第17話逢引きノワール II


「は…はわわわ……」



 聞いてください。ていうか、助けてください。

 あたし、今。

 人生で初めて。


 ……男の人に、押し倒されています。




「──僕が教えてあげようか?男が、どれだけ怖いかってことを……」



 う、うそ…そんな……

 よりによって、こんな………


 ……………外で?!


 ……って、そういう問題じゃなくて!!


 なんて脳内ノリツッコミをしている間にも、クロさんはゆっくりと顔を近づけてきて……

 あたしの耳に、口づけしてしまいそうな距離で。

 囁く。


「私服のレンも、いいね………可愛い」

「ぅ……」


 こ、ここで呼び捨ては……反則だ!!

 こんな状況なのに……いや、?わからないけれど。

 彼に『可愛い』と言われると、やはり胸がきゅうっとなってしまう。


「君、今日休みだもんね。店の中ではおさわり禁止らしいけど……」

「………ぁ…っ」

「今なら……関係、ないよね…?」

「や…ちょ……」

「……昨日、されるかと思ったんでしょ?キス。目、瞑ったもんね。今なら本当にできちゃうけど……」

「…………」

「…………してみよっか」

「…ッ!!」


 そう言って、彼は一度あたしの目を見つめると。

 静かに笑ってから、唇を近付けて……



 や、ちょ、本気で…?

 待って!あたしまだそんな……

 ぃ…いやっ!母さん助けてぇえ!!



 ……と、あたしが心の中で叫んだ。

 直後。




「──とまぁ、こんなかんじ。ね?怖いでしょー男って」




 ……なんてことを。

 急にクロさんは、真顔で言う。


「……ふぇ…?」


 涙の溜まった目で見返すと、さっきまでとは違うあっさりとした口調で、


「男はみーんなオオカミなの。わかった?」

「は……はひ…はひ…」

「ん。分かればよろしい」


 首を縦にぶんぶん振るあたしを見るなり、彼は満足そうに頷いて。

 何事もなかったかのように、あたしから離れた。


 び、びっくりした……もうだめかと思った…


 ……でもなぜか……

 少し、残念な気も……

 ………しないしない、断じてしない。気のせい気のせい。



「君の部屋がこの上だったなんて知らなかったよ。危ないじゃん」


 悶々としているあたしに対し、クロさんはすっかり元の調子でそう言ってくる。

 待って…そんなに早く切り替えらんないから……心臓が…余韻が………


 まったく、本当にマイペースに人を振り回すんだから。

 わざとなのか天然なのかは、いまいちわかんないけど……


「あ、危ないって…何がですか?」

「男だよ。レンのこと気に入った客がこのこと知ったら、なにされるかわかんないじゃん」

「その心配はいりません。なんせ、さらに上の階にはヴァネッサさんが住んでますから」


 もし不法侵入でもしようものなら、ヴァネッサさんにとっつかまえてもらうのだ。

 やっと落ち着いてきたあたしが答えると、クロさんはそれでも納得のいかない表情で、


「でも、今日みたいにヴァネッサがいない日はどうすんのさ」

「そ、それは……たしかに」

「心配だなぁ。僕の専属ホステスが誰かに狙われるんじゃないかと思うと……あ、僕が一緒に住んで守ってあげようか」

「丁重にお断りします」


 きっぱりと言ってやる。

 今のところあなたが一番危険だっつーの。


 本当に……わからない人。

 あたしを待っていたかと思えば、そうじゃないし。

 押し倒してきたくせに、なんでもない顔するし。

 そのくせ、他の人に狙われるのを心配するし。

 ……一体、あたしをどうしたいというのだろう。


「んー。ヴァネッサにもっと部屋の防犯強化するように言わなきゃなぁ」


 なんて言いながら、先ほど落としたたばこを拾って灰皿に捨てると。

 彼はポケットに手を突っ込み、新しく取り出したもう一本を口にくわえる。

 そして、銀色のライターをカチッと鳴らし、火をつけた。

 少し風があるので手をかざしながら、うつむく彼の横顔に………

 どうしてだか、惹き込まれてしまう。

 こんな可愛らしい見た目をしているくせに。

 こういうふとした瞬間が、妙に大人っぽくって。


 その、伏し目がちな横顔に。

 さっき押し倒された時の、あの感覚を。

 また、思い出してしまう。


「………ふ。なにそれ」

「へっ?」


 急に彼にそう聞かれ、声が裏返る。


「………どうしたの?」


 そう言いながら、彼はたばこを持っていない方の手であたしの頬に優しく触れると、


「……ほっぺ。赤いよ?」

「………………っ」


 うそ。あたし、顔赤くなって………


「ち…ちが……お店の光が反射しているだけじゃないですか?!」

「なぁんだ、残念」


 とっさに思いついた言い訳に、クロさんはちっとも残念そうにない声でそう言う。

 うぅ……最悪だ……今日は、ていうか今日翻弄されてばかり……


「いいよね、赤い色って」

「は?」


 両頬を押さえ、顔を逸らしたあたしに。

 彼は突然、またなんの脈絡もないことを言い出す。


「赤い色は、生きている色だ。紅潮した頬の色。泣き腫らした目の色。それから……」


 す、っと。

 彼は、あたしの唇に人差し指を当てると、


「キスを求める、唇の色」

「なっ…」


 また顔を赤めるあたしに、フッと笑って、


「すごく、『生きている色』だ。だから僕は、赤い色が好き」


 ふぅー……と。

 彼は、たばこをゆっくりとふかしながら。

 笑う。

 優しい眼差しで、笑う。


「……………」



 ずるい。

 そんな風に言われたら、あたしなんか簡単に絆されてしまうのに。

 赤い色が…自分の色が、大嫌いなあたしだから。


 それをこの人は、知ってて言っているのだ。

 面白がっているのだ、あたしの反応を。

 そう、頭ではわかっているのに。

 

 いけない。このままでは。

 立場が逆になってしまう。

 あたしに会うためにお客さんが来てくれるはずなのに。


 ……あたしが、この人に。

 会いたくなってしまう。



「──冷えてきたね」

「……え?」

「風邪引くといけないから、今日はもう帰りな。僕ももう、帰るから」

「で、でも、ヴァネッサさんへの用事は……」

「明日でいいや。遅くなっちゃったし。それじゃあ」


 彼は立ち上がると、コートの両ポケットに手を入れて、


「また明日ね。レンちゃん」


 こちらに背を向けて、去ってゆく。






「────あの!」


 突然。

 そう叫んだあたしの声に、クロさんは驚いた顔をして振り返る。

 声が震えていた。けど、そんなの構わない。


「……あなたの言う通り。あたし、負けず嫌いなんです!だから……」


 すぅ…っと息を吸い込んで、


「あたしの色だから赤が好きなんだって、言ってもらえるようになりますから!!」


 自分でも驚くくらいに大きな声が出る。

 クロさんはぽかんとした顔で見ていたが、やがて、あははっと声を出して笑いながら、


「なにそれ。愛の告白?」

「んなっ」


 そう言われ、一気に顔が赤らむ。

 またやってしまった……なんでもっとこう、言葉を推敲してから口に出せないのかな、あたしは。


「ち、違います!ホステスとして、ちゃんとあたしに夢中にさせますから!という宣言です!!」

「あはは、ウケる」

「ウケるなぁぁああっ!!」


 クロさんはまた声を出して笑う。

 ああ……結局最後まで彼のペースだ。


「じゃあ明日からはさらにいじわるしちゃお。覚悟していてね」

「え」

「じゃあねレンちゃん、おやすみ。また明日ね」


 そう言うと彼は、背を向けて。

 闇夜に溶け込むように、去っていった。



「………おやすみ、なさい」


 何かを焦がすような、たばこの香りを残して───

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る