女の心は猫の目
まだまだ賑やかなふじのやを背中に自転車を走らせ温い風を切る。時刻は午後十時を回った。この近辺は集合住宅ばかり立ち並んでいる割に街灯が少なく、人気も薄れるこの時間になるといやーな感じの薄暗さになる。変な質の人とか出ないといいんだけど。
「見送りなんて必要ないんですけど……」
俺の少し前、ツインテールを揺らして進むねこちゃんから、不満のお便りが届いた。子供扱いするなー、ってとこかね。
「ふじのやのビッグボスの命令ですので」
「そーそ。雇い主に逆らっちゃダメだよー」
「む、むぅ……」
けど、実際子供なんだから仕方ないじゃない。可愛く唸ってもダメなものはダメです。
「帰りは奏太に送ってもらいなさい。奏太、その子家まで送って行け。そしたら飯代取らんから」
と、ふじのやのビッグボスからのお達し。何かと物騒なご時世だし、孫の友達且つ期待の新戦力であるねこちゃんの事を心配してんのさ、ふじのやのビッグボスは。余計なお世話だ老婆心だなんて切り捨てず汲んでやって欲しい。別に最近マンガ買いまくってる俺には渡りに船。乗っからない理由がない。だから寧ろ送らせてくださいお願いしますだなんて打算はないよ? いやあるわ。
「大人しく俺に送られてくれ。嫌って言っても付いて行くからね。赤嶺家まではなんとなく覚えてるし」
「一歩間違えたらストーカーじゃないですか……」
「ほんとほんと。奏太の変態」
「変態違うわ。っていうかよ」
「んー?」
「なんでお前いんの?」
「奏太一人で見送りとか不安しかないから」
「本音は?」
「本音だよ?」
「本音その二は?」
「奏太が払わないであたしだけご飯代払うのムカつく」
「よく言えました。このちゃっかりさんめ」
「てへへ」
「照れる所じゃねえ」
隣を走りながらわざとらしく頭をポリポリ掻いてみせる美優。危ないからちゃんと前見てペダルを踏みなさい。
「っていうか、親御さんにはふじのやでバイト始めた事伝えてあるのー?」
「両親には伝えました」
「謙之介には言ってないんだ?」
「バイトを始める事は言ってありますけど場所は教えてません」
「どうしてー?」
「あのおに……兄の事です。おお、今日バイトの日だったのか。この近くでさっきまで遊んでてな。小腹が減ったから寄ってみたんだ。いやー凄い偶然だな! とか無理矢理な嘘付いてお店来るでしょう。それか一瞬でバレる変装してくるとか。なんにしても足繁く通うんでしょうね、私のいる時を狙って。破茶滅茶に鬱陶しいので全力回避です。他の誰にバレても構いませんけど、兄にだけは絶対に教えません」
「あー」
「あー」
年上二人が口を挟む隙間なく語られた未来予想図の、なんとまあリアリティのある事。謙之介なら本当にそんな具合になりそうでなんか笑う。っていうかねこちゃんはねこちゃんで謙之介の思考トレース完璧過ぎじゃない? さっすが仲良し兄妹。
「あーっと、ねこちゃんねこちゃん。デビュー戦を終えた感想を聞かせて欲しいでーす」
「あの、ねこちゃんって言うのは」
「あー俺も聞きたい聞きたい。その辺どうなのねこちゃん」
「だから」
「何恥ずかしがってんのーねこちゃん」
「あの」
「なんだかんだとバッチリこなしてるように見えたけどねこちゃん的にどうだった?」
「もういいです……正直言って、いつの間にか終わっていたって感じです……もう何が何だかって感じで……」
「ど緊張してたもんなあ」
「べ、別にそこまで緊張してなんか……」
「してたじゃん」
「してないです」
「相変わらず負けず嫌いだねー」
「そんな事ないですっ」
わ、ぷんすかしてる。こういう所夏菜にそっくりなんだよなーこの子。夏菜の妹がどうとか言ってた常連さんいたけど、結構しっくり来ちゃったり。
「俺らの席に飯持ってきた時なんか腕プルプル震えてたけど」
「今にも泣き出しそうだったし」
「それはないです! 泣いたりなんか絶対しないですっ! う、腕プルプルくらいはあったかもしれないですけど!」
「足も震えてたよな」
「生まれたての子猫みたいだった」
「そ、そんな事……」
「つーかいつの間にか終わってたーって言ってるような子が緊張してねーしって言っても説得力ねーよなー」
「もう何が何だかって感じでーとも言ってたよねー」
「ぐ……ぬぬ……」
「いえーい」
「いえーい」
「何ハイタッチしてるんですか……!」
振り返ったお顔は真っ赤っか。うし、一本取ってやった。
「そんなガチガチ緊張ガールねこちゃんを見た元祖看板娘が言ってたよ? 上手くやってるなーしっかりしてるなーって」
「ほ、本当ですか?」
「こんな事で嘘言わないよ」
「じーちゃんばーちゃんも褒めてたよー。手伝い始めた頃の夏菜よりしっかりしてるって言ってたくらいだし。結構な高評価だと思うよーこれ」
「そうなんですか…………やった……!」
ボリュームを落とせば聞こえないと思ったんだろうけど、残念バッチリ聞こえてる。隣を走る美優にも聞こえたらしく、お姉さんぶった笑みを浮かべている。
「……あの、そ……山吹先輩」
「ん?」
少し速度を落とし、俺の左隣に付けるねこちゃん。右手には美優いるし、両手に花ってヤツかしら。三列走行は危ないんだぞ?
「ありがとうございました」
「何が?」
「ふじのやさんを紹介してくれた事です。ちゃんとお礼を言っていませんでしたので。その……本当にありがとうございます」
照れを隠しきれていないのか、作った笑顔はどこかぎこちない。こういう所も変わってねえんだなあこの子。
「気にしなくていいのに」
「気にします! こういう事はしっかりしないとダメなんです! 私が嫌なんです!」
「わかった、わかったから素直にお礼言われとく。どういたしまして」
「はい……その……ああいうノリというか……アットホームな雰囲気に慣れるのにまだ時間掛かりそうですけど……えと……」
「楽しかったとか?」
「そう……ですね……はい。楽しかったです」
「なら良かった」
ねこちゃん的にも、夏菜的にも、ふじのや的にも。もち、俺的にも。
「そっかー楽しかったかー」
「はい」
「そっかそっかーそうだよねー。そりゃ楽しいだろうなー」
「どうしてそう思うんですか?」
「だってねこちゃん、昔と変わってないんだもん」
「それがどう関係あるんですか?」
「んー? どうしてだろうねー」
「……何が言いたいんですか?」
「ううん全然。ほんとなんでもないから」
「……そうですか……」
え? 何? なんで? この唐突なプチ険悪モードは何事? 俺を挟んで何が起こっているの? っていうかなんなの、美優の雑な絡み方。ねこちゃんは雑絡みにイラッと来てるだけっぽいけど……。
美優は、いきなり他所様にキレ散らかすなんてもちろん、そもそも他人にストレスをブツけるような真似をするような女ではない。そんな事するくらいなら元気や千華をゲームでボコボコにしたり、夏菜を弄ったり抱き枕にしたりして発散する。浅葱美優という女は、そういう女なのだ。それはそれでどうなんだと思わなくはないが。
そんなこいつがなあ。何か引っ掛かる所がこの数時間であったのだろうけれど、どんなに思い返してもどれがスイッチになったのか見当も付かない。店内での謎発言といい、俺の幼馴染、ほんとワケワカメ。
「おいこら浅葱先輩。ねこちゃん後輩にウザい絡み方するんじゃありません」
「そんなつもりないんだけどなー」
「なんかあったのか?」
「ううん、何にも。ほんとだよ?」
「ならそういうウザ絡みはやめなさい。ねこちゃん何もしてないだろ。まったくもう」
「……ねこちゃんには優しいんだね、奏太」
「違う。今のはお前が良くないと思っただけだ。ねこちゃんだからとかじゃないぞ」
「……そ」
幼い頃とは比べ物にならないくらい綺麗になった横顔は何も語らない。何も教えてくれない。
こっちが気に掛けたり心配したりしているのは容易に察せられる。それでも美優はそこに触れないし、敢えて言葉を削って情報を制限する。
構って欲しいとか気付いて欲しいとかじゃない。ただ少し、素直じゃないだけ。良きように言うなら、天邪鬼なヤツなのだ。
美優らしいといえばらしいが、それが災いして俺ら以外に爪痕を残すような事になるなら、美優らしいの一言では片付けられない。
俺。修。元気。千華。夏菜。自惚れなんかじゃなく、誰よりも浅葱美優の事を知っているのは俺達五人。そんな俺達じゃなきゃ気付けない、律せない事ならば、俺達がやる。決め事なんかでも暗黙の了解なんかでもなく、本当になんとなく、俺達はそうしてきた。それが美優だろうと俺だろうと、誰の場合だろうと。だからこの場も。それだけ。
「……はあ……」
大きな溜息は右隣から。次いで聞こえたのはブレーキの音と、ざざっとアスファルトを擦る音。気付くなりブレーキを掛けたが、美優との距離は開いてしまった。
「おい、急になんだ。俺に怒られて不貞腐れちまったか?」
「奏太からお小言頂戴したくらいであたしがヘコむわけないでしょ」
知ってるけど。言ってみただけ。
「じゃあなんだよ?」
「や、悪役は苦手だなあ……って」
「は? 何? 悪、なんだって? お前が性悪だって話?」
「違うっての。難聴系主人公の真似でもしてんの?」
「難聴系主人公ってなんだ?」
「え? 難聴系主人公の話ですか!?」
妙に食い付きがいいのは、重くなった雰囲気の中で一人静かにあわあわしていたはずのねこちゃん。ねこちゃんアンテナが反応って事はそっち系のワードって事かな。俺の読んでるマンガじゃ見ないワードだなあ。
「なんだか知らんがさっさと行くぞ、美優おばーちゃん」
「まだ引っ張るか、バカ奏太。ねこちゃんねこちゃん」
「は、はい?」
「あたしここで帰るから、ここからはそこの眠たそうな顔したヤツに送ってもらって」
「へ?」
「誰が眠たそうなヤツだ。急になんだよ?」
「チェック済の今日発売のゲーム、まだ買ってなかったなーって。寝る前に序盤だけでも触れときたくてさー」
「ふーん」
嘘じゃないのはなんとなくわかった。けど、無理がなくはない。でも、お前がそうしたいっていうなら。
「そうしたきゃそうしろ。俺なしで帰れるか、美優おばーちゃん?」
「バカ。覚えてなさいよ」
「帰るまでにきっちり忘れとく。寄り道すんのは勝手だけどよ……大丈夫か?」
「そういうのは千華にでも言ってあげなよ」
「あいつは挙動不審過ぎて周囲が近寄らないから問題ない」
「あーね、それね」
「まあなんでもいいけどよ……気を付けて、なるべく早く帰れよ」
「うん」
珍しく素直に頷く幼馴染には、何処となく気怠そうな、見慣れた笑みが浮かんでいた。
とりあえず、元に戻ったらしい。それが気分なのか機嫌なのかは曖昧だけど。つーかお前の方こそ眠たそうな顔してね?
「あーそうだ。ねこちゃん」
「なんですか?」
「奏太に聞きたい事、あるんでしょ?」
「は、はい!?」
見るからに狼狽えるねこちゃん。俺を見たり美優を見たりと、視線の反復横跳びはえらくハイペース。疲れそう。
「今更って思いもあるだろうけど、折角近くにいるんだから、ちゃんと言葉にして確かめないと。じゃないと、知らない間にいろんなものを見失っちゃうんだから」
「確かめる……」
「ま、そこはねこちゃん次第。ただ、今のままでいるのは精神衛生上あまりよろしくないよとだけ添えておくね。あ、奏太奏太ー」
「ん?」
「ねこちゃん家の怖ーいお兄ちゃんにブッ飛ばされないよう、ちゃーんとエスコートして行きなさいよー」
「おう……じゃなくて! さっきからなんの話してんだよ!?」
「じゃあおっさきー」
俺の呼び掛けも、黙り込んでしまったねこちゃんも完全スルーで、くるりとUターンを決め、来た道を戻って行ってしまった。
「行っちまった。なんだかなーあいつは」
「浅葱先輩……昔よりミステリアスになりましたね……よくわかんないです……」
「深く考えないほうがいい。美優だって深い事考えてるわけじゃないから」
「どうしてそう思うんですか?」
「扱いめんどいし気難しいヤツかもだけど、小難しいヤツではないから美優は。もっと言えば、勘」
「そ、そうですか……」
「そうなんです。行こ」
「はい」
そして俺とねこちゃんは、考えるのをやめた。浅葱美優はああいうヤツ。わからない事があるのなんて当たり前なんだし、そんな程度の認識でいいんだ。
さて、三人から二人になったが……どうしようね? とりあえずは美優の置き土産、俺から触れた方がいいのかな?
俺に聞きたい事があるんでしょ、だったか。なんともフワッとしていらっしゃる事で。
「……あ…………う……」
チラチラとこっちを窺っているみたいではあるんだけど、ねこちゃん黙っちゃった。如何にも話題探ししてますー感が落ち着きのなさから滲み出ているのだが、はてさてどうしたもんか。
聞きたい事、ね。そんなの俺にだってある。いくらでもある。疎遠になったこの数年間どんな学校生活を送っていたのか。今の趣味にのめり込むきっかけは何だったのか。好きなマンガは、アニメは、ゲームは。大なり小なり挙げ始めればキリがない。
しかし何故だろうか、口が重い。興味や好奇心が形を成して喉元まで登ってくる感覚はあるものの、いざ! って所でUターンしてしまうのだ。体外へ飛び出る事を良しとしないのは、何処の困ったちゃんなんだろうな。俺にもわかんねーや。
「あ……そ、そうだ! 浅葱先輩って、ゲームやるんですね! なんか意外です!」
ありました! 話題見つけました! 感の滲み出る前のめりっぷり。とりあえず美優の置き土産には触れない方向なのね。オッケ、合わせるよ。
「結構なゲーマーだよあいつ。最近はゲームやるかマンガ読むかで夜の予定は埋まってるね。朝までコントローラー握ってるとかもザラにあるし。廃人かよ」
「それは凄い……どんなジャンルのゲームやるんでしょうか?」
「なんでもやるよ。最近はバトロワ系TPSやってる率高いかなー。ねこちゃんと波長合いそうな所だとノベルゲーって言うんだっけ? ああいうのもやるし」
「そうなんですか……へーっ……」
あ、うずうずしてる。なんとまあわかり易い子だろうか。
「え、えと、浅葱先輩は皆さんとゲームやったりとかはしないんですか?」
「結構やるよ。最近だと体育祭終わりでそのまま朝までマリカーしたかな。ああ、ホラーゲームクリアするまで寝れまテンとかやった事もあったなあ……巻き込まれるこっちの身にもなって欲しいわ……」
「怖いから嫌だった、とかですか?」
「まあ割とガチで怖い系だったけど、朝八時にエンディング見ましたからのマッハで制服に着替えて登校とか、そっちの方がよっぽどホラーでしょ。あれはマジ怖かった……」
「ああ……」
「俺を逃がさないためとか言ってさ、わざわざ俺の部屋にゲーム本体ごと持って来てやりやがんの。ほんとタチ悪いわあいつ」
「な、仲がいいんですね……」
「ん? まあね」
「そこは認めるんですね……」
「じゃなきゃ出来ないでしょ、こんな事」
「ですね……」
「うん」
「本当仲良しですよね……皆さん……」
腐れ縁、とは流石に言えないか。そんなもんじゃないと思うし。もっともっと青臭くて面倒くさい、そんな関係だと思うから。
「なら……ならですよ……」
「うん?」
「皆さんには話したんですか?」
「何を?」
「そ、それは……その……」
ああ、なんとなくわかった。ここからがねこちゃんの本命で、美優の置き土産の中身なんだって。
「えっと…………や、山吹先輩!」
「なんでしょう」
「い、今更かもしれませんけど……どうしても気になって……だから教えて欲しくて……ですね……」
「どうしてサッカーやめちゃったのか? とか?」
「っ!?」
「おっと」
どうやらこれが本命だったらしく、あわわしながら急ブレーキ。危ないよ?
「当たり?」
「は、はい……」
タイヤの運動エネルギーを殺し、百面相かくらい慌ただしく表情を変えるねこちゃんから少し離れた所で停車。どうしてわかったんですか? とでも言いたげに顔色変えてるけど、俺らが最後に顔を合わせた時の事を思い出せば、これしかないでしょ。
今でも覚えてるよ。俺がチームを辞めたあの日、ねこちゃんが俺の家まで来た事。汗だくで半ベソでさ、大きな声で俺に聞いたんだ。どうしてやめちゃうの、って。
これが最後。この日から俺とねこちゃん……違うな。俺らとねこちゃんは、疎遠になってしまった。
「その……じゃあ……聞きます。どうして山吹先輩はあのチームを……サッカーをやめてしまったんですか?」
まさか五年も経った今、また同じ事を聞かれるだなんて。
話してください。どうしても知りたいですと、真っ直ぐ俺を見上げるねこちゃんの目が言葉以上に急かしてくる。
どうしてそんなに気になるの? 今更こんな話しても仕方なくない? 正直そう思ってしまう。
別に、理由を話すのがどうしても嫌とか恥ずかしいとかそんなんじゃない。けれどね、つまらなくてくだらなくて薄っぺらくて安っぽい、本当に情けない話なんだよ? それにこの話はね……。
「教えてください」
ああ……うん。そうだ。
「ごめん、俺には向いてなかったんだ。それだけ」
ふと、記憶に新しい言葉が意識を埋めた。
全部知りたくない? あたしだったら全部教えて欲しいし、全部知りたいけどなー。
あーあ。ほんと鬱陶しい。知らない方がいい事なんて、幾らでもあるのによ。
けれど、それは人それぞれ。そんな事は理解してはいるんだけど、それでもダメだ。
期待に応えたい思いより、言えない理由の方が少し重い。だからダメだ。
「……そうですか……」
「うん」
「…………行きましょう」
「うん」
落胆の色を隠さないねこちゃんの背中を追う。今この子の横に並ぶのは、俺にはちょっと無理だから。
その後、少し後方からねこちゃんを追う道すがら、俺達は一切の会話もなかった。早く家に着きたいのか、ペダルを踏み込むねこちゃんの足は軽快そのものだったけれど。
「まだ……子供扱いですか……」
別れ際に両耳が拾った囁きは、異様に重たかった。
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