第6話 母の手紙と麦わら帽子


 大和がこの微妙な魔法と未熟な医療の世界に来て、4ヶ月が過ぎた。季節は初夏。


 最近の大和の仕事は、気まぐれに行われるセラの回診に同行するか、それが無いときは、いわゆる地域踏査。看護を学ぶ途中で、保健師の道は断念した大和だったから、単なる真似事に過ぎないけれど、集落を回って住人の健康課題を聞き取ったり、生活の上で改善する物事を見つけ出すのは楽しかった。


 そろそろ健康教育講座でもやってみようかな、という意欲すら湧いてきていた。


 というのも、この集落には男手が足りなかった。カーシャの家もそうだが、何年か前の戦争で、少なくない数の男性が徴兵され、母子家庭が多いのだ。そのため、外仕事をしている人の半数以上が生産年齢人口後半世代だ。


 よって生じる問題の殆どが、腰痛。次いで膝痛。


 日本が抱える問題とさほど変わらない状況が、ここでも起こっている。


 さて、腰痛改善にはどうすべきかなあと考える大和の前に、ひとりの老人が立っていた。


 困ったなあという表情で、キョロキョロ辺りを見渡すその人は、確かウメさんだ。


 はじめてあったのは先月の事か。診療所にやってきたウメは娘さんと一緒で、日本っぽい名前だから親近感を覚えた。


「ウメさんこんにちは。どうされました?」


 優しく声をかけて、看護師みたいだ、と自分に酔いしれる。というのは冗談で。本当にどうしたんだろうと思った。


「おや、診療所の、えー、誰だったかなあ。すまないねえ、歳をとると物忘れが激しくて」


 ウメは、困ったねえと顔を歪める。大和はニッコリ笑って、


「ウメさん、俺は大和ですよ」


 と言う。するとウメは、ああ、と顔を輝かせた。


「そうだったね、あんたは診療所のヤマトだねぇ」

「そうですよ。それで、ウメさんはここで何をしてるんです?」


 と、大和は気付く。ウメは、靴を履いていなかった。


「そういえば、あたしゃ何してるんかね?」

「……ウメさん、靴はどうしたの?」

「あら?履いてないわね、おかしいわねぇ」


 首をかしげる姿は、本当に不思議そうだった。


「とりあえず、家まで送りますね。おんぶ、してもいいですか?」


 そう言うと、ウメは顔を皺くちゃにして笑った。


 ウメを背負って暫く歩いていると、彼女は唐突に話し出した。


「主人が若い頃に、こうやって背負ってもらった事があってねぇ。あれは、いつだったかしら。足場の悪い道を、あの人は一生懸命でね」

「へー、仲良しだったんですね」

「まあねぇ。ああ、あの人に会いたいねぇ。先に死んじまうなんてねぇ」


 なんとなく、かける言葉が見つからず、それ以来黙ってしまったウメに甘えた大和は、無言のまま送り届けた。


 ウメの家に着くと、ウメの家族に散々お礼を言われた大和は、お互いにぺこぺこし合いながら、なんとか診療所へ戻った。






 ☆

「ウメさんって、どこが悪いんでしたっけ」


 次の日、診療所に出勤した大和は、診察室の整理をしながら、本を読んでいたセラに聞いてみた。


「ウメ?ああ、あのばあさんか。どこが悪いっつーか、もう寿命だな」

「寿命?」

「そうだ。あれで80を超えてる。お前の世界ではどうか知らんが、ここの平均寿命は大体70だ。まあ、わたしがいるから、これでも長生きな方なんだがな」


 日本で80歳と言えば、まだまだ元気いっぱいだ。介護の有無は人それぞれで、福祉施設は満員状態だが、100歳なんてザラにいる。


「どうした?お前がそう言う顔をする時は、なにか気にかかる事がある時だろう?」


 セラは目を細めて大和を見た。確かに、気にかかる事はある。少し悩んで、大和はセラを見た。


「あの、ちょっと出て来ていいですか?」


 セラはふん、と鼻を鳴らし、だけど態度とは裏腹に満足げに頷いた。


「よかろう。今日はそのまま帰ってもいいぞ」


 いつもなら、来たばっかりなのに、などと、適当に反論の言葉を言っていたのだが、今日の大和は無駄口を叩かず、失礼しますと言って、そそくさと診療所を出た。


 ハアハアと息を切らしてウメの家に着いた。呼吸を整え、扉をノックする。開いた。


「こんにちは、ウメさん」


 迎えてくれたのは、他でもないウメだった。同居の家族は留守のようだ。


「どちらさん?」


 ウメは大和を見て問う。


「診療所の大和ですよ。ウメさん、少しお時間いいですか?」


 ウメはニッコリ笑って頷いた。大和を招き入れ、お茶の支度をする。大和はダイニングの椅子に腰をおろした。


「わざわざ遠いところすみません。もうすぐ主人が帰宅しますので、どうぞお茶でも飲んでいてくださいね」

「お構いなく。ご主人は、どちらに?」

「森を抜けた先の、ここと似たような集落に。主人は、藁細工の仕事をしているのよ。夏の前は、麦わら帽子が好評で」

「そうなんですか。俺も麦わら帽子、欲しいなあ」

「じゃあ主人に言ってちょうだいね。あ、お客さんだから、サービスするように言ってあげるわ」

「本当ですか?嬉しいです」

「実はね、麦わら帽子を売ったらって言ったの、わたしなの。あの人にもらったものが、本当に良くて。商品にしたらって。そしたらとっても人気が出てね。わたしの思った通りだわ」


 一瞬会話が途切れ、カップを持ったウメが戻って来る。それをテーブルに置いたウメが、言う。


「で、どちらからお見えになりましたの?」







 ☆

 カーシャの家に帰宅した大和は、ただいまと声をかけて、そのまま借りている二階の部屋へ向かった。


 ベッドに腰掛けて、両腕で頭を抱え、膝に額をつける。


 胸が痛かった。ついでに目頭が熱くて、頭の中がガンガンする。


 それらには波があって、スッと引いてはバッと押し寄せを繰り返し、その度に大和は、目をぎゅっと瞑って堪えた。


「どうしたのさ?らしくないね」


 カーシャが、いつのまにか近くにいて声をかける。


「大丈夫ですよ」


 大和は答える。ルナやヤナを女手一つで面倒を見ているカーシャに、居候の自分が迷惑をかけるべきではない。


「あなたねぇ。ここにどれだけいると思ってるの?あなたはもう、立派なわたしたちの家族よ。家族はね、一緒に住めばそうなれるわけじゃないの。いい?一緒に住んでいる人の気持ちがわかったら、初めて家族になるのよ。あなたがただいまって言った時の声で、わたしも、ルナとヤナも、何かあったのかって顔を見合わせちゃったわ。だから、遠慮したらだめよ」


 大和は顔を埋めたまま、口を開いた。


「俺、初めて見たんだ。人が一ヶ月もしないうちに、あんなになるの。ウメさん、俺のこと覚えてくれなくて。ずっと旦那さんの話するんだ。もう死んでるのに、ずっと、旦那さんを待ってるんだよ」


 ウメは認知症だ。大和には診断はできないけれど、接していてわかる。


 日本の高齢化事情で一番の問題は、認知症患者の急増だ。あと何年かすれば団塊の世代が後期高齢者となり、人口の実に四人に一人は75歳以上という未来が来る。先進国のなかで高齢化率はダントツで、したがって認知症の患者の増加も危惧されている。


 だから、大和が通っていた大学でも、高齢者医療に力を入れていた。老年実習では特別養護老人ホームにも行った。


 でも、そこで出会った人たちは、すでに重度の認知症だった。出会って別れるまで、ずっと同じだった。


 身近に触れ合える人が、悪化していく様を、大和は初めて知ったのだ。


 一ヶ月前、診療所を訪れたウメは、ハキハキした態度で話す快活な老婆だった。大和のことを、セラなんかの下でかわいそうにと言って笑っていた。


 それが、たった一ヶ月で、大和のことどころか、旦那が死んでいることも思い出せないのだ。


「人が、こないだまで普通に話してた人が、あんなにかわるなんて!俺、知らなかった。勉強してきたけど、勉強しただけだった!俺のこと覚えてくれないんだ!支えなきゃって考える自分と、なんで、どうしたのって思う自分がいて、俺の知ってるウメさんは、もういないんだって思って……」


 涙が溢れた。止まらない。この涙が自然に流れ、意志では止められないように、人の体には、どうにもならないことが沢山ある。


「ヤマトくん、わたしがもし、死んだ旦那をまるで生きているように話したら、あなたはびっくりするでしょ?でも、わたし、死ぬ前くらいは、大好きだった人が帰ってくる夢を見たい。だから、ウメさんの気持ち、わかるわ。あの人ね、年取ってから、ほとんど駆け落ちみたいに結婚したのよ。こんな狭い集落で、お互いの両親から逃げられるわけないのにね。それでも、幸せそうだった。まあ、わたしはまだほんの子どもだったけど」


 初めて知る話だった。大和は、流れる涙をぬぐいもせず、カーシャを見る。カーシャは、優しい表情で、大和は自分の母親を思い出した。


「ウメさんの旦那さんは、藁細工の商人だったの。わたしが小さい頃に、徴兵される予定だったんだけどね、最後の行商に出たっきり、戻ってこなかったらしいの。わたしの両親も捜索隊に参加して、結構大ごとになっのよ」

「どうなったんですか?」


 気が付いたら、涙は止まっていて。大和はカーシャを見つめた。


「残念だけど、見つからなかった。戦争に行っていてもどうなったかは分からなかったけどね。しばらくは捜索していたみたいだけど、森で大きな山火事があって、そこで打ち切りになったそうよ」

「じゃあ、旦那さんの遺体って……」

「見つかってないわ。だから、お墓もないのよ」


 そうか。だからウメさんは、旦那さんの記憶を色濃く残しているんだ。大和は唇をキュッと噛んだ。


「ヤマトくん、悩んでいるなら、わたしの胸貸してあげるね。だから、わたしがウメさんみたいになっても、見捨てないでね」


 カーシャの優しさと願いは、大和の心にのしかかり、同時に、軽くもしてくれた。不思議な気分だった。


「すみません、こんなつもりじゃなかったんですけど」


 なんだか気恥ずかしい。10歳以上離れた女性だけど、無様に泣きじゃくった自分を締めてやりたい。


「いいのよ、下でルナとヤナがお腹すかせてるわ。ご飯にしましょう、ね?」


 ニッコリ笑うカーシャに、大和も笑う。ただ、目元が重いのは自分でわかった。


「泣いたら、お腹すきました」


 ふふ、と笑うカーシャについて、大和も階下に降りる。子どもは聡いもので、大和を見るなり両足にしがみつく。


 大和は、ウメさんの事を考えながらも、少し心が軽くなった事も実感していた。

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