荷造り
「もうすぐバレンタインですね」
「だねー」
「……あ」
「自分で振っといて何その間抜けフェイス」
「そ、そんなに間抜けじゃありませんっ!」
「ペース乱れるから叫ばない」
「そうでした……」
ペースも呼吸もまるで乱さず微笑んでいらっしゃる。私みたいなフィジカルクソザコにペースを合わせてくれているとはいえ、そこまで余裕とか。やはりバケモノ……。
白藤先輩と松葉先輩のお宅にお世話になり始めて一週間。山吹先輩との早朝トレーニングも八日目になりました。
私みたいなコミュ障が同じ人と八日も過ごすとなると、どうにも会話に困ってしまうんですよね。だもんで触れてしまいました。来月の半ばに待ち構えている、世の男女が一喜一憂するイベントに。ええええ、やってしまいました……。
別に当たり前の話題じゃん。何を後悔してんだお前。と思われる事でしょう。しかしながら、今年のバレンタインは私にとって特別なものとなる予定なので。今まで縁のなかったこのイベントに、全力で乗っかる心構えなのですよ。ぶっちゃけ、今から緊張してます……保つか? 私のメンタルは。
私の事はさておいて。バレンタイン当日が、全然違うベクトルで特別な日になる人がいるんですよ。私のお隣を走るお兄さんなんですけど。
「十八歳になるまで一ヶ月切ったのかあ……あっという間だなあ……」
お誕生日なんですよ、山吹先輩の。バレンタイン当日が。パンチのある日にお生まれになりましたねえ。
「十八歳になったらしてみたい事とかありますか?」
「あるけど、それをねこちゃんに言うのはちょっと……」
「す、すけべ! セクハラですっ!」
「十八歳になったらバイクの免許でも取って、のんびり一人旅でもしてみたいなーって事だったんだけど?」
「…………忘れてください」
「ムッツリスケベねこ」
「ム!?」
「男の子だし、もちろんそういうのも興味あるけどね。あの暖簾の向こうには真っピンクな世界が広がっている事だろうなあ……楽しみだなあ……」
「結局そこに落ち着くんだから、さっきの私の発言もあながち的外れじゃなかったって事ですねそうなりますね! 話を戻しますね! バレンタイン当日が楽しみですねっ!」
「兄貴譲りの話逸らし力だなあ」
「初耳なんですけどそのワード!?」
「いいから落ち着く。ペースペース」
「は、はい……」
小春、自爆。っていうか、絶対今の引っかけですよね!? 私が食い付いてくるの待ってましたよね!? 絶対そうです絶対! だから私は悪くないです! ムッツリでもないです! 多分!
「今年は何個チョコ貰えるかなあ」
「先輩も気にするんですね、そういうの」
「そりゃあ男の子ですし。でもさあ、カウントが難しいんだよなあ」
「カウント?」
「バレンタインが誕生日だからさ、誕生日プレゼントだよーってチョコ渡される事が多いんよね。それらはバレンタインの贈り物としてカウントしていいものなのか十七年生きてきた今でもピンと来てないんだよなあ。一応市販品とお手製でカテゴリ分けしてるんだけど、最近は手作りでも義理ってのはよくある話だしさあ」
「松葉先輩のクリスマスプレゼントと誕生日プレゼントが纏められてて萎えー的な悩みに近いですね」
「あいつの場合もっとクレクレーってだけじゃん。俺はもっとクレクレーな気持ちこそあるけど、もっとクレクレーされたとして、そのクレクレーはどっちのクレクレーに応えてくれたクレクレーなのかーって事だから」
「なるほど、わかりません」
「俺にもわかってないよ」
愉快そうに笑っていらっしゃるが、なるほど、実際複雑な部分はあるかもしれない。バレンタイン分だろうと誕生日分だろうとチョコはチョコ。されどチョコ。受け取る側の山吹先輩にも色々あるように、手渡す側の女の子たちにも色々ありますから。正しい認識してもらえるよう、頑張ってるんですから。
「ま、チョコたくさんもらえるイコール超モテてるーみたいなとこあるからさ、たくさん欲しいなーってなわけよ。どういった理由で渡された物かはさておきね」
「つまり、先輩はモテたいんですか?」
「もちのろんですよー。女子からどう見られてるかーとか、ポイント高い立ち振る舞いとか、その辺への関心なさ過ぎんだお前はーって言われた事あったけど、これでもバッチバチにあるんだけどなー、モテたい願望」
「あんまりそういうの表に出さないと思われてるんですね」
「みたいだなあ。いやさ、オギャーっとこの世に生まれた日が一番モテた日ですーって言うんじゃ両親に悪いし、もちろん俺的にもあかんヤツだし。オギャーっと生まれたからにはたっくさんモテてみたいなーとか思うわけですよ。一応ね」
いやいや、もう充分モテてますから。そこに気付いてないだけですって。立ち振る舞いがどうのと先輩に言った方、多分嫉妬からのコメントだと思うんですよね。先輩と友達やってれば先輩がモテるんだって理解出来て当然ですし。
かつての優ちゃん以外にも、先輩に気持ちが向いている一年生も知っています。なんならたくさん知ってます。後輩にもめっちゃフレンドリーに接してくれますからね、山吹先輩。っていうかですよ、ほんとどうなってるんですか、川原町団地出身者たちの顔面偏差値の高さ。ズルじゃんズル。
「父さん母さんもモテモテだったんだぞーって朝陽さんが教えてくれた事あったなあ。修みたいに三連覇は出来なかったみたいだけど、うちの父さんもミスコントップ3の常連さんだったんだってさー」
「凛々しくて素敵ですもんね、山吹先輩のお父さん」
玲さん、でしたっけ。眼鏡の似合うダンディなお兄さんなんだけど、子供たちの前ではデレデレ。特に東雲先輩へのデレ具合ったらキャラ崩壊レベル。抵抗する東雲先輩を抱き上げ頬擦り。これを人前で平気でやるんですよ。昔はキレッキレのヤンキーだったと聞き及んでいますが……子供が出来ると変わるものなのですかね。
「本気で嫌われるんじゃないかってギリギリのラインのセクハラを娘にするのと職場で部下にパワハラをするのが趣味とか言っちゃうヤバいおっさんだけどね」
「それはヤバい」
「ま、母さん一筋だったらしいけどね」
「そう聞いてます。なんでも、プロポーズのシチュエーションが」
「あーあーあーきーかーなーいーきーきーたーくーなーいー」
「えぇ……」
「両親のプロポーズなんてまだ知らなくていいよ。気恥ずかしさに耐えられる気がしない。あと十年くらい己を高める時間をおくれやす」
「素敵なエピソードだったのになあ……」
「たったら尚更じっくりコトコト寝かしとこうそうしよう。うんうん」
そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。うちの両親の馴れ初めとか知ってますけど、恥ずかしいとかは特別ないです。むしろ羨ましかったりします。なかなか素敵な出会いだったみたいなので。
「ねこちゃんはそういう素敵な出会いー的なヤツに憧れてるタチか」
「そ、そうは言ってないじゃないですか!」
「顔真っ赤だぞー」
「それは走ってるからですっ!」
「じゃあ興味ないの?」
「そっ、そうも……言ってないです……」
「素直だなあ。ちょろーい」
「ぐぬぬ……!」
「怒るな怒るなー。そっかそっかー。お年頃だなあ」
私をやり込めるのがそんなに楽しいのか、ニコニコしていらっしゃる。仮にもランニング中だってのに随分と余裕なご様子。はー流石ですわ。流石過ぎてムカムカして参りましたらわね! 崩したい……余裕たっぷりなこのお兄さんを切り崩してみたい……!
「先輩だってお年頃ってヤツじゃないですか」
「仰る通り。俺もお年頃だあ。お年頃の先輩になるわけだ」
「なんですかそれ……」
「言ってみただけ」
「…………そんな先輩に質問があります」
「ふむふむ」
「先輩にはありましたか? 素敵な出会い、ってヤツ」
してやった。やってやりましたとも! さあこれは答え辛いでしょう!? きっと先輩は煙に巻こうとするでしょうが、それは私が許しません! とことん追い縋ってやるんですからね!
「あったよ」
「えー」
「なんで食い気味かつ残念そうなの」
だって! 絶対適当な事言うもんだとばかり思ってたんですもん! い、いやまだだ! どうせこの後適当な言葉を並べて私を揶揄いにくるに決まってる! そうだ! まだ舞えるぞ、小春っ!
「……ここだけの話にしてね?」
「は、はあ……」
あ、あらら? なんか……ガチな感じ? いやでも……。
「こっ恥ずかしい話だけど……やっぱあいつらだなあ……うん。あいつらだわ」
汗の球を光らせながらリズミカルに揺れる横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「卒業とか就職とか考えた事がないわけじゃないよ? 俺らの中の誰かが団地から出て行く可能性だって考えた事がないわけじゃない。ずっとぴったりくっついてるなんておかしいんだし。いつかそういう日が来るってわかってたつもり。だけど、いざそういう時が迫ってきたんだなあと思うと寂しいもんだなあ……素直にそう思うわ」
「先輩……」
「十七年。もうすぐ十八年。退屈な日なんてなかった。あいつらじゃなきゃ、こんな風に思えなかった。今の俺があるのは、間違いなくあいつらのおかげだなんだよなあ……」
いつも飄々としていて、何を考えているのかなかなか掴ませてくれない山吹先輩が、こんなにも素直な思いを語ってくれるなんて……ヤバ……目頭熱くなってきた……。
「あいつらと一緒でよかった。あいつらと出会えてよかった。この団地に生まれる事が出来てよかった」
「先輩ぃ……」
「って言っとけばそれっぽくなるかなー」
「ふんっ! ふぬーっ!」
「痛っ!? 今本気で叩いたよね!?」
「ほんっとにもうっ! 山吹先輩のそういうとこーっ!」
「ごめ、ごめんて!」
返して! うるっと来ちゃった私の純情! 返してくださいーっ! っていうか私のアホ! この人がこの手の話でストレート打ってくるわけないじゃないですか! フックアッパーフェイントなんでもござれで来るに決まってるじゃないですか! 何を流されちゃってるの! バカっ!
「先輩のそういうとこ嫌いです!」
「可愛い後輩に嫌いって言われて俺のメンタルズタボロになった」
「本当なら自業自得でしょ! どうせこれっぽっちも刺さってないくせにー!」
「あ、わかる?」
「その顔見ればわかるに決まってます!」
「山吹家屈指のポーカーフェイスの異名を持つ俺の顔を見ただけでわかるとか、さてはねこちゃん天才だな?」
「範囲! 山吹家! 狭い範囲!」
「走りながらでも元気だねえ。ま、今言ったほど重くも大きくもないかもしれないし、もっと重くて大きいかもしれないけど、それらしい事を思ってるのは、嘘じゃないから。それだけは覚えといてよ」
「どうですかね。ふんっ」
「だから……そろそろちゃんとしなきゃ」
「へ?」
「さてさて次は俺のターンだ後輩よ。一応本音らしいのは答えたんだから、そっちにもそれなりに答えてもらうからなー」
意地悪ーな感じの笑顔。この表情に切り替わる直前、ほんの僅かだけど、笑みが消えていた瞬間があった。
あの表情とあの独り言。どちらも気になって仕方がなかった。
「よーしじゃあ答えろ後輩。ねこちゃんにはありましたか、素敵な出会い、ってヤツ」
「…………ありました」
「おおマジか。もしかして黒井さんの事?」
「優ちゃんももちろんそうですけど、そうじゃなくて……」
「じゃなくて?」
「……これ以上は言いません」
「えー」
「言うわけないじゃないですか……っていうか曖昧な事言ってた先輩に強要されるのおかしいですよね!? 今気が付きました!」
「うーん遅い。なんだあ、後輩と仲良くなれるチャンスだったのになあ」
そう言って、私と出会ってくれた素敵な先輩は、悪戯っぽく微笑むのでした。
* * *
「あら小春ちゃん。いらっしゃーい」
川原町団地、十階。十番。1010と、なんとも覚えやすい部屋のインターフォンを鳴らすと、人好きのする可愛らしい笑顔がお出迎えしてくださった。
「お、お久しぶりです……山吹先輩と東雲先輩のお母様……」
「堅苦しいわねえ。由紀でいいわよ由紀で。あ、由紀ちゃんだと嬉しいなーっ。由紀さんでも可」
ぱちっとウインクをしてみせる、私の両親と同年代のお姉さま。いや若っ。私の母も若々しい人ですけど、この人の若々しさったらヤッバイ。山吹先輩たちのお姉ちゃんって言われても全然無茶がないレベル。流石、たくさんの生徒たちが見ている前で公開プロポーズをやってのけたパワフルお姉さま。そこら辺の人妻とは人妻力の格が違う。いや何の話してんだ私。
「では…………由紀さんで……」
「うんうん、いい落とし所。ささ、あがってあがってー」
「お、お邪魔します……」
ニコニコ微笑む由紀さんに続いて、山吹家にお邪魔します。去年の夏コミ以来になりますね。
「小春ちゃん、夏菜の所に泊まってるんですって?」
「はい。松葉先輩か帰ってくるまでの間だけお世話になっています」
「元気がいなくなって露骨にしゅーんとしちゃってたからねえあの子。でも、小春ちゃんが来てくれたお陰で受験勉強にも身が入っているみたい。ありがとうね、小春ちゃん」
「そ、そんな! お礼を言われるような事は何も」
「してるの。私が言いたいの。謙虚も真面目もいいけれど、お礼くらいは素直に受け取って欲しいなー」
「すっ、すいません! 空気読めなくてごめんなさいっ!」
「怒ってない、怒ってないよ。いやはや本当に可愛いなあ。ね、夏菜の所の次はうちに泊まってかない?」
「ふぇ!?」
えちょまいやあのそのえと何その展開うわマジこれヤバあでも緊張めちゃこわってか私どこで寝るとかお風呂とかあのおのこのそのどのあと……。
「は、わ……はわ……はわわっ……」
「あーごめんごめん。困らせるような事言っちゃったね。私ら親連中の話はいつだって話半分程度に聞いといてくれればいいから」
「は、はあ……」
「それで、今日はどうしたの?」
「あの、東雲先輩に会いたくて……」
「千華に?」
「最近全然連絡来ないですし……学校で声を掛けてもなんだか心ここにあらずな感じがして……」
「千華を心配して来てくれたんだ。優しいんだね、小春ちゃんは」
「ふ、普通です! どんなに良く言っても中の下程度の優しさしか持ち合わせていないクソザコですっ!」
「過剰反応しないの。なんでそんなに緊張してるのかわからないけど、少し肩の力を抜きなさい」
「あ、はい」
「そうそう。いい子いい子」
頭を撫でられた。なんでしょう、この気持ち。上手く言葉に出来ないけど……白藤先輩に可愛がられた時の感覚に近いこの感じはまさか……これが……バブみ……そうか……由紀さんの包容力に私は溺れて死ぬのね……さよなら……パトラッシュ……っておい。そこはパトラッシュじゃなくてうちのココアでしょ。
「千華なら部屋にいるわよ。もしかしたら部屋真っ暗かもしれないけど、多分起きてると思うから勝手に入っちゃっていいわよー。ノックもいらないから」
「えと……だ、大丈夫なんですかそれ? なんか嫌な事でも……」
「そういう事じゃないから大丈夫。そもそも千華は、私たちの子よ? そうそう凹んだりなんかしないわよ」
腕を組んで笑う由紀さん。なるほど、間違いない。エミーさんと朝陽さんの間に生まれて、由紀さんや玲さんや皆さんに育てられた東雲先輩ですものね。
「そうですね……では」
「いってらっしゃーい」
手を振る姿も可愛い由紀さんにぺこりと一礼をして、前回来た時は派手に散らかっていたらしい東雲先輩のお部屋の前に立ち、由紀さんには不要と言われましたけどコンコンと二度ノックして、ドアノブを回す。鍵は掛かっていなかった。
「失礼します……あの、東雲先輩? 赤嶺小春です……」
由紀さんの言う通り、室内は暗かった。しかし真っ暗という事もない。窓際に置いてあるテレビが付いているからだ。
「あ、こはるんだ」
そのテレビの前に、東雲先輩が座っていた。
「こ、こんばんは……」
「どしたの?」
「へ? あ、や、その…………特には……」
「ふーん」
反応が薄い。いつもならとりあえずセクハラタックルしてくるのに。それがいいか悪いかは置いておいて。私には、とっても気になる事があった。
「それ……テレビに映ってるの……」
「うん。あいつ」
「ですよね……」
少し前時代的な画面のノイズがちらほら見える映像の中には、東雲先輩のお父さんである、若かりし日の東雲朝陽さんが映っていた。いや本当に若い。十代後半か二十代前半ってくらい若い。それでいくとこの映像は二十年以上前に撮られた物になると。
テレビの中の朝陽さんは、動き易そうな格好でお芝居をしていらっしゃる真っ最中。朝陽さん以外に目を向けても、皆さん一様にラフな格好でお芝居をなさっている。
「これ、赤い羽って劇団にあいつがいた頃の稽古の映像なの」
「ははあ……」
なるほど、道理でみなさんラフな格好をしていらっしゃるはずです。よく見ると、台本らしき物を丸めて持っている方が見切れたりしていますね。
「赤い羽の倉庫にこれがあってさ、ちょっと貸してもらったの」
「そうなんですか……」
そして気付く。テレビの脇に、かなりの量のDVDが重なっている事に。いや、どの辺りがちょっとなんですか?
「えと……昔の朝陽さんが見たいから借りたんですか?」
「あいつはついでのオマケ。一応見てるってくらい」
「オマケって……じゃあ何の為に?」
「……これ、見てて気付く事ない?」
「気付く事? えと…………朝陽さん若いなーくらいしか……」
「そのあいつが、ずーっと画面の真ん中に収まってるって気が付かない?」
「い、言われてみれば……」
これが稽古を撮影するものであるなら、演者さん全員、全体が映らなくちゃいけない。しかし、東雲先輩の言う通りだ。このカメラはずっと、朝陽さんだけを追い掛けている。言われるまで気が付かなかった……。
「あいつを贔屓しまくってんの、このカメラを握ってる人は」
「それって……」
このカメラを握っている人の心当たりが一つ二つ思い浮かんだ。そのタイミングで、十分休憩ー! と叫ぶ声がテレビの中から聞こえてきた。すると、画面が大きく揺れ始めた。どうやらカメラの持ち主が駆け出したらしい。
『アサヒーッ!』
カタコト気味だけど、元気いっぱいな明るい声が朝陽さんの名を呼んで、さっきまでクローズアップされていた朝陽さんが、ドアップで映し出された。
私の、知らない声だった。
『おーエミー! 休憩だ休憩だー!』
『キュウケー! ラブホテルニカイテアルヤーツ!』
『お、おま!? 何言ってんだ!』
『ホワー? ナンカオカーシ?』
『ちょっと誰ですかー!? うちのエミーに変な事吹き込んだのー!』
エミーさん。カメラを握っているのは、東雲先輩のお母さん。エミーさんなんだ。
「ママ、毎日のように稽古場に顔出してたんだってさ。ただ座って見てるの退屈だからって、こうして稽古の模様を撮影したりしてたんだって。劇団の人たちはスタンド立ててカメラ置いておきたかったらしいんだけど、ママがめちゃ楽しそうだからやめろって言えなかったんだってさ」
「そう……ですか……」
初めて聞いた。東雲先輩はもちろん、みなさんに……本当にたくさんの人に影響を与えたエミーさんの声、初めて聞きました。
『エミー、カメラ貸してみ。お前ら二人映したるから』
『ハーイ!』
『うおっと!』
またも画面が大きく揺れると、そこまで画質がよろしくない映像の中でも鮮烈に映る、綺麗なブロンドを引っさげたお姉さんが、朝陽さんの頬に、頬をくっ付けていた。
『二人とも、ピースピース』
『ぴーす』
『ピース!』
こっちに向かってピースをする朝陽さん。そしてエミーさん。
本当に仲がいいなあ。見せ付けてくれるわ。羨ましいっす! ご結婚はいつなんですかー? などなど、様々な言葉が二人目掛けて飛んでいく。それらに笑って答える二人は、終始満面の笑みだ。
『ケイトー! ケイトモー!』
『私は結構です。今忙しいので話し掛けないでください』
『マジスイマセンケイトサン……ネーネーアサヒー! ケイト、ガンコババー!」
『エミー?』
『ナンデモナイデスマジスンマセン』
『わかればよろしいのです』
エミーさんと愉快なやり取りを繰り広げたもう一人にカメラが向く。そこには、パイプ椅子に腰掛け、右手に持ったペンを忙しなく書物に走らせているケイトさんの姿があった。
「ケイトさんまで……」
「ケイト、赤い羽の事務とか経理の手伝ったりしてた時期があったんだって。お金に対してルーズなここの人たちに任せておいたら先行きが心配だからって自分から買って出たらしいよ」
「ケイトさんらしいですね……」
髪の長さ等々違いはありますが、全然変わってなくないですかケイトさん。マジで今と変わらないですよ、このご尊顔は。こんなにも私が生まれる以前から全然老け込んでいないとかマジですか? ケイトさん、本当に私たちと同じ人間ですか?
「あいつが赤い羽に入って、ママとケイトも遊びに来るようになって、一気に賑やかになったって団長さんが言ってた。今の団長さん、あいつの少し先輩で、この頃の事はよく覚えてるんだって」
「そうなんですか……」
「ほんと、めちゃくちゃだよね。稽古映すなら稽古映さなきゃダメじゃん。何やってんだか。でも、めちゃくちゃママらしいんだなあ……なんか……懐かしい感じ……」
今の私の位置からでは、東雲先輩の横顔が見えない。それでよかった。
「……っ……」
勝手に泣きそうになっている私の不細工な姿を見られないで済むから。
しばらくの間、東雲先輩の背後に棒立ちしたまま、画面の中で何があろうとなかろうと、ひたすらに朝陽さんだけを追い掛けるカメラが見せる映像を黙って見ていた。
「あの」
そんな中。東雲先輩にどうしても聞いてみたい質問が一つ出来た。
「何?」
「どうして……この映像を見ているんですか?」
「どうしてって、自分の親たちの昔の映像を見る事、なんかおかしい?」
「い、いえ……すいません……」
浅慮が過ぎた。何を聞いているのか私は。何も不思議な事なんてないじゃないか。怒らせて当然だ。
こんな事をしても尚、聞き出したい衝動が抑えられない。朝陽さんと仲良くしているエミーさんや、ケイトさんの姿を見ているだけで涙腺にくる。
もう潮時だ。ここを離れよう。理由はわからないけれど、東雲先輩にとって大切な時間である事だけは間違いない。だったら、いつまでも邪魔していてはいけない。
「あの……私はそろそろ」
「ここを離れる前に」
「え?」
「もうちょっとだけでも……知っときたいの。あたしの知らない、今のあたしを作り上げたものを。それだけ」
「……ありがとうございます……」
「ううん。なんかごめん。あたし、感じ悪かったね」
「そんな事全然……」
「またね、こはるん」
「……はい……失礼します……」
「うん」
そそくさと部屋を出る。扉の脇に電気のスイッチが見えたから付けてしまおうかとも思ったけど、やめておく事にした。
「ふぅ……」
「どうだった?」
「わっ!」
「いや驚き過ぎー。可愛いなあもうっ」
「あふぅ……!」
後ろ手に扉を閉めた私の目の前にはクソカワ人妻さん。あわわする私を胸元に抱き寄せるサービスまで。あ、いいお胸……やはりこの感情……バブみ……!
「千華、テレビ見てたでしょ?」
「は、はい……」
「そっかそっかー。懐かしいの見てたかー。んふふー」
「嬉しそうですね……」
「あの子今まで、自分が生まれる以前の朝陽にもエミーにも触れようとしなかったから。どんな心境の変化があったか知らないけど、なんだか嬉しいなあって。ふふ……」
「そういうものですか……」
「うん。座って座って」
背中を押す由紀さんに逆らわずテーブルに着くと、向かいに由紀さんも腰掛けた。すすすっとお茶請けらしき物を差し出してくださいましたが……カロリーが高そうだ……どどどうしよう……。
「そうよねえ……あの子、もうすぐ海外だもんねえ……色々思う所があるんでしょうねえ……」
「……寂しく、なりませんか?」
「千華がここを離れたらって事?」
「はい」
「もちろん寂しくなるわよ」
「ですよね……」
「でもね、寂しいとか、一緒にいたいってわがままで、これから広い世界に飛び立とうとしている子の肩に手を掛けるのは、ダメじゃない?」
「ごもっともです……」
「でしょー? それにね、寂しい以上に楽しみの方が大きいの。これからのあの子が、どんな風に変わっていくのか」
「楽しみ……ですか……」
私は……そんな風にポジティブには……なれないです。
「うん。これは私の自論なんだけど、一秒だって同じ姿のままいられない。それが子供って生き物だと思っているの。千華も奏太も、美優も夏菜も修も元気も、ずっと違う。今この瞬間とついさっきとじゃ、少しずつ違うと思うの。もちろん小春ちゃんもね」
「はあ……」
「あの子は変わっていってる。今この瞬間まで経験した事がない物を吸収して、良くなったり悪くなったりを進行形でしているの。そんなあの子がこの団地を離れる瞬間、どんな風に変わっているのか、今から楽しみで仕方ないの」
「そんなに変わっているんですか……私たち子供は」
「うん。全然変わってる。今の小春ちゃんが私を見る目が数分前と全然違うみたいにね」
「へ? や、え?」
「素直で可愛いーっ」
「自分ではまるで」
「部屋で勉強してる奏太呼んで来ようか?」
「わからなひれすね」
「ほら目の色変わったー!」
「い、今のは違うじゃないですか!」
そ、そうでした……この人、あの先輩のお母様でした。こういう揶揄い、大好きに決まってるじゃないですか……!
っていうか、あれ? 揶揄い? いや今のはそうじゃない……でもでもっ、もしかするともしかして……このお姉さま……。
「あの……付かぬ事をお伺い致しますが……由紀さんは」
「知ってるよ。小春ちゃん、奏太が好きなんだよねー?」
「はっ、ほっ、ふぁ!?」
「昔からずーっとだよねー。若葉FCの頃なんて、練習の前も後も、なんなら練習中でさえ奏太くん奏太くーんってベッタリしてたよねー」
「あっ! おふっ!」
「奏太くん抱っこーおんぶー一緒に帰ろーなんて当たり前。奏太が風邪で休んだ時、奏太くんいなきゃやだー! って謙之介くんに文句言ってた事があったっけー。いやー懐かしいわあー」
「にゃ、にゃーっ! にゃにゃーっ!」
な、なにそれなにそれなにそれなにそれーっ! そんなの知らない記憶にな……いって事にしておきたいーっ!
「そっかそっかー今でも奏太が好きなのかー。カマ掛けてみるもんだねー」
「はいぃ!?」
「ううんこっちの話ー」
「ちょ、ちょっと!? 今のは」
「あーもう気にしない気にしない」
「いやいや気にしないとか絶対無理ですからっ!」
由紀さんの小悪魔! び、美魔女! だっ! 団地妻っ!
っていうか、どこまでが嘘でどこからが本当なんですか!? せめてチビガキ時代の私の奇行や意味不明な発言は嘘であって欲しいんですけどー! 言ったような気がするのは置いておいてーっ!
「奏太ってば、変なとこクセのある子になっちゃったからなかなか手強いだろうけど、私は応援してるからね。期待してるわよ、未来の義理の娘っ。子供は三人以上お願いねー」
「ふ、ふえぇ……」
ダメだ。勝てる気がしねえ。団長妻マジパねぇ。
「……帰ります……」
「あらそう? 一緒にご飯でもーって思ったんだけど」
「勘弁してください……お願いですから……」
「じゃあ仕方ないかー。たーっぷり夏菜の母性に癒されてらっしゃいな」
「はひ……お邪魔しました……」
「また来てねー」
また来てとか鬼ですかマジですか怖いんですが!? もう無理……たしゅけてココちゃん……優ちゃん……白藤先輩……。
「はうぅ……」
たった数十分の訪問だったのに情報量が多過ぎた。思考回路はショート寸前。今すぐココちゃんに会いたいよぉ……。
でも。でもですよっ? 由紀さんとの邂逅を良きように考えるならば……外堀、少し埋まりましたよね? 言わば、相手のお母さんにどんどん行け。お前なら許す。と言われたようなものですよね?
「……ふ……ふふ……」
そうだ。下ばかり向いていても仕方がない。ここは私のソウルメイトを見習って、上を向かなければ、上を。
「ふふふ……ふ」
「ねこちゃん」
「ふにゃーっ!?」
「何その女の子的にだいぶアウトな奇声は。規制ものでは」
この聞き慣れた声。今一番アウトな声ですよええアウトなんですよ……!
「や、山吹先輩……」
「めちゃデカい声がリビングから聞こえてきたと思ったら野良猫だった件。来てたら一声掛けてくれたらいいのに」
部屋着に身を包んだ山吹先輩が、私の背後に立っていました。
「あ、あの……部屋で勉強してるって……由紀さんから聞きましたから……邪魔しちゃ悪いなって思いまして……」
「気にする事ないのに。って、由紀さん? 随分仲良くなったみたいだね」
「そう呼んでくれって……」
「先手を打ったのか。おばさん呼ばわりされるとストレス溜まるらしいからね、あの人。俺らに八つ当たりするまでがワンセット。怖い怖い」
「そうなんですか…………じゃあ私は」
「待った」
白藤先輩の胸元目指してねこまっしぐらしたい私を呼び止める先輩。ちょっと感じ悪いいかもですけど……ここはスルー。逃げの一手でいきましょう! もう限界なので! メンタルが!
「すいませんが、続きは明朝に」
「俺、そういうつもりないから」
ばくん。心臓が大きく鳴いた。全身が総毛立ち、急な発汗と急な寒気が同時に襲い掛かってきた。
「さっきの……聞こえちゃったんだ。なんかうるさいなーって思ってリビング行こうとしたら……ちょうど……」
無視。スルー。しなきゃ。私に襲い掛かってきた不調の嵐も。
「なんか盛り上がってたけど……」
先輩の言葉も。
「誰かとどうとか、無理だ」
無視するんだ。
「無理だよ……今は」
聞こえないフリを。
「ごめんね」
したかった。
「…………失礼します」
がむしゃらに足を動かし、震える手で、持っててねと預けて頂いた白藤先輩のお宅の合鍵を、何度も何度も失敗しながらどうにか開けて、飛び込むように中に入った。勢い余って、躓いて転んでしまった。溌剌としたおかえりーが直ぐに聞こえない辺り、白藤先輩は不在らしい。
「い、痛っ……」
フローリングに強く打ち付けてしまった膝が痛い。痛くて痛くて。
「痛い……よぉ……っ……!」
とってもとっても、痛かった。
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