M.7「たいようの道筋」
十年。いや、二十年。いや、それ以上。
思えば遠くへ来たものだ。
始まりは、私がまだ保育園に通う以前。両親がお世話になっているオブライエンの家に女の子が産まれたと聞かされた日。
両親に連れられ、取り出されたばかりの彼女に会いに行った。まだしわくちゃながら、とても大きな声で泣く女の子だった。産まれてから数日後、手を繋いでみていいかと彼女の両親たちに尋ねたところ許可をもらえたので、小さな手というか、指を握った。にぎにぎと握り返してくれる姿はとても可愛らしく、温かくて柔らかくて、触れていると安心するような、そんな感覚だった。
曖昧な記憶ばかりな年代だと言うのに、彼女が産まれた前後の事だけは、鮮明に覚えている。
時は進み、私は大きくなった。彼女も大きくなった。私たちは友達になった。
いや。友達にならされた、とでも言うべきか。
正直に言う。ひたすらに騒がしく、これっぽっちも言う事を聞いてくれない彼女の事が苦手だった。彼女の方は私を信頼してくれていたのかなんなのか、いつだって私の前か後ろを落ち着きなくちょろちょろしていたが、鬱陶しくて堪らなかった。それでも付き合っていたのは、親同士の関係を知っていたからである。我ながらマセた子供だ。
そのちょろちょろが、ある日を境にぱたりと途絶えた。彼女が四歳の頃だったろうか。
やっと静かになったとか考えていた生意気な私ではあるが、気にはなっていた。いつもあんなにうるさかったのに、急にどうしてしまったのだろう。
その答えが判明したのは、彼女と最後に顔を合わせから、約二ヶ月後。
大きな大きな病院の中にある、真っ白くて大きな部屋の中に、彼女はいた。よくわからない機械や真っ白な格好をしたお医者様に囲まれていて、華奢な白い腕には透明な管が刺さっていた。
可愛くて、眩しい笑顔が彼女のトレードマークだったはずだ。しかし、彼女は笑わない。なんの感情の色さえ透けて見えないような無表情。それだけではない。
ずっとずっと、彼女は泣いていた。いつでも声が大きい彼女だったが、声の一つも上げる事なく静かに、ただただ泣いていた。
初めてだった。彼女の、笑顔以外の表情を見るのは。
その日から数年間。あの子の表情に、色が宿る事はなかった。
何度もお見舞いに行った。ほんの少しの時間ならばと病室に入れてもらいお話をしようと近付いた事もある。どう声を掛けるべきかわからなくて、おはようとか、こんにちはとか、ありきたりな挨拶ばかりしか出来なかった。
しかし、何も言わず。何も示さず。あの子は答えてくれなかった。
そんな日々を経て、数年後。うちの親と彼女の親との会話を盗み聞きした私は、知りたくもなかった事を知る事になる。
不治の病。彼女の身を苛んでいるのは、そういう類のものである事。
その話を聞いた彼女は泣いたのだろうか。私にはわからない。私は、泣いてばかりだったのだけれど。
ほとんど付き合いもない。友達らしい事なんて数える程度しかした事がない。彼女の事を好いているのかと問われれば首を傾げてしまう、そんな間柄だけれど。
彼女の笑顔を見れるのがアルバムと古い記憶の中だけになってしまうのは、嫌だった。
だから私は考えた。今の私に何が出来るのか。どうすれば彼女を笑わせてあげられるのかを。しかし、何も出て来なかった。というか、私程度が何をどうやっても彼女の笑顔を取り戻すなんて出来るわけがないのだ。出来るのならばとっくにやっているし。
その絶望的なニュースから数日後。彼女の元へお見舞いに行くと。
「あ! ケイトだー!」
笑顔の彼女が、 ベッドの上で手を振っていた。
私は酷く混乱した。彼女の体に関わる良いニュースでも飛び込んで来たのかと思うもそうではなさそう。ガラス越しに、彼女に尋ねた。どうしたの? 何かいい事あったのと。するとこう答えた。
「あたし、もうすぐ死ぬの!」
あまりにもスケールが大きくて辛い話を、とびきりの笑顔で。そして続けた。
「だからそれまでに、今まで出来なかった事や見た事ないものにいっぱいいっぱいいーっばい! 触れてみたいの!」
骨の周りに何も付いていないのではないかというくらい細くなってしまった腕を懸命に上げながら、そう言った。どうしてかと私が訊ねるより先に、理由を教えてくれた。
「いざ死んじゃうーって時に、昔の事を振り返ったりするって言うでしょ!? その時にさ、楽しかったなー! いい人生だったなー! すっごくすっごくすっごーく! 幸せだったなーって! そう思えるくらいのもので頭の中をいっぱいにしたいの!」
自分には時間がない。だから一秒も無駄にしたくない。楽しい事、嬉しい事を少しでも多く詰め込むんだと、彼女は言った。
なんて無謀な。一人で歩く事さえままならない体で何を言っているのか。考えたくはないけれど、思い出を作る時間すらあなたには無いのではないか。などなど、思う事はたくさんあった。
けれど。いや、だからこそであろうか。愉快な青写真を描く彼女に向けて、私は言った。
「何かお手伝い出来る事はありませんか?」
目を丸くしたのはほんの一瞬だけ。直ぐに破顔して、彼女は言った。
「じゃあ! ケイト! あたしと一緒に、楽しい事探しに行こう!」
私は迷わず頷いた。私たちを心配させて止まない歳下の友人と、楽しいの果てまで行ってみようと、本気でそう思った。
これが、私と彼女……エミーお嬢様との、長い長い旅の始まりだった。
まずは体力作りから。まともに歩けない足腰を始め、とにかく全身に肉を付けるべく八方手を尽くした。同時に勉学や、社会常識も学んだ。時々オブライエン夫妻や呼び付けた講師さんに面倒を見てもらってはいたが、同年代の水準と比較してしまうと見劣りしてしまうのは必然であったから。
体のトレーニング。脳のトレーニング。他にもお嬢様が興味を示した全ての事象のインプットなどなど。自分磨きの全てに介入し、数年掛かりで、無謀な旅路にどうにか耐え得るだけの地盤を作り上げた。
「ケイト手伝って! 病院、抜け出すから!」
お嬢様に笑顔が戻ってから約二年ほど経った春の日。心底楽しそうな笑顔で悪さをします宣言をし、そのまま本当に、何年も過ごした真っ白な病室とさよならをした。本当ならば私がそうするべきだったのであろうに、お嬢様が私の手を引いていたのがとても印象深い。
「帰ってきた……か、かえ…………っ……わ、私……おうちに帰って……これ……うぅ……帰ってきたんだ……!」
オブライエン夫妻が留守にしている自宅に入るなりお嬢様は、感情を爆発させた。そんな姿を見せられてはこちらもどうしようもなくて、座り込んで泣き叫ぶお嬢様を抱き締め、私も泣いていた。
あの瞬間の事は、ご主人様にも奥様にも、他の誰にも教えていない。誰にも言わないでとお嬢様にお願いされたもので。私とお嬢様だけの秘密なのだ。
しばらくしてご主人様と奥様が戻られると、途端に大騒ぎになった。そしてお嬢様は、お二人へ向けて宣言した。
「あたし、ケイトと一緒に旅に出るから! そういう事でよろしくね!」
何がよろしくなものかと声を張り上げるお二人と、だってそうしたいんだもんの一点張りなお嬢様の、もはや話し合いとも言えない感情のぶつけ合いは一週間以上続いた。その言葉の殴り合いに勝ったのは、お嬢様。
毎日必ず連絡を入れる事。折を見てこの家に帰ってくる事などなどを条件に、無謀な旅路に出る許可を頂いた。
お嬢様が最初に選んだ旅先は、地元。だってあたし、この街の事何も知らないんだもん。との理由で。
以前から行ってみたかった地元のおもちゃ屋さんやケーキ屋さんや遊園地などなど、お嬢様の気を引いて止まなかった場所全てに足を運んだ。
次のターゲットは地元という枠を外し、アメリカ全土。私たちの祖国が五十の州で成り立っている事すらつい最近まで知らなかったお嬢様は興味津々で観光ガイドをめくっていたものだ。
時折病院に搬送されたり、オブライエン家に帰ってご両親をやきもきさせたりと、紆余曲折ありながら、アメリカを一回りする旅を終えた。
一箇所に留まるつもりなど微塵もないお嬢様の次のターゲットは、全世界。
私は、彼女の行動力を侮っていた。まさかここまでアクティブでいられるだなんて。世間知らずなお嬢様との二人旅はとにかく大変で、気が休まる日など一日たりとて存在しなかった。正直に言うと、私は疲れきっていた。少し痩せた? などどお嬢様に指摘された事があったか。あなたの所為でしょうとは流石に言えなかったが。
そんな勝手放題な日々の中で、気が付いた事がある。
学業からも、友人からも、両親からも離れて過ごすという行動が、如何に異質である事かを。
この生活を続けている事で失ってしまっている事が、たくさんあるのではないか。
そういう疑念が、私の中に巣食ってしまった。
しかしまあ、乗りかかった船だ。それに、辛いなりにも楽しい日々であったのは間違いなかったし。しかして、若干のもやもやを抱えながらではあるが、羽を休める間もなく東奔西走南船北馬。お嬢様の興味を引いてやまない世界へと、とにかく飛び込んで行く日々が続いた。
そして私たちは、独自の文化が根付いた国。日本へ降り立った。
この国へ来た目的は観光と、とあるアーティストのライブを生で見る事。オブライエン家に帰った際に見ていたテレビに映ったアーティストさんがお嬢様のツボだったらしくて。
「会場! とりあえず会場に行ってみよ! チケットなら誰かから買えばいいし!」
無鉄砲すぎるお嬢様に続き、日本武道館なる場所へとやってきた。到着早々、怪しい日本語で所構わず声を掛け始めるお嬢様。当然、誰もが色良い反応を示さない。わかりきっていた事だ。
「お嬢様。これはあまりにも無謀です。ここにいらしている皆さんは、この日を楽しみに来ているのですから。もう少し余裕のあるプランでないと」
「わ、わかってる! え、えーっと……じゃあ、あの人たち! あたしたちの事チラチラ見てるあの三人! あの人たちにオッケーって言ってもらえなかったら今日は諦める!」
唯我独尊ではあるが、私の指摘や忠告には素直に耳を傾けてくれるお嬢様はそう言って、恐らく同年代であろう一人の女性と二人の男性へ、グイグイと距離を詰めて行った。
「ソーリーソーリー! ソコーノジャパニーズオニーサン!」
思い返すと頭が痛くなるほどのダメダメ日本語をフックにし、学生服らしいものに身を包んだ三人へ声を掛けるお嬢様。
「あ」
その中の一人が、お嬢様を見て硬直した。
「惚れた……」
当時の私には理解出来ない独り言を漏らしていた彼にとって。彼らにとって。私とお嬢様にとって。
この先の人生全てを塗り替えるような、出会いであった。
そしてそれは。私とお嬢様の二人旅が、一つの終着点に辿り着いた瞬間だった。
* * *
「どうぞー」
「失礼します」
許しを得て室内に入ると千羽鶴や、クレヨンで書き殴られた似顔絵等、数日前には見られなかった物がいくつか目に付いた。誰が持ち込んだ物かなど、この部屋の主に聞かずとも理解出来た。
「堅苦しいなー相変わらずー」
以前よりほっそりとされてしまったが、変わらず眩しい笑顔が、ベッドの上から、私を出迎えてくれた。
「性分なもので。具合はどうですか?」
「うん。最悪」
強がる事さえ出来ていない。いや、していない。それもそうか。この人は、自分の子供たちの前で散々強がってみせたばかりなのだ。ならばせめて、私といる時くらい取り繕わない姿でいて欲しい。
「先生を呼びますか?」
「ううん。誰も呼ばないで」
「どうして?」
「ケイトと二人で話したいの」
「私と?」
「うん」
小さく頷き、手招きをし、お嬢様はまた笑った。
「なんか久し振りじゃない? こうして二人きりになるの」
「私たちの周囲にはいつだって誰かがいてくれますからね」
「だねー。最初はあたしとケイトだけだったのにね」
「でしたね」
「懐かしいねー」
「昨日の事のように思い出せますよ」
「あたしも」
そう言って、窓の外を見やるお嬢様。一体その先に、何を見ているのですか?
「ねえ。ケイトにお願いがあるの」
「はい」
「朝陽の事と、千華の事なんだけど」
朝陽。東雲朝陽。私たちの旅を実質的に終わらせたと言ってもいい、眩しい男性。
千華。東雲千華。お嬢様と朝陽の元へとやってきた、眩しい女の子。
お嬢様にとって特別で、大切な二人だ。
「はい」
「二人の事、見てあげていて欲しいの。いっつも一緒にいてなんて言わない。けど」
「わかっています。言われるまでもありませんよ、お嬢様」
「頼りになるなあ……」
私は、朝陽の伴侶ではない。千華の母親でも姉でもない。しかし。私にとって彼らは特別な存在であり、彼らにとって私も特別な存在である。
だからあるはずだ。私にしか出来ない何かが。それを理解しているのだ、ベッドの上から動けなくなってしまった、お嬢様は。
「厳しくしてね、朝陽にも千華にも」
「厳しく、ですか」
「そ。朝陽ってば口ではカッコいい事言うくせにやる気ない時はとことんダラシなくなっちゃうし。千華はあたしに似て超可愛いけど、ちょっとポンコツ気味な所まで似ちゃったし」
「ええ。そっくりです、あなたたちは」
「でしょー?」
胸を張って笑っている。お嬢様はもちろん千華も。朝陽だって喜ぶでしょうね。あなたたちは似ているなどと言われようものなら。
「一倍寂しがりやさんで心配性で甘えん坊さんな所もそっくりです」
「そうかも」
その笑顔も、ですよ。あなたたち家族は、そっくりです。
「っていうかなーみんな心配なんだよなー。美優は歳の割にしっかりし過ぎて心配だし、夏菜は度胸あるんだけど声小さいし泣き虫で心配だし、修は自分の意見いっつも後回しにしちゃうから心配だし、元気は甘えん坊さん過ぎるしみんなの事大好き過ぎて心配だし、奏太は好奇心以外の欲が薄くて心配だし。 パパママーズにも心配な事あり過ぎるし。心配な事だらけだよお……」
進行形で皆の事を心配させている人が何を言うんでしょうね。本当。おかしな人です。
「……ダメですからね」
「うん?」
「千華も朝陽も、あなたに似たんです。わかっているでしょう。もしもあなたがいなくなってしまったらきっと……それにあの子たちも……」
「わかる、わかってるよ。わかってるけど……ケイトは難しい事言うなあ……」
「だから……ダメです……まだ……頑張ってください……どうか……」
「頑張るし、頑張ってるよ。けどなかなかどうしてねー。元気になるのって難しいねー」
「元気になってください。お願いですから。あんな……最後のお願いみたいな……聞きたくないですよ……」
「最後のつもりなんてないよ。これからの為のお願いだし、あたしだってまだ頑張るし。けど現実問題、何も考えないでいられないのも本当だからさ」
「無謀無策で世界中を飛び回っていた人のセリフとは思えませんね」
「あたしだって少しは大人になったんだから。とにかくっ。一番厳しい人でいてね。朝陽と千華に」
「私がお嬢様にしていた様に?」
「そうそう! それでねそれでねっ」
弾む声音と裏腹に、力だったり重さだったりをまるで感じさせない細指が、私の指を握った。
それはまるで、お嬢様が産まれて直ぐの、あの触れ合いをなぞっているみたいで。
「一番……寄り添ってあげてね……あたしの代わりに……ケイトじゃなきゃ……ダメなんだから……」
「…………畏まりました……」
「泣いてる?」
「……いけませんか?」
「ううん。ただ……久し振りに見るなあって。ケイトの泣き顔。やっぱケイトはかーいいなあ……あたしと千華の次くらいっ」
泣き顔なんて褒められても困る。そんな姿、私以上に泣きたくて仕方がないだろうお嬢様に、見せたいわけがないじゃないか。
「……聞いていいですか?」
「なあに?」
「そのお願いとやら、どうして私でなければダメなのですか?」
「どうしてって言われても…………まあ確かに、ケイトってばいつでも利口なお姉ちゃんぶってるけど結構ポンコツだし融通利かないし本名で呼ばれるとポンコツ度加速するし半べそになるしお酒飲めないしそのくせみんなに煽られるとあっさり飲んで酔い潰れちゃうし実は方向音痴だしそれに」
「帰ります」
「あー違う違う今の無し! とりあえず無し! えっとほら! あたしたち、ずっと一緒だったじゃん? だからさ、ケイトじゃなきゃやだなーって、それだけ」
「それだけって……」
「本当は一人で知らない世界に行くのが怖くて怖くて仕方なくて、それでもあの病室にあれ以上いるのも怖くて辛くて悲しかったあたしの手を、ケイトが取ってくれた。ケイトがいたから、毎日ハッピーで溢れてたんだから。今のあたしがあるのは全部、ケイトのお陰なんだよ?」
触れるだけだったお嬢様の指先が、私の指先を包んだ。一度、二度、三度。私がここにいる事を確かめるように、きゅっきゅと指を握り直している。
「だからね、切っても切れないんだよ。あたしたち。というか切らないの。絶対嫌なの。だから……やっぱケイトだよ。全部ケイトなの。ケイトは特別なの。わかった?」
「……わかりません」
「あ、ありり?」
「わからないから…………探します。探し続けます。朝陽と千華の、直ぐ側で」
「うん……それがいいね……」
「ええ……」
「……ありがと。キャサリン」
「それはやめ…………まあいいか……」
「えへへ……」
「……お嬢様」
「なあに?」
「大きくなりましたね」
「うん……ケイトも、大きくなった」
「はい」
肩を抱き、頬を寄せて。今日も今日とて隣同士である事を確かめ合って、喜び合った。
それが、うん十年も寄り添って生きてきた私とお嬢様二人の、最後の1ページ。
* * *
「悪い、待たせた」
土砂降りに抗う術を車内に置いていってしまっていたのだろう。濡れ鼠と呼称するに相応しい姿で、彼は戻ってきた。
「傘、持って行かなかったんですね」
「忘れちった」
「これを使ってください」
「用意しといてくれたんだ」
「こうなる予感がしていたもので」
こんな事もあろうかと、彼のいぬ間に購入しておいたタオルを手渡し、とにかく全身を拭かせた。この人に風邪を引かれるわけにはいかないのです。
「風呂入りてえなあ……」
「悠長にしていては飛行機に間に合いません。このまま直行します」
「ですよね」
「なるべく車内を汚さないようお願いします。返す際に汚れていると篤が嫌な顔をしてしまうので」
「わーってるよ……ふーっ……」
共通の友人から借りている車の後部座席に乗り込んで、大きな溜息を吐き出す彼。本人は気付いていないでしょうけれど、バックミラーに映る彼の目は暗がりの中でも場所を違わないでいられるだろうくらいに赤くなっているし、何度もタオルで目元を拭いているし、小刻みに鼻を啜ってているし。
今は、心を休めてください。ほんのひと時でもいいから。
「悪いな、無理言って」
「あなたに無茶を強いられるのはもう慣れっこですよ。朝陽」
「そうなの?」
「そうですよ。どれだけ私が振り回されてきたと思っているのですか。あなたと、お嬢様に」
「あーうん、そうかも」
「謝罪とかは?」
「して欲しい?」
「……行きます」
キーを回して篤のマイカーに息を吹き込む。雨で視界は悪いけれど、少し急ぐとしましょう。
「なあ」
「はい」
「何も聞かないのか、この数十分の事」
「あなたの胸の中にしまっておくべきです」
二人が何を話したのかなど聞かなくていい。それは、二人で大切にして欲しい。
「……わかった」
「少し休んでいてください。空港に着いたら声を掛けますから」
「そうさせてもらう。サンキュな」
「いえ」
タオルで覆った目を天井に向け、彼は動かなくなってしまった。聞くに、今後のスケジュールが相当にタイトらしいじゃないですか。十時間以上のフライトも待っているんです、体力温存でお願いしますよ、朝陽。
夜の街を泣かせる雨風を切り裂きながら高速道路に入る。事故渋滞もなさそうだ。これならさほど掛からずに空港へと辿り着けるだろう。
「なあケイト」
タオルを被ったままの所為か、朝陽の声はくぐもっていて、少々聞き取り辛かった。
「休んでいてくださいと言ったでしょう」
「いいから聞いてくれ。ケイトに頼みがある」
「なんでしょう」
「今の仕事辞めて、俺に着いて来てくれ」
「お嬢様以外の女にプロポーズですか?」
「アホ抜かせ。俺、アメリカで会社作るから」
「はい?」
「芸能事務所。俺が社長で、看板役者」
「本気ですか?」
「本気」
「どうして?」
「それが……あの人と共演する為の早道の一つだと思ったから」
「その為だけに?」
「その為だけに」
「何故日本ではなくアメリカで?」
「向こうの方が俺の名前売れてるし。協力してくれそうなヤツがたくさんいるのもあっちだからな」
「それは理解出来ますが、日本でいいじゃないですか。その方が」
「いや。日本じゃダメだ」
「どうして?」
「……帰りたくなっちまうから」
一際大きな音を立てて鼻を啜って、ぐしぐしと乱暴な手つきで鼻を拭いている姿がバックミラーに映った。
「そんなんじゃ……ダメだからさ」
「ダメ……ですか」
「だから……あの子の手が届かない所で、あいつとの約束果たして、胸を張ってあの子に会うんだ。少しでも早く。全速力で」
「どうしてそんなに急ぐんですか?」
「こんな俺だし……まだ父親としてのスタートラインにさえ立てていない俺だけど……きっと来るはずなんだ。あの子に、俺が必要な瞬間が。だから」
「もういいです。話はわかりました」
これ以上、言わせない方がいい。自分の心を重くするような言葉を積み重ねさせてはいけない。
「いいですよ。あなたの身勝手に振り回されてあげます」
「……怒った?」
「いえ。慣れてます。もう数日はこちらにいますがアメリカに戻り次第直ぐに対応しますので、朝陽もそのつもりで」
「……ありがとな」
「いいんです。ただし」
「ん?」
「厳しくしますから」
「は?」
「朝陽にも、千華にも」
「……あいつに頼まれた?」
「それもありますし、私の意思でもあります」
「ま、お手柔らかに頼む」
「お手柔らかになど出来ません。私は、本当に厳しくなりますから」
「……そっか」
「あなたには果たさなければならない約束がある。応えなければならない期待がある。取らなければならない責任がある。それら全てを最速で形にしてもらいます。口にした以上は必ずやってもらいます」
「そのつもりだ」
「……けれどもしも……あなたがフラフラしていて……どれも果たせなかったとしたら……あの子の……千華の為になる事を何一つ出来なかったとしたら……あなたを……」
数時間前に触れ合った彼女の笑顔と、もう少し前に触れ合ったあの子の笑顔が浮かぶ。
私は守りたい。私なりに。あの二人の笑顔も、心も。たとえ、手に届かないくらい遠く離れてしまったとしても。
「俺を?」
そして。今も尚、涙を流し続けている、この人の事も。だからこそ。
「……お前を……絶対に許さない……」
「……似合わねーな……そういう口調」
「う、うるさいで……うるさい馬鹿者……自覚している……」
「……ケイト」
「は……な、なんだ?」
「今日までの事、ありがとう。そんでこれからの事も、ありがとう。それと……千華の事、よろしく頼むな」
「……っく……」
「ごめん……泣かせるつもりはなかった……」
「な、泣いてなど……泣いてなんか……」
もう朝も近いと言うのにその夜は、異様に長く感じられた。
* * *
「なんだ、来ないのか?」
「お前みたいな怪しい格好の男の隣を歩きたくないのでな」
「いやイカすだろ? この白のスーツ」
「お前のファッションセンスはこの数年間でますます先鋭化したな」
「とか言っちゃってー。素直に言えよなー、親子水入らずの邪魔をしたくないってさー。なんだよなんだよー鬼のケイトさんにしては優し」
「早く行け轢き殺すぞ」
「わーかってるって急かすなよ。んじゃ、ちょっくら行ってくるわ」
「……朝陽」
「おん?」
「しっかりな」
「ん、サンキュ」
わかってますって。バッチリキメてやっからそっから見とけや、ケイト。
後部座席を降りて、見慣れた景色まで少し歩くと、数年振りになる顔を二つ見つけた。
「うわ」
「うわ」
「や、第一声それは違くない?」
「なんだそのスーツ。七十年代の任侠映画の脇役が着てそう」
「気合いの方向性おかしいでしょ」
「うっせーなー。俺が好きで着てるんだから別にいいだろーがよー。つーかただいま。玲、由紀」
「あーはいはい」
「おかえりおかえり」
本当に顔を合わせるのは久し振りなのに反応が冷たいったら。変わんねえなあ、こういうとこ。
「ケイトは?」
「車で待機。俺に気を使ってくれてるらしい」
「いいのか?」
「無様晒してケイトにケツ蹴飛ばされてる所見られてもバツ悪いしな、今日の所はこれでいいさ」
「……行くか」
踵を返した二人に続く。少し改修が入ったらしいが、この場所独特の雰囲気は何も変わらない。
「あの子、もう帰ってきてる。今は公園で遊んでるみたい」
「そうか」
「とりあえずあの子を家に連れて帰って、それからお前を家に入れる。それでいいんだよな?」
「ああ」
腰を据えて話たいっつーか、そういう感じだからさ。
「何、緊張してる?」
「意外としてねーんだよなー」
「ほんとに?」
「マジマジ」
嘘でも強がりでもない。マジで、緊張はなかった。なんでだろうなー。
「まあいいけど……お、いたいた」
玲の視線を追う。昔はボロボロだったけど、すっかり綺麗に直されている緑色の網目状のフェンスで囲われた公園の中に、一つの大きな人影と、二つの小さな人影が見えた。大きな人影は知った顔だった。小さな人影二つは……初めて見る顔だった。
「じゃあ先行くぞ」
「あの子たち部屋に入れたら呼ぶから。ちょっと待ってなさいよ」
そう言って玲と由紀は足早に公園に向かって行った。
「あ……」
けど、あの瞬間の俺は、あいつら二人の姿は見えていなかった。俺に見えていたのは。
「お父さんだ! お母さんも!」
玲と由紀を見てそう叫んだ、小さな影一つだけだった。
「あ、あ……」
眩しい金髪に、眩しい笑顔。初めて見る女の子だけど、あの子の事を、俺がわからないはずがなかった。
「ち……」
気付いたら、足が動いていた。居ても立っても居られなくなっていた。自覚出来るくらいに覚束ない足取りで小さな女の子目指して歩を進め、開きっ放しの扉を抜けて、公園の中へ入ったんだ。
「あ」
「ん? あ」
最初に気付いたのは由紀。次に玲。何やってんだお前みたいな、ちょっと呆れ気味な表情を浮かべていた。
すると、二人に釣られるように、大きな一人と小さな二人もこっちを見た。
大きな一人は、今の俺がこういう仕事が出来ているのはこの人のお陰と言ってもいいくらいの大恩がある、昔馴染みだった。
「お前……お前…………!」
俺の登場に心底驚いてるらしく、見た事ないような顔をしている。そりゃあ、もう十年以上も会ってなかったんだもな。
いけない。しゃんとしろ、東雲朝陽。もう子供じゃないんだ。やるべき事をやれ。
「えっ…………と…………こほんっ! 久し振り、田島さん」
自然と頭を下げていた。昔の俺なら頭なんて下げないでニコニコ笑っていただけだったろうなあ。
「……老けたな」
「田島さんに言われたくないや」
「違いない…………本当に久し振りだ……」
「うん。ただいま」
「ああ……おかえり……」
どうやら俺がこの場所へ何をしに来たのかを察したらしく、一歩引いて、あの子へと続く道を作ってくれた。なら行こう。年長者のご好意を無為にするような真似するのはいかんもんな。聞いて欲しい事や聞かせて欲しい事はたくさんあるけれど、もう少し待っててよ、たーじい。
「……よし……!」
自分自身に何かを言い聞かせるように呟いて、何故かしっかりと手を繋いでいる二つの小さな影に向けて歩く。少し距離を詰めると男の子の方が一歩前に出て、金髪の女の子を背中に隠した。
おいおい……なんだよこの子……顔立ちもそうだし、勇敢な所も、あいつらそっくりじゃねえか。名前なんて聞かなくたって誰の子でなんて名前か直ぐにわかったぞ。
奏太。山吹奏太。俺の最高のダチ二人の息子。会いたかったよ。ずっとずっと、君に会いたかったんだ。奏太。
あーもう。なんだよこれ。やっべえなあ。
更に歩く。小さな二人は警戒しているのか怯えているのか、ちょっとへっぴり腰気味。けれど逃げる事なく、そこにいてくれた。
「あ……ああ……」
金髪の女の子を目の前にした瞬間。何かが弾けそうになった。けど我慢した。芝居をやってて良かったと、心底思った。じゃなければきっと、堪えきれなかった。
「そっくりだ……」
眩しい金髪も、顔立ちも、警戒心を露わにする時に半目になる所も。
何もかもが、彼女にそっくりだった。
「っく……っ……!」
込み上げて来たものをもう一度体内に押し戻す。よし、我慢出来た。
なあ聞いてくれよ。俺、あの子と初めて顔合わせても泣かなかったよ。ちゃんと我慢出来たよ。
こんな報告したら笑われるんだろうなあ。そんで、俺とあいつが一緒に泣き始めて収拾付かなくなっちまうんだ。多分、そんな事になるんじゃねえかって気がするよ。
とにかく今は、前を見ろ。俺を見上げているこの子に、俺の事を伝えなきゃ。何年もの時間を費やして。たくさんの人間に迷惑を掛けて。俺たちの夢を叶えて。ようやくここまで来たんじゃないか。
だから泣きそうになってる場合じゃない。手とか足とか肩とか膝とか口とか震わせてる場合でもねーぞ。ほら怖がるなよ、俺。大丈夫、泣いてない。泣いてないんだからサングラスも外せって。
俺だけじゃない。玲や由紀たちも。ケイトも。それに、あいつも。この瞬間を待ち焦がれていたんだ。
「こほん…………やあ、金髪のお嬢さん。俺は君のパパだ。はじめまして」
事前に脳内に用意していた台本とはまるで違う内容になってしまった。それを聞いた金髪のお嬢さんはと言うと。
「パパ?」
可愛らしく小首を傾げていた。
なあエミー、見てるか? 今の仕草も、笑えるくらい、お前にそっくりだったよ。
この子が産まれてから、およそ十年。こんなにも時間が掛かってしまった。遅刻なんてレベルじゃないけれど。
「そうだよ……会いたかったよ。千華」
ようやく、スタートを切る事が出来た。
父親としての、スタートを。
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