「たいようのものがたり。8」
「ふーっ……」
深く吸って深く吐き出した吐息が、早朝の陽気に溶けていく。今朝は少し冷えるな。エミー、お腹出して寝てないかな。ケイトは大丈夫かな。ケイト、あれで少し抜けてる所があるからなあ。
「ふーっ……」
もう一度大きく息をして、まず見慣れた団地の白い壁を見る。相変わらず古っちくて塗装ポロポロで。このベンチから見えるのは、この壁だけだ。うん。いつも通り。
次いで、死ぬまで付き合う事になる自分の両手を見る。小刻みに震えている。外的要因がもたらしている振動ではない。この手を震わせているのは、他ならぬ俺自身。もち、意識的なものではない。
なるほど。どうやら、今朝の俺はいつも通りじゃないらしい。
「すーっ…………はぁ……」
ダメだ。やっぱり震えてる。何度深呼吸したってこれだ。手をぐーぱーしてみてもかわんねえ。
やばい……やばいやばい。やばいやばいやばいやばい!
なんとかしなきゃ。でも、どうやってなんとかするんだ? 俺に必要な物はなんだ? わからない。ちっともわからない。頭が回らない。
「……はぁ……」
よくない。とてもよくない。
「参ったなあ……」
「何がだ?」
「どわっ!?」
超至近距離で耳に叩き込まれた囁きに驚き、腰掛けていたベンチから飛び跳ねてしまった。あ、今足打った。痛い。痛いっ!
「エミーにエロビデオでも見つかってしまったか?」
「んなもんエミーたちがアメリカ帰ってる間に八割捨てたっての。脅かさないでくれよたーじい……」
「二割は残してるのか……元気なもんだなあ、朝陽?」
早朝から俺の心臓にクッソ重たい負荷を掛けた張本人。たーじいが笑う。早朝の散歩が日課だったな、この人。
「足音殺してくるとか悪趣味じゃない?」
「そんな事しとらん。朝陽が気付かなかっただけだ」
「またまたー」
「いやいや、本当に本当だ。確かに声は掛けなかったけれども」
「そ、そうなの?」
「そうだとも」
マジか。気付かなかったのか、俺。
「どうやら相当に参っているらしいな」
「……俺が?」
「違うのか?」
「……当たらずも遠からずって事で……」
「まあ、おおよその所は察しが付くが」
「たーじいにはなんでもお見通しだなあ」
「お前さんがわかりやすいだけだよ」
「かなあ……」
「ほら、座った座った」
言われるがままにベンチ座ると、隣にたーじいが腰を下ろした。なんかすげーニコニコ笑ってんだけど。
「今日か」
「……うん…………今日だ……」
エミーと初めてのデートをした日から時は進んで、三月の上旬。
俺や玲たち、川ノ宮高校三年生連中は、明日が卒業式。その前日たる今日。俺には俺の、ビッグイベントがある。
川崎市内にある市民ホール。その舞台で俺は、スポットライトを浴びるのだ。ほんの数時間後には。
「仕上がりは?」
「……わかんね」
ごめん嘘。ダメ。ダメダメよダメダメ。
時間も。練習も。俺の技量も。何もかもが足りていない。おまけに睡眠だって足りてねえ。控えめに言って、超ヤバイ。
俺が主役。そう聞かされた日こそ半ば浮かれていたが、有頂天でいられたのは、その日だけだった。
どれだけ稽古しても、なんか違う。俺がテレビの中で観てきた役者さんたちみたいに出来てねえ。同じ劇団の皆さんみたいにも。
前より上達してる。やっぱり君はいいな。いい物持ってるよ。今回の事はいい経験になるよ。そんなに気負わないで大丈夫だ。緩く構えときなよ。
皆さん、笑顔で褒めてくれる。けれど、劇団の皆さんに掛けられる言葉の一つ一つを笑顔で受け止められるほど、楽観的にはなれなかった。違う。余裕がなかった。
やめてくれ。そんな風に言われても、ダメなんだ。
稽古が進めば進むほど。カレンダーが進めば進むほど。上手く笑えなくなっていった。
俺が? まだ何も出来ず、足を引っ張りっぱなしの俺が? 舞台に上がる? しかも主役? おかしな話だ。悪い冗談だよ。そうであってくれ。でないとおかしい。こんなのおかしいじゃんか。
俺の失敗はそのまま、舞台の失敗に繋がる。皆さんの舞台が失敗に繋がってしまう。俺の所為で。俺一人がダメダメな所為で。
結果を出さなきゃいけない。皆さんの期待に、信頼に応えなきゃいけない。それに俺は、カッコいい所を見せなきゃいけない。自慢の彼女と自慢の彼女の自慢の親友に。
それに、あいつらにも。
玲と由紀は揃って同じ大学へ進学。卒業式を終えてから籍を入れるのも確定。蕗子は服飾系の専門学校へ進学。拓馬は調理師学校。柚珠は彼氏の松葉くんと同じ大学の建築学科へ。海翔は都内の国立大。
望む道へと進んだあいつらにも。
他にも、団地に住まう物好きたちがチケットを買ってくれた。やっちゃんも観に来てくれるらしい。キャパの小さな舞台は、ほとんど満席になる。
普段大して回っちゃねえ脳みそのくせに、こんな時ばかり勝手にぐーるぐる回っちまう。考えたくもねえ事ばかりが頭の中に浮かんでは消えない。
頭の中にたくさんの物を抱えたまま。今日を迎えてしまった。
「そうか」
「……たーじいから見た俺はどう?」
「いつもよりつまらない顔をしているな。あと寝不足がありありと見て取れる」
「わかるかあ……」
「そりゃあもう」
「……こんな辛気臭いツラしたヤツが今日の主役とか、笑っちゃうよね」
「そうだな」
「認められちゃったよ。辛い」
「いやあ、笑い話さ。こーんなちびっこかったお前さんが、人前で自分以外の誰かになるだなんて。こんな愉快な話があるか」
「ああ、そういう……」
確かにそうかも。まだランドセルを背負ってた頃はなんだっけ。ヒーローになりたいとか言ってた気がする。それがいつの間にか役者になりたいだとか、日本が産んだカリスマ、北村英二みたいになるだとか、あまつさえ一緒に仕事をするんだとか、一体全体なんなんだって話だよな。
「大きくなったもんだなあ。あの悪ガキが」
そう言ってたーじいは、また笑った。
「今のお前さんを見たら、お前の親父は大笑いするだろうさ」
あーそうかも。似合わねー! でも頑張れー! とかなんとか叫ぶんだ、あの人一倍うるさい大人は。そんできっと、たーじいに報告に行くんだ。
たーじいと俺の親父、歳は少し離れてたけどマジの兄弟みたいに仲良かったから。友達になるのに歳の差なんて関係ないんだって事、たーじいと親父に教えてもらったみたいなとこある。
男手一つで俺を育ててくれた親父が無条件で信頼していたたーじいを、俺だって無条件で信頼している。親父がどうこうじゃない。たーじいがこういう人だからこそ、手放しで信頼出来んだ。こうして話辛い事だってなんのそのさね。
「お袋さんの方は……やっぱり笑っていた事だろうなあ」
「そうなのかな」
「あのうるさい男の嫁になった女だぞ? 一緒になって笑い倒していた事だろうさ」
似た者夫婦。親父とお袋を知る人のほとんどが口を揃えてそう言っていた。あの無駄にうるせー親父と似てるとか、相当パンチのある人だったんだろうなあ。
なんとなく、エミーとめちゃくちゃ仲良くなれたんじゃねえかって、そう思う。
「もちろん、悪い意味ではないからな」
「そっすか……」
「……見せたかった」
「何を?」
「今のお前さんを。今日のお前さんを」
「あーうん…………そうだね……」
無理だってわかってっけど。一度くらい、今の俺を見て欲しかった。エミーとケイトを紹介したかった。喧しい団地の連中を紹介したかった。こんなに面白えヤツらに囲まれてるよ。大変な事も多いけど超楽しくやってるよってのを伝えたかった。そんでさ。笑って欲しかったな。
「こんな大人になりましたよーって自己紹介するのもよかったなあ。けど今日の俺はなあ……ダッセー大人って感じになるだろうからなあ……なんともなあ……」
ネガティヴから抜けられなくてごめんよたーじい。だって仕方ないじゃん。毎日毎日デカイ口叩いてたくせに、何一つ自信ねーんだもん。
「自分に自信が持てないか」
「はっきり言わんでよ」
「持てないか」
「…………まあね」
「持たなくていい」
「ほえ?」
「自分に自信など持たなくていいと言っている」
やっぱり笑顔のまま。たーじいは言う。
「これから先の事に自信などなくて当たり前だ。仮に今のお前さんが自信を持っていたとしたら、それはただの過信でしかないと思うのだが。よしんばそれが正しく自信だと言えるものであったとしても、経験を材料としていない自信は自分を救わない。厚みのない物に縋ってはならないんだ」
たーじいの言う事は、いつだって少し遠回り。正直よくわかんねー時も多くて。今だって、なんとなくでしかわかっちゃない。
「しかしだ、朝陽よ」
「うん」
「自信を持て」
おじいちゃんおじいちゃん。言ってる事矛盾してるよおじいちゃん。
「言ってる事矛盾してるぞジジイみたいなツラをするんじゃない」
「エスパーかよ」
「お前さんがわかりやすいだけだ。私が言いたいのは、そうさな…………お前さんは、頭の悪い生意気なガキだ」
「お? ケンカか?」
「最後まで聞けい。お前さんは背伸びばかりで地に足付いていない未熟者だ」
「悪かったね」
「しかし、お前さんはいいヤツだ」
眠れていない癖に付いてしまった寝癖を隠す為に被っているキャップが、ぐいっと抑え込まれた。
「面倒見甲斐のあり過ぎるヤツだ。可愛いヤツだ。放っておけないヤツだ。目の離せないヤツだ。バカな癖にいつでも前のめりだから見ていて心配になるヤツだ。それでも、頼りになるヤツだ。友達思いの優しいヤツだ」
ポン、と。言葉を区切る度に一回、手を浮かせてはキャップに着地させてを繰り返している。撫でているっていうには不器用過ぎるけど、たーじいらしいや。
「そういうお前さんだから、お前さんの周りにはたくさんの人間が集まっている。今日劇場に来る連中だって、何も同じ団地のよしみで高いチケットを買っているのではない。お前さんだから、足を運んでくれるんだよ。だから……」
俺を抑え込む重さが離れた。ズレたキャップを直しながらお隣さんに目を向けるとその人は、右手の人差し指の先端を、俺とたちが暮らしている団地の外壁を真っ直ぐに捉えていた。
「自分自身に自信が持てないのなら。お前さんの周りにいる連中に自信を持て。それで充分なんじゃないか」
後は自分で考える事だ。
一拍置いて付け足して、たーじいはまた笑った。
「…………たーじいさ」
「うん?」
「いい事言うよね。時々」
「何をバカな。いい事しか言っとらんぞこの口は」
まあそうかもねと言いそうになったのを飲み干して、もう一度俺らの家を見て、今度はたーじいに……かなり歳の離れた俺の友達に、視線を戻す。
「なんだ?」
「いんや、何も」
「そうか」
少し……いや。めっちゃ気合い入った。
「それと、もう一ついい事を言おうかな」
「生きる名言製造機でも目指してるの?」
「まさか。私もまだまだ未熟。借り受けた言葉ばかりしか持ち合わせておらんよ。いつの世も、先人とは偉大なものさなあ」
「だねー。それで?」
「自信がないならそれでいい。無理して絞り出そうとする必要はない。どうせ出すなら、もっと他の物が打って付けさ」
「他の物?」
「そう。それは…………おや」
「ん?」
たーじいの視線が明後日の方を向いたので右へ倣えすると、団地の中から落ち着きなく飛び出して来る、金髪の女の子が見えた。
「ア! アサヒ! タージイ!」
手と金髪をぶんぶん振りながら、可愛い女の子が駆けてきた。いやはやヤバイな、どの角度から見てもどの時間帯に見ても可愛いぞ。ヤバイなほんとヤバイマジヤバイ。
「おおエミー。おはよう」
「オハヨ! タージイ、キョーモゲンキ!」
「おうおう元気だとも。エミーも元気そうで何よりだ」
「ゲンキゲンキー!」
ベンチの前に立つエミーちゃん、両手を腰に当て仰け反って笑ってる。はあ? クソ可愛いなそれ。付き合ってくれ。もう付き合ってたわふへへ。
うん。やっぱ違うな、この子は。この子を見てるだけで、エネルギーが湧いてくる。
「アサヒ! イナカッタ! ビックリギョーテン!」
「ごめんごめん。ちょっと散歩してたんだ」
「チョービビッタ! シンパイシタ!」
「ほんとごめんて」
「……アサヒ、ネテナイ?」
大きな青い瞳に不安の色を浮かべ、俺の顔を覗き込んでくる。なんだ? チューか? 朝からするか!? した事ないけど!
「あーうん。そうなんだ」
嘘付いて強がってもよかったけど、結局心配させてしまう事には変わりがないと思ったから、正直に答えた。
「キンチョーシテル?」
「うん。超してる」
「コワイ?」
「うん。怖い」
「ナイチャウ?」
「もしかしたら泣いちゃうかも」
「……アサヒ! ヨワムシ!」
「ぐっ」
「ヘッポコ! トーヘンボク!」
「ぐふっ」
唐変木はなんか違くない? ってツッコミする所だったじゃんと気付くのは、明日の話。
「デモダイジョーブ! アサヒ、カッコイイ! ソレミセテクレル!」
「……どうしてそう言い切れる?」
「ダッテ!」
もう一度両手に腰を当てて。
「セカイイチカワイイワタシガスキニナッタアサヒダモン!」
満面の笑みで。真っ直ぐに俺を見て。エミーはそう言った。
「…………そっか」
「ウン!」
「……なら………」
全幅の信頼。絶対の確信。全霊で応援するという意思。いつだってたくさんの物をエミーからもらってるってのに。いつも以上の熱量で、いつも通りの事を伝えてくれる。
嬉しいなあ。頼もしいなあ。優しいなあ。あったけえなぁ。
「……カッコいいとこ見せねーとな!」
なんて浸ってるわけにゃいかねー!
「ミセテミセテー!」
「おう任せとけ! 今日の俺は超頑張るからよ! 絶対絶対頑張るからよ!」
「ガンバレ! アサヒガンバレー!」
「だからエミーも頑張れよ! 俺と同じで昨日は眠れてないみたいだけど、会場で寝るんじゃねえぞー?」
「ソ、ソンナコトナイ! チャントネタ!」
「ほんとかー? 目の周りが怪しいぞー?」
「ネタ! ワタシ、ヘッポコチガウモン!」
「イリュージョンランドの前の日に少しも寝れなかったーって言ってたの誰だっけー?」
「……ア、アサヒ! イジワル!」
「怒るな怒るなーほれほれー」
「ワ!」
むくれるエミーのお腹にタックルして抱き上げる。ポカポカパンチが俺を襲うも全然痛くないし、ジタバタ暴れる姿も可愛い好き程度にしか思わない。つまり、エミーが好きって事だな!
「さて……」」
「あれ? 戻るの?」
「そろそろ私も出掛ける用意をせんとな」
「そっか」
「アーサーヒー! ハーナーセー!」
「やれやれ。お前さんらが揃うと朝の眠気なんて吹っ飛んでしまうなあ」
「眩しいでしょ、俺ら」
「言ってて恥ずかしくないのか?」
「ぜーんぜん。なー?」
「ナー! ウン? ナンノハナシー?」
「相変わらずお似合いだよ、お前さんらは」
笑いながらそう言うと、俺とエミーに背中を向けた。ゆっくり遠去かる背中に何か言おう。言わなきゃ。
「勇気だ」
「は?」
たーじいが喜ぶ言葉を見繕っていると、小さくて大きな背中から、声が飛んできた。
「自分に自信が持てるようになるのはいつだって、勇気を振り絞った後なんだ」
「……うん」
「……明日のお前さんが、今朝のお前さんが持っていなかった物を掴んでいるよう、願っているよ」
「……やってみるよ」
「ではな。今夜の舞台。しかと観させてもらうとしよう」
「タージイマタネー!」
別れの気配を察知したエミーが言うと、背中を向けたまま手を振って、たーじいは団地の中へと消えて行った。
ありがとうはまだ言わない。今日を乗り越えてからでいい。
その前に。今見せられる最高の俺を、見せてやるんだ。
「アサヒアサヒー。タージイナニイッテター?」
「……大切な事……だな」
「ワタシニモワカルー?」
「そのうちわかるよ」
俺が、見せてやるから。
今夜。必ず。
* * *
その男は、詐欺師であった。
別に詐欺師になりたかったわけではない。全て成り行きだ。
貧しい家庭で育ったという事もない。友人に恵まれなかったという事もない。勉学も運動も人並み以上にやってのけた。達者な口を以って、老若男女分け隔てなく信頼を勝ち取っていた。控え目に言って、将来有望株。
しかし、その男は不意に、自分に飽きた。
退屈だ。こんな人生何が面白い。刺激が欲しい。こんなにも普通な人生で満足していられるなど、それこそ普通じゃない。じゃあ、人生をスリリングにする物は。今まで見た事のない景色を見せてくれる物は何か。
その答えを導き出すまでに掛かった時間は、ほんの数秒。
金。金じゃないか? いや金だ。絶対に金だ。
家族や友人。これまでの人生。
金。
それぞれを天秤の皿に載せてみた所、針は勢いよく、紙束の方に振れた。
やはり金。金じゃないか!
自分が築き上げてきた物は、あんな紙束にも及ばぬ物だったのだと、知ってしまったのだ。
だから、それまでの自分を殺めた。そして、金を集める事にした。なるべく、スリリングな手段を用いて。
両親の財布や金目の物を堂々と奪い、二度とこの家には戻らないと告げて家を出たその男はまず、たまたま繁華街で見かけた脂ぎった醜い男の財布と腕時計に目を付けた。自分金持ってます感を微塵も隠そうとしていない姿が見えてカンに触ったからだ。
結果、清々しいほどの失敗。
散々に殴られた。死ぬかと思った。生まれてこの方暴力を振るわれた事もなかったその男は、心底恐怖した。
反抗期みたいなもんだ。これで勘弁しておいてやる。賢い生き方を学べよ、ガキ。
豚と比較する事そのものが豚への侮辱だと思えるほどのブ男の言葉を骨身に浸透させながら、その男は日陰に身を隠した。
痛んだ体を悔しさに震わせながら、男は金を勉強した。金とは何か。金を作るのは誰か。金を回す物は何か。効率良く金を集める方法は何か。
そして学んだ。金は作るのではなく、持ってるヤツから奪うのが手っ取り早い。
ならそうしよう。そうして生きていこう。やってやれない事もない。やるか。
休日にノリと好奇心を糧に遠方へ日帰り遠征するトラベラーが如し。
あまりにもあっさりと、陽の当たらない裏道へと、男の人生は機首を向けた。
事に当たるに至って、三つの自分ルールを用意した。
成否を問わず、一度ターゲットに選んだ人間とは、生涯関わらない。
成否どちらに転んでも即座に身を隠せるよう、三つ以上安全な退路を用意する。
手にした金は惜しまず使う。金を貯める為に始めた事じゃなく、金で遊ぶ為に始めた事だから。
三つの誓いと、好奇心と呼んで差し支えのない、男なりの前向きな情熱を胸に、他者の人生を貶め、自らの欲求を満たす。
身勝手で非道。仕事などでない。ただの遊びが、始まった。
しばらくは上手くいかないだろう。軌道に乗るまでは残飯を喰らって生きるようかな。
しかし、そうはならなかった。金持ちの老夫婦をターゲットにした初めてのお遊びは大成功。仕組んだ本人でさえ予想外。尻尾を掴ませる事もなく姿を隠す事も出来た。自らにはなまるをあげてもいいくらい、改心の出来だった。
初めてのお遊びに気分を良くした男のお遊びは、瞬く間に加速していった。
老若男女も手法も問わず。断崖絶壁の崖っぷちでタップダンスを踊るが如く。排他的で刹那的な遊びは、男を毎日笑顔にさせた。
ああ! 人生は楽しい! 万歳! 人生は素晴らしい! 万歳だ!
男は正しく、幸せの真っ只中にいた。
そんな男が次のターゲットに選んだのは、とある財閥のご令嬢。
才色兼備。しかしどうしてか孤立がち。浮いた話もロクにない。調べた限りでは、二十代半ばにもなるというのにロクな恋愛経験もないらしい。礼節を重んじる一族の血色が肌に合わないらしく、常に肩肘張っていなければならない実家での暮らしを嫌い、都内で一人暮らしをしている。偉大な両親の後を継ぐ事を重荷に感じている。そも、地位や名誉などに、微塵も執着がないらしい。
なるほど。面白そうだ。
飽くなき好奇心が見出した新しい遊びの名は、結婚詐欺。今までの遊びとはまた違う、極めてスリリングな遊び。
入念な下調べと準備を経て、彼女へと近付く男。
そうして……。
* * *
「で、そのお嬢様に一目惚れしちゃって、どうにかして恋人になってもらうべく七転八倒。そして最後は二人で国外逃亡しちゃって、行く先で人を騙しては金を稼いで、二人は刑務所にブチ込まれるまで楽しく過ごしました。ってところかな。これでわかった?」
「ワカンナイ! ムズカシーニホンゴイッパイ!」
「何はともあれ、めちゃくちゃシリアスに見せたポンコツ二人のラブコメでしたと」
「ヤッパワカンナイー!」
きゃーきゃー叫ぶエミーの声が、ふじのやに響く。声も可愛いなあ。好き。
劇団の皆さんとの軽めの打ち上げを経て、ふじのやに移動。あいつらが俺を待っててくれるって言うからさ。
「特に序盤は難しい言葉も多かったから仕方ないかなあ……」
「アトノホーハヨクワカッタ!」
「それなら良かった。でも急にコメディタッチになった時は驚いたなあ……」
明日の卒業式を終えて以降、晴れて山吹の名字を貰う事になる予定の由紀が簡潔にまとめてくれたものが、俺たちの劇団が披露した公演だった。
なんつー振れ幅だ。けど面白いなこれ!
劇団の仲間が書いた台本を頭からケツまで読んだ感想がこれ。
実際に台本に沿って人間が動いてみると、シリアスとコミカルのメリハリのある、テンポのいい物語だった。
まさか、その物語の中心になる男を、俺が演じる事になるとは思いもしなかったが。
「ケイトはどうだった?」
「序盤から理解出来ていました。朝陽は人間のクズなんだなという事がとてもよくわかりました」
「ある意味合ってるからアレなんだけどその言い方はやめてもらってもいいかな!?」
「アサヒテレテル!」
「照れてねーし!」
照れるも何もないってほんと。
今はただ、ホッとしているよ。
「だーかーらーあんまり店内で騒がないでくれっていつもいつも」
「うるさいよ拓馬! 今日は貸切なんだから他の客の事気にする必要ないってのになーにをグチグチ言ってんの! そんなんだからあんたはモテないの!」
「……そんな事ない…………ないよ……今のだって一般論を述べただけであって、俺だって本気で言ったわけじゃ」
「一人でブツブツうるさいのもモテないポイントの一つだと思う」
「…………少し泣く……」
「あーもう、蕗ちゃんも柚珠も、拓馬の事いじめないの。ほんとに泣いたらめんどくさいんだから。やるんだったらここじゃないとこでやって」
フォローのつもりで殺しに掛かっている由紀の言葉を受け、ふじのやの看板息子、白藤拓馬くん、退場。キッチンの奥に引っ込んじゃった。相変わらずナイーブな子ね。
「玲、あとでフォローしといてね」
「なんで俺が。気になるなら自分でやれよ、海翔」
「玲の嫁さんの追い討ちが効果抜群だったからこうなってるんだから。玲の嫁さんの」
「わざわざ二回言うな……」
「あ。玲が照れてる。ねーねーみんなー玲が嫁さん自慢して照れてるよー」
「ほんっとにタチ悪いな海翔な!」
いや、ほんとに照れてんじゃん。由紀も巻き込まれて照れてるし。まだ結婚してねえっての! って、最近お決まりのフレーズも返ってこないし。お前ら可愛いかよ。
「そこの性欲ボンバー夫婦の話はいいよ」
「性欲ボンバー夫婦って!?」
「性欲ボンバー夫婦って!?」
「そろそろ松葉くんの話する? 聞きたいよね? してもいいよね? うんわかった。じゃあ聞いて聞いて。あのね、昨日」
「はいはい柚珠は黙った黙ったー! 今日の主役は朝陽でしょ朝陽! 彼氏自慢ならいつでも聞いてあげるから!」
今日の主役って言われてもなあ。実際主役を務めたわけだけど、それはもう数時間前の話だし。俺としては、いつになくテンション高いこいつらの話聞いてた方が楽しいんだけどなあ。
「ほら! 朝陽!」
「いやいや蕗子さんや。ほらって言われてもだね」
「なんか気の利いた事言って!」
「無茶振り過ぎるだろ……」
気の利いた事? なんだそれ? わっかんねえよマジで。じゃあもう、頭に浮かんだヤツでいっかな。
「…………今日楽しかったか?」
「気の利いた事って言ったんだけどあたしは」
「ほ、他に何も浮かばなかったんだからしゃーねーだろ! とにかく、どうだったよ?」
「タノシカッター!」
「とても楽しかったです」
エミーとケイト。
「まあそれなりに」
「はいはいツンデレツンデレ。あたしは超楽しかったよー」
玲と由紀。
「だねー! 舞台って生で観るの初めてだったけどマジで楽しかったわー! 朝陽も頑張ってたよほんと!」
「松葉くんと一緒に観られなかったのは残念だったけど、楽しかったかな……次は二人で観に行きたいから再公演よろしく……」
蕗子と柚珠。
「楽しかったよ、本当。終始笑いっ放しだったよ。拓馬はー?」
「……うん……」
「だってさ」
海翔と拓馬も。
「そっか…………よかった……」
みんなが頷いてくれた事が嬉しいのだが、それ以上に安堵感が先に立ってしまい、なんか上手く笑えない。芝居上手いじゃん! とか褒められたばかりだってのにな。
「タージイホメテタ! アサヒノコト!」
「ほんとに?」
「間違いないです。私も聞いていました」
早寝早起きおじちゃんたーじいはこの場には不参加なもんで、顔を合わせて言葉の交換とは明日以降になる。
そっか……褒めてくれたのか。
「アサヒ、ウレシイ?」
「そりゃあ嬉しいさ」
「ヨカッタ! アサヒ、カッコヨカッタ!」
俺の彼女が、満面の笑みでカッコいいと言ってくれた。
正直、無我夢中だった。演じてる最中の事なんてほとんど思い出せない今の俺が、カッコいい所を見せられたかどうかなんてわかるわけもない。
「はい。私もそう思いました」
「なーんか癪だけどね」
「やる時はやるじゃん朝陽も!」
「松葉くんには及ばないけど、まあ……」
「ま、頑張ってたんじゃねーの」
「うんうん。カッコよかったよ。あ、拓馬もカッコよかったって言ってるっぽい」
けど。これが全部なんだろ?
俺をよく知る、俺を作ってくれたヤツらが楽しかったと言ってくれた。劇団の皆さんも、満面の笑顔で俺を出迎え、よくやったと褒めてくれた。
それ以上の事なんて、きっとないんだ。
明日、たーじいに報告をしよう。
たくさんの思い出の詰まった川ノ宮高校に、別れを告げた事と一緒に。
昨日の俺が持ってなかった物。小さいかもしれないけど、確かに掴めたよ、って。
きっとたーじいは、笑ってくれる。
「…………ありがとな……」
「イイッテコトヨー!」
「相変わらず変な言葉ばかり知ってるね、エミーは」
「っていうかもう日付変わってんぞ。明日卒業式なんだが?」
「ヘタレ中途半端ヤンキーの玲が明日の登校の事気にしてるとか……笑える……」
「おいこらケンカ売ってんのか柚珠こら」
「なんかもう朝までこのままでよくない?」
「さんせーい!」
「由紀、蕗子。それはよくありません。お肌にもよくありません」
「そ、それはやめて欲しいなあ……」
「拓馬もそれでいいってさ」
「言ってないよ! 適当な事言うなよ海翔!」
「まあいいじゃない。ねー? エミー?」
「ウン! タノシイノガイチバーン!」
「おいおいマジか……」
主演、俺、超疲れたのだが? ただでさえ寝不足なのだが?
「アサヒ! ミンナデアソブ! アサマデ!」
けど…………まあいいか。こんな日があったって。今日だからこうなるんだから、それでいいんじゃねーか。
「…………そうすっかー!」
「スルスルー!」
「よーし拓馬! 酒! の代わりにコーラくれコーラ!」
「わかったよぉ……親父たちに怒られても知らないからな……ほんとにさあ……」
「朝陽、本気ですか? 本当に朝まで? それは流石に」
「ケイトもごちゃごちゃ言わなーい! あんまり空気読めないとキャサリンって呼んじゃうからね!」
「ふ、蕗子? どうしてその名前を……?」
「ワタシ、イッチャッタ。ケイトゴメン!」
「…………お説教が必要ですね……」
「ワー! ケイトオコッター!」
「怒る事ないだろキャサリン」
「そうだよキャサリーン」
「どうしたキャサリン! キャサリンどうした!?」
「キャサリン可愛いよキャサリン……ふふふ……」
「うんうん。可愛いよ、キャサリン。欲を言えばもう少し童顔で低身長だと」
「変態は黙ってろ!」
「勘弁してください……お願いですから……本当に……」
ブレーキ役のキャサ……ケイトがこんな調子じゃ、マジで朝までコースになる。
ま、いいさ。こうなりゃとことんだ!
* * *
そうして、翌朝。
俺と共に、バカみたいに騒がしい夜を越えた川原町団地の愉快な仲間たちと。
寝不足なツラを涙で腫らしたりなんだりと、揃いも揃ってひっでぇツラで、数え切れないほどの思い出が詰まった場所に。
川ノ宮高校に、別れを告げた。
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