第22話泡沫ランデヴー Ⅳ
腕を引かれ、腰に手を回される。
あと数センチ近付こうものなら。
唇が触れてしまいそうな距離で。
でも、決して触れ合うことのない。
ただ見つめ合うだけの、視線の口づけ。
いつも、ここまで。
そう。いつもなら。
「………忘れてた」
彼はまた、そう言って。
「……一個、なんでも言うこと聞いてあげるっていう、約束」
あたしの頬を、指でそっとなぞる。
ぞくっ。と走る、甘美な感覚。
いいかげん慣れてもいいはずなのに、こうなってしまうといつも動けなくなる。
「で……でも、あれは冗談だって……」
「うん。冗談のつもりだった。けど、気が変わった」
そう言って、頬を撫でるのと反対の手で。
彼は自分のメガネをはずすと、そのまま無造作に地面に落した。
初めて出会う、メガネ越しでない、裸の瞳。
余計に、その漆黒の瞳に吸い込まれそうで……
「……ほら」
「え……?」
「今ならなんでも……言うこと、聞いてあげるよ?」
「…………っ」
「……言ってごらん。レンは……なにが、欲しいの?」
………なんだ。
この人、やっぱりいじわるだ。
だってこんな……こんな状況じゃ、選択肢なんて、一つじゃないか。
あたしがなにを一番望んでいるのかを、この人は知っているから。
だから最初から、あんなことを……
……でも。
きっと、今日を逃したら彼はもう、してくれない。
あのお店の中で、『客』と『ホステス』という立場のままなら、何も変われない。
そんな気がして。
あたしは、精一杯の勇気を振り絞る。
「……えて………」
「ん…?」
声が掠れる。
「……教えて、下さい」
「………なにを?」
こくっ、と喉が鳴る。
彼を見上げる瞳が潤む。
心臓が、壊れそうなくいらいに脈を打っている。
いいの?ほんとうにいいの?
そう、胸の内で問いかけるが、それが誰に、何に対するものなのか、自分でもわからない。
そんなことばっかりだ。
彼に出会ってから、自分で自分がわからなくなった。
自分の心が、身体が。
全部、自分のものではなくなった。
嗚呼、あたし……
「………クロさんの………キスの、味……」
──恋している。
嗚呼、なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。
また、からかわれるかもしれない。
いじわる言われるかもしれない。
でももう、そんなことはどうでもいい。
恥ずかしくてもいい。みっともなくてもいい。
好きなんだ。好きになってしまったんだ。
だから、この勝負は。
全部全部、あたしの負けだ。
ねぇ、クロさん。昨日、言っていましたよね。
あたし、上手におねだり、できましたか……?
あたしの言葉に。
目の前の、愛しすぎる彼は。
「──喜んで」
くすり。
と、いつもの笑み。
夜空より暗い色をした瞳が、ゆっくりと閉じられる。
彼の肩越しに、まん丸いお月様が見えた。
あ、きれい。
なんて、他人事のように思ってから。
それを最後に映して、彼を真似るように。
あたしも静かに、目を閉じた。
最初はただ、触れるだけだった。
しかし次に触れた時。
確かに彼の、たばこの味がした。
ほろ苦くて、せつなくて、甘い味が……
ゆっくりと、むさぼるように。
離れてはまた塞がれ、その繰り返し。
酸欠で、脳が揺れる。
まるで、カラメルの海で溺れているみたいだ。
ファーストキスがこんなに激しくて、いいのかな?
でも、これが。
あたしがずっと、ほしかったもの──
どれくらいの時間が経っただろう。
「……………っは………っ」
長すぎた口づけに、息が切れる。
くらくらする。膝も、がくがくと笑っている。
よろけそうなあたしを、クロさんは何も言わずに抱き締めた。
あたしも何も言えないで、ただそれにすがった。
「…………お味の感想は?」
肩で息をするあたしの耳元で、彼は囁いた。
声が笑っている。
「ん……甘かった…れす………」
「ふふ。甘いわけないでしょ」
彼が笑う振動が、ダイレクトに伝わってくる。
──これ、夢じゃないよね?
こんな幸せなこと、あっていいのかな。
ああ、好き。好き。大好き。
ねぇクロさん。
あたし、あたしね。
「……クロ…さん………」
「ん…?」
荒い息使いで、彼の名を呼ぶ。
そして。
「……………好き………」
乱れた吐息の合間に。
しかし、はっきりと。
「あたし………クロさんのことが……好き……」
そう、気がついたら言っていた。
自分でも驚いた。
それくらい無意識に、口からこぼれていた。
だって、もうどうしようもないのだ。
好きで好きで、たまらない。
内側になんか留めておけない。
好き。好き。大好き。
それが溢れて、喉をついて出た。
だから、考えていなかった。
これは、独り言ではなくて。
返事をする相手が、目の前にいる。
その事が、急に怖くなって、臓腑が竦む。
ねぇ、あなたは。
なんて、答えてくれるの……?
───それは。
「………そう」
呟いた、彼の声は。
「じゃあ、僕の勝ちだね」
信じられないほど、冷静なものだった。
身体からあたしを引き離し、彼は続ける。
「僕に染まった君の負け。そういうゲームだったよね」
そう言って、笑う。
にっこりと、笑う。
しかし、笑っていない。
真っ黒な瞳が、笑っていない。
「よかった。最後の最後で勝てて。これでやっと、終えられる」
最後?
終えられる?
「あれ、忘れちゃったの?最初から期間限定のゲームって決まっていたじゃない。指名料を先払いしたあの日から、ちょうど二ヶ月。今日でこのお遊びも、おしまいだね」
淡々と言いながら、彼は先ほど地面に落したメガネを拾って、かける。
頭の中が真っ白になる。
彼の言っていることが理解できない。
したくても、脳が拒否する。
ゲーム?お遊び?おしまい?
あなたにとって、最初からこれは……
本当に、ただの勝負事だったの……?
「……おしまい、なの?」
「うん?」
掠れる声で尋ねるあたしに、クロさんが聞き返す。
「もう、この関係は……おしまいなの?」
「そうだよ」
ぱっ、と顔を上げる。
あまりにも簡単にそう言うから、どんな顔をしているのか見てやろうと、顔を上げる。
なんで……
なんでそんな、涼しげな顔でいられるの?
本当に、本当に。
本気だったのは、あたしだけだったんだ。
遊び、だったんだ。
「…………ッ」
堪え切れず、あたしは。
彼に背を向け、駆け出した。
涙が、次から次へと溢れ出す。
嗚呼、馬鹿だ。あたしは、馬鹿だ。
振り返らなかった。けど、本当は。
引き止めてくれるのではと、ほんの少しだけ、期待した。
「嘘だよ」って、いつものあの、いじわるな笑顔を見せてくれるんじゃないかって。
少しだけ、そう期待したのに。
彼が追ってくることは、なかった。
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