第七発

第7章・あの日

 ピロピロピロ……ピロピロ──


 まだ陽も昇らない時間、布団から伸びた腕が枕の脇を探ってスマートフォンの画面を叩く。探り当てて人差し指で画面をなぞりアラームを解除して二度寝……とはいかない。日課があるのだ。

 モゾモゾと布団が芋虫のように蠢き、亀のように頭が飛び出る。勢いのまま長い髪が舞い、いくらか顔にかかる。気にせず目は閉じられたまま冷えた部屋に暖かい布団から手足を出して毛布にくるまったまま立ち上がると手を伸ばしてカーテンを開けようと……


「痛ったあ〜!」


 唐突な痛みと同時にガタンッ!と音を立て何かが倒れる。足を何かにぶつけたらしい。思わずしゃがんで足を抑える。若干冷たい足は普段よりも激しく痛みを発する。眠気に勝利した痛みで目を開けると足元には折りたたみ式のテーブルが。昨晩壁に立てかけて置いたのだが倒してしまったらしい。このままというのもなんなので、とりあえず元に戻し、椅子の背に掛けてあったフリースを羽織り、カーテンを開ける。外は夜明け前。暗く街頭に道が照らされ、昨晩の予報通り雪が降っている。


 外の様相に目を細め、自然と相貌は歪みそれは少なくとも雪を前にした人の表情では無いことは確かだ。

 ……記憶にこびり付き離れず離したくもないあの事件の時と同じなのだから。


「はぁ……」


 雪は嫌いだ。あの日を思い出す。


 雪は嫌いだ。冷たくなったあの身体を思い出す。


 雪は嫌いだ。彼らを思い出す。


 雪は嫌いだ。あんな彼らに怒りを覚えた自分の恥を思い出す。


 雪は嫌いだ。毎年私の前に現れて記憶を失わせてくれない。


 雪は嫌いだ。何年経とうとこの感情が消え失せることは無いのだから。


「先輩……もう、十年経っちゃったよ」


 雪のちらつく外が望める窓を背に、女は部屋を後にする。




 階下へ降り、玄関に立てかけてある木刀を手にして雪がちらつく外へ出る。そのまま母屋の隣の道場へ入る。日課の素振りだ。灯りをつけると自分一人の息遣いしか聞こえない静謐そのもの。道場の中央に立ち、基本の構えをとる。そのまま静かに振り上げ、ヒュッと音を立てながら木刀を振るう。無言で何にも惑わされることなく木刀は振るわれ、その姿はどことなく近づきがたく、また何かに飢えているようにも感じ取れるのだ。


 この刃の技は剣術である。しかし著名な示現流や北辰一刀流、新陰流などそのどれとも属さない。そもそもが一流派だけなのだから当然だろう。完全実戦剣術、虹月こうづき流剣術。それがこの剣の技であり、1500年は優に超える歴史を持つ古武術に分類される剣だ。正確には虹月剣術一刀流となるのだがここでは割愛する。

 この剣術が是とするのは文字通りの実戦。

 少なくとも平安時代には確認できたそれは数多の戦を超えて発展し、磨かれてきた。『万の素振りは一の戦にも劣る』とは誰の言葉か。戦の中で磨かれ削られ鋭利になった刃はここ百年で鈍ったか、しかし技を絶やさぬためにせめて動きと込められた意思だけは繋ぐために。

 全身から指先まで広く狭く、大雑把で詳細に全身を捉え全ての動きを把握して全ての動きを制御する。とても常人には不可能な絶技。指先一つのブレでこの綱渡りに等しい緊張感は途切れる。そうあってはならないのだ。自然と瞳は閉じられて感じるのは自身の息遣いと剣の動き、全身で感じ取る周囲の変化。


 素振りを二百を数えた頃か、微かに床の軋む音。すっと斬り下ろしたまま動きを止め、ほんの少しだけ後ろに体重を向ける。右足だけ角度を真横に向け、そちらへ体重をずらす。そのまま左足先から軸をずらして指先の角度で木刀の向きを変える。そしてそのまま───


「疾ッ!」


 腰の回転と両足の蹴り、肩の回転と肘、手首関節部の動き、全身を使って加速された木刀は鋭い音を立て風を切り、180°反転しながらその切っ先は背後を捉える。


「くっ……腕を上げたな」

「いえ、まだまだです」


 木と木のぶつかる軽く甲高い音が静謐を破り磨かれた床材に反響する。目を開ければそこには自身の木刀を受け止める初老の男性。使い込まれた木刀は少しのブレもなく今も力を込め続けるこちらの木刀を抑える。


「しかし、普段と違い力んでいる。何かあったか……いや、そうか今日は……すまない」

「いいのです。もう十年、区切りをつけねば」

「そうか。だが、人には忘れずとも良い事、忘れてはならぬこともあるのだぞ」

「理解しています。しかし、想うことで縛っているのであれば……」


 死した身体には魂が無い。逆に言えば身体には魂が宿る。その魂は肉体から離れ何処へゆくのか。それはわからない。だが、少なくとも縛られていいものではあるまい。地縛霊というのはとある界隈では人の想いによってその地に縛られるという。ならば、自身が想うことは間違っているのではないか。そう考えているのだ。


「彼は私たちにとってもとても好感の持てるものだった。願わくばと思っていたが、あのような事にな……今も悔いているか、緋音」

「悔いてはいません。ですが、ボクは心残りです」


 薄暗い道場の中、緋音と呼ばれた女は外を見つめ、あの日の事をふと思い出す。あれも、同じ雪の降る日だった。




───あれは十年前。


「あれ、先輩からだ。……バイト入っちゃったの!?」


 大学からの帰り道、仲のいい友人を手伝って帰りが遅くなってしまった。予報通り雪が降っていて、このまま行けば明日には積もるだろう。そんな時に送られてきたチャットアプリの通知。内容は今日夜から一緒にゲームをする予定だったが、バイトで遅くなりそう。時間をずらして欲しいというものだった。

 自分も帰宅までは時間が掛かりそうで、時間がズレるのはむしろありがたい。その事を返信すると既読にはなったが返答はない。余程忙しいのだろう。でも、先輩の働いてるお店ってそんなにお客さん来たかな……?

 そんなことを思いながらしばらく歩くとやっと家が見えてくる。大学からは徒歩圏内で、バス停も若干遠い。なので普段から歩いているのだけど今日ばかりはバスを使えばよかったと思わなくない。

 頭に雪を被りながらこの地域ではかなり大きい古い和風の家の戸を開ける。これが彼女の実家、虹月家である。わかる限りでも築二百年は下らないという。


「ただいま〜」

「あらあらお帰りなさい緋音ちゃん。お風呂、沸いてますよ」

「ありがとうね。そうだ、お父さんとお母さんは?」

「旦那様は武術会合で関西に、奥様は出張で渡米ですね。丁度入れ替わりで出ていかれました」

「そっか。でもこの天気で飛ぶのかな飛行機」

「雪が降っているのはこちらだけのようですし、飛行機自体は明日の朝と言っておられました」

「なら大丈夫かな。お風呂先に入っちゃうね」

「分かりました。では夕食はその後に」


 初老の彼女はこの家に務める家政婦だ。この家はかなり広いためお手伝いさんを雇っている。彼女が産まれた頃から見守ってきているため、もはや家族であり彼女にとってはもう一人の親だ。しかも両親ともに忙しく、家に常にいるのが一年で半年ほどと短い。かつては親よりも彼女に懐いていたこともあったらしい。


 湧いたばかりの熱いお湯は冷えた身体を解し、疲れと共に抜き取っていく。


「ああぁぁぁ………」


 家も広ければ風呂場も広い、広い浴槽で足を伸ばして頭だけを浴槽のに乗せて全身の力を抜く。すると次第に浮き始め、同年代にしては小さめな気もする胸部の山も水に浮く。ぷかぷかと浮かびながら眠気も感じ始めた頃、脱衣場から声が掛かる。食事の用意ができたらしい。危ない危ない、寝てしまうところだった。彼女は若干のぼせながら浴槽を後にする。


「それじゃあ、この後ちょっとやる事あるからあとお願いね。おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

 食事を済ませたらあとは寝るだけ……では無い。今日のお楽しみ、先輩とのゲームである。長年続く王道タイトルを久しぶりにやろうということになって、今日がその予定だったのだ。しかし、先輩から連絡が来ない。もう九時だ。少し心配になりチャットを送る。しかし既読にはならない。さすがにアルバイトも終わっているだろうと思ったのだが……


「まだ忙しいのかな……あ、帰ってる途中なのかも」


 先輩から前にアルバイト先にバイクで行っていると聞いたことがある。もし運転中なら見れなくて当然だ。少し待ってからもう一度送るのが良いだろう。


 

 あれから二十分ほど待って、もう一度送ってみる。そろそろ着いているだろうか?そう思い送ってみるも反応がない。外は雪が降っているから時間も掛かっているのか?心配だ。数度しか行ったことないが先輩の家は知っている。万一なにかあったら大変だ。見に行くべきだろうか……



 さらに一時間ほど経過した。数十分ほど前から単なる心配から異様な胸騒ぎへと変化している。本当に何かあったのではないだろうか。ここまで何も連絡が来ないのも珍しい。寝る前に何かしらメッセージを送るのが最近のマイブームで、先輩は必ず反応してくれていた。なのに今日はそれがない。むしろ何度も送っているチャットにもなんの反応も無い。ついさっきまでは帰宅に時間が掛かっているのだろうと思っていたがさすがにおかしい。様子を見に行くべきだろうかと想いふと外を見ると、かなりの雪の強さだ。この辺りは土地柄、短時間に強い雪が降りやすい。この天気で外に出たら自分まで大変なことになってしまいそうだ。だが心配だ。しかし警察に通報しようにも何も起きていないし、たった一時間ほど連絡が取れていないだけである。いくらこの天気とはいえ、適当にあしらわれてしまうだろう。

 しばらく悶々として時計を見ると既に時刻は十一時を回っている。明日の朝から講義のため早く起きる必要がある。さすがに寝た方がいいだろう。胸騒ぎは消えず、とてつもなく嫌な予感もしているが……彼女は布団に潜り眠りにつくのだった。




 翌朝、日課である早朝鍛錬を終えて母屋に戻ると既に朝食の用意が出来ていた。時計を見れば普段鍛錬を終えている時間よりも三十分も遅い。全身で剣の事以外を考えずに振るべしというのが実戦剣術を鍛錬する上で数少ない素振りの教えだ。それを守り剣を振っていたが、時間すら忘れるほどだったか。人生で常に鍛錬すると身体は素振りの際雑念が混じれば反射的により素振りを行うようになるらしい。それが本当なら今日の鍛錬では三十分も伸びるほど雑念が混じったということか。それほど昨晩のことが気にかかっているのか。

 はぁ、とため息をつき朝食のため座る。一人で朝食というのは実は久しぶりだ。しばらくは父が家に居たため話し相手もいた。だがその父は関西だ。武術会合という名の飲み会である。しかし実際に活動しているのだから文句も言えないのだ。


 外を見れば雪は既に止み、辺り一面銀世界だ。座る位置から丁度庭が見え、植えてある木々は全て真っ白な帽子を被っている。幼い頃であれば外にとび出て遊んだのだが今となっては足は取られ寒さで凍える若干忌々しい存在だ。歩くのは大変だが、晴れていれば何とかはなるだろう。


 朝食は米と決めているため、外の雪と同じ色の米を頬張る。そのまま朝のニュースを何の気なしに点けると、先日問題になっていた政治家のニュースだった。正直、興味は無いので聞き流しているが。


『────なので、先日設立された対策委員会には、透明性を持たせた積極的な情報管理を求めたいですね』

『ありがとうございます。続いてのニュースです。昨夜、九時頃に……県──市の路上でオートバイと乗用車の衝突事故が発生しました』


 あれ、近いなと思いながら見ていると、どうやら昨日の雪で道が滑って車がスリップした拍子に脇の道から出てきたバイクにぶつかったみたいだ。しかも飲酒運転でスリップって……悲惨だね。

 あれCG映像の感じ、知ってる道かも。確か先輩がアルバイトに行く時に使う道だって言ってたような……


『この事故でオートバイに乗っていた男性一人が死亡しました。亡くなったのは、市内の大学生、葉月大和さん二十歳で、当時オートバイで出てきたところを乗用車と接触したと見られています』



 ……………………………え?


 どういうこと。


 だって先輩はアルバイトで。


 九時頃、返事、無かった。


 雪のせいで遅くなってるって。


 急にアルバイト入ったからって。


 時間をずらして一緒にゲームしようって。


 今日も一緒に図書館行こうって。


 もうすぐテストだから復習しないとって。


 お昼も食べようって。


 私にも勉強教えてくれるって。


 また、一緒に遊びに行こうって。




 言ったのに。

 言っていたのに。

 なのに………


「あ、ああ………あああああああああああああああああああああああああッッ!!!」


『───容疑者の車両は事故現場から数十メートル進んだあたりで電柱に衝突、そのまま停止しました。容疑者は病院へと搬送され、打撲が確認されましたが命に別状はないとの事です。警察は飲酒運転による死亡事故として捜査を行い、容疑者の回復を待ってから本格的な聴取を行うと発表がありました。……次のニュースです』



 もはや、私の耳には何も入ってこなかった。

 

 居間では、画面に釘付けになる二人が完全に動きを止める。二人とも彼を知っているのだから。

 情報量に圧倒されグチャグチャになった頭の中と、力の抜けた全身。そこでは何も出来ない手から滑り落ちた箸が床に落ちて虚しく音を立てるのみ。

 そして、心の内を知ってか知らずか、外では再び雪が降り始めるのだった。

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