傾げながら、俺は未央ちゃんたちのもとへと向かう。


「先輩、紹介しますね」


「クラスメイトの久(く)城(じょう)望海(のぞみ)ちゃんです」

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