第21話泡沫ランデヴー III


 死にたい。


 今まで散々恥ずかしい思いをさせられてきたが、今回ほど本気で死について考えたことはない。



 彼の前で。


 鼻から、血を垂らすとは。




「甘いもの食べすぎちゃったからかな。大丈夫?」


 そう、あたしの横で優しく声をかけてくれるクロさん。


 違うんです。いろいろ興奮しすぎて、出ちゃったんです。


 ……などとは言えるはずもなく。


「もう大丈夫です。ごめんなさい。まだケーキたくさん残っていたのに、お店出ることになっちゃって……」

「いいのいいの、気にしないで。残ったのはあとで受け取れるようにしたから、帰りに寄ろう。君の店へのお土産にすればいいよ」



 クロさんは、本当に心配そうな様子で。

「外の風にあたったほうがいい」と、待ち合わせ場所だった噴水広場に連れてきてくれていた。

 おかげで出血もすぐにおさまったのだが……



 その噴水の縁に座って、


「それにしても、いくら僕が赤い色好きだからってわざわざ鼻血まで出してくれなくていいのに。文字通り、出血大サービスだね」

「いや、自由自在に出せるわけじゃないっす…」


 という間抜けな会話に、クロさんは「だよね」と少し笑う。


 ……おかしい。

 やっぱり、今日の彼はいつもと違う。


 というか、普通に優しいのだ。

 この、というところがポイントである。

 あのタイミングで鼻血なんか出したら、確実に大笑いするような人なのに。


 やはりなにか……たくらんでいるのだろうか?

 それとも単純に、クロさんもこのデートを楽しみにしていてくれた…とか?


 ………いや、今日ぐらいは何も考えず、素直に楽しんでおこう。

 こんなに優しくしてもらえることなんて、もうないかもしれないのだから。



「他にどこか行きたいところ、ある?」


 ほら、こんな風にあたしの意見を尊重する姿勢なんて、未だかつて見たことが無い。


 今日ぐらい、素直に甘えても、いいんだよね……?


 と、伺うようにちらりと隣を見ると。

 クロさんが、ポケットからたばことライターを取り出そうとしていて。


「あ……」


 思うより早く、あたしは彼の手からライターをひったくると。

 カチッ、といつもの要領でたばこに火を灯した。

 その行動に、たばこを吸うことも忘れ、彼は驚いたようにあたしを見つめていた。


 ……しまった。


「ご、ごめんなさい……つい癖で…」


 そう言いながらライターを返す。するとそれを受け取りながら、


「いいや、ありがとう」


 嬉しそうに笑って、たばこを吸い始める。



 ──くすっ。



「面白いね」

「え?」


 彼の吐く煙を見つめていると、クロさんが笑った。


「な、なにがですか?」

「えぇ?だって」


 からかうような視線をこちらに向けて、口の端を吊り上げて、


「完全に調教されてるなぁって。僕がたばこを出したら、火を点けるように」

「な……ただの習慣ですってば!」

「だから、そういうのを調教されてるっていうの」

「言いません!!」

「そんな真っ赤な顔して言われても、説得力ないなぁ」


 思わず大声をあげるあたしを、にやにやと見つめる彼。


 ああ、このかんじ。いつもの彼だ。

 優しくされるよりもこうして、からかわれて、いじわるを言われたほうが。

 内心、嬉しいと思ってしまっているあたしは。


 ……本当に、調教されているんだろうな。



「──で?どこか行きたいところ、あるの?」


 たばこをふかす彼の言葉に、あたしは。


「うーん……それじゃあ………」


 考え付くかぎりの楽しそうな場所を、挙げてみた。




 それから彼は、あたしが思いつきで挙げた場所にすべて連れて行ってくれた。


 可愛い雑貨屋さん。

 小さな射的場。

 怪しげな占い屋。

 おしゃれなレストラン。


 このベラムーンという街はもともとかなり大きな商業都市なので、戦争前の賑やかさはないかもしれないが……

 とはいえ、けっこうデートらしいデートができたのだ。

 その間もクロさんは、やはりいつもと違って、どこか優しくて……




 * * * * * *



 そして、その日の最後に。



「わぁ……」



 あたしたちは、街はずれにある小高い丘の上に来ていた。

 ベラムーンの街が一望できる、眺めの良い場所だ。

 もうすっかり日が沈んでしまったので、家々から明かりが漏れて見える。それが暗闇の中でキラキラ輝いていて、まるで宝石のようだった。


「すてき……」

「いいところでしょ。たまに来るんだよ、一人で」


 この街に来て三ヶ月近く経つが、こんな場所があるなんて知らなかった。

 クロさん、おぼっちゃん(仮)なのによく知ってるなぁ。そんなに頻繁に家を抜け出しているのだろうか。



「あ……お城が見える」


 ちょうど正面の、遠くの方。

 光に照らされた、見たこともないくらいに綺麗で立派なお城が見えた。

 あたしが指差した先を見ると、クロさんは「あぁ」と言って、


「あれは、ロガンス城だよ」

「え……」


 ロガンス……

 久しぶりに聞くその名に、思わず動揺してしまう。

 あれが……あそこが、ロガンスという国……

 そうか、ここは本当にロガンス帝国に近い場所なんだ。


 ルイス隊長が、みんなが生まれ育った国。

 本当は、あたしも行きたかった国──

 今頃、みんなどうしているのかな……

 無事に、帰れたのかな?




「──どうしたの?」


 クロさんの声に、はっとなる。

 しまった。つい……


「いえ、なんでもないです。あたしもあんなお城に、住めたらいいなぁって」


 と、笑顔で返す。

 クロさんといるのに、隊長の……他の男性のことを考えてしまったことに、なんとなく罪悪感を覚える。恋人でもなんでもないくせに。

 そんな変な気持ちを振り払うために、あたしはクロさんの方を向くと、


「今日は本当にありがとうございました。いろんなところに連れて行ってもらって」


 そう言って笑顔を向ける。


「どういたしまして。楽しかった?」

「はい!とっても!」

「それはよかった」


 クロさんも、優しい笑顔で返してくれる。

 んん……結局今日は、最初から最後まで優しかったなぁ。

 もうけっこういい時間なのだが、これからどうするんだろう?



 ……まさか………

 今日はこのままどこかに泊まろう、なんてことには………



 ローザさんも、若者のデートといえば最後は……って、言ってたっけ…


 え、うそ。あたし………

 今日、どんなパンツ履いてきた…?



「レン」

「は、はいっ」

「もう時間も遅いし、そろそろ……」


 き、きた!

 どどどど、どうしよう……

 もちろん、クロさんのことは好きだし、でも付き合ってもいないのにそんなこと……


「あの、あたし……」

「うん、わかっているよ」

「え?」


 にこっ、と彼は笑って。あたしの肩に手をかける。

 そして、



「もう、帰ったほうがいいでしょ?ヴァネッサが心配するといけないし」



 なんて、真剣な顔で言ってきたので。


「……………………………はい」


 そう、答えるしかなかった。

 うぅ……あたしってばまた恥ずかしいことを考えて……


「じゃあ、もう行こう。送るよ。あ、その前にケーキ屋さんに戻らなきゃね」

「あっ、いえ、大丈夫ですよ一人で!今日はいろいろお世話になりっぱなしでしたから!」


 というか、恥ずかしすぎて合わせる顔がないんです。

 彼は少し心配そうにあたしを見つめて、


「そう?遠慮しなくていいんだよ?」

「大丈夫です。今日は本当にありがとうございました」


 さすがに二回断られたので、クロさんは「そう」と頷いて、


「こちらこそ、今日は来てくれてありがとう。嬉しかったよ」


 と。

 とても穏やかで、それでいて。

 少し寂しそうな、なんとも言えない顔をして……


「それじゃあ」


 けど、その表情は一瞬だけで。

 彼はすぐに愛らしい笑顔を浮かべると、軽く片手を上げた。


「は、はい。それじゃあ…また、お店で」


 驚きを隠せないまま、ぺこっとお辞儀をするとあたしはお店の方へと丘を下って行く。


 なんだったんだろう、さっきの表情。

 彼のあんな顔、見たことがない。

 やっぱり、送ってもらえばよかったな……


 なんて、さっそく後悔に浸っている──と。





「レン」



 ふと、彼に呼び止められた。

 声に振り向くと、彼がこちらに駆けてくる。


「どうしたんですか?」

「……忘れてた」


 忘れてた?どこかに忘れ物でもしてしまったということだろうか?

 確かにいろんなところを回ったんだから、忘れ物くらいしてもおかしくない。


「忘れ物ですか?今ならまだ間に合うかも。どこも閉まっていないはずだから、すぐにお店に……」


 行ってみましょう。

 そう言おうとしたのを、彼は遮って。



「……間に合う?よかった」

「え?」



 ぐいっ。



 いきなりの衝撃に、反射的に目をつぶる。

 そして、開いた時には……



 目の前に、闇より深い、真っ黒な瞳があった。

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