「たいようのものがたり。9」

 新生活が始まった。言っても、高校時代と大して変わっちゃいないが。


 卒業式があった週のうちから新たなバイトを始めた。稽古の時間を少しでも多く。かつ、これまでより収入を増やすようとことんまで詰め込め……なかった。


 これじゃ大変過ぎる。それに、私といる時間なくなるのはやだという金髪と、こんなスケジュールでは過労で倒れてしまうのは目に見えていますのでダメですという金髪。二人の金髪から大目玉を食らったからだ。


 私たちもこの家の人間なんだ。一人で全部抱え込むのは私たちへの裏切りと変わらない。というか、お前がしたい事を出来ないようならば私たちはここを出て行く。お前がやりたい事を清く正しく行えないのならば、それは私たちの所為であるから。私たちだって本当は嫌だ。だからこれ以上こんな話はしたくない。私たちは私たちなりに、ここでの暮らしをよくする為に出来る事をする。つまり。お前、そんな、働くな。以上。


 意訳が過ぎるのは認める所だが、このような事を言われてしまった。


 返す言葉もなく頷くしかなかった。二人の膨れっ面を見るまで、俺が俺がと我が尖ってしまっていた事に気が付けなかった。


 頑張るのは誰かじゃない。誰かに何かを任せるのは違う。全員で。俺たちは、全員で頑張るんだ。


 川ノ宮高校の制服に別れを告げた翌日。改めて、誓い合った。


 しかし。


 次の別れは、意外と直ぐに訪れた。


 季節は夏。


 その日は、とある記念日だった。


* * *


「朝陽くん朝陽くん。今晩ちょっと付き合ってくれない?」

「まだ未成年ですよー俺」

「いいの! そういうんじゃないの!」

「じゃあどういうんです?」

「愚痴聞いて欲しいの!」

「なら俺じゃなくて秋元さん辺りがオススメですよ。ほら、愚痴聞きたそうな顔してるじゃないですか」

「そんな顔してねーよ! こっちに飛び火させんじゃねー!」

「秋元じゃダメなの! 朝陽くんがいいの! 朝陽くん聞き上手だし生返事しないでくれるし!」

「今日でなければオッケーしてたかもしれないんですけどね、今日はごめんなさいで」

「なんでー!?」

「どーせあの子とデートだろー?」

「あ、わかりますー?」

「なんでー!? あたしも朝陽くんとデートしたいー!」

「いやあ、モテてすいませんほんとー」

「棒読み! 大根役者ぁ!」

「つーわけで俺はここら辺で。世界一可愛い女の子待たせるわけにもいきませんので。じゃあお疲れ様でしたー!」

「お疲れ様ー」

「バーカバーカ! 朝陽くんのバーカ!」

「褒め言葉として受け取っておきますー!」


 普段の稽古終わりならばもう少し皆さんと話をして帰るのだが、今日は本当にダメなのだ。なんてったって、もう来ているだろうからさー。


「アサヒー!」


 うん、やっぱり。こうして出迎えるたび、迷子になってなくて良かったぁとまず思ってしまう俺は過保護だろうか?


「おつかれさまー!」

「……生麦生米生卵」

「ほえ?」

「今の言えるか?」

「え、えっと……生麦生米生たまにょ!」


 は? 流石に今のはあざとくないか? だがそれがいい。可愛い。参っちゃうなあ。


「言えてた!?」

「ぶぶー」

「言ーえーてーたー! 言えてたよー!」

「今のはやっちゃんでもぶぶーって言うだろうなあ」

「そ、そうかなあ……なんか悔しい! っていうか今の何ー?」

「ちょっとした実験だ」

「実験?」


 そ。成長著しい誰かさんの日本語力の実験、みたいな。


「よくわかんないけど、実験成功?」

「半分だけな」

「わかんないー! アサヒー説明ー!」

「そのうちな。いいから行こう、エミー」

「はーい!」


 園児かくらいしっかり挙げた右手をキャッチ。ちょっと恥ずかしいので降ろさせて、そのまま手を繋いでしまう。少しは慣れた行為ではあるけど、緊張感とは別種の胸の高鳴りは、鮮度も彩度も落ちる事がない。


「ふんふんふふーんっ」


 は? 鼻歌可愛過ぎか? 好き。控えめに言って手繋ぎたい。もう繋いどるー!?


「アサヒ、買い物して帰る?」

「おお。買い物行くぞー」

「行くぞ行くぞー!」


 やっちゃん。由紀。そしてケイト。三人の先生を中心とした英才教育のおかげで、ここ数ヶ月の間で日本語パワーが劇的に向上したエミーだけど、おうむ返しは相変わらず。そんな所も可愛い。


 っていうか、俺らが卒業してからもエミーとケイトの面倒見てくれてるやっちゃん優し過ぎ。カッコいい兄貴分だなあほんと。


 しれっと名前を入れちまってたけど、ケイトがエミーに日本語教えてるって、実はとんでもない事だと思うんだよな。エミーとケイトは同じ日に日本に来たってのに。


 学習意欲も学習能力も物凄く高く、何をやるにも真面目過ぎるくらい一生懸命。その結果、日本生まれ日本育ちだと言われても疑いなく信じられてしまうくらいの語学力を身に付けた。


 当たり前に一緒にいるから忘れてしまいそうになるが、とんでもない女の子なのだ。ケイト・アン・メイフィールドって名前の、少し歳上のお姉さんは。


「ああそうだ。次の舞台、決まったよ」

「ほんと!?」

「ほんとほん」

「やたー!」

「とっとっと」


 タックルかってくらい勢いの良いハグをしっかり受け止める。自分の事のように喜んでくれんのな。それが嬉しいよ、俺は。


「また主人公!?」

「いやあ、今回は違うんだわ」

「えー? アサヒが主役じゃないのー?」

「主役じゃないけどスゲーいい役もらえたよ。主人公より好きなキャラクターでさ」

「そか! なら嬉しい! 楽しみー!」


 俺の腕に抱きついたまま軽く飛び跳ねている。そういう動きされるとお胸的な存在がズリっとくる的な疑似体験的なそういう的なアレがそれ的にヤバめ的な所ある的な。うーん。エッチです。僕の彼女、エッチですぅ。


「またみんなで観る!」

「おう来い来い。後であいつらにも話すよ。ふじのやにポスター貼らせてもらわねーと」

「うんうん! 次はどんなお話ー!?」

「まだ内緒ー」

「内緒やだー! 教えて教えてー!」

「内緒ったら内緒ですぅー」

「アサヒの意地悪ー!」

「まだ言っちゃいけない約束なの」

「ならいいや! 我慢! 早く帰ろ! 外あっちー!」

「だなー」


 外あっちー! とか言いながらもパタパタ駆け回りたそうにしているエミーの手をもう一度握り直し、バス停へゴーゴー。


 二人の歩みがせっかち気味になってしまっているのは、気の所為じゃない。


 何せ今日は、特別な日なんだから。


* * *


「ただいまー!」

「ただいまー」

「おかえりなさい。エミー。朝陽」


 いくつかの荷物を増やして帰ってくると、金髪の女の子が出迎えてくれた。くれたんだけど。今朝と雰囲気が変わっていた。


「ケイト、髪切った!」

「蕗子にお願いして切ってもらいました。日本の夏は暑いですから」

「可愛い! 似合う! ケイトおしゃれ!」

「うんうん。超イケてるぞー」


 いやほんとに。なんかこう、出来る女って感じがスゲー。俺とケイトが初めて会った日みたいにスーツなんて着てみたら……なんか凄そう。深い意味はない。ただなんか凄そうなんだよ。わかれ。


「ありがとうございます。あ、こらエミー。帰ってきたらまず」

「手洗いうがい!」

「よろしいです」


 勢い良く靴を脱ぎ捨て洗面所に駆け込む後ろ姿を見やり、満足気に頷くケイト。すっかりこの家のおかんだなあ。


「朝陽、その荷物は?」

「内緒。というか察して」

「……まあ……大体理解出来ますが……」

「開けるのはふじのやで。そんなに物欲しそうにしてないでもうちょい我慢してな」

「そんな顔してません」

「俺にはそう見えんの」

「ふにゅ」


 わざとらしく作った無表情を崩すべく、頬をぷにっとしてみた。あ、柔らか。っていうかふにゅって何さ。キャサリンは可愛いなあキャサリンは!


「こういう悪戯はエミーにやってあげてください」

「エミーにやったら喜ぶだけだけど、ケイトは嫌がってくれるからさー」

「本当にいい性格をしていますね、朝陽は」

「やった。褒められた」

「褒めていません……」


 呆れたようにため息を吐き出すケイトの背中を追ってリビングへ。


「ほへぇ……」

「どうかしましたか?」

「ああいや、なんでもない」

「そうですか」


 や、今日も今日としてバッチリ整理整頓されているなあと思ってさ。こんなにも物が増えた環境だってのに。


 親父がいなくなってからのここは、それはもう汚いもんだった。学校行ってバイトして飯食ってテレビ観て寝るだけの毎日だったもんなあ。


 飯作るのめんどくさくて、コンビニ弁当やカップラーメンを食って、そのままゴミ袋に突っ込んで。読んだ漫画や雑誌は散らかしっ放し。自分の部屋で寝るのがなんか嫌で、いつもリビングで寝ていたっけ。そんで由紀や蕗子に怒られるんだ。ちゃんと片付けろ。うちにゴキブリ出たらお前の所為だって言われてさ。そこまで酷くはなかったと思うのだがなあ。


 それが今ではしっかりばっちり整理整頓された快適空間そのものに。家具も増えたし小物も増えた。カーテンも明るい物に変わったし、テーブルも大きくなった。食器等々、調度品の類はスゲー増えたし。


 あとあれ。写真。


 柚珠が写真撮るの好きでさ、事あるごとに撮ってくれんだ。そん中のお気に入りを写真立てに入れて、テレビ台の横の棚の上に飾ってんの。


 これ、俺がやり出した事じゃなくて、エミーがやり始めた事なんだ。


「オモイデ! イッパイ! ウレシイ!」


 とか笑顔で言われちゃった、ちょっと泣きそうになるのも無理なくね? ちゃんと我慢したけどな!


 俺の。エミーの。ケイトの。あいつらと俺たちの。日常の何県ない一コマも。ふじのやでの一枚も。卒業式の日の写真も。どれもこれも、いい写真だ。


「増えましたね」

「うん?」

「写真」

「だな」


 二人が来て。たくさんの時間を重ねて。そうして増えていった、思い出を切り取った物の数々。


 写真だけじゃない。三人で相談して買い換えた家具も。色違いで揃えた箸も。それぞれに似合うと思って選んだマグカップも。どれもこれも、思い出の塊だ。


「……朝陽」

「うん?」


 俺の隣に立つケイトは、目を瞑っていた。


「この後、お話ししたい事があります」

「話?」

「はい」

「なになにー? 真面目な話ー?」

「これからしようと思っていた所です。お嬢様も、一緒に聞いてください」

「はーい!」


 お嬢様。この呼び方、すっげー久し振りに聞いた気がする。


「ですがその前に、朝陽は手洗いを済ませてください。話はそれからです」


 生真面目なケイトに促され念入りに手を洗ってうがいをしていると、赤青黄、三本の歯ブラシが目に入った。以前はサボり気味だった歯磨きだけど、今では毎朝毎晩欠かさずに赤い歯ブラシを手に取るようになった。でないとケイト、ムッとしちゃうから。


「教育ママかよ……」


 今更過ぎるツッコミをがらがらぺっと吐き出してリビングへ戻ると、エミーとケイトはそれぞれの指定席に座っていた。テレビを正面に見れる位置に俺。俺の左手側にはエミーが。右手側にはケイトが。いつの間にか暗黙の了解となっていた席割りだ。


「座ってください」

「はいなー」

「ケイトどうしたー? もしかして! 誕生日プレゼント欲しい物あったー!?」

「そういう話ではありません」


 エミーの斜め上な推測に、ケイトは苦笑で返す。


 そうなのだ。日付変わると同時に散々祝ったのであまり話題に出さなかったが、今日この日、ケイトは二十歳になった。二人の国では十八で成人らしいが、こっちの国でも晴れて成人だ。


「何もないのー? ケイト、そういうの全然言わない。教えてくれると嬉しい!」

「これといって思い浮かばないです」

「ケイト、ずっとそう! 欲しい物とか言ってくれたらいいのに!」

「…………でしたら」

「うんうん!」

「一つお願いというか……わがままを聞いてもらおうかと」

「うんうん! なんでも言ってー!」


 あれがしたいこれが欲しい。そういった要求を全くと言っていいほどにしてこなかったケイトの口から出てきた、わがままというワード。それが嬉しいのかなんなのか、えらくテンション高いエミーちゃんかわわ。好き。


「お嬢様」

「うん!」

「朝陽」

「おう」

「……私に……この家を後にする事を許してください」


 途端。エミーの笑みが、掻き消えた。


「ケイト……それ……何?」

「そのままの意味です。私は、アメリカに帰ります」

「……あ! パパとママに会いにちょっとだけ帰るって事ね! ビックリしたー!」

「違います。私は、私の家に帰ります。つまり、もうここの住人では」

「やだ! そんなのダメ!」


 ケイトの言葉を待ちきれず、エミーが叫んだ。エミーが俺以上にテンパるもんでまだ軽傷だが、俺だってめちゃくちゃテンパっている。混乱していると言っていいくらいだ。


「お嬢様……」

「ダメだよそんなの! やだやだ! だってやだもん!」


 小さな子供のそれと大差ない、がむしゃらな訴え。気持ちはわかる。なんでどうしてって叫びたいくらいだよ俺も。けど抑えろ。まずは話を聞かなきゃだろ。


「エミー落ち着け」

「でもでも!」

「とにかくストップだ。なあケイト」

「はい」

「何か、理由があるんだよな?」

「はい」

「聞かせてもらえる?」

「…………学校」

「学校?」

「高校と大学へ……通ってみたくて……」


 流石に斜め上過ぎた。少し恥ずかしそうに俯いたケイトの口から飛んできた、わがままとやらは。


「今からでも通える高校があります。もちろん大学だって。どちらもちゃんと卒業し、探したいのです」

「何を?」

「自分の生きる道を」


 自分の生きる道。


 やりたい事とか。夢とか願いとか。そういう言葉の代わりなんだろうか。


「この国へ来て、朝陽たちと触れ合って、私は気付いたのです」

「どんな事?」

「私は、私の事をまるで知らない」

「ケイトの事……」

「知ってる! ワタシ知ってるよ!?」

「ありがとうございます、お嬢様。けれど、自分自身の事です。自分が理解していなくてはダメなのです。私はもっと、私の事を知りたいんです。その為には……」

「このままじゃ……ダメなの?」


 なんでどうして等々あれやこれやと聞きたい事はあるけれど、本当に聞きたかった事の一つを、半ば泣きそうになっているエミーが代弁してくれた。


「ダメではないです」

「なら……」

「ずっとこのまま。それも悪くないと思います。しかしそれでは、私はもっとダメになってしまう」

「どうして?」

「居心地が良すぎるのです」


 ケイトの視線が泳ぎ、俺たちやあいつらの写真に向いていたのがわかった。本当に一瞬だけど。


「以前はお嬢様と二人で。今は朝陽と、たくさんの友人たちと。毎日毎日、笑顔の絶えない日々でした。落ち着きがなくて慌ただしくて、目の回るような日々でしたね……」


 楽しかったって、素直にそう言ってくれればいいのにさ。


「お嬢様と二人で過ごす事を仕事だと思った事など一度もありません。ですので、こういう生き方を選んだ事に後悔なんてありません。それどころか私は、自分は幸せ者だなと思えるのです」

「だったら!」

「しかし、幸せな日々の裏で、見落としてしまっていた物がたくさんあったのかもと、そう気付いてしまったのです」


 ケイトは真面目だ。努力家だ。俺たちの目の届かぬ所で、自分の時間を削りに削って日本語を、この国の事を学んでいた。それくらい知っている。


 きっと、この国で俺たちと出会う以前。エミーに引き摺られあちこち飛び回っていた頃も同じ事をしていたのだろう。


 行く先々で不自由のないよう。エミーを楽しませられるよう。エミーを守れるよう。


 十代半ば。思春期青春真っ盛りのケイトは、エミーと過ごす事を。少し意地の悪い言い方をすれば、エミーに捧げる事を選んだ。


 人生は一度きりだ。やり直しなんて出来るわけがない。手遅れな事なんていくらでもある。しかし、取り戻せる物だってある。


 ケイトは、違う生き方を選んでいたら見付けられていたかもしれない何かと、巡り会いたいんだ。


「……それ」

「はい?」

「ワタシの……せい?」

「そうですね……そうなってしまいますね」

「あぅ……」

「落ち込まないでください。私は幸せ者だとそう言ったでしょう?」

「……なら……」

「ええ」

「ずっと……ずっとずっと……幸せなままでいよう……?」

「……いいですね……とてもとても魅力的な響きです…………けれどそれでは、私の為にならない。好きなように生きさせてくれている両親に恩返しも出来ていません。どれもこれも今のままでは難しいのです。それに、お嬢様の為にもなりません。朝陽と二人きりの時間を邪魔するわけにもいきませんし」

「じゃ、邪魔なんて思った事ない!」


 そうだ。邪魔なんて思うわけがない。わかってて言ったんだろ? 似合わない真似するんじゃないよ。


「…………本当はもう少し……そうですね……もう数年くらいはこのままでいようと思っていました。しかし、それまで待つ事もないなと気付きました」

「それ、どういう?」

「……お嬢様」

「うん……」

「大きくなりましたね」


 どんどん表情を曇らせていくエミーを照らすかのよう。それくらい、ケイトの笑顔は晴れやかだった。


「え?」

「背が伸びました。体力も付きました。以前より更に、笑顔が可愛くなりました」


 笑顔が可愛いと言われたエミーは、ケイトの目を見れず、俯いたまま。


「最近はお手伝いも率先してやってくれるようになりましたね。喜ばしい限りです。しかしまだまだです。お皿を洗わせれば洗い残しが多かったり。洗濯をすれば洗剤を入れ過ぎたり許容量以上の洗濯物を入れてしまったり。ご飯を炊けば水加減を間違えていたり、米をちゃんと洗っていなかったり。掃除機は丸くではなく四角くと言っているのに隅の方はまるで吸っていなかったり。ゴミはちゃんと分別するよう言っているのに全然出来ていなかったり……」


 ケイト、お説教モード。今のエミーには出来そうもないが、普段はもっと噛み付いているんだ。そんなのわかってるーとか、そんなガーガー言わなくてもいいのにーとか。ケイトも説教やめないしエミーも引かないしでギャーギャー喧しいったら。


 二人のそんな姿が。仲の良い姉妹がじゃれあっているかのようなあの光景が。大好きだ。


「けれど、あなたは頑張っています。口では文句を言いながら、悪かったところを改善すべく努力をしています。日々生き方を学び、日に日に人として逞しくなっていっているのがわかります」

「そ、そんなこと……」

「二人で世界を回るようになったあの日のあなたとは……何かから逃げるようあちこちを転々としていた頃よりずっと……強くなりました。だから、心配していないのです」


 真っ直ぐに自分を射抜くケイトの視線から逃れるよう、エミーは落ち着きなくあちこちに視線を留めていた。


「それに今は、朝陽がいます」

「俺?」

「ちゃんぽらんで、何をやるにも見切り発車で適当で優柔不断で自分の言った事を直ぐに忘れる朝陽ですけど」

「そこまで言う!?」


 思わずツッコミ入れちゃったよ! そこまで酷くないよ俺! 多分!


「根が真面目で。友達思いで。優しくて。とても頼りになって。とてもとても、お嬢様の事を大切に思っていてくれる」


 評価の落差に思わず苦笑しそうになったのを飲み込んで、ケイトの目を見て頷いてみた。柔らかな微笑みで返してくれた。


「そんな朝陽となら。そう思うのです」


 知っていたつもりだったけど、足りちゃいなかった。


 こんなにも俺は、ケイトに信頼されていたんだな。


「はあ…………」


 ああ。わかった。わかったよ。俺の心はもう、決まったよ。


 いや。少し違うか。


 いつかきっと、望まぬ日が来てしまう。けれどその時は、笑顔で。


 誰に言うでもなかった、密かな誓い。


 こんなに早くその日が来るとは思わなかったが……誓ったなら、果たさないと。


「……俺が言う事じゃないかもしんないけどさ……」

「はい」

「ケイトにはもっと……もっともっともっともっと。自分の為に生きて欲しい」

「…………ありがとうございます……」

「アサヒ……」


 ぺこりと頭を下げるケイト。本当、日本人より日本人してるよなあ。


「エミーはどうだ?」

「……ワタシは……」


 揺れている。いや。答えは出ているんだろうさ。こんなにも大切なケイトの大切な決断なんだ。どうするべきか、どうしたらいいかなんて、とっくに。


 けれど、どうにかこうにかとケイトを説得する言葉を探してんだろうな。わかるよ。寂しいもんな。叶うなら、ずっと一緒がいいもんな。


 けれど、エミー? わかってんだろ? どれだけ言葉を尽くしても、ケイトの意思を変える事は出来ないんだって。ケイト、めちゃめちゃ頑固だもんな。そんな事、誰より近くでケイトを見てきたエミーが知らないわけがないよな。


 だから諦めるとかそういうんじゃなくてさ。プラスの感情で、送り出してやれないか? 俺はそうする事にしたよ。


「お嬢様には今、やりたい事がありますね。ああ、答えなくて大丈夫ですよ」

「うぅ……」

「私にもやりたい事が出来たんです。そして、これからもっとやりたい事を増やしたいのです。だから、それを実行する機会が欲しいのです」

「ぐすっ……」

 

 エミーの青く澄んだ瞳から、光の結晶が零れ落ちていく。堪えろ。俺がもらっちまうわけにはいかない。二人の決断を、ちゃんと見届けるんだ。


「お嬢様。一言、お願い出来ますか?」

「…………ケイト……」

「はい」


「ケイト……は…………っ……! きょ、今日で…………クビ……だから……」

「……お世話に…………なりました……」


 両手で自分の目をゴシゴシと擦るエミーに向けて深く、長く、ケイトは頭を下げた。


「……朝陽」


 ようやく頭を上げたケイトは、綺麗なグレーの瞳を細め、真っ直ぐに俺を見ている。


「お嬢様は…………エミーは…………この子は……」

「うん」

「まだまだ未熟です。頼りない子供です。体の事もあります。この先、何かと迷惑をかけてしまう事になるでしょう」

「うん」

「……この子の事……任せていいですか?」

「任せろ」

「……どうか……よろしくお願い致します」


 膝上で両手を揃え、もう一度深々とお辞儀。所作の綺麗な事綺麗な事。


「……なんか、娘を嫁に出すお母さんみたいだな、ケイト」

「何を言ってるんですか…………本当……バカな人です……」


 頭を上げたケイトの目元には、エミーの目元を煌びやかに映している物と似て非なる物が、キラリと輝いていた。


* * *


「うぇ……もうやら……っくぅ…………おうちかえりゅ……」

「あー!」

「はー!」

「かわわー!」

「ふにゃふにゃー!」

「おいうるさいぞ女子ーズ」


 いつものヤツらと、いつものふじのやで、誰かの祝い事の度にやってるみたいにケイトの誕生日祝い、だったんだけど。


「ケイトみたいな人の事を下戸って言うんだろうな」

「ビール一口でダウンとはな」

「親父水ちょうだい水!」

「普段とのギャップがとてもいいよケイト。くどいようだけどもう少し童顔だったら」

「空気読め変態!」


 あいつらもこいつらも、本日の主役が見せる奇行にテンションマッハである。


「いやはや……まずったかなあ……」

「いけないんだー! 現役教師のやっちゃんが成人したばかりの女の子酔い潰したー!」

「この後酷い事するつもりだー!」

「デケェ声で何言ってんだアホ共……!」


 ケイトにとっての恩師、やっちゃんに誘われて、ほんのちょびっとグラスに口を付けただけなのだが、ケイトさん、途端にばたんきゅー。


「えみ、えみぃ……」

「ケイトどした!? だいじょーぶ!?」

「……だっこ」

「はーんっ!?」

「ほーんっ!?」

「きゃーっ!?」

「にゃーっ!?」

「なんで女子サイドの方が盛り上がってんだよ……」


 玲の疑問ももっともだけど、まあいいんじゃね。楽しけりゃ。


「キャサリンのこの奇天烈な様子が見れるのは、今日が最初で最後か」


 ケイトがこの国を離れる事はついさっき、ケイトの口からみんなに伝えた。なんでどうしては当然あるだろうけれど、ここにいる全員が頷き、笑顔を見せてくれたよ。


 誰より反対していたエミーが、一番いい笑顔をしていたっけ。


「カイト! それ違う!」


 空気読むのヘタ系男子、海翔の呟きに食い付いて、自分に寄りかかるケイトを抱き締めるエミー。なんだか、どっちが姉ポジなんだかわかんなくなる光景だなあ。


「違うの?」

「違う! 今日が最初で! これから何回も見る! みんなで!」

「おうよ!」

「だな」

「ああ」

「そうだね」

「そうそう!」

「うんうん!」

「だねだねー」

「そう遠くねえよ。日本とアメリカなんて」


 そう。そうだ。寂しくなるのは当たり前だ。けれど、会えばいいんだ。俺らがケイトに会いに行ってもいい。ケイトが俺らに会いに来てもいい。


 遠いけど、遠くない。会おうと思えば、どうにだってなるもんさ。


「ふにゃ…………おほしさま……みえりゅ……えへへ……」

「やーん!」

「でもやっぱ別れたくないー!」

「キャサリン可愛いーっ!」

「一家に一人キャサリンが欲しいーっ!」

「う、うぇ、あつい……くっつかないれ……あうぅ……」


 結局、誕生日会兼お別れ会の主役は、常時ふにゃふにゃしたまま。


 何かを振り切るように大騒ぎするアホ共との宴は、日付けが変わっても、終わる事がなかった。


* * *


「さて」

「忘れ物とかないか?」

「大丈夫です。朝陽じゃあるまいし」

「遠慮なく毒吐くようになったなこの」

「日本語が巧みになった証拠ですね」

「そりゃ間違いないけども」

「ふふ……」


 涼しげなブラウスに袖を通したケイトの右手には、スーツケース。他にも大きな鞄が一つ。これでも厳選した方なのだ。めちゃくちゃ物増えたもんなあ。


 そういやあ、二人が初めてこの国へ来た時は、闇の組織的なヤツが使ってそうなゴツいケースを持ってたっけ。しかもスーツ姿で。懐かしいなあ……。


 あれから一年以上が経った。


 そして今日。一つの節目を迎える。


「混雑していますね」

「日曜だからかな」


 前回はお出迎え。今回はお見送り。約一年ぶりに訪れた羽田空港は、今日も今日とてめちゃくちゃに混んでいる。


 本当は、あいつらと来るつもりだった。俺はそうしたかったのだが、あいつらが口を揃えて言ったんだ。お前とエミーの二人で行け。ってさ。


 色々思う所がないでもなかったけど、あいつらなりの気配りなんだ。無為にするわけいかねーよなって事で、ケイトを見送るのは、俺とエミーだけだ。


「……ケイト……」

「そんなに不安そうな顔をしないでくださいエミー。飛行機くらい一人で乗れますよ」

「そうじゃなくて……」

「わかってます。わかってますから」


 ぽんぽんと、エミーの頭に手を置いて、ケイトが微笑む。


 笑ってバイバイする!


 家を出る前はそう言ってたんだけどな、エミー。


「そんなに頻繁には来れないでしょうけど、時々こちらへ遊びに来ます。その時に、あの家が散らかっていたりしたらお説教ですからね。わかりましたか、エミー?」

「……うん……ちゃんとする……ケイトのお説教長いし……面白くないから……」

「そ、そうでしたか……そうですか……」


 いやいやお説教ってそういうもんだから。そんなに落ち込まなくてもいいのよケイトちゃん。相変わらず生真面目さんなんだから。


「……ワタシも……」

「はい?」

「遊びに行く」

「……ええ。待っています。というか、エミーは定期的にこちらへ帰ってきて検査を受けてください。もう注射怖いなんて言ってられませんよ?」

「ここっ、こわっ、怖くない……もん……」

「声が震えていますよ」

「大丈夫。今度エミーがそっちに帰る時は俺も一緒だ。二人の両親に挨拶したいし」

「結婚の挨拶ですか?」

「ほ、ほわっつぅ!? きゅきゅきゅきゅ急に何言い出してんねんケイトさぁんっ!」

「この前のお返しです」


 ケイトは笑い、エミーはなんかパタパタしちゃっていた。やめて露骨に意識すんの! お願いやめて! でも可愛い好きっ!


「……ちっくしょ……今度やり返してやるからな」

「いつでもどうぞです。おっと……」


 館内アナウンスが、ケイトを連れ去る飛行機の出発が近い事を告げた。


「じゃあ……そろそろ」

「ああ」

「うん……」

「……エミー?」

「なに……?」

「こういう時は、笑顔で送り出して欲しいです、私」

「…………上手く……笑えない……」

「……そうですか……」

「わ……」


 手荷物を置き、自由になったケイトの両腕が、エミーを抱き締めた。


「今はそれでいいです。けれど次。また会う時は、笑顔で出迎えてください」

「……笑顔で……」

「約束してくれますね?」


 それには答えず、小さく頷くだけ。それがエミーの精一杯だった。


「ありがとうございます」

「……ケイト」

「はい」

「大好き」


 エミーの両腕が、ケイトの背中に回された。


「……私も、あなたが大好きです。エミー」


 互いの首元に顔を埋め、ケイトは笑い、エミーは涙を堪えていた。


 これまで何度も何度も、二人は姉妹のようだと思った事がある。当然ながら本当の姉妹ではない。しかし、俺には二人が姉妹に見える。いや、似て非なるものというかなんというか……姉妹以上に見えてんだ、俺には。


 人と人との繋がりで大切なのは、血が繋がっているかどうかなどではない。血が通っているかどうか。


 今の二人が、そう教えてくれている。


「……朝陽」

「今度は俺とハグ?」

「……と思ったのですが、やはりやめておきます。なんだがカチンと来たので」

「理不尽…………なら、次会うまでのお預けって事で」

「ですね。私が覚えていられたら、ですけど」

「嫌でも思い出させてやるからな」


 軽口を叩きながら俺は、あの劇団に入って、芝居を始めてよかったって思っていた。まだまだヘッポコな俺だけど、あの経験がなかったら、堪えきれていなかったかもしれないから。


「……また会いましょう」

「必ず」

「うん……絶対」

「…………では……」


 手放していた荷物を握り、俺たちに背中を向けるケイト。


「…………エミー」


 しかし、動かない。


「…………朝陽」


 ケイトは、動かない。


「な、何?」

「ああ」


 立ち止まったままの背中が、大きく息を吸って、吐き出して。


「いってきます」


 振り返ったケイトは、笑っていた。


「いって……いってらっしゃーい!」

「いってこーい!」


 見慣れた背中は、もう振り返らない。


 手を振る俺たちに満面の笑みと、一筋の涙を残して。


 ケイト・アン・メイフィールドは、新たな自分と出会う為、旅立って行った。

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