第3章

第13話猫に睨まれたうさぎ I


 ……翌日。



「……………」

「れ、レンちゃん、大丈夫…?」


 隣に座るジェイドさんが、心配そうに尋ねてくる。

 しかし、すぐには反応できなかった。

 なんせほとんど、寝ていないから。



 眠れなかった、と言った方が正しいか。

 昨日のあの客──クロさんのせいで。


 だって、あんなことがあったのだ。ぐっすり眠れるほうがおかしい。

 思い出すだけで、いらいらと、もやもやと、それから……

 得体の知れない、ゾクゾクした感覚に襲われてしてしまって……


 おかげで、目は真っ赤。

 ローザさんには「なにその目、怖ッ」と笑われる始末……

 いや、もとはと言えばあなたの尻拭いをしたせいだから!

 と言ってやる気力もない。


 ナメていた……慣れてきて、完全に調子に乗っていた。

 ああいう、変わったお客さんもいるってこと。

 接客とはなんたるかを思い知らされた。

 あそこで感情的になってしまったのも、よくなかったな。



「すみません、ジェイドさん。実は昨日、あまり眠れなかったもので……」

「え?なにかあったのかい?俺でよかったら、相談に乗るけど…」

「大丈夫です。疲れているはずなのになんだか眠れない時って、ありませんか?」

「あぁ、わかるよ。疲れ過ぎると逆に寝れないことあるよね。俺もさぁ…」


 と、顔の傷をさすりながら勝手に喋り出すジェイドさん。


 そう。これだ。

 うまいこと、相手が気持ちよく話せる話題へと持っていく。

 これがなぜ、昨日はできなかったんだろう…

 やはり相手が、あの人だったから?

 そう考えると、やっぱりジェイドさんは優しいなぁ。同じお客さんでも、どうしてこうも違うんだろうか?


 ……なんて、考えていると。



 ──カランコロン。



 時刻は午後十時。

 店に響く、来客を知らせるベルの音。


 ……嫌な予感。

 そして、


「こんばんは」


 その予感は、見事的中した。

 あたしの、睡眠不足の元凶……

 クロさんである。

 彼は機嫌良さそうに店の入り口に立っている。見たところ、頬の腫れは引いたようだ。

 ていうか…本当に今日も来やがった……


「いらっしゃい、クロちゃん。ごめんなさいね、レンは今別のお客さんのお相手してるから、ちょっと待っててくれる?」


 代わりに他のコ用意するからー、とヴァネッサさんが応対する。

 しかし彼は、


「あぁ、いいよ。直接話つけてくるから」


 と、意味不明なこと言い、ヴァネッサさんをスルーして……

 一直線に、こちらへ向かってきた。


「やぁ、レンちゃん」


 この人…こっちはジェイドさんと一緒だというのに、お構いなしに話しかけてきやがった。


「あ、あの……」

「なんだよ君。まだ時間じゃないはずだぞ。今は俺がレンちゃんと……」


 あたしよりも先に、ジェイドさんが抗議の声を上げる。うん、正論だ。

 しかしクロさんは怯むどころか、「はぁぁ」とため息をつくと、


「ダメだね。ルール追加だ」


 肩をすくめて、首を横に振った。


「おい。さっきから何わけのわからないことを……」


 今にも掴みかかりそうな勢いでジェイドさんが立ち上がる。

 あたしは慌てて彼の服の裾を掴み、


「ジェイドさん待って。今、ヴァネッサさんを呼んでくるから…」

「その必要はないよ」


 頭二個分は大きい男性に睨まれてもなお、余裕の表情を浮かべて、クロさんが言う。


「こいつもう、帰るみたいだから」


 にやりと笑うクロさんに、


「あぁ?てめぇいいかげんに……」


 堪え切れずに胸ぐらを掴むジェイドさん。



 ──くすっ。



 あ……あの笑みだ。

 クロさんはまた、あの妖しい笑みを浮かべて……


 そして。

 あたしは、見ていた。

 ジェイドさんには見えないように、彼が……

 魔法を発動するための、『署名』をしているのを…… 

 そして、


「さぁ……お帰り」


 彼はその『署名』をした方の手で、ジェイドさんの頬に触れると……



「──闇ノ中ヘ」




 刹那。


 ドクンっ。


 ジェイドさんの身体が、大きく脈を打った。



「あ……なんだこれは…急に、辺りが暗く……」


 そして虚ろな表情をして、手で周囲を探るように歩き出す。

 まるで、突然失明したかのように。


 一体、彼になにが……


「あぁ…明かりが見える……こっちか…」


 焦点の合わない瞳で、ジェイドさんはなにかを見つけたように、店の入り口のほうへふらふらと向かい…

 自分からドアを開けて、店を出て行ってしまった。


 …こ…これは………


「彼に、何をしたの?」


 ごくっと唾を呑みこんでから、あたしはクロさんにそう尋ねる。

 すると彼はなんでもないような表情を浮かべて、


「見てたでしょ?魔法だよ。ちょっと視覚をいじってやったの」

「なっ……」


 そんなことって……じゃあ、ジェイドさんの目は…

 あたしの考えを察したのか、クロさんは手を左右に振って、


「あぁ、一時的なものだよ?しばらくしたら普通に見えるようになるから」


 そう言って、悪びれる様子もなく微笑む。

 この人……本当に、何者なんだ…?


 あたしは知っている。

 あの魔法の発動の仕方…あれは、訓練されたものだ。

 隊長や、あの隊のみんなみたいに…ちゃんとした使い方を知る者の……


「そんなことより」


 あたしの考えをよそに、彼はずいっとあたしに近づいて、


「今後、僕以外の男の指名を受けるの、禁止」


 と、耳を疑うようなことを言ってのけた。

 ……はぁ?


「な、なんの権限があって、そんなこと……それじゃあお仕事にならないんですけど!」


 そう言ってやる。

 実際、指名の先払いをされただけで、そこまでしてやる義理はないのだ。

 あたしの強気な態度に、しかしクロさんは「ふーん」とつぶやいて、


「……まぁいいや。そうなるようにすればいいんだし」

「はい?」

「んーん、なんでも」


 そのまま、ばふっ、と席に座ると、


「とりあえずオーダーよろしく。昨日と同じので」


 偉そうにふんぞりかえって言う。



 ……はぁ。


 ごめんねジェイドさん。どうかお大事にしてください。



 そう心の中で呟いて、あたしは仕方なく彼の隣に座った。

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