第7話 続 母の手紙と麦わら帽子


 翌朝、大和はウメの家を訪ねた。


 ちょうどウメの娘が外に出てきたところで、大和の顔を見て、胡散臭げな顔をした。


「おはようございます」

「……なに、なにか用でも?」


 え、と大和の顔が引き攣る。このアスラ村に住みはじめて、こういったあからさまな警戒心を向けられるのは初めてだった。しかも、以前診療所で話をした時は、人好きのする明るい女性という印象だったからなおさらだ。


「あの、ウメさんと話がしたくて」

「ああそう。好きにすれば」


 呆然とする大和を一瞥して、ウメの娘であるユリナは横をすり抜けて行く。


 なんなんだ?と考えながら、大和は扉をノックする。


「あれ?」


 返事はない。どうしたんだ?と、悪いと思いながら扉を開け、中に入る。


「ウメさん?……え」


 この集落の大概の家が同じ作りなのだが、入ってすぐのテーブル、その前の椅子に腰かけたウメは、シクシクと涙を流していた。


「どうしたんですか!?」


 声をかける。一瞬ビクリと肩を震わせたウメは、大和の顔を見ると、またシクシクと顔を覆った。


「あの女の人、どうしてわたしの家にいるのよ?わたしの物とりにきたんじゃないかい?ほら、昨日までそこにあったんだよ。だけどあの女の人が、どこかにやってしまったんだ」


 大和には、ウメの言っている意味がわからなかった。ウメは娘であるユリナを、忘れてしまっているのだ。


 認知症には様々な症状がある。脳の病変から生じる中核症状と、環境やその人の性格などによる周辺症状だ。記憶障害や妄想など、認知機能に様々な障害を起こしてしまう。それらは周囲の人との関係を壊してしまうこともある。


 さっきのユリナの態度も、変わってしまった母親に戸惑っているためだろうか。


 認知症は、進行を遅らせることは出来ても、止めることはできない。


「ウメさん、大丈夫ですよ」


 大和はそう言って、優しく背中をさする事しかできなくて。


 もどかしかった。なんとかしたいが、どうしていいのかわからない。


 そこにユリナが、食材の入ったバスケットを持って戻ってきた。


「あ、おかえりなさい。お邪魔してます……」


 さっきのつっけんどんな態度を思い出し、尻窄みになる大和。ここが大和がビビリと言われる所以だ。


「はあ。いいわよ、別に邪魔じゃないわ。でも、あまり母に関わらない方がいい。おかしくなっちゃってるから」


 ユリナは疲れたような表情でそう言うと、食材を保管している棚へ向かう。


「ウメさんはおかしくなってるわけではないですよ」

「え?」


 ユリナが手を止めて大和の方に興味を抱いた。疲れた顔に、希望が見えた、気がした。


「ウメさんは、んー、なんて言えばいいか……」


 少し悩む。この世界に認知症という言葉はあるのだろうか?そもそも認知症は病名ではない。さらに、大和は医者ではないから、決めつけることもできない。


「歳を取ると、物忘れが激しくなったり、今何をしているかわからなくなること、あると思います。ウメさんはそういう混乱の中にいて、おかしくなったわけじゃないんですよ」


 精一杯だ、と大和は思った。もっと勉強しておけば良かった、とも。


「治るの?」

「……それは」

「治らないなら意味ないわ。お母さん、もう長くないのはわかる。まったく、最期までこんな面倒なことになって。わたしがどれだけ大変だったかなんて、考えたこともないんでしょ」


 大和は驚いて声が出なかった。仲良し親子だと思っていた。でも、違ったようだ。


「あなたは知らないでしょうけど、わたしには祖父母も父もいないのよ。この人がそうしたの。ひどい母だったの。だから最期くらい、迷惑かけないで欲しいわ」


 ふう、と、溜め込んでいた物を吐き出すようにユリナは言った。


「わたしも母と同じ、酷い人間ね。ほら、話は終わりよ。帰ってくれる?」

「え、ちょ、」

「いいから、もう放っておいて」


 そう強く言われると、大和には言い返す言葉もなかった。追い立てられるように家を出る。


 閉まる扉の隙間から、ウメの悲しげな泣き声が聞こえていた。








 ☆

「ヤマト!」


 診療所までの道を、沈んだ気分で歩く大和に声をかけてきたのは、セラの助手見習いのジーンだ。ジーンはドグに肩を貸していて、診療所へ向かう途中のようだった。


「おう、ヤマト!お前元気ねぇな、どうした?」


 ドグは、シワの多い丸い顔を歪めて、心配げに言う。ドグと初めてあったときは、拗らせた風邪のせいでわからなかったが、彼は元来陽気な人物だ。元気になると真っ先に診療所を訪れ、大和に散々お礼を言った。さらに、スプーン二杯の米に殺されるところだった、としっかり笑いを取っていた。


「ウメさんのことなんですけど……」


 と、大和は口を開く。すると、


「おい、あのばあさんもうダメになっちまったか?」


 ドグは、ああなるほど、というふうに言った。大和は少し驚く。


「知ってたんですか?」

「まあな、この歳になりゃあ物忘れだってそりゃあ沢山するけどな、ウメのばばあは、少し前から酷くなっててよ。おれらはガキの頃から知ってるから、まあ、もう寿命かと思ってな」


 全然知らなかった。大和はこの4ヶ月で、かなり馴染んできたと思っていた。いや、正確には、これは大和だけのせいではない。ここの住人に、知識が足りないからだ。セラの言うように、ケガをしたくらいでは医者に見せないし、お腹が痛いのは自分のせいだと考えているのだ。最近なにかおかしいな、と思っても、じゃあ診療所へ、とはならない。


 だけど、やはり気付けなかった自分が悔しかった。


「ウメの娘も大変だなあ」


 ドグがしわくちゃの顔に、さらにシワを増やして呟いた。


「さっき聞きました。ユリナさん、祖父母も父もいないから大変だったって」

「それだけじゃねぇよ」


 どういうことだ?と、ドグを見る。ジーンも興味を示したのか、黙って話を聞いている。


「ウメの旦那はおれの友人だった。まあ、あっちが10は上だったが、おれに対等に接してくれるいい男でな。ウメと駆け落ちして結婚するから、隣の村に引っ越すってのも、まあ、おれは祝ったんだけどな、そんときゃもうウメの腹にユリナがいて、結局ここに留まった」


 大和とジーンは、目を丸くしてドグの話に聞き入った。カーシャからある程度聞いてはいたが、まさかドグが二人と知り合いとは。


「だが、ここは狭いからな。あいつらの両親は怒ってるし、子どもが産まれるってのになんの支援もしねぇ」


 なんとなく、こういう事例を前に聞いたことを思い出す。日本でも、親からの支援を受けられず、辛い思いで子育てをする家庭も案外多い。ただ、ウメの旦那は身篭った彼女を放って出ていくような人物ではなかったことが救いか。


「で、どうなったのさ?」


 ジーンが顔を歪ませながら続きを促した。彼なりに思うことがあるのだろう。


「二人は金に困っていた。ウメは歳食ってたから、子どもをお腹に入れたまま働くなんてできんだろ?そこに、徴兵の話が来たんだ。世の中って、そりゃあ酷えもんでよ、ウメの旦那も選ばれた」

「え、もしかしてドグじぃも?」


 ジーンが大きな声で聞く。ドグは顔をしかめて、バツの悪そうな声で答える。


「いやぁ、おれはそん時、風邪ひいて寝込んでてなあ……」

「おい!ドグじぃは昔からそんなんだったんかよ!?」

「悪いかよ!?おれだって本当は戦争に行って、ひと旗あげようと思ってたんだぜ!」


 嘘だろ、とジーンは呟いて、しかし話の続きが気になるのか口を閉じた。


「まあそんな感じでな、徴兵でここを離れる前に、少しでも金を残そうとしたんだろう。となりの村まで、藁細工を売りに出たんだ。徴兵までは1ヶ月あったからな、行けると思ったんだろうが、」

「帰ってこなかったんですね」


 思わず口に出していた。


「お、知ってんのか?って、お前さんなあ、泣くなよ、な?男だろうが」


 言われて初めて、自分が泣いているのに気付く。慌てて袖で眼を擦る。そうすると赤くなってしまうのはわかっていたが、後の祭りだ。


「泣いてないですから。俺、そんな簡単に泣きませんから」

「いい、もういい、男の強がりほどみっともねえもんはねぇよ」

「うぐ……それで、ウメさんはその後、」

「ああ、無事にユリナを産んで、それなりに暮らしてたな。だがまあ、旦那が帰ってこなかったってのが悪くてよ。戦争が嫌で逃げ出した、とかなんとかそりゃあ酷い言われようだった。ユリナも大変な思いしてただろうなぁ」


 ユリナの疲れた顔が眼に浮かぶ。診療所で初めて話した時は、こんな辛い過去があったなんて想像もしなかった。


 看護師は、患者の療養環境を整えるために、看護過程を考える際にはたくさんの事を聞く。その人と、その家族にとって最もいい治療ができるように。


 だけどその過程で、よくある事なのだが、必ずしも患者家族が協力的ではない場合がある。


 ドグの話を聞いて、ユリナの境遇を考えると、あんな態度になってもおかしくはないし、だからといって、ウメを放っておくこともできない。


 どうしたもんか、と頭を悩ませる。


「なあ、ヤマト。ユリナは辛かったんだろうがな、ウメだって辛かったんだ。だから、出来るだけなんとかしてやってくれよ」


 いつもニカッと笑っているドグが、珍しく愁傷に言う。真剣とも、悲しげとも思える表情だった。が、次の瞬間にはいつもの笑顔を浮かべた。


「なんたってお前は、おれに魚を食わせてくれた男だからな!ガッハッハ!」

「ドグじぃ!あんまり笑うとまた咳が止まんなくなるぞ!」

「フン、黙れ若造が!おれは、ゲホッ、ゴホッ、」


 あーもー、とジーンがドグの背中をさする。そんなやりとりのおかげで、大和は少しだけ気分が明るくなるのを感じた。


 そして、診療所までの道を、ゆっくり歩く二人の後に続きながら、大和は必死に考える。


 どうすれば、ウメとユリナが笑ってくれるのか。二人にとって最適な援助はなんだろうか。


 自分にできることは、なんだ?







 ☆


 だが、大和の気持ちなど御構い無しに、その日は唐突にやってきた。


 あれから一週間経った晩の事だ。


 大和は出来るだけウメの家に通い、ウメの語る話に耳を傾けたり、時には身体を拭いたり、散歩にでたりと、出来るだけウメの精神状態が安定するように努めた。


 毎回嫌そうにしながらも、ユリナは大和を家に入れてくれて、なんとなく話をするうちに、ユリナの理解を得られそうな雰囲気にもなっていた。


 ユリナが作った昼食を三人で食べた時は、これはなかなか良いんじゃないかと、大和は手応えを感じた。


 だけどその晩、カーシャの家に帰った大和が、ルナとヤナとソファで戯れていると、扉を激しくノックする音がして飛び上がった。


「ヤマト、大変だ!すぐに来てくれ!」


 ジーンの声だった。扉を開ける。すると彼は、大和の腕を掴んで早く来いと急かす。


「どうした?」


 不安げな顔のルナとヤナを、夕食の用意を中断してやってきたカーシャに任せる。


「ウメさんがいなくなった!」

「え!?どう言うことだ!?」


 大和は驚きの声をあげ、それから、手足が震えてくるのを感じた。背中を冷たいものが流れる。


「とにかく来てくれ、どうも森の方へ行ったらしい」


 わかったと頷くと同時に走り出す。森へ抜ける道は一本だから、大和はとりあえずそちらへ向かう。すると、松明を持った集団が眼に入ってきた。


「ヤマト!ウメさんが……」

「森に入ってくの見たって……」

「マズイな、クマが出るぞ」


 集まった住人たちが、一斉に声を上げる。


「と、とにかく、出来るだけ探しましょう!!」


 走ってきたために、息が切れそうになりながら大和が言うと、住人たちがウメの名前を呼びながら森へ向かっていく。


「オレたちも行くぞ」


 松明を受け取ったジーンを見やり頷く。


 と、後ろから、ハアハアと息を切らして駆け寄ってくる人物に気付いた。


 ユリナだ。彼女はかなり無理をしているようで、顔が真っ赤だった。


「はぁはぁ、待って、わたしも行く」

「ユリナさん、大丈夫ですよ。俺たちがちゃんと探すから、待っていてください」

「大丈夫。わたし、多分母の居場所、わかるわ」


 え?と大和とジーンがユリナを見やる。


「きっと、あの木の下よ」


 ユリナはひとり、強い目を森に向けた。まるで、もう大和とジーンの事が見えていないかのようだった。暗い森、松明すら持っていないのに、ユリナの足取りはしっかりしていた。


「ジーン、俺たちも行こう」

「ああ」


 初夏の森は涼しいと言うよりも寒かった。とうに沈んだ大きな太陽も、木々が生い茂るこの森に、熱を残してはおけなかったようだ。


 ブルっと身震いする。それは肌寒さからなのか、暗い森のせいなのかわからない。


 ユリナについてしばらく歩くと、一本の大きな木が見えた。樹齢は、と聞かれても、大和にそんな知識はない。


「ユリナさん」


 声をかける。すると、ユリナは立ち止まり、おもむろにしゃがみこんだ。


 ジーンが持っていた松明を下げ、照らす。


「ウメさん!」

「大丈夫ですか!?」


 大和とジーンが、揃って大きな声を出した。だが、振り返ったユリナが首を横に振ったので、二人とも口を閉じる。


 近付いてみる、と、ウメはなにやら、木の根元を手で掘っていた。いつからそうしているのか、ウメの手には湿った土がこびりついている。


「ここ、母のお気に入りの場所なのよ。昔聞いたんだけど、ここで父と出会ったんだって」

「そうなんですか」


 だからユリナは、一目散にここへ来たのか。そしてウメも、混濁した頭で、思い出の場所に来た。


「あった……」


 ウメが声を上げた。手に、結構大きな箱がある。土だらけになってはいるが、土が取れたところから、綺麗な網目が見えた。


 藁の箱?


「そうだった、思い出したよ。これね、お父さんの形見よ」


 唐突に、しっかりした口調で話し出したウメに、ユリナどころか、大和とジーンも驚いた。


 ウメがやせ細って骨っぽい手で箱を開けた。中には、驚くことに、綺麗なままの麦わら帽子が入っていた。


「お父さんが最後の行商に出る前に、生まれてくる子にっ作ったのよ。麦わら帽子なら、男の子でも女の子でも使えるって言いながらね。ふふふ、懐かしいわ。わたしも出来上がりは産まれてくる子と確かめようとね、箱に入れてもらったの」


 ユリナは、震える手で箱を受け取る。


「あの人が帰ってこなくて、山火事があって、諦めてしまった。あなたが産まれて、それだけでわたしは頑張れた。あの人がいなくても、どれだけ白い目で見られても、ユリナのおかげで、わたしは頑張れたのよ」


 大和は、頬を流れる冷たい感触に気付いた。たけど、拭うことは出来なかった。今時分が動いたら、この、奇跡のような時間を邪魔してしまう気がしたからだ。松明の淡い光に照らされた二人は、とても綺麗だった。


「この帽子は、あなたが大きくなったら渡すつもりだったんだけど、あなたはお父さんのことよく思ってなかったからね、わたし、迷ってしまって。本当にごめんなさい。ちゃんと話をすれば良かったんだけどね、わたしも、怖かったのよ。話したら、あの人が死んだって認めてしまう事になる気がして」


 ユリナは、麦わら帽子を手に取った。涙で揺れる瞳で帽子を見る。


「あら?」


 ウメが、何かに気付いてニッコリ笑った。つられてそこを見る。


「あの人ったら、女の子ってわかってたのかしら」


 麦わら帽子には、器用に藁で編んだ、可愛らしいリボンが付いていた。


 ウメはまた、ふふっと笑って、呆れたような、悲しいような、そんな顔をしてユリナを見る。


 ユリナは大和とジーンが見ている事も忘れて、その場に膝をついた。わあわあと、子どものように嗚咽を漏らす。


 ユリナを抱きしめたウメは、なんて優しい母なのか。大和はまた、自分のいた世界の母親を思い出す。流れる涙は、キラキラと松明の火を反射する。


 そしてその箱には、もうひとつ、ウメからの贈り物が入っていた。


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