タイムリミット
「あうぅ……」
放課後の教室。謎の呻き声を上げる、妙ちきりんな生き物が一匹。
「どうしよ……」
どうしようどうしようどうしよう。何も良い案が浮かばないよぉ……正面切って言うしかないって事はわかってるの。わかってるんだけど……。
「もう明後日まで迫ってるのにぃ……」
明日が終業式で、明後日から冬休み。この短めの長期休暇の初日が、元ちゃんの誕生日。元ちゃんにとってもみんなにとっても私にとってもすっごく大切な日。なのに。
「まだ何も言えてないよぉ……」
私がトロいから。ヘナチョコだから。言わなきゃ言えない事を、まだ何も伝えられていない。でもねでもね、一応理由があるの! ほとんど言い訳みたいなものだけど、すっごく言い辛くなっちゃう理由があったの! それって言うのがね……。
「あれ、白藤?」
「あぅ?」
「一人でなーにやってんだ」
教室前方のドアからひょこっと顔を出したのは、隣のクラスの謙ちゃんだった。
「け、謙ちゃんこそどうしたの?」
「進路の事で担任とちょっとな。白藤こそどうしたんだよ?」
「え、えと…………考え事……」
「松葉の事か」
「どっ、どうしてわかるの!?」
「いろんなヤツに言われてるだろ? 白藤はわかりやすいんだって」
「そんなにかなあ……」
「そんなにだよ」
一つ前の席に遠慮なく座り込んで、私の顔を覗き込む謙ちゃん。凄いなあ。緊張とか気不味いとかそういうの、これっぽっちも表に出してないよ。
「で、どうかした?」
いや。ううん。ダメとか。凄いとか言ってちゃいけないの。謙ちゃんが淀みなく笑ってくれるのに、私がフラフラしてちゃダメなの。ちゃんとしろ、白藤夏菜っ。
「その……明後日の事なんだけど……」
「誘えた?」
「それが……」
「まだなのか。なら今夜凸るしかないな」
「そうなんだけど……」
「うん?」
興味津々そうな謙ちゃんに話していいものかと少しだけ迷ったけど、謙ちゃんの目を見てたらそんな迷いはどっかに行っちゃった。
元ちゃんの事だろうとどんな事だろうと私は、謙ちゃんを頼っていいんだ。謙ちゃんだって、それを望んでいるんだ。
「……ちょっとお話聞いてもらっていい?」
「無理矢理にでも聞き出すつもりだったよ。聞かせてくれよ」
「うん……」
歯を見せて笑ってくれている。この笑顔と優しさに泥を塗るような真似をしちゃいけない。だから聞いてもらもう。現在の私の状況を。
という事で、日本語へたっぴなりに頑張ってまとめて、謙ちゃんに近況をご報告。
「つまり。元気は誕生日当日にバイク仲間と遊ぶ予定が一月近く前から入っていて、誘うに誘い辛くなっている。んで白藤はどうしていいかわからなくて二週間近く一人で悩んでいる、って事か」
「うん……」
この話を聞いたのは全くの偶然。
「なあ元気ー。中学時代のダチもイブの日連れてっていいー? イカした単車持ってるくせにバイク仲間全然いないって嘆いててよー。なあいいよな!?」
二週間近く前。校内をみんなで歩いてる所に、私と二年の時に同じクラスだった男の子が元ちゃんと楽しそうに話す現場に言わせて初めて知ったの。元ちゃんの今年の誕生日は既に予定が埋まっていたという事を。
その場にいた奏ちゃんの追求により、一月前から仕事の休みを取っていた事まで聞けちゃったもので余計に動き辛くて。だって、一ヶ月近く前から予定していた遊ぶ約束だよ? 絶対楽しみにしてるヤツだもん。
そんな元ちゃんにさ、その日お友達と遊ぶのはやめて! 私と遊ぼう! なんて言えるわけないよ……。
「元気の楽しみを奪うのが申し訳ない、って感じか」
「はい……」
「真面目な白藤らしいけど、そこで二の足踏んでちゃスタートラインにすら立てないままクリスマス終わっちゃうぞ?」
「わ、わかってるんだけど……」
「うーん……俺も思考が柔軟な方じゃないけど……この場合はアレだ。簡単だ」
「簡単って何が?」
「白藤のやるべき事」
「私の?」
「そ。要するに、白藤は松葉の楽しい時間を奪っちゃうのが気が引けるし、そもそも誘いに応じてくれるかわからないってんだろ?」
「うん……」
「そういう事なら、俺に任せてくれ」
「うん…………う、うん!?」
「白藤の悩みを全部どうにか出来はしないけど、ある程度の事なら俺が引き受けられる。策も浮かんだ」
「ちょ、ちょっと待って謙ちゃん! 引き受けるって……」
「そのまんまだよ。白藤と松葉がクリスマスイブにデート出来るようにする、って事。元気と約束してる連中には悪いけど、奪うぞ。元気の一日。何、上手くいくよ。だから俺に任せてくれ」
自分の胸をドンっと叩く姿には、絶対に上手く行くって自信の表れが見える。そんな手段、あるの? というか……その……。
「俺を頼る事を躊躇しているのなら、それは俺への侮辱みたいなもんだからな?」
「ひ、ひえっ!? あのあのえとえと」
「そんなガチ動揺してくれるな。今のはちょいキツめに言ってみただけだから。とにかく、ここは俺を頼って欲しいな。白藤一人じゃ難しい事なら俺も一緒にやる。そんだけの話だよ」
「で、でも……」
「この前言ったろ? いつでも頼ってくれって。必ず力になるって」
「それは……」
「それとも白藤は俺を嘘つきにしたいのか? あーそれは悲しいなー寂しいなー辛いなーとっても辛いなー」
「ち、違う! 違うよっ! そういう事じゃなくて!」
「だよな。わかってる。だから白藤も、俺の事わかってくれ」
なんちゃってと、小さく付け足しながら頬を掻く謙ちゃん。自分の発言に照れているんだね。でも、後悔はしてない。って表情だ。
謙ちゃんの事はすっごく信じてる。すっごく頼りなる。二人でサッカーボールをパスし合ったあの日、私が言ったセリフだ。
今この場で、謙ちゃんが伸ばしてくれた手を取らない事は即ち、謙ちゃんの事も、私の事も嘘つきにしてしまう事に、信頼と期待を裏切る事になってしまう。
だったら、どうする? 私はどうしなくちゃいけない? 決まってる。答えは一つだけだ。
「……じゃあ……」
「うん?」
「いつか……お礼するから……」
「そうか? じゃあ今度ふじのやでタダ飯食わせてもらっていい? 白藤お手製のスタミナの付く定食的なヤツ」
「うん……約束する……」
これは、元ちゃんの事云々とは別の話。信頼。期待。約束。謙ちゃんと私の間にある物を大切にしたいんだ、私は。
謙ちゃんは私の一番の友達なんですって、ずっとずっと胸を張って言い続けられる私たちでいたいの。
「よーっし決まりぃ! じゃあ早速動きますかー! なあ、白藤がその話聞いたヤツって一組のなんてヤツなんだっけ?」
「えと……ちょ、ちょっと待って! あの、私は何を……」
「当日着ていく服とかそういうのは男の俺がどうこう言うのもアレだし……とにかく白藤は考えていてくれ」
「デートプラン、みたいなの?」
「違う違う。あいつの本来の予定なんかよりもずっとずっと楽しい思い出を作ってやるんだ、って事をさ」
そう言って、ちょっと得意げな感じに、謙ちゃんは笑った。
* * *
「いや、延期ってなんだよ? 年明けてから? 初耳なんだけど!? そうだよ、誰からも聞かされてねえよ! 俺だけハブにしようってか!? つーか俺らでグループライン作ったろ? なんであっちにその連絡を……お、おいちょっと待て! まだ話は……切りやがった……なんなんだよもう!」
「ひいっ」
キレ散らかす俺の直ぐ側で縮こまる夏菜。屈みこんでてもデカイなチクショー。俺に少しくらい寄越せってんだその身長。
「あ、あの……元ちゃん……」
「あんだよ?」
「ひゃいっ!? な、何か……?」
「話し掛けて来たのは夏菜の方だろうが」
「そっ、そうだね! そうだよね!……えと…………あぅ……」
いつも以上の屁っ放り腰。悪い事してます感全開。この有様だけでもう明白だ。
わーってるよ。夏菜が裏で手を回してこの状況を作ったんだろ? 誰かしらの協力を得て。なんならその協力者が首謀者まであるだろこれ。こういう性格の夏菜だし、俺の約束を歪めて時間を奪うだなんてパワープレイ、誰かの後押しなしじゃ絶対に出来ないだろ。
協力者はうちの団地内の誰か。一番可能性高いのは修だな。次点で美優と奏太。あとは謙之介……いや、ないか。謙之介が夏菜に協力なんて、あり得そうだけど絶対にあり得ない。だって謙之介、夏菜に惚れてるし。ケイトさんはそもそもあり得ない。私ルールとやらに反するような事しないでしょ。あの人がしないって言ったなら、それは絶対だ。
ま、誰だっていいさ。今考えるべきは、誰かさんらと夏菜によって楽しみにしていた時間を奪われた事実と、その時間をどうやら、この挙動不審な女の子が無理矢理に埋めるつもりらしいという事である。
いやないわ。はっきり言う。ムカつく。ダメだろこれは。
「あの……ね? その……えっと……」
恐らく今日一日俺に付きまとうというか、俺を楽しませ、何やらビックリ発言を俺にするつもりでいるのだろう夏菜は何も言えずにあたふたするばかり。そういう子だって知ってはいても、この歯切れの悪さがいつになく腹立たしい。今口を開いたら兎にも角にも怒鳴り散らしちまいそうなくらいにはイライラしてるよ。
「えっと……今日は……」
言いたい事があるんだろ? 目的があるんだろ? さっさと言ってくれ。でないと余計にイラついちまうぞこれ。
「だから……あの……えっと……」
躊躇っているのか、自分がやった事への罪悪感に苛まれているのか、視線を右往左往縦横無尽に泳がせている。
「えと……えっと…………え、えっと……」
何回えっとえっと言うんだよ。昔のお前に逆戻りか?
「その……元ちゃん…………えっと……」
いや言っちゃえってもう。こちとら色々察してんだから。これ以上のダラダラはどっちも得しないだろ。
「その…………きょっ! 今日はね!」
お、遂にか。
「今日は…………えっと……」
「だーもう!」
「ふにゃ!?」
「なんだよさっきから!? 用がないなら帰るぞ!」
用がないならじゃねえよバカ。用があってもなくても帰れよ。つーかキレるな俺。
「あ、ある! いっぱい用あるの!」
「だったらそれを言えよ。早くしないとマジで今すぐ」
「わ、私と! デートっ! して欲しいの!」
あーそ。そうなの。それ、言っちゃうんだ。って、なんなんだ俺。言って欲しいのか欲しくないのかどっちなんだよ。
「って言われても今日は」
「や、約束があったんだよね!? でもその約束は延期になったんだよね!?」
「そうだけど……」
延期にしたんだろーがお前らが。怒っちゃうぞ。
「だったら今日は何の予定もなくなったって事だよねっ!?」
「まあそうなるな」
「なら!」
「帰って昼寝すっかー」
「待ってっ!」
「あ! こら!」
抱えていた俺のヘルメットを奪い取りやがった。おいおい誰だよ。こんなお行儀の悪いパワープレーを夏菜に仕込んだのは。
「その……私と……デート……」
「……急にどうしたんだよ?」
「きゅ、急じゃないの! ずっと前から考えてたの! ずっと……ずっとずっと……」
まだ傷一つないヘルメットを抱き締める夏菜の頬が、ほんのりと赤い。あーそ。いよいよもって隠すつもりもねーと。隠せていなかった事は置いといて。
「今日じゃなきゃダメなのか?」
「今日! 今日がいいの!」
「どうして?」
「それは……その…………あ、あれ? なんでだろう……」
「いやお前がわかんないのかーい」
「だ、だって! なんか特別っぽいかなとかちょっと思って! だから……それ以外……全然考えてなくて……」
「真面目な癖に計画性がない。割と行き当たりバッタリ。夏菜らしいな」
「い、言わないで……」
ヘルメットに額を落とし、顔を隠してしまった。どうやら本当に、今日この日をデートとやらの実行日にした理由はないらしい。この分だと、誕生日ならではーとか、クリスマスイブならではーみたいなサプライズも用意していない……かな?
「変わんねえな。お前は」
「あぅ……」
おかしいよな。俺とは違って、全然強くなったのに。全然大人になれてるのに、昔と何にも変わってねえの。おかしさしかねえわ。
「んで、どうすんだ? 俺はまだ家に帰るつもり満々なんだが?」
「ダ、ダメ! それは……えっと……そ、そう! 困る!」
「困るて」
「その……勝手な事言ってるのも勝手な事してるのもわかってる……ごめんなさいしなきゃいけない事たくさんある……でも……」
「でも?」
「もっと勝手な事に……わ、私のわがままに……付き合って欲しい……」
「わがままって?」
「私に……付いて来て欲しいの……」
「付いて来いって? 俺が? 夏菜に?」
「うん……」
弱々しい言葉とは裏腹に、そうなのその通りなのほんとそうなのとでも言わんばかり、何度も何度も縦に振られる首。無理矢理付き合わさせられるみたいにポニーテールに結われた髪が踊る。
いや。なんだよこれ。なんだよそれ。
「…………っく」
「く?」
「ぅは……」
「あの、元ちゃん?」
「ぷっ! あはははは!」
「い、いきなりどうしたの!?」
いやバカお前。こんなの笑うに決まってんだろ! いつでも俺の後ろを付いて歩くばかりだった夏菜が! 自分の後を付いて来いってよ! 笑わずにいられねえよこんなの!
「いやーなんでもねえなんでもねえ。ちょっと面白い発見があっただけ」
「面白い発見……ま、まさか……私の格好どっかおかしいかな……か、髪とか!? でもでも早起きして頑張ったし……可愛いリボン選んだし……何度も確認したし……はわっ!? い、今のはなんでもない! なんでもないからっ!」
勝手に自爆してあたふたしている。自分の発言がどれだけ俺に刺さるものだったかなんで気が付きもしないんだろうな。
いつも誰かの背中に隠れていた。自分がそうして生きてきた事を夏菜自身が認めているし、それを誰かに言う事も厭わない。しかし夏菜は、それは昔の自分の事だと割り切っている。言い方を変えるならば、今の自分はそうじゃないんだって思えている。少なくとも、そうじゃない自分になろうと努力を重ねている自負がある。
それが形になっている事を。夏菜はとっくの昔に、一人きりでも歩けるようになっていた事くらい、知ってたよ。だってこいつ、これでもかって俺に気付かせにくるんだもん。
例えば食事。例えば登下校。例えば俺の部屋で夏菜の部屋で。例えばふじのやで。
こうして二人きりで向き合うたびに、何かしらの形で、昔の自分とは違うんだって突き付けられてきた。何か直接的な言葉だったりするわけじゃないんだ。ちょっとした発言一つだったり表情一つだったり所作一つだったりがさ、俺に教えてくれるんだ。夏菜は大きく、強くなってんだって。
他の誰かじゃ絶対気が付けない。でも俺だからわかる。何故かって、生まれてからずっと一緒だったんだぞ? 気付くに決まってらあ。
そうして、同時に気付かされるんだ。夏菜が大きくなる過程を見上げているだけの、小さな自分に。
わかってるよ。夏菜が俺の後ろを歩いているって言い続ける事で、思い続ける事で、子供の頃の光景を守っていただけなんだ。
俺の背中はとっくの昔に、盾の役割なんか果たしちゃいなかったんだ。
夏菜は強くなった。本当に強くなった。けど俺は、そのまま。もしかしたら、チビガキの頃より弱っちくなってるかもしれない。
今はもう、俺の背中に、夏菜はいてくれないから。
夏菜を守っていたんじゃない。夏菜に甘えていたんだな、俺は。
いやーもう。マジでダサいな。俺。
何がダサいって、そんな自分に気付いていながら、まだ縋っていたいと思う自分が、泣きたくなるくらい絶望的にダせぇ。
「はあ……」
「げ、元ちゃん? あの……」
「ん? 何の話だっけ? お前がいつもより頑張った格好してるって話だっけ?」
「そ、そうそう! ん? いやいや違う違う! そうじゃなくて!」
「あーそうそう。デートの話だったな」
「そうそれ! そ、それ……」
「うーん……デートかぁ……」
「あ、あの……怒ってる……?
「ように見えんのか?」
「ううん……見えない……」
「お前がそう思うならそれで正解だ」
「よ、よかった……」
「なあ、デートだっけ? それさ、いいのか?」
「いいって?」
「だから……いいのか? 本当に」
夏菜からバタバタの気配が消えて、真剣な顔で何かを考え始めた。俺なりにいろんな意味を込めたつもりの問いなんだから、しっかり考えてくれよな。
どうやら夏菜には、今日のうちに俺に伝えようとしている事があるらしく。問題はその中身。
それを言ったら最後。聞いたら最後。受け入れても拒絶しても最後。
もう、今まで通りには戻れない。
それだけは間違いないと思うから、俺は確かめるんだ。いいのか? って。
夏菜にはどこまで伝わっているだろうか。俺とは全然違う事を考えているような気がしないでもない。それでもいいんだ。もうこれ以上ゴネないから、しっかり考えてくれ。夏菜にとって、本当にこれでいいのかを。
「……いいの」
「いいのか?」
「うん。私は……これでいいの」
シリアスに寄り気味だった雰囲気は、夏菜の笑顔一つで消し飛んだ。
そっか。もう覚悟決めてんだったな。確認するまでもなかったよな。ここまで侵入を許しておきながら此の期に及んで逃げようとする俺が滑稽だわな。
「……仕方ねーなー!」
「じゃ、じゃあ!」
「付き合ってやるよ。デートとやら」
「やったー!」
ヘルメットを放り投げんばかりの勢いで両手を上げて喜んでいる。チビガキムーブは昔から変わらんなあこいつ。
「暴れる前にそれ返せ」
「あ、ごめんごめんっ!」
「んで…………お前はこっちな。ほれ」
「わっ、と! このヘルメットは?」
「それ被らなきゃ後ろ乗れないだろ」
「……つまり?」
「ほら乗れよ。お前の行きたいとこに連れてってやる」
「元ちゃん……!」
予感はしてた。夏菜を突き放せず、こうなっちまうんだって。けど、あくまでそれはここまでの事。これから先の事は別問題。夏菜の言葉にどう答えるのかは、全然違う話なんだ。
ケイトさんに出された宿題。
一つ。俺自身の事について考える。
二つ。夏菜とあいつらが俺にとってどういう存在なのかを考える。
ケイトさんに提出出来るような答えはまだ用意出来ていない。別段指定があったわけじゃないけど、本日、今年のクリスマスイブの内に。もっと言えば、夏菜が温めてきた物を伝えられる前までに、それなりの物を用意しなきゃいけないんだと、俺はそう受け止めている。
時間がない。だからこそ、タイムリミットまでの少ない時間を大切にしなくてはいけない。俺も、夏菜も。
「まあなんだかよくわかんねえけどよ、とりあえず楽しむとすっかー!」
俺自身がどこまで笑っていられるかわからないけど。それでも。夏菜を笑顔にするのは、ずっと昔から俺が得意で、好きだった事なんだ。だからやらなきゃ。夏菜の一番の笑顔を引き出して来たのは、今も昔も、俺なんだからさ。
「……あの……二人乗り……大丈夫? 赤信号の時は止まらないと」
「ケンカ売ってんのかコラ!」
「ご、ごめんなさいっ!」
ギャーギャー喚きながら、例年とは何もかもが違う誕生日の、ゴングを鳴らした。
* * *
白藤から聞いた人物に連絡を取る。参加者全員の名前を聞く。ラインなりツイッターのDMなりなんなりで、一人一人に失礼な頼み事をする。
理由は話せないけど、クリスマスイブの集まりは延期にしてくれ。ただし、松葉元気にだけはこの事を隠したままにして欲しい。
どんだけ身勝手なんだってお願いだよな。しかも一切関係ない部外者から、集まりの二日前にこんな連絡来るとか。あいつらみんな半ギレだったのわかるわ。逆の立場なら俺もキレてると思う。
しかしまあ、ほとんどが顔見知りだったのが幸いしたのか、どうにかこうにか上手くいった。中には。
「イブって元気の誕生日だろ? お前と団地の面々で何かやらかすつもりだったりするんじゃねえの?」
ちょっと待ってくれ名探偵と言いたくなるくらい勘の良い事言ってくるヤツもいた。曖昧に誤魔化すしか出来なかった。
元気にはもちろん、元気のダチたちにも悪いとは思ってる。だけど悪いな。何事にも優先順位ってもんがあってな。その一番上に来てるのが、今日、主役になる女の子、って話なんだわ。
「さて……」
クリスマスイブの朝。ここ数日に比べると些か過ごし易さを感じる外気が開け放った窓の向こうの世界から、俺を労うようにやってくる。頑張ったなーお前、ってか? いやーどうもどうも。
「あとは……」
スマホのモニターに灯を付けてラインを開き、トーク欄一番上に位置する、お洒落なシフォンケーキのアイコンをタップ。一番下、最後に既読を付けたトーク。末尾にビックリマークを添えた、耳に馴染みまくった言葉がそこに。
『いってきます!』
返信はしていない。いってらっしゃいって返すの、なんかちょっと恥ずかしくて。でも何も言葉にしないのもなんか違うし……ああ、そうじゃん。指の代わりに、口に役目を果たさせりゃいいんじゃん。
「いってらっしゃい」
ラインを閉じ、スマホから光を奪い、ベッドに放り投げた。
「頑張れよ。白藤」
もうすでに頑張りまくっているだろうあの子に届くよう、窓の外に向け、今出来る最大の一押しをして、ゆっくりと窓を閉めた。
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