windy
「あー! また捕まったー!」
「はい今度お前鬼ー!」
あたしの両肩に手を置いて、奏太は笑ってた。ニコッていうか、ニヤッって感じで。嫌な笑顔してたよなあ、奏太。
「はー休憩タイムだー」
「油断してると捕まっちゃうよ美優。まあないと思うけど」
「俺だけ走らないで逃げてやろうか?」
「意地悪な事言わないのっ。あのね千華ちゃん、転んだりしたら危ないから思いっきり走っちゃダメだよ? 千華ちゃん、全力で走ると直ぐ転んじゃうんだから」
「ぐぬぬぬぬぬぬーっ!」
あっっっったまくるーっ! どいつもこいつもバカにしてー! なんだよなんだよー! 上から目線でよー! 人よりちょーっと足が遅いだけじゃんかよー! あたしだってちょーっと大きくなれば直ぐにみんなに負けないくらい足速くなるんだから!
まあ、なれなかったんだけどね。
あたしたちの団地はデカい。とにかくデカい。単なる鬼ごっこだって十四号棟まるっと使えばとんでもゲームに早変わりなのだ。
時々川原町団地全体を使っての鬼ごっこをしたりするんだけど、この日は十四号棟だけに限定しての鬼ごっこ。他の棟に行くのも自分たちの部屋に入るのも禁止。エレベーターも使いたかったんだけど、前に奏太と元気が閉まりかけてるエレベーターに飛び込んだ時に危ないから二度とやるなって怒られてからは禁止とした。確かに危ないからね。
この日の最初の鬼は元気だった。次に美優。次に修。奏太が捕まって、今度はあたし。逃げ回るのに全力出し過ぎてバテ気味のあたしは、十二階の階段室で余裕そうに笑う奏太の前で蹲ってたんだ。なんだろ、この屈辱感。思い返すだけでメラメラと怒りが湧いてくるねこれ!
「唸ってないでお前鬼な」
「わかってるし!」
「あ、三十秒数えなくてもいいぞ。どうせ追い付かれ」
「ほっ!」
「るとか」
「うりゃ!」
「絶対」
「ふぬーっ!」
「ないから」
「よ、避けるなーっ!」
マ! ジ! で! ムカつく! あたしは牛か! 闘牛士みたいにひらひら避けてさあ! 何がムカつくって、わざとギリギリで避けんの奏太は! わかるんだから!
「そういうゲームだろアホ」
「アホ言うな! よーし決めた! 奏太捕まえるまで鬼ごっこ終わるのなし! はい決まりー!」
「じゃあ一生終わらねえじゃんアホ」
「だからアホ言うなーっ! そんなにかかるわけないから! 奏太のバカ!」
「バカ言うな。じゃあ俺ら先に家帰って鍵閉めちまうかー」
「え」
「そしたら絶対捕まらないし」
「そ、それはルール違反でしょ!」
「好き勝手な事言ってるお前が悪い。よーしみんなー家にロック掛けるぞー!」
もはやいじめじゃんくらいな事を言いながら奏太が階段を降りて行こうとしてる。こうなった奏太は本当にやりかねない。夏菜は気を使ってくれるんだろうけど、奏太か元気が横槍入れるのは目に見えてた。しかもこの時のあたしはみんなよりポジション不利で、部屋から一番遠かった。
だから焦った。焦りながら考えた。みんなの足は無理でもせめて、奏太一人の足を止める方法を。考えて考えて考えて、ちょっと卑怯な方法が浮かんだんだ。
「ま、待っふぎゃ!」
「お?」
「い、いたぁい……」
勢いよく走り出すように見せて、わざと転んだんだ。この時、転び方が上手くいかなくておでこを打っちゃったのはナイショ。
「なーにやってんだアホ千華」
奏太は一瞬足を止めたけど、こんなの日常茶飯事だしと言わんばかりにけらけらと笑って階段を降りて行こうとした。だからあたしは、もう一芝居打った。
「う、うう……痛いぃ……」
嘘泣き、である。いやー姑息だわー。これほんとにあたしなのかってくらい、あたしらしくない行動だったよねー。
「千華? 何やってんだよアホ……」
でもでも、この時の奏太には効果覿面だったみたい。軽い口調ながらも大慌てて戻って来たあたり、本気で信じてたんだと思う。大慌てって何でわかるのかって、顔見ればわかっちゃうもん!
一段二段と奏太が登ってくる。まだだ。もうちょっと引き付けないと奏太は避けちゃう。ギリギリまで溜めて溜めて溜めて。
「引っかかったーっ!」
ここっ! ってタイミングで、奏太に向けて思いっきりジャンプした。そしたら。
「ほっ」
くるりと半回転をして、あたしのタックルを避けちゃったの。動体視力とか反射神経と瞬発力とかか諸々ヤバすぎ。なんつー小学生だったんだほんと。
悔しいっ。やられたー! って思いながら奏太の方を見たら、見た事ない奏太がいた。てっきり。余裕そうに笑ってる奏太がいるもんだと思ってた。でも実際そこにいたのは、血相を変えて、歯を食い縛ったような顔をしている奏太だった。なんでそんな顔をしてたのかってあたしが理解するまで、三秒も掛からなかった。
「危ねえ!」
「わ!」
あたしを躱したばっかの奏太が、あたし目掛けて飛び付いてきたんだ。その勢いで、あたしの事を抱き締めたんだ。何が起こってるのかわからないとか考える暇もないままに。
「いって!」
「わっ!」
苦悶に満ちた奏太の声と、ずしゃって音と、体がバウンドするような感覚が同時にやってきたんだ。
それでようやく気が付いた。あたしがやり過ぎてしまった事に。
奏太の助けがなければ、何も考えずに飛び出したあたしは階段十数段分の高さを頭から落ちていた事になる。そこに奏太が無理矢理割って入って、自分の体を犠牲にして、あたしを守ってくれたんだって。
「い……ってぇ……!」
あたしを抱えながら盛大に背中を打ち付けた奏太は、あたしの記憶にもないような、今にも泣き出しそうな顔をしていた。それでも奏太の腕は、しっかりとあたしを守っていてくれた。
「そ、奏太……」
「んだよ……さっさと降りろ……」
「う、うん……!」
慌てて奏太から降りて、痛そうにしてる奏太の体を起こすのを手伝う。指先でちょっと背中に触れただけで表情を歪めていた辺り、あたしが想像するよりずっとずっと痛かったんだろう。
「ご、ごめん……ごめんなさい……」
この時にはもう自分のしでかした事を理解出来ていたから、ごめんなさいが勝手に口から出て行ってしまっていた。奏太に申し訳なさ過ぎて、それこそほんとに泣きそうなくらいだった事、ばっちり覚えてる。
「ケガは?」
「痛くない……奏太のおかげ……」
「あっそ。てて……」
「う、動くのよくない……ちょっと待ってて。誰か呼んで」
「こんなのへーきへーき。よっ、と」
一目でわかるくらい無理矢理な笑顔を貼り付けた奏太が、勢いよく立ち上がった。
「ほら、なんてことない」
腕をぶんぶん降って平気アピールをしてるけど、ちょくちょく表情は歪んでた。つよがってるのがバレバレだった。
「おい奏太ー何してんだー。千華もー」
「うるせーなんでもねー」
急かす元気に、いつも通りの返しをする奏太。元気たちは下の階にいるからあたしたちの状況を把握出来ていなかったんだ。
「ほら、続きやるぞ」
「でも」
「でもじゃない。やるったらやる。ってそうか。今のは俺が捕まったって事になんのか。あーそこまで考えてなかったな……」
「そんなのいいからケガを」
「いいんだって。マジで大丈夫。そんなのいいから早くやるぞ。みんな待ってる」
「……奏太……」
「お?」
「ごめん……なさい……」
こうなった奏太は聞く耳持たない。だからあたしに出来るのは、謝る事くらいだけだと思った。
「あの……危ない事して……ごめんなさい……痛い思いさせて……ごめんなさい……」
「いや謝り過ぎ。大した事じゃ」
「そ、それと!」
謝るのは大事。でも、それともう一つ。もっと他に、言わなきゃいけない事があった。
「……ありがと……守ってくれて……」
ありがとう。これは絶対に言わなきゃいけなかった。だってこの頃よりもっともっとちっちゃい頃から言われてたんだもん。
ごめんなさいが言えない大人になったらいけない。でもそれ以上に、ありがとうが言えない大人になったらもっといけない、って。
あたしたちに教えてくれたの。今はもう会えなくなっちゃった、あたしのママが。
「別に……お礼とかいらない……」
奏太は少し、照れてたんだと思う。あたしにありがとうを言われる事なんて滅多にないもんね。あたしたち、ケンカばっかだから。
「けど……なんだ……一つ約束な」
「な、何を?」
「もう二度とやるな」
「うん……ああいう危ないのはもう」
「そっちじゃない」
この時のあたしは、奏太が何の事を言っているのか全然わからなかった。だからなのか、次に奏太の口から出てきた言葉は、今でもよく覚えている。きっと、あたしの記憶力が並外れていなかったとしても忘れられないくらい、鮮明に。
「嘘泣き」
どうしてって聞き返そうと奏太と目を合わせて、驚いちゃったんだ。
「嘘でもなんでも……そんなの見たくない」
奏太は、怒ってた。あと、ちょっとだけ寂しそうというか。あの日のあたしにはそんな感じに見えていた。
「う、うん……もうやらない」
「よし。おーいお前らー。うっかりアホ千華に捕まったから俺が鬼なー。六十数える間に逃げろよー」
「何やってんの奏太ー」
「なんかあったのー?」
「何もねーよー。数えるぞー。いーち。にー。さーん」
小蝿でも追い払うみたいに左手でしっしってした奏太は、もう怖い顔をしてなかった。
それが逆に、あたしは怖かった。怖くて、申し訳なくて、辛かった。
結局、この短い人生でこの日が唯一だった。鬼ごっこで鬼になって、誰かを捕まえられたのは。
ちっとも嬉しくなかったのは、言うまでもないと思う。
* * *
「む、無理! ちょっと休憩しよ休憩!」
「えーもう休憩ー?」
「千華のへなちょこー」
「っていうか千華足遅過ぎー」
「小学生にやられっ放しで恥ずかしくないのー?」
「ねえ今どんな気持ち? ねえねえどんな気持ち?」
「男の子に勝てないのはわかるけど、わたしたち女の子にも勝てないのはヤバいよ」
「それあるー。千華ちゃんマジやばー」
「ぐぅ……!」
キレそう。でも堪える。なんたってあたしは、大人の女だからっ。
「僕さっき千華のパンツ見えたー」
「なぬっ!?」
「水色のヤツだった」
「えー? 水色とかだっせー」
「子供パンツじゃん」
「やっぱ大人なら黒いスケスケの穿かなきゃだよなー」
「それそれー」
「千華のガキー」
「千華ってその辺の小学生より小学生みたいだよねー」
「千華みたいな意識低い系女子が少子高齢化社会を無意識に助長するダメな大人になっちゃうんだろうなあ」
「わたしより結婚遅そう」
「かっちーん! 好き放題言ってくれるじゃんかチビたちー! なんだよなんだよー! 揃いも揃ってあたしの事バカにしてー! っていうか水色のパンツ可愛いだろー!?」
「あ、キレた」
「大人気ないよなー」
「あたしは大人だから何言われても怒らないーとか思ってたんだろうなー」
「そういうとこがガキなんだよなー千華は」
「そんなんだから永遠の小学生とか結婚から一番遠いロリとかやはり千華ちゃんの標準装備がランドセルでないのは間違っているとか言われるんだよ」
「うるさいうるさーい! 大体どこの誰がそんな事言ってんの!? 絶対頭おかしいでしょその人!」
あたしって知らない所でそんな事言われてんの!? 単なる陰口ならどうでもいいけど変な方向に尖ってるのは気になるねえ!?
「いいから続きやろうよー」
「あたしが鬼やってあげるって千華が言い出したんじゃんかー」
「だったら最後までちゃんとやれよなー」
「そーだそーだー」
「はいはいわかったわかった! その代わり五時までだからね! カラスと一緒に帰りましょだからね!」
「じゃあ五時までヘバんないで鬼やってよ」
「俺らは休憩しながら逃げるから」
「あたしがずっと鬼やるみたいに言うな!」
「だって、ねえ?」
「千華ちゃんだし」
「ぐぬぬぬぬぬぬーっ! 今に見てろよちびっ子共ー! いーち! にー! さーん!」
大きな声でカウントを始めたけど、ちびっ子たちは世間話をしながらゆーっくりとあたしから離れていくだけ。完全に舐められている。見返してやらねばなるまい。大人をバカにしたらいかんのだよ諸君!
「よーん! ごー! ろーく!」
「さーん」
「さーん!」
「いーち」
「いーち! っておい!」
「お、古臭いノリツッコミ」
「さすな! おかえり!」
「うい」
十四号棟の一階で叫ぶあたしの邪魔をして、買い物帰りの奏太は笑った。
「何してんだ?」
「チビたちと新年初鬼ごっこ」
「やめとけ。泣かされるだけだ」
「泣くか!」
「つーか急にどした? いつもなら断ってるとこだろ」
「うーん……なんとなく?」
「なんとなくねぇ」
「なんとなくっていうか……あれ! 思い出作り!」
「思い出作りとな」
「そ! ほら、あたしはもう直ぐアメリカ行くわけじゃん? だからチビたちにあたしとの愉快な思い出を作ってあげようっていう優しさよ優しさ!」
あたしがいないと寂しがる子が出て来ちゃうからね。少しでも楽しい思い出を残してあげたいじゃん? 長期休暇とかには頻繁に帰ってくるつもりだけとさ。スーパーな医者をを志すあたしが子供たちに千華ロスを発症させちゃうわけにはいかないもんね! なんかいいね、千華ロス! 今年の流行語狙えるんじゃない!?
「こんなクソザコナメクジに負けるわけねーじゃん草。みたいなテンションのチビたちに思い出を作ってやるってのはわざとボロ負けする事でチビたちに思い出を作ってやろうって意味で」
「わざと負けたりするかー! あとクソザコナメクジちゃうわー!」
「じゃあ本気でやられてると。やっぱクソザコじゃんか」
「やかましーっ! もう奏太なんかしらない! よーし行くぞーわんぱく小僧小娘どもー!」
「なあ」
「何!?」
「お前がしたいんだろ?」
「何を!?」
「思い出作り」
「……いけない?」
そういうのはさあ? 聞かなくていいんじゃない? 聞かれたら、言わせられちゃうじゃん? 今こうして、曖昧な肯定をしちゃったみたいにさあ。
「いんや。いいと思う」
「……もう行くから」
「楽しんで来い」
「……ねえ」
「お?」
奏太もやろうよ。昔みたいに、一緒に鬼ごっこしようよ。
「……お風呂沸かしといて」
「へーへー」
あたしの中にあるものと全然違う言葉を受け取って、奏太はエレベーターに飲み込まれていった。
「はあ……」
らしくないかもね、溜息なんて。でも、わかんないんだよね。昔なら何も気にせず言えた言葉が言えなかった理由、さっぱりだよ。
「おーいのろまの千華ー」
「早くしなきゃ明日になっても捕まえられないぞー」
「んなわけあるかーい! いくぞいくぞいくぞーっ!」
エレベーターに。奏太に背を向けて、いつの間にか一つ上のフロアに移動していたチビたちを追い掛けるべく走り出しながら、こんな事を思っていた。
あたしたち、変わった。
きっと、あたしがきっかけで。
惜しいとか寂しいとか惜しくないとか嬉しいとかそういう話じゃない。けどね、昔のあたしたちをこのままにしておくのも、今のあたしたちを今のままにしておくのも、あたしたちをダメにしちゃうんじゃないかって思えてならないの。
渡米まで二ヶ月とちょっと。
その日までにしなければならない事は、まだまだ山積みだ。
* * *
「こーら!」
「ひゃいっ」
「目分量はダメって言ったばかりでしょ。ちゃんと計量スプーンを使いなさいっ」
「いやあ、大体これくらいだよなあって」
「そこを面倒臭がらないの。本に書いてある分量を守る事は、この本を書いた人が作った料理の味を引き出す事に繋がります。人生の先輩が残してくれた貴重な情報を無碍にする事は許しません。わかった?」
「あい、しゅいましぇん」
「ほら、ちゃんと計って砂糖入れる。使うさじを間違えないように注意!」
「いえすまーむ」
言われるがまま、大きさの違うスプーンが四本束ねられている計量スプーンで砂糖を掬い上げる。わざわざ視認しなくても、料理の先生の視線がビシビシ刺さってるのがわかる。痛いから痛いから。
「それにしてもなあ……んふふー」
「何笑ってんの?」
「なんか……嬉しくて」
「元気と同棲始めた事?」
「そ、そうじゃなくて!」
「嬉しくないの?」
「嬉しくなくないよ! そういう話じゃなくて、料理を出来るようになりたいって千華ちゃんが言い出してくれた事が嬉しいのっ!」
あーそゆことかー。っていうか夏菜、顔真っ赤じゃん。マジかわ。あたしの次くらいに可愛い。
チビたちの鬼ごっこに付き合ったその夜。夏菜の部屋に突撃。ん? や、ここは元気の部屋か。でも夏菜も一緒に暮らしてるんだから夏菜の部屋でもいいのか。なんかよくわかんくなるなーこの感じ。
「春からアメリカだしねー。ちゃんと自炊しろよってケイトに言われちゃったし、夏菜みたいな頼りになる先生がいるんだから教わらない手はないよなあって思ってさー」
「た、頼りになる先生だなんてもうっ! 褒めたって何も出ないんだからっ!」
「痛ぁ!?」
夏菜の喜びそうなワードを混ぜ込んでみたら思いっきり肩叩かれた。砂糖入れ終わった後でよかったわー。
「でもでもっ、とってもいい心掛けだと思うよ! これからの事を考えたら料理は出来た方がいいもん絶対!」
「これからってつまり、夏菜と元気みたいに誰かと同棲を」
「もーっ! 千華ちゃんはもーっ! 私たちの話じゃないよーっ!」
「あう! あぅっ!」
今度は二回、肩を叩かれた。夏菜ってば、照れ隠しの破壊力が増したわね。恥ずかしそうにしていただけの今までとは違って、物理的な方面で。
「ほらほらっ。そういう話は後にして、今度はお醤油とお塩入れてねっ! どっちもほんのちょっと入れればいいからねっ! そしたらかき混ぜるからねっ!」
「なんかめっちゃテンション高いね」
「そんな事ないからねっ!」
いやめっちゃニコニコじゃんめっちゃ嬉しそうじゃんめっちゃ体クネクネしてるじゃん。なんだこの女子女子した女の子は。
同棲を始めてから一日二日くらいは、なんかもうひたすらにテンパってる感じだったけど、年が空けて数日経ったらこうなっていた。どうやら照れるよりも嬉しいが先に来てるらしい。
正直驚いたよ。いつの間に二人がくっ付いんだーとか、からのいきなり同棲だとーとか、もう驚く事ばっかりだった。でもでもそこは夏菜と似たようなもんでさ。驚いたーよりも嬉しいやったー! が先に来てさ。だったらもう、素直に祝う以外ないじゃん。
これ以上ここで言ったら今度は肩に穴開けられるんじゃないかくらいの三撃が飛んで来そうだから胸に留めておくけど、ほんとにおめでと、夏菜。めちゃくちゃ嬉しいし、めちゃくちゃ尊敬しちゃうよ。
「っていうか元気は?」
「お仕事終わりでそのまま会社の人たちと新年会なんだって」
「あらま。新妻ほったらかしてな」
「もうっ! 千華ちゃんってばエッチな事言わないのっ!」
「エッチな事なんて言ってなはぁっ!? 肩痛いーっ!」
「変な事言う千華ちゃんが悪いのっ!」
三発じゃなくて一発だったけど、破壊力ありすぎ貫通力ヤバすぎ笑えない。恋する乙女パワー、恐るべし。
「えと……かき混ぜまぁす……」
「そうしてそうして! あまり勢いよく混ぜ過ぎない事! 泡立ったりするのはよくないからね! 気を付けてね!」
「はーい」
との事なので、ぐるぐるーっと菜箸でかき混ぜる。夏菜の見せてくれた料理本には、切るように混ぜる、なんて書いてあったけど意味がわかんない。何さ、切るようにって。侍スタイル的な話なの?
「そういえばなんだけど」
「んー?」
「どうして卵焼きの作り方が知りたかったの? 料理なら他にもいっぱいあるのに」
「この前くろちゃんがふじのやで卵焼き作ったって話聞いたから」
「それだけ?」
「それだけ」
「千華ちゃんらしいね。卵焼きもいいけど、炊飯器の使い方とかも覚えなきゃダメだからね?」
「それならもうマスターした!」
「でもこの前ケイトさんが来た時はべしょべしょご飯になっちゃったんでしょ?」
「アレは炊飯器の方が調子悪かっただけだから!」
「機械の所為にしないのっ。順調逆になっちゃったけど、卵焼き出来たらご飯も炊いてみよっか。見ててあげるから」
「夏菜先生ありがとう!」
「お礼はいいから手元に集中っ。他にも何点か作ってみよっか」
「はーい! じゃあ今日は夏菜とご飯かー」
「……だね……」
「おろ? 急にどしたの?」
数秒前までのご機嫌っぷりは何処へやら。なんだか申し訳なさそうにもぞもぞし始めちゃった。
「いや……その…………気を使わせちゃってるよね……」
「ほえ? 何の事?」
「私と元ちゃんがこういう事になってから……みんなでご飯食べる事減ったなって思って……夜だって前は毎日のように修ちゃんの部屋に集まってたのに最近全然だし……」
「あーそゆことかー。って、まだ同棲始めて一週間くらいじゃん。だってのに何を」
「ううん、わかるの。これから更にそういう、前の私たちには当たり前だった時間が減っていっちゃうんだって。私たちの所為で。だから……」
言われてみれば確かに。夏菜と元気が付き合い始めてからみんな揃ってご飯を食べたのって、元日にふじのや行った時だけだったね。修の部屋に集まったのは一回もない。確かに、明らかに頻度は落ちてるね。言われるまで考えもしなかったや。
「でも夏菜だって同棲始めたばっかの今はそういうさ、同棲らしい事っていうの? たくさんしてみたいってのはあるんでしょ?」
「それは…………そうなんだけど……でもみんなとの時間が減るのも嫌なの……」
「欲張りさんだねー夏菜は。じゃあ一日を四十八時間に延ばすかー!」
「それは何の解決にもなってないよっ。そうじゃなくて…………その……難しいね……今まで通りって……」
「難しいっていうか無理なんだよ。わかってるんでしょ?」
夏菜は元気が好きで、元気と一緒になった。いつも一緒にいた六人の中の二人がくっ付いたんだ。その上夏菜は、元気のとこに引越しをした。距離にしたらだったの数メートルの引越しだけど、確実に環境は変わった。
これだけ大きな事が変わったんだから、そりゃあお互いに気を使ったりしなきゃいけない部分はどうしたって出て来ちゃうよね。
「全部全部今まで通りでなんていられるはずがない。何も変わらないはずがない。それが理解出来てない夏菜じゃないもんね」
「それは……」
「それでも一緒になる事を選んだのは夏菜だもんね。なら、そういう変化も受け入れていくしかないよね」
む。なんかトゲのある言い方になっちゃった。反省。でも事実だ。
「今のうちにもっと慣れてもらわなきゃ。春からあたしはいなくなるし、美優と修もここ出るって言うし。奏太はまだわかんないけど、あたしたちの距離は余計に遠くになっちゃうんだからさー。ね、これくらい混ぜればいいの?」
「う、うん……大丈夫……」
「じゃあ次は卵焼き器に油を入れてー」
「あ! ちょっとね! 入れ過ぎ注意!」
「ほいさー」
独断先行しようとするあたしを見て慌てたらしく、急に声が大きくなった。そんなに心配しなくたって大丈夫なのになー。
「これくらい?」
「うん。それを全体に伸ばしたら火を付けるの。弱火ね。器が温まって来たら溶いた卵を入れるの。あ、いきなり全部入れちゃダメだから」
「なんで?」
「少しずつ入れていった方がふわふわに作れるの」
「なるほど」
言われた通りに弱火を付けて器を載せる。なんかそれっぽくなってきた!
「じゃあ……千華ちゃんは?」
「ほえ?」
「千華ちゃんだって、自分がアメリカに行くって言ったらいろんな事が変わっちゃうんだってわかってたんだよね?」
珍しい。夏菜が攻撃的だ。しかも剥いてる牙を隠してない。どうやらあたしは、悪い方向に刺さるような事を夏菜に言っちゃったらしい。
「うん。わかってた」
「実際、いろんな事が変わり始めた事に気付いてたよね」
「うん。気付いてた」
「でも見て見ぬ振りしてたよね」
「うん。気にしないようにしてた」
「どうして?」
気にし始めちゃったら、決心がぐらついちゃいそうだったから。
「遅かれ早かれ来る時が来たんだなーくらいに思ってたからね。だからあれこれ考えても仕方ないじゃん?」
喉元に隠している言葉と、今言った言葉。どっちが本当でどっちが方便なのか、自分でもわかんないや。もしかしたらどっちも本当だったり、どっちも方便だったりするのかなあ。
「なんてったってあたしには、アメリカでやらなきゃいけない事があるからね」
「その……アメリカでやらなきゃいけない事ってヤツなんだけど」
「教えないよ?」
「うん、それはいいの。聞こうとも思わないの。でもね、これだけは答えて欲しい」
「うんうん」
「アメリカに行ってどうしてもやりたい事って言うのをやりきったら、千華ちゃんはどうなってるの?」
そこまで先を見据えた事はなかったなあ。それなりの年齢になったあたしは相変わらず世界一可愛くて世界一のスーパーな医者になってるんだろうけど。
きっと、この団地で朝を迎える日々に戻ってくる事はない。
それだけは、はっきりしていた。
まだ言えない。その時じゃない。
「うーん…………その時は……超有名になってる! くらいしかわかんないや!」
「有名になってるんだ」
「うん! 多分ね!」
「じゃあ、世界一可愛い千華ちゃんが本当に世界に認知される時がいつか来るんだね」
「そうなのそうなの! そうなったらヤバイぞー! 何がヤバイって、色々ヤバイぞー!」
「わかんないよそれじゃ……そろそろいいよ。溢さないようゆっくり、少しずつね」
「ほいほい」
ゴーサインが出たので、ゆーっくりと器の中に卵を注いでいく。器一面に黄色が広がったところでストップされたので手を止めて、軽く混ぜておいてと言うので言われた通りに黄色い海に小波を立てる。なんかこの細かな作業をしてるの、キッチンに立ち慣れてる感出ていいね! やってる事の意味は全然わかんないけど! これからも全く同じようにやっていく事にしよ。
「半熟くらいになるまでそのままね」
「よっしゃ! なんかお腹減ってきた!」
「だねー。どう頑張っても卵焼きだけ先に出来ちゃうからご飯とかはこれを食べてからにしようね」
「はーい!」
「……そっか……もう直ぐなんだね……」
「夜ご飯?」
「じゃなくて」
「あたしたちとのお別れ?」
「うん」
「寂しい?」
「寂しいけど大丈夫。寂しいだけじゃ終わらない私になる予定だから」
「予定なんだ」
「うん。予定」
「そっか」
なら、予定通りになるんだろうなあ。だって夏菜だし。どれだけ時間が掛かろうとも、立てた予定や目標は必ず形にするのが夏菜だからね。
あたしたち六人の中で一番タフなのは、強いのは誰か。間違いなく夏菜以外の答えは一致する。夏菜以外あり得ないって。それくらい夏菜は、芯の強い子なのだ。その夏菜が誰を選ぶのかちょっと興味あるなあ。やっぱ元気かなあ。
「でもね?」
「んー?」
「時々……帰って来てね?」
「もっちろん! 向こうで頑張って積み重ねた成果を夏菜に見せに来なきゃだし! 夏菜はあたしの先生だからね!」
「じゃあ千華ちゃんが帰って来た日の夜ご飯は千華ちゃんにお任せっていうルールを作ろう。はい作りましたっ。決まりー!」
「強引だねえ!? まあいいけど!」
ますますサボれなくなっちゃったねこれは。まあ、なるようになるよ。多分。
「とはいえまずは渡米までの事を考えなきゃだなー。料理もそうだし家事全般もそれなりになっとかなきゃケイトに怒られるし、英語の発音も頑張らなきゃケイトに怒られるし……っていうかケイト、あたしに怒り過ぎじゃない? なんでいつもあたしばっか怒られなきゃいけないの!?」
「千華ちゃんの事が可愛くて仕方なくて、心配で仕方ないんだよ」
「可愛いのはわかるけどこうも過保護にされたんじゃ息苦しくなっちゃうんだよなー」
「心配させ過ぎてる千華ちゃんにも問題アリだからねー?」
「可愛い過ぎるのも罪なのね……」
「聞いてないね……あ、そろそろ良さそう。菜箸を使ってくるくるって卵を巻いていくの。出来そう?」
「余裕余裕ー! 見ててねー!」
とか言いつつちょっと緊張するなこれ。テレビでよく見るチャーハン鍋ガッシャガッシャーみたいなやり方じゃないけないのかな?
「もう一つだけ聞いていい?」
さてやりますかと菜箸を握り直したあたしの手を、夏菜の声が止めた。
「千華ちゃんがアメリカでどうしてもやりたいって事をやりきった時に」
「うんうん」
「えっちゃんは、笑ってくれそう?」
ううん。絶対笑ってくれない。
「…………ほっ」
何も言わずに菜箸を握り直し、くるくるりと卵を巻いてみると少しだけ、黒い焦げが出来てしまっていた。
それがどうしてか異様に気になって、また手が止まってしまうのだった。
* * *
「はいあけおめ。はいことよろ。えー」
「いやいやいい歳したおじさんがそれで新年の挨拶済ませるのどうなの?」
「いい歳したは余計だ」
友達ノリで絡んでいくクラスメイトと、そのノリに乗っかってくれるやっちゃん。数週間振りに見る光景だ。
「えー今日から三学期だ。各々受験就職等で忙しくなるだろうが、自由登校日以外はきちんと出席するように。さっき配ったプリントは今後のスケジュールだ。失くしたり捨てたりする事のないように。いいな」
はーいとかほーいとか気の抜けた疎らな返答に目付きの悪くなるやっちゃん。いや怖いわ。
「それから……これからの数週間は、お前たちの今後の人生に大きな影響を与える数週間になる。だから精一杯、悔いの残らないように頑張れ。俺も全力でサポートする」
目付き怖いまま、やっちゃんがカッコいい事言った。
「なんかやっちゃんが教師らしい事言ってる」
「そういややっちゃんってうちのクラスの担任だけど教師でもあったんだな」
「リアルに忘れてた」
「いや担任なら教師でしょ」
「やっちゃんがマジトーンだったし今夜は雪かなあ」
「お前らなあ……!」
やっちゃん、プッツンまで五秒前。
やっちゃんのネチネチしたお説教で登校初日を締め括りながら、あたしたちの今後を大きく占う数週間が始まった。
それはあたしにとって、日本の最後の学生生活が終わるまでのカウントダウンが始まった瞬間でもあった。
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