第4章
第19話泡沫ランデヴー I
午後十時五十分。
「…………なんでいつも、そうなんですか」
あたしは頬を赤らめ、抗議の声をあげた。
相手はもちろん、横に座っていつものようにたばこをふかすクロさんである。
「なぁに。してほしいの?」
にやり。と、もうすっかり見慣れた笑みを浮かべ、彼はそう言う。
簡潔に言ってしまえば、今日も寸止めみたいなことをされたのだ。
……キスの。
「べべべ別にそういうわけじゃないですけど……どうせしないくせに、なんでいっつもこんなことするのかなって」
「………わかってないなぁ」
彼は短くなったたばこを灰皿に押し付けながら、煙混じりのため息を吐く。
「エサを簡単にもらえた犬と、おあずけを食らって、芸までして、やーっとエサをもらえた犬。どっちが飼い主に従順になると思う?」
「……あたしは犬でもなければ、エサを欲しがってもいません。芸もしません」
いくらなんでも、たとえがひどすぎる。
……いや、待てよ。
それってつまり。
諦めなければ、いつかはエサがもらえるってこと…?
……などと考えている時点で、あたしは立派な犬になりかけているのだが。
「………と、言うより」
あたしの淡い期待を見透かしたかのような、妖しげな微笑みを浮かべて、
「寸止めされた時の君の顔…たまんないんだよね。期待を裏切られたような、切なそうなあの顔がさ」
「なっ……」
「……まぁ、僕も鬼じゃない」
ぐいっ、と吐息を感じるくらいに近づいて、
「上手におねだりできたら………あげないこともないけど」
……最上級のドS発言をしてくる。
嗚呼、そうなのだ。
この人、もう全部知っているのだ。
あたしの気持ちも、どうやったら自分に夢中になるのかも。
「おっと、もうこんな時間か。じゃあねレンちゃん。また明日」
そして今日も、このもやもやを残したまま、あなたは去ってしまうのね…
……なんて、肩を落としてため息をつきかけた……
その時。
「……あ、そうだ。忘れてた」
今日は、いつもと違った。
帰ると決めたらもう絶対に振り返らない彼が。
今日は、珍しく振り返ったのだ。
「君、明日休み取れる?」
「え?まぁ…ヴァネッサさんにお願いすれば、大丈夫だと思いますけど……」
「よかった。じゃあ、明日の午後三時に広場の噴水の前に集合。遅れちゃだめだよ」
そう言って、美少年オーラ全開の微笑みを向けて、
「じゃあね。明日、ちゃんと来るんだよ~」
彼は、今度こそ振り返らずに去って行った。
「……………………え?」
それって、もしかしなくても………
* * * * * *
「…………デートぉ?ったく、素姓も知れないヤツと店以外で会って大丈夫なのかよ?……今さら止めねぇけど。しょうがねーなぁ。これで明日の昼までに好きな服買ってきな。姉ちゃんからの小遣いだ」
と言いながらローザさんがくれたお小遣いで買った、真新しい白のワンピースを着て。
「……ちょっと早く来すぎちゃったかな」
次の日。
待ち合わせ場所である広場の噴水の前に、あたしは立っていた。
腕時計の針は、約束の時間の三十分前を指している。
「クロさんって、人には遅れるな~とか言っておきながら、平気で遅刻しそうだなぁ…」
じゃあ、なんでこんなに早くに待ち合わせ場所に着いてるのかって?
………緊張しているからに決まっている。
なんせ、人生初のデートである。緊張しないほうがおかしい
昨日の晩、ローザさんにデートとはなんたるかを再三教えていただいたのだが……ほとんど頭に入らなかった(ごめんなさい)。
ああ、どうしよう。どんな顔してクロさんに会えば……
え。ていうかこれ、デートだよね?デートでいいんだよね?
「……人っていう字、飲みこんでおこうかな…」
などというド定番の民間療法に頼ろうとしている……と、
「あらら、作戦失敗。もう来ちゃっていたか」
そんな、聞き慣れた声がして。
顔を上げる。と、そこには、
「く、クロさんっ」
思ったよりも早い登場に、声が上ずる。同時に、心臓がぴょんと跳ね上がった。
彼はにっこりと笑うと、
「ふふ。早いじゃん。僕より先に来てるなんて」
言いながら……頭をぽんぽんしてくる。
うぅ…やめてそういうの、嬉しすぎる…
デート序盤から爆発しそう……
身長だってそう変わらないのに、こういうところがずるいんだよなぁ……
…………ん?待てよ?
「クロさん」
「ん~?」
「……作戦て、なんですか」
まだあたしの頭をなでなでしている彼に、思いっきり疑いの眼差しを向ける。
すると彼は、
「あぁ。僕を待たせた分数だけ言うこと聞いてもらおうと思ってたの。でも失敗しちゃった。十五個くらい命令すること考えてきたのに。残念」
と、悪びれる様子もなくそんなことをさらりと言ってのけ……
……ほんと、抜け目のない人だな。
「……ふぅ。じゃあ、しょうがない」
「?」
撫でていたあたしの頭をぽんっと叩いて、
「僕の方が待たせちゃったみたいだからね。今日は一個だけ、なんでも言うこと聞いてあげるよ」
……なんて、天使のような笑顔で言うもんだから…
「あぅ……」
やばい、立ちくらみが……
な、なんでも言うこと聞いてくれる、ですと?
は、鼻血出そ……
「なーんて冗談は置いといて。行くよレン」
「………………………」
……前途多難ではあるが。
こうして、あたしの人生初のデートは、始まったのであった──
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