第16話逢引きノワール I


 ──その後。


 あたしたちは明け方まで語りつくして、結局ローザさんが帰ったのは朝日が昇る頃だった。

 また夜から仕事があるというのに、タフな人だとつくづく思う。

 当然、あたしが寝たのも朝方で。

 ゆっくりとお昼過ぎまで寝てから、起きる。

 今日はオフの日なのだ。

 家事を一通りこなしてから、久しぶりにショッピングへ出かけた。




 そして。


「──あ」


 あたしがそのことに気がついたのは、その日の夜。十一時を過ぎた頃だった。

 晩ご飯とお風呂を済ませてやることがなくなってしまい、少し買いすぎてしまったおニューの服を手当たり次第に試着していた時のこと。


「……………………」


 やばい。どうしよう…

 いくらお休みだからって、忘れてはならないことがあった。


『じゃあね、レンちゃん。また明日~♪』


 また明日。

 昨日、彼は確かにそう言った。

 しまった。

 今日、あたしが休みだってこと、伝えていない…

 当然、彼はあたしの出勤日のことなんか知らないだろう。

 どうしよう……今日、知らずに来ちゃった、よね……?


「…………」


 今日一日、彼のことをまったく思い出さなかったわけではない。

 昨日もいろいろ…あったのだ。思い出さないわけがない。

 ただ。

 ……思い出せば思い出すほど、なんだか変な気持ちになって。

 だから、考えるのを避けていた。そしたら……


「…………………っ」


 あたしは考えるより早く部屋を飛び出し、螺旋階段を駆け下りた。

 もう、いるはずないと思うけど……

 彼は昨日も一昨日も午後十時に来て、きっかり一時間後に帰って行った。

 おぼっちゃん(仮)だもの。お忍びで来ているのかもしれない。

 今はもう、十一時過ぎ。

 だからもう、いない可能性の方が大きいけど……

 でも…もし、いたら……


「…………………………」


 階段を下り、一階のお店の脇に降り立つ。

 窓から明かりが漏れている。楽しそうな談笑の声も。

 もしかしたら、まだ店内にいるかもしれない。

 そう思って、お店の入口に近づくと………



 ──ふわ。



 白いものが、視界をかすめた。

 煙だ。それが手招きするようにたなびいて。

 覚えのある匂いで、あたしをいざなう。


「──やぁ」


 そこに。

 店の前にある石造りの段差に腰掛けて。


「……く……クロ、さん……」


 彼が、いた。


「こんばんは。お店の外で会うのは、初めてだね」


 そう言って立ち上がった彼の笑顔に。


 なぜか少し、胸が高鳴る。

 まるで月夜の晩に、美しい黒猫に出会ってしまったかのような高鳴り。


 急に襲った得体の知れない感覚に戸惑いながらも、声を絞り出す。


「あ……えと…」

「ひどいじゃないか。僕、『また明日』って言ったのに。休みだなんてさぁ」

「ご、ごめんなさい……その…」

「別にいいけどー」


 と、子供のように口を尖らせる。


 あの……これってやっぱり、あれかな。

 あたしのこと……待っていたん、だよね?

 こんな時間だもん。いつもなら帰って当然なのに。

 ずぅっとここで、座って待っていたの…?

 来るかもわからない、あたしのことを……


「………あ、あのっ」

「ん?」

「ええと、その……」



 この時のあたしは、本当にどうかしていたんだ。

 焦っていたんだと思う。

 指名をしてくれた客を落胆させてしまったことに対する、「なんとかしなきゃ」っていう『焦り』。

 ……いや、『意地』と言ってもいいかもしれない。


 とにかく、待たせてしまった罪滅ぼしをしなくてはと焦ったあたしは。

 ごくっ、と喉を鳴らすと、


「……寒い中、待たせてしまってごめんなさい。お詫びと言ってはあれですが、その…」


 目をぎゅっと瞑って、意を決して。

 パッ、と顔を上げて言う。


「よ、よかったら、あたしの部屋に来ませんか?お酒はないけど、コーヒーくらいなら出せますし」

「……ええ?」


 驚いたように笑いながら、彼が言う。

 言ってからあたしも、自分自身の言葉に驚く。

 こんな、逢って間もないよくわからないヤツを部屋に招こうとしてるだなんて。どうかしている。

 でも単純に、それしか思いつかなかったのだ。

 今からでもあたしに、なにか出来ることがあるならと……


「…………ふふ」


 言葉に詰まっていると、クロさんは笑みを浮かべる。


「じゃあ、お言葉に甘えて……お邪魔しちゃおうかな。僕も男だし、君みたいな可愛い娘と二人っきりになったら………何するかわかんないけど」

「───ッ!?」


 い、今、あたしのこと、可愛いって……

 …………じゃなくて!!

 あの…それって、つまり……


「いや、その、決してそういう意味では……」

「どういう意味かは、受け取り手次第じゃない?そんなふうに誘われたら……少なくとも僕は、そう思うけど」

「あ、いや……うぅ…」


 どどど、どうしよう。

 本当にそんなつもりはなく、今できる中での最大限の謝罪表明がこれだったってだけで……


 ……やっぱり今のなし!!


 とか、無理だよね……?

 と、あたしが完全にパニックに陥っていると、


「……ていうか」


 彼はたばこの煙をふぅー…と吐いて。

 にやり、と笑う。


「待たせてしまって、って言うけど……ヴァネッサの代わりに、なんで君がわざわざそこまでしてくれるわけ?」


 ………ん?

 彼の表情と、意味不明な言葉の内容に。

 なんとなく、嫌な予感。


「それとも単純に、ヴァネッサを口実に僕を部屋に誘いたいだけなの?なかなか大胆なんだね、レンは」

「………………はい?」


 だからなんでここにヴァネッサさんの名前が…………

 ……………まさか。


「あのー………クロさんがここにいたのって……」


 ──くすっ。


「僕はヴァネッサに用があって、ここで待っているんだよ。それなのに君が、急に僕を部屋に入れてくれるって言うから…大胆だなぁって」

「……………」


  ……やってしまったのか。


「………あ、それともまさか」


 ぷぷっ。

 と、彼は吹き出すのを堪えるように口元を押さえ、


「僕が、君のことを待っていたんだと勘違いしたの?あはは。ないない。君が今日休みなのにはちょっと腹が立ったけど、だからってこんな夜中までわざわざ君を待ったりしないよ」


 や……

 やっぱりぃぃいい!!

 まただ…また彼にハメられ……

 ……いや、違う。今回は…

 完全に、あたしの自爆だ……

 あたしったら、勢い余って……なんてこと言って……


「ぅ…うぁぁぁああっ!!」


 猛烈な恥ずかしさが込み上げてきて、あたしは彼に背を向け頭を抱えた。

 最悪……なんて恥ずかしい真似を…自意識過剰過ぎ…

 しかし彼はさらに追い打ちをかけるかのように、


「あれあれー?ひょっとして図星だったの?」

「いやぁぁああっ!やめてぇぇぇ!!」


 死ぬ!恥ずかし過ぎて死ぬ!!

 にやにやしながら発せられるクロさんのいじわるな声に、耳を塞ぎ頭を振る。


「はーおかしい。君って本当に面白いよ。きっと真面目で、責任感が強くて、負けず嫌いなんだね。それから……」


 そこで言葉が途切れたので。

 背を向けてしゃがんでいたあたしは、ちらりとそちらを見る。

 と、


「………ちょっと、警戒心なさすぎ」


 そう言って、あたしのすぐ横に自身もしゃがみ込んで。

 クロさんは低い声音で、言い聞かせるように言った。


「君、僕以外の男にあんなこと絶対言っちゃだめだよ?深く考えないで言っているんだろうけど」

「へ?」

「軽々しく男を部屋に誘うなってこと。君は男にもっと警戒心を持つべきだ。純粋なのと馬鹿なのは、違うんだからね」

「…………」


 言っていることはもっともだが…

 だって、思いっきり勘違いしちゃってたんだもん!!

 ……とは言えずに、その距離感がなんだか恥ずかしくて、黙り込んでしまう。

 ──すると、


「返事は?」

「……………」

「そう。わからないなら──」

「…………あっ」


 いきなりドンっと押され、彼がさっきまで座っていた石段に倒された。


 背中に、ひんやりとした石の感触。

 そして………たばこをぽいっと放り投げて。

 あたしの上に、跨るクロさん。

 目の前には、あの黒ぶちメガネ越しの、漆黒の瞳……



 な、な、な……

 なに?!なにこの急展開!!


 あたし………人生で初めて…

 押し倒されてる!!!



 ど……どうなっちゃうの……?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る