第8話 嵐の前の
☆
ウメとユリナの関係は、以前より良くなった。
血の繋がった親子にそんなことを言うのはあれだけど、と大和は思うが、本当に良くなったのだ。
あのウメ失踪事件で、ユリナは母と父の思いを知り、気持ちを入れ替えて、今は甲斐甲斐しくウメの世話をしている。
ウメは、あの日以来まともに話すこともできなくなってしまった。ユリナにも大和にも、ニコニコした笑顔を向け、聞かれた事に答えるだけだった。
あの日見つけた箱の中。そこにはもう一つ、ユリナに向けた手紙が入っていた。
古びて所々読めなくなっていたのだが、そこにはあの日ウメが語ったのと同じ事が書かれていた。違ったのは、ユリナを育てながらのウメの苦悩や葛藤、未来への希望が書かれていたことだった。いつかこの麦わら帽子と手紙を渡せる時がくるのだろうか、とも。
「それでね、これも入っていたのよ。笑えるでしょう?」
ウメの家で、ユリナと午後のティータイム。ウメはイスに座って、鼻歌を歌っている。
手紙の事を話してくれたユリナが、そう言って渡してきたのは、とても精巧に描かれた、一枚の絵。
「これ、若い時のウメさんですか?」
絵は、ウメだとわかる女性が大きなお腹を抱えているところが描かれている。ということは、この隣の男性は、と考えたところで、ユリナがクスクス笑い声を上げた。
「そっちは父よ。母の手紙にね、お父さんのお友達が綺麗に書いてくれた、宝物よって書いてあって。裏を見たら、ほら」
ユリナが絵を裏向けて差し出す。
「これを描いたのはドグよ!あのおじいさん、絵が上手かったのね」
心底おかしい、というふうに、ユリナが肩を震わせて笑う。大和もクスクス笑った。
「意外です」
「でしょ?」
大和とユリナは、目を見合わせてから、また笑い出した。
つられたのか、ウメまでもが楽しげに笑い出すのだった。
☆
「それで、あんたはなにがしたいの?」
ライラックの家で、大和はその辺にあったた本を拾い、適当にページをめくった。もう一冊拾う。雑多な室内には、栗拾いではなく本拾いができそうなほど、本が散らばっている。どれも中はたいして変わらなかった。
「俺さ、もっとこの世界のこと知って、いろんな人を助けたいんだ」
「ほうほう、なるほど。だからそんなの読んでるのか」
「本っていうのは、その時の時代や世相が出るものなんだ。だから、本を読むと色々わかる。はずだ……で、これなんの本?」
ライラックがブフッと吹き出した。腹を抱えて笑いを堪える。大和は至って真剣だから、なんだよ?と眉間にしわを寄せた。
「あんた、字も読めないのか?」
「読めない。なんなんだ、このロシア語みたいな字は……」
「ろしあ?」
目尻に涙を溜めながら、ライラックが聞き返す。
「俺のいた世界の国の名前だよ。ロシア!」
「はあ、またか。僕も大概変人だけどさ、ヤマトも変だよね。そうやって作り話しちゃってさ。まあ、楽しいからいいけど」
「おい!作り話じゃないんだって!俺は、一回死んで、ここに来たんだ!」
真剣な大和を、ライラックはまた肩を震わせて笑う。
この4ヶ月の間に、大和とライラックはかなり打ち解けた。暇があればこうして、ライラックの森の家に足を延ばす、という事が増えた。
ある時大和がポロリとこぼした言葉に、好奇心が具現化したようなライラックが食いつき、その流れで大和は、自分が異世界からやってきた、かもしれない話を打ち明けたのだが……
「現実的に考えて、そんな事あるか?」
「あったから俺は今ここにいるんだって!」
薬師であり科学者のライラックは、大和の話を作り話だと言って笑うのだ。非科学的で現実味が無い、荒唐無稽だ。これがライラックの口癖だ。大和からすると、医療に魔法が使われている方が非科学的なのだが。
「んで、そんなヤマトは、字が読めないって?」
からかうようにライラックは言う。悔しい大和は、だけど強がったところで読めないものは読めないので、正直に口を開く。
「そう、だから、俺に字を教えてくれ、頼む」
「僕が?」
「お前しかいないんだ、頼むよ」
字が読めない事に気付いたのは、カーシャの家に住み始めてから一週間過ぎたあたりだった。
カーシャの息子、ヤナが、
「お兄ちゃん、上手に書けたでしょ?」
と言って見せてくれた紙に、ロシア語、と言っても大和はロシア語がわからないので、似ているという意味でだが、そんな感じの多分文字が、でかでかと羅列されていた。
「あ、ああ、うん。上手だね。練習してるのか?」
何が書いてあるんだ?とは、失礼だと思って聞かない。
「そ、これがね、ぼくの名前。こっちがお姉ちゃん、これはお母さん。あと、それがお兄ちゃん!」
ニッパァと、可愛らしい顔に満面の笑みを浮かべるヤナ。
対する大和は、え?これがもしかして字なのか?という思いを、必死に押し隠す……という苦い経験からだった。
それから今まで、なんとかやり過ごしてきたわけだが、正直限界に近い。
「ライラック、頼む。お礼はするから、な?」
食い下がり続ける大和に、嫌々ながらライラックが頷いた。
「仕方ないなぁ、わかったよ」
「助かる!」
思わずガッツポーズを取る。ライラックがため息をついた、
「言っておくけど、僕は優しくないからね」
「大丈夫だ、罵られるのは慣れてる」
それは例えば、実習の際の指導者だったり、大学の先生だったりの思い出だったのだが、ライラックは何を想像したのか顔を歪めた。
「ヤマトってそういう趣味があったの?」
「はあ?」
と聞き返し、理解する。
「ちがっ、俺は別にドMなわけではなくてな!!」
慌てて否定の言葉を口にし、それがまたライラックの好奇心を刺激する結果となる。
「どえむ?なにそれ?」
「え?だから、それは、その……」
ニヤニヤ笑うライラックがまるで悪魔の様に見える。一般的に整っていると言える、中性的な顔はまさに天使の様な悪魔だ。
「言えない様な事?だったら僕は、どえむはヤマトの事だって理解するけど」
「なんでだよ!?ドMっていうのは、俺がいた世界の言葉で、」
「その設定好きだねぇ」
「設定じゃなくて本当の話なんだって!」
「ふーん。それでその世界で、ヤマトはどえむだったわけだ」
「違うッ、断じて違うから!!」
こうして大和は、どんどんドツボにハマっていくのだった。
☆
次の日はかなり暑かった。いつのまにか初夏というより、夏!という気温になる日が多くなっている。
最近雨降ってないなあ、と診療所の窓を何気なく見やる大和。その横では、ジーンとナナが汗を流しながら戦闘中であった。
何と戦っているか、と言うと、もちろん自分とだ。なんて哲学的な話ではなく、白いシーツカバーと、だ。
「ナナ!こったの端がそっちだ!」
「こっち?そっち?あああの、わたしから見てこっち?ジーンから見てそっち?」
「うるせぇ!こっちつったらこっち、そっちっつったらそっちだって!」
「あれ、あれ?あれ?」
大和はうんざりしたように、弱々しく首を左右に振る。何か新しい事を教えてくれと言う二人に、そういえばと始めたシーツ交換。
これがなかなかに面倒だった。大学の先生たちに、同情すら覚える。
「もー、二人ともいつまでやってんだよ。ジーンの左手に輪が来るようにって言っただろ?」
あ!と言う顔で、二人は言われたように持ち直す。それからはなんとか畳むことができた。
「シーツに畳み方があったなんて……」
「クソ、これは間違いなく難敵だ」
ゼエハアと額の汗を拭う二人。畳み終えたシーツを、大和が確認して、頷いた。
「完璧。看護って医者の補助だけが仕事じゃないからな。一番は患者の安心、安全、安楽を守ることだ。だからシーツ交換だって大事だし、ナメてると落ちる」
落ちる、という言葉に、二人は一瞬眉根を寄せたが、まあいいやと思ったようで、すぐにもとの真剣な表情に戻る。
ので、一応説明すると、大和にとって看護学生として最初の試練は、間違いなくシーツ交換だった。実技試験は惨敗。再試でやっと及第点。
だけど、実習中にシーツ交換の大切さを実感した。
「シーツ交換がうまくできてないとな、患者、とくに、皮膚の弱い高齢者なんかは、すぐに褥瘡ができるんだ」
「ジョクソウ?」
ジーンとナナは同時にキョトンと首を傾げた。
「床擦れだよ!」
「ああ、わかった!」
「でもなんで?」
ナナがまた、今度は反対側に首を傾げる。
「なんでって、シーツにシワがあると、そこに触れる皮膚表面を圧迫して、血流が滞るんだ。だから、皮膚が壊死する。それが褥瘡。俺らみたいにゴロゴロ寝返りしたりできると大丈夫なんだけど、自由に動けない患者だと、すぐにシワの影響が出る」
「へぇ」
二人が納得したかどうかはさて置き。
「はい、じゃあ次、敷いてみて」
「わかった!」
「うん!」
それからしばらく、ワタワタと覚束ない動作でベッドに縋り付いている二人を見つめ、とうとう我慢できなくなった大和は、ここ持って!三角に始末するだって!ああもう、シワが!と言いながら手を出し、なんとか綺麗に敷くことが出来た。
「これ、基本だからな!ちゃんと練習して、出来るようになってくれよ」
「「わ、わかりました!」」
ビシッと姿勢を正す二人に、大和は苦笑いを浮かべる。
と、診察室からセラが顔を出した。ポニーテールの赤い髪が背中から流れる。
「お前らうるさいよ。ヤマト、これからパメラの様子を見てきてくれ」
セラが真剣な表情で言う。
「パメラさん?」
「ああ、予定日を過ぎてるからな。心配だ」
大和は思わずギョッとした顔で聞き返す。
「セラさんが、心配だって……!」
「んだよ、わたしだって心配くらいするさ」
フン、と鼻を鳴らしてセラはさっさと診察室に引っ込んでしまった。
だったら自分でいけばいいじゃない。大和はそう思う。だけど、口に出しても良いことはない。
「ってわけだから、俺、行ってくるよ」
ちゃんと練習しておくように、と言うとジーンとナナがせかせかと動き出した。肩越しに見やり、また畳む方向で揉め出した二人に、気付かれないように溜息を吐き出す。
要するに、診療所は今日もヒマだった。
こういう何気ない日々の後には、必ず何かが起きるのだ。
こっちの世界も、あっちの世界も、そういうものなのだ。
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