M.4「おおあめのひ」

「すっげー」


 窓から見える外の世界は、なんかちょっとおかしかった。だって、雲がちょっとしかなくて太陽だってしっかり見えてるのに、凄い雨が降ってるんだもん。こういうのを天気雨って言うんだって事は知っていた。理科の授業で習っていたから。


「山吹、傘は持って来てるのか?」

「ないけどへーき! びちょびちょになるの慣れてるし!」


 そうそう。こんなの慣れっこだ。数日前だって、隣町にある大きな児童公園に設置されている大きな噴水に、元気と二人で飛び込んだんだ。真似しようにも踏ん切りつかない感のある修を引きずるみたいにダイブさせて、三人でびしょ濡れになって遊んだんだ。


 夏菜はオロオロしながら心配してて、美優はバカみたいとか言いながらも楽しそうで、あのアホはゲラゲラ笑ってたっけ。当然、親連中には怒られた。懲りずにもっかいやったらもっと怒られた。でも楽しかった。


「学校の傘貸すぞ?」

「いいよいいよー! 雨避けれるし! じゃあまた明日! さよーならー!」

「何を馬鹿言って……っておいこら山吹! 廊下を走るんじゃなーい! ちゃんと反省するんだぞー!」

「ごめんなさいでしたー!」


 確かこの日は、教室に飾ってある花瓶を割っちゃって、お話がありますって先生に呼び出されたんだ。放課後になってすぐの教室の中でボール遊びをしてたらうっかりね。


「みんな帰っちゃったのかなー」


 少し遅くなったからなのかこんな天気だからなのか、俺以外の子をちっとも見なかった事も良く覚えている。みんなも先に帰ったみたいだ。それでいいんだと思うんだけどちょっと冷たいよなー、なんて身勝手な事思ったっけか。


「よーっし……」


 本当に全部雨を避けてやるつもりぞって意気込む俺の鼻歌と廊下を駆ける音ばかりが響く校舎内をダッシュする、その途中。


「さっさとその傘寄越せよ、この金髪女!」

「そうなの! これママと同じ金髪なの! 超カッコいいでしょー!?」

「話聞けよ!」


 そうだ。聞いたんだ。高圧的でうるさい男の子の声と、まるで怯んでる様子もないんだけど、ちょっと的外れな事言っちゃってる聞き慣れた声を。


 なんだ。まーたなんか絡まれてんのか、あのアホは。


「よっと!」

「あ、やっと来た!」


 そう思いながら賑やかな声の発信地へ飛び出したら、やっぱりいたんだ。


「なんだアホ千華ー。まだ帰ってなかったのかよー」

「アホ言うな!」


 いつも通りに怒る、千華。それと、どっかで見た事ある気がする、ちょっとお腹の出ている上級生の男の子が。


「何してんのー?」

「奏太待ってたの!」

「なんで?」

「お母さんに頼まれたの! 奏太、サッカー朝練するって早く家出ちゃったから傘持ってないからって! 今日ゲリラ豪雨あるかもってテレビが言ってたんだよ!」

「ふーん。でも俺いいよ。雨避けるし」

「出来るかバカ! 奏太のバーカ!」

「なんだとー!?」

「そんなバカ奏太の為にあたしが傘を持って来てあげたの! はいこれ!」


 そう言うと千華は、何故か千華専用の傘を俺に向けて差し出したんだ。俺と千華の傘は似たような安っちい傘なんだけど、持ち手の所にサッカーボールとか、その頃好きだった戦隊ヒーローとかのシールが貼ってあるのが俺ので、ちかって平仮名で書いてあるのが千華のって、ちゃんとわかるようにしてたんだ。だから不思議だったんだ。こいつ、なんで俺の傘じゃなくて自分の傘を差し出すんだろって。


「それ千華のだろ。俺のは?」

「え?」

「二本持って来たんだろ?」

「…………あれ?」


 キョトンと首を傾げる姿を見て、俺は直ぐに気付いたよ。


「傘二本持って来るの忘れたな?」

「あ、あれれー? えっとえっと…………てへへ……」


 こいつ、昔っからこんなだったよ。記憶力凄いくせに忘れ物とか超するし、おつかいとか上手く出来なかったりするし。勉強出来る事と頭が良い事はまるで別物なんだって事、こいつを見て覚えたんだ。


「てへへじゃねー! お母さんから何聞いてんだよこのアホ!」

「な、なんだとー!?」

「アホだからアホって言ってんだこのアホ! アホじゃなきゃただの物忘れ激しいおばあちゃんだお前なんか! このアホー!」

「う、うるさーい! 奏太のバカバカバカバカバカーっ!」

「バカって言うなアホ!」

「アホって言うなバカ!」

「うぬーっ!」

「ふぬーっ!」

「おい! 俺を無視すんなよ!」


 いつでもどこでもやってるケンカに割って入って来られて、ようやく思い出した。下駄箱の前にもう一人いたね。


「ん? 誰? 千華知ってる?」

「名前は知らないけど五年生の人だよ。運動会の時大縄跳びで失敗して転んだ人でしょ? あたし覚えてる」

「う、うるせー! そういう事言ったらいけないんだぞ!」


 恥ずかしそうにしているこの子、結局名前すら知らずに顔を見る事もなくなった少し歳上の彼は、いわゆるジャイアン気質的な子で、先生達から見たら結構な問題児だったらしい。お前の物は俺の物理論を平然と振りかざす辺りお察しだろうさ。


「まあなんでもいいや。帰ろーぜ。俺がお前の傘使うから」

「ダメーっ! あたしの傘だもん! あたしが使うもん!」

「こんな簡単なお使い失敗しといてなんで威張ってんだ!」

「うるさいうるさーい! 雨避けて帰るならそれでいいじゃん!」

「傘あるなら使うに決まってるだろアホ!」

「アホ言うなバカ!」


 相合傘って発想はお互いなかったよ。恥ずかしいというより、それじゃ勝負に負けたような感じになるから。やっぱケンカだからさ、白黒付けなきゃじゃん?


「俺を無視するなー!」

「さっきからうるさいなー。なんであたしが大縄跳び失敗して転んだ人に傘渡さなきゃいけないの? 大縄跳び失敗して転んだ人はバカなの?」


 これをさ、無自覚でやるんだようちのアホは。いくら名前を知らないとはいえ、こうも煽れるこいつはやっぱ天才なのかも、そう思ったっけ。


「う、うるさいぞ! 東雲千華!」

「ふぇ? なんであたしの事知ってるの? やっぱあたしが世界一可愛いから!?」

「ちげーよ! お前みたいなのが世界一可愛いわけねーだろ! お前アレだろ、知ってるんだからな!」


 悔やんでも反省しても仕方がないけれど、ここで止めるべきだった。何言い合ってんだこいつら、なんて傍観している場合じゃなかったんだ。


「お母さんが早くに死んで誰かのとこに預けられた頭のおかしい可哀想なヤツなんだろ! 有名なんだからな!」

「……え?」


 笑顔を消して、ゆっくりと首を傾げる千華。この瞬間の千華が何を思っていたのかわからないけれど。


「……お前!」


 俺がものすごく怒った事。思いっきり殴り掛かった事。鮮明に覚えている。


「わ! なんだお前!」

「お前がなんだ! そんな事言うヤツなんて最低だ! 大縄跳びで転んだダサいヤツのくせに最低なヤツとかカッコ悪過ぎだ!」

「なんだとこのチビ!」

「うるせーデブ!」

「デブって言うな!」

「謝れ! 千華に謝れよ!」

「お前がごめんなさいしろバカ!」


 千華の事悪く言うな。あの人の事悪く言うな。何も知らないお前なんかが、こいつとあの人の事を悪く言うのなんか絶対に許せない。誰が許したとしても俺は、こいつを許しちゃいけないんだ。


 だから殴ろうとした。何発だってやってやろうと思った。けど、俺には殴れなかった。


「違うもん!」

「は!?」

「お、おい!?」


 掴み合いをしてる俺と彼の間に、千華が割り込んだから。


「そこどけよ千華!」

「なんだよお前! あっち行け!」

「違うんだもん!」


 俺じゃなく、今まさに俺が殴ろうとしているヤツに、違う違うと千華は訴えていた。


「何が!?」

「何が!?」


 そうそう、ここだけは彼とシンクロしたんだったな。


「あたしは! 世界一可愛いもん!」

「はあ!?」

「はあ!?」


 ごめん、ここもだった。


「あたしは世界で一番なんだもん!」

「何言ってんだ気持ち悪い! あっち行けお前!」


 言わなかったけど、何言ってんだってのは割と同感だった。けど。


「だって! だって……ママが……」

「は!? 何だよ!?」

「だって! ママが言ってたんだもん! あたしは、世界で二番目に可愛いんだって!」


 もう、言葉が出て来なかった。代わりに、少し懐かしい光景を思い返していた。


『そりゃあママの子だもん、千華が可愛いのは当たり前よー。けど今はママの方がずーっと可愛いんだから! だから千華はママの次! 世界で二番目に可愛いの! 世界で一番はもっちろんママ! どーお? 凄いでしょー!? ふっふーん!』


 よく、そう言っていたんだ、あの人が。今にして思う。これ、ふざけてる訳じゃなくて、本気で自分の娘と張り合ってたよなって。ほんと、親子って似るんだね。


『だーけーど! 千華はね、大きくなったらちゃーんとママより可愛くなるんだぞー? いい? ママとの約束ね!』


 けど、最後にこう言うんだ。頭を撫でたり、抱き上げたり、ほっぺにキスをしたり。いつだって笑いながら。必ず、自分より可愛くなってって。


「あたしは世界で二番目で……一番はママだから……本当は世界で一番可愛いのはママだけど……でも……」


 力無い囁きは、目の前の男の子や俺ではなく、ここにはいない誰かへ向けたものだと思えた。


「千華……」


 何もしてあげられない、何も言ってあげられない。それが苦しかった。


「でも! ママはもういないから! だから今は! あたしなの! 世界で一番可愛いのは! あたしなのっ!」


 それはあの人にとって、揺るぎない真実であって、願いであって、夢。


 それは千華にとって、揺るぎない真実であって、夢であって、あの頃から今でも自分を支えてくれている、魔法の言葉なんだ。


「何言ってんだお前!?」

「だから! だからっ! っく……! う……うぅ……!」


 それは、俺の家で暮らすようになってから始めて……違うな。東雲千華っていう、俺より少し遅れて生まれた風変わりな女の子が、始めて見せた姿だった。


 目が離せなかった。何も出来なかった。止めなきゃ、落ち着かせなきゃ、慰めてあげなくちゃっていっぱいいっぱい考えたのに、どうしても体が動かなかった。


 気が付いたら小さな体からありったけを吐き出し続ける千華がふらりと昇降口を抜けてしまっていた。それを見てようやく体が動かせた。大粒の涙を落とし続ける変な色した空の下に慌てて飛び出して、千華の隣に並んだ。傘の事は頭になかった。というか、どっかの誰かがちゃっかり千華の傘を持ってどっかへ行ってしまっていたらしくて、もうどうしようもなかった。


 それから、家に帰るまで。


 ママ。なんで。やだ。どこ。さみしい。会いたい。ズルい。バカ。


 千華の口から飛び出て来たのは、ぶつ切り且つ稚拙な言葉の数々と、ずっとずっと止まらない、言葉になりきらない叫びだけ。


 なんとなく、千華の手を握ってしまった。弱々しかったけど握り返してくれた。千華と手を繋ぐのなんて、幼稚園年長さんの頃以来とかだったんじゃないかな。


 それでも千華の様子は変わらなかった。けれど、俺の様子は変わった。急に視界が滲み始めたんだ。いろんな事を思い出したり考えたりした所為かな。あまりにも前が見辛くなったから、自分が真っ直ぐ歩けているのかわからなかった。帰り道は少し怖かったけれど、雨が降ってて良かったなとも思った。


 道行く大人が大丈夫かとか声を掛けてくれたけど、全部無視してひたすら歩いた。だって、頼っても無駄ってわかってるもん。今の千華を大丈夫に出来る大人は、一人しかいないんだから。


「ただいま……」


 家に着く頃には多少落ち着いた。俺がしっかりしないと。なんて気持ちも、幼いなりに働いていたと思う。


「母さん……」


 父さんは仕事でいないの知ってたから母さんを呼んだ。けれど誰も出て来なかった。俺の声が小さいのかなと思ったけど、母さんお気に入りのブーツがなかった。そうだ、今日は出掛けるって言ってたっけ。雨に降られてないといいけど。


「ちょっと待ってて……」


 手を離すのも目を離すのも心配だったけど、このまま二人で部屋に入ったらそこら中びしょ濡れになっちゃうと思った。それやったら怒られちゃう事は知ってたから、体に付いた水滴をバッと飛ばしてびっちゃりなランドセルを置いて洗面所に駆け込んだ。中まで水の入ってる靴下を洗濯機にシュートして全身をタオルで拭いて、千華の分のタオルを持って玄関まで戻って行った。


「千華……?」


 いなかった。慌ててドアを開けたけど、外には誰もいなかった。よく見たら千華の靴が玄関にあったし、廊下がびしょ濡れになっていた。千華が通ったんだ。急いで内階段を上がってリビングに入って、見た。


「なんで……ママいないの……?」


 ランドセルも下ろさず、びしょ濡れのままフローリングに座り込んで、小さな写真立てに話し掛けている千華を。


「ママのバカ……ママなんて……うぅ……」


 その姿を見て、理解した。


 きっと千華は、なんて言っていいかわからなくて、言いたい事をずっと飲み込んでいたんだ。


 千華はアホだけど頭のいい子だから、自分の母親がどうなったかなんて、俺達が理解するよりずっと早くに理解していたと思う。けど、うちの父さんも母さんも、みんなのパパママも、本当の事は言わなかった。その理由が優しさから来ているものなのか、それとも単なる逃げなのかは、今でもわからない。


 もしかしたら、口に出したくなかっただけなのかもしれない。千華のママは、お父さんお母さん達みんなの親友だったから。


 この日までは、気付かないフリだって出来た。理解出来てはいても、大人達は何も明言していなかったから。


 けれど、あのジャイアンが言ってしまった。千華の母親の行き着いた先を。今日まで誰もが明言を避けて来た事実を。


 言われてしまったら、認めなくちゃならなくなる。トボけてなんていられなくなる。


 本当は受け入れたくなんかないし認めたくもない辛い現実を飲み込んだその結果、言いたかった事、その全部が溢れ出したんだ。


「どうしてほんとの事教えてくれないの……そんなのいけないんだよ……」


 写真立ての中で笑うあの人へ、千華の問い掛けは止まらない。溢れ落ちる物もなくならない。


 千華の手の中で徐々に濡れていく写真立ては、三年生の時に千華が作ったものだった。紙粘土のフレーム部分にビー玉やおはじきをこれでもかと埋め込んだ、少し不恰好な写真立て。仕上がりを見た俺や元気はケラケラ笑っていたけど、千華は満足気だった。家に持ち帰って真っ先にあの人の写真を中に入れて嬉しそうに笑っていた事、よく覚えてるよ。


 その思い出さえ濡れて溶けていくような、そんな気がして。黙って見ているなんて出来なかった。


「ママのズルっこ……ママのう……?」


 バスタオルを載せて、髪を拭く。それだけ。俺に出来たのは、それだけだった。


「いいから」


 続けて欲しかったわけじゃないから、続けてとは言えなかった。ならやめて欲しかったのかと言われると、それも違ったと思う。


「……ママの……バカ……ママのアホ……ぐすっ……ママの……ばかぁ……」


 床を拭くのなんて後回し。もはやただの愚痴みたいな稚拙な言葉の数々を後ろで聞きながら、濡れた髪をただただ拭いていた。


 小さな千華の小さな手の中で思い出が溶けていくのなんか、見たくなかったから。


 写真上を雨が滴る様は、あの人が泣いてるみたいで。そんなの見たくなかったから。


 それに、思い出だけじゃない。この綺麗な金髪だって、あの人が千華に残してくれた、大切な物だって知ってるから。


 これ以上何もしてあげられないけど、千華とあの人にとって大切な物を守ってあげたいって、そう思ったんだ。

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