第14話猫に睨まれたうさぎ II
「……あなた、何者なんですか?」
「んー?」
その顔に激しく似合わないたばこを、今日もぷかぷかとふかすクロさんに。
あたしは、語気を強めて聞いてみた。
「ひみつー」
「……なんでですか」
「そのほうがおもしろいから」
「……おもしろいとか、そういう問題じゃないですよ。さっきの魔法の使い方、あれは……」
「だって、君」
彼は急に身を乗り出して、あたしの言葉を遮る。
それからニッと笑って、
「──よくわからないものほど、魅力的なものはないと思わないかい?」
「……?」
なに言ってんだ?こいつ。
首を
「君、昨日あれだけ嫌な思いしたのに、僕の指名を断らなかったね。それどころか『何者なんだろう』って、興味を持っている。僕が、君にとって不快で、よくわからない存在だからだ。嫌いな人ほど気になってしまうもんでしょう?人間は『嫌い』という不可解な感情の理由を、追及したくなってしまうからね」
そう、言われて。
「…………」
いや、仕事だからだよ!この自惚れ野郎が!!!
と、真っ先に思ったのだが。
その通りな部分も……正直あった。悔しいことに。
なんだこいつ……ますます嫌なやつ!変に的を射たふうに言いやがって!
「……そうですね、嫌いです。はっきり言って、ムカつきます」
言ってやった。こうなったら客もホステスも関係ねぇ。
「見てくださいよ、この目!昨日、あなたにされたことに腹が立って腹が立って……眠れなかったんですから!おかげで、ただでさえ赤い目がさらに真っ赤になっちゃって……」
接客モードのリミッターを完全に解除して、前のめりで訴える。
今さら取り繕ったってもう遅い。これで向こう二ヶ月分の指名縛りがフイになるのなら、願ったりかなったりじゃ!!
……などと、思っていたのだが。
「そうなの?どれどれ……あぁ、本当に真っ赤だ。可哀想に」
あたしの意に反して。
彼は心配そうに顔をさらに近付けてきて、あたしの顎を指で持ち上げると。
真っ直ぐに、両の瞳を覗き込んでくる。
あ……あれ?てっきり逆ギレしてくるモンだと予想していたのに……
「……痛くない?大丈夫?」
「え……ぁ…その……」
これ以上ないくらいに優しく、色っぽい声音で囁かれ、目が泳ぐ。
「……もっとよく、見せてごらん?」
み、見た目お子様なくせに……
どっから出てんだその色気!しまえ!!
ていうか、いちいち近いから!!
こんな、唇が触れそうな距離で異性と見つめあったことなんてないから。
心臓が、うるさいくらいに暴れている。
目の前にある、黒曜石のような瞳。
少しだけ藍色を帯びたようなその色は、見れば見るほど吸い込まれそうで……
やばい、なんかあたし……
あたし、このまま……
と、無意識に瞼を閉じかける……
………………が。
「まぁ、謝んないけどね」
「………は?」
「え、謝んないよ僕。そっちが勝手に眠れなくなっただけでしょ?」
「……………………」
……あたしは、自分を恥じた。
この変わり者相手に、なにを……なにをぽ〜っとしているのだろう。
……いや、ぽ〜っとなんかしていないから!!
クロさんからバッと離れ、少し距離を取ってから、
「べ、別に謝ってほしかったわけじゃありませんし!」
「ふふ。じゃあ昨晩はずぅっと、僕のこと考えていてくれたんだ」
「そっ、そういう言い方しないでくれます?!」
「嬉しいなぁ。眠れなくなるほど僕のこと想っていてくれただなんて」
「だぁから、そういう意味じゃなくて!」
思わず声を張り上げる。顔が熱い。
そんなあたしを見て、彼はますます笑う。
それから、
「……いいじゃん、それ」
吸っていたたばこを灰皿に押し付けると、すぐにもう一本を取り出して口に咥え。
昨日と同じように、銀色のライターをあたしに差し出して。
火を点けろと、無言で催促してくる。
「…………」
いちいちマイペースな人だな、まったく。
黙って点けてやると、ゆっくりと吸い込んでから……
天井に向かって、煙を吐く。
そして、あたしの頬をそっと、手の甲で撫でると……
ふわっと、笑った。
「可愛いよ、赤い目。うさぎさんみたいで」
ずきゅーん。
………あれ、なに今の。なんか刺さったんですけど。
……いや、ないないない。気のせい気のせい。
「そそそ、そんなこと言って機嫌取ろうったって、そうはいきませんよ」
「機嫌取りねぇ。ま、そう思いたければ思えば?」
「ぐぅ……」
なんなのもう……完全にこの人のペースじゃないか。
弱いのだ。コンプレックスである、赤い髪や眼の色を褒められると。
簡単に、心を許してしまいそうになる。
「……なんで」
「?」
ぼそっと呟くあたしを、クロさんは不思議そうな目で見てくる。
「なんで、あたしなんですか?なんであたしに、構うんですか?」
つい、本音がこぼれた。
こんなこと、指名してもらう立場の人間が言うことじゃない。それはわかっている。
けど、この状況はどう考えたっておかしい。
だって色酒場って、お酒と、女の子とのおしゃべりを楽しむ場所でしょ?
なのに、なにコレ。どんな楽しみ方?平手打ち食らった嬢のところに、普通また来る?
「だから、言ったじゃない」
ふぅー、とたばこの煙を顔に吹きかけられて。
「最初はなんとなく指名しただけだったけど……君、おもしろいんだもん。気に入っちゃったの。こんな理由じゃ、だめ?」
そう、真っ直ぐにこちらを見て言う。
……それに、不覚にも少し嬉しくなってしまう自分がいて。
ってだから、だめだめ!簡単に絆されちゃ!!
「き、気に入っていただけるのはありがたいですけど……昨日あなた、あたしにほっぺた叩かれたんですよ?そんな女を、なんで二ヶ月も先約指名するんですか?」
「はぁ。じゃあ、教えてあげよっか?」
ため息をついてから、そう言うと。
距離を取っていたあたしに、ジリジリと
つぅ…と、左の頬を、指で撫でてくる。
そして囁くように。
「……十倍返し、するため♡」
「………………」
彼は、言った。
「女の子に殴られるのなんて初めてだったよ。あーあ、けっこう痛かったなーぁ」
「………………」
「暴力はいけないよねー暴力は。非合理的だ。相手を黙らせたい時は……」
ずいっ、と。
また、あたしの瞳を覗き込んでくるその目は。
……氷のように、冷たくて。
「僕なら、精神的に追い込むね。周りから徐々に固めて、身動きを封じて……逃げ場がなくなったところを、叩く」
はわ…はわわわわ…
やっぱり怒っていたんだ、平手打ちしたこと……
それで徹底的に仕返しするために、あたしのところへ……
彼の低い声に、鋭い瞳に。
あたしは恐怖を感じ、身体を硬直させる。
ヘビに睨まれたカエルの気持ちが、今ならよくわかる。
「君の場合は…この店での居場所と、立場かな?働けなくなったら困るでしょ?ヴァネッサに迷惑、かけられないでしょ?僕はヴァネッサと長い付き合いがあるから……いくらでも、やりようがあるよ」
「………………」
「……言っておいたほうがいいんじゃないかなぁ。僕に……」
ニタッ。
その可愛らしい顔で、悪魔のように笑って。
「『ごめんなさい』って」
あ……あわわわわ………
あたしは、ガチガチに固まった身体を震わせた。
そそそそうじゃん…あたし、ここを追い出されたら、行くところないんだ……
やばい。敵に回してはいけない人に、噛み付いてしまった。
どどどど、どうしよう……
「………ご」
「ご?」
言いかけた言葉の続きを探るように、クロさんが小首を傾げる。
あたしは、悔しさと恐怖で目に涙を溜めながら。
「………ご…ごめんな…さ……」
震える唇で、謝罪の言葉を……
………言い切る前に。
「………ぷっ」
「ぷ?」
目の前の悪魔が、急に吹き出したかと思うと。
声を上げて、笑い出した。
「あはは。君ってほんと、いい反応してくれるよね。おかしくってとうとう笑っちゃったよ」
なっ……
こいつ、あたしを……
からかっていやがった…!!
「僕に謝らせるどころか、結局君が謝っちゃってんじゃん。今の顔、最高だったよ。あーおかしい」
「ぅ……笑うなぁぁああっ!!」
ぐぎぃぃいい悔しい!!
ほんと最低!鬼!悪魔!!
歯軋りをしながら悔しがるあたしを見て、クロさんはさらに笑ってから、
「ははは。でも」
ぽん、と。
あたしの頭に、手を置いたかと思えば。
「昨日のは、アレで正解だよ。僕が君を怒らせるようなこと、言ったんだから」
などと、優しい声で言ってくる。
……な………
じゃあ、あれもわざと…?
「あんな言い方されて、怒らないほうが心配だよ。正しい反応だ」
なんて、他人事のように言って……
わからない。
どれが本当の、この人?
突き離したり、優しくしたり。
怖い顔したかと思えば。
今みたいに、いたずらっ子の少年のように…
かわいい顔して、笑って……
…いや、いやいやいや。今のナシ。
見た目に騙されるな。中身は悪魔なのだから。
……でも。
この人も、こんな風に笑うのだと、正直驚いた。
声を出して、屈託のない笑顔を浮かべて。
もしかすると彼も、戦争で辛い経験をしてきたのかもしれない。
複雑な生い立ちをしてきたのかもしれない。
だから、こんな歪んだ性格になってしまったのかも……?
彼が語ってくれない以上、本当のところはわからないが。
声を出して笑っている彼は、とてもじゃないけど。
悪い人には、見えなくて。
「……わかりました、クロさん」
急にあらたまって言うあたしに、彼は少し驚いた様子で、こちらを見た。
……この人が何者なのかはわからない。
ましてや、どんな過去があるのかも知らない。
けど。あたしは思ってしまったのだ。
指名されたホステスとして、この人が腹の底から笑っている顔を。
もっと見てみたい。笑わせたいって。
だから、
「──あなたの言う通り、他の人の指名は受けません。あたしは」
この人を笑顔にする力があるのなら、あたしは、
「この二ヶ月間、あなただけのものになります」
あなたの要求に、あえて乗ってやろう。
隊長が、あの隊のみんなが、あたしを変えてくれたように。
今度は、あたしが……この人に、本当の笑顔を…
それを聞くと、クロさんはニヤリと笑って、
「……どういう風の吹き回し?あんなに僕のこと、嫌っていたじゃない」
「あなたのその屈折した性格を、直してやろうと思いまして」
「…ふぅーん」
「ただし、毎日二十二時から一時間だけです。その時間だけは、クロさんのために予約を空けておきます」
「えぇー」
当たり前だろう。いつ来るかわかりもしない人のために、一日中体を空けておくわけにはいかない。
「……まぁいいや、それでも。じゃあ、こうしよう」
彼は妖しげに微笑むと、また顔をぐっと近付けて、
「お互いが望む形へ、相手を変えられるか勝負。期限は二ヶ月間。それまでに……レン。君をもっと、従順なコに変えてあげるよ」
「……そんなことにはなりません」
「ほんと~?さっき顔近付けた時、うっとりとした顔してたじゃん」
「なっ!……なに言ってるんですか、気のせいですよ」
「………されるかと思ったんでしょ?キス」
「ちっ!!違います!!!」
「違くないよ。なんなら──」
再び、あたしの顎に手をかけると……
「──試してみる?嫌なら……逃げてもいいよ」
「……………」
再び目の前に現れる、あの黒い瞳。
それはやはり、吸い込まれそうなほど魅力的で……
「……………………」
あと少しで。
あと少しで、唇が………
「……………………………っ」
「……ぷっ。はい、君の負けー。じゃあね、レンちゃん。また明日~♪」
あたしが、きゅっと瞼を閉じてしまった途端。
とんでもない切り替えの早さで。
まだ少し、余韻に浸ってしまっているあたしを残して。
彼は、軽い足取りで店を出て行った──
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