ブルファイターとエンカウンター
ミューズ川崎。レストランや多様なショップに加え、大掛かりなシンフォニーホールまである、川崎西口にあるランドマーク。川崎駅から直通で行けるという好立地もあってか、近隣にある、ラーゾナ川崎と並んで利用客の多い施設だ。休日である今日も御多分に漏れず非常に人が多く、どこを見ても人で溢れかえっている。
その一階。小さな子供達の活気で満ちたマックの店内にて。
「今直ぐに身長を伸ばす方法を教えてくれっ!」
意味不明な事を言い出す茶髪が一人。
「帰ろうか」
「だな」
「帰ろ帰ろー」
「待ってくれ! 本気で悩んでるんだ! 後生だから聞いてくれ!」
体育祭から二日が経過した日曜日の夕方。周囲の視線など御構い無しで、赤嶺謙之介が叫ぶ。
「いや、本気で悩んでるとか言われても」
なんて答えればいいのやらってなるだろう。ネットとかでたまに見かける怪しげなサプリのご厄介になってくれくらいしか言えないだろこんなの。
「明日空いてるか? どうしても相談したい事があって……出来れば奏太と浅葱も来てくれるとありがたいんだが……頼む! どうかよろしく頼む!」
って言うから、奏太を連れて来たと思えばこれとはね。
「厚底ブーツでも履けばいいじゃん。謙之介が履いたら犯罪的な絵面だろうけど」
「あ、お前は帰っていいぞ東雲」
「なんで!? 美優がバイトだって言うから代わりに来てあげたのにー!」
「誰も頼んでねえし」
「まあ実際声掛けてないけどね」
「お前が俺と修から盗み聞きしただけだもんな。悪いな、謙之介」
「みんなしてあたしの扱い雑過ぎじゃない!? 落ち込むぞ!?」
「どうぞ」
「はい落ち込んだー超落ち込んだー! あーあーあたし落ち込んじゃったなー!」
「そうか。じゃあな」
「向き合って!? 落ち込んでる女の子と真面目に向き合って!?」
うっかり話を聞かれてしまった千華が付いて来た事も身長云々も予想外もいいとこだが、謙之介の言う相談とやらに夏菜が関わっている事だけは予想通りだった。
初めは断ろうと思った。しかしまあ、謙之介の必死さに折られてしまった格好だ。
「っていうか! さっきから名前出さないようにしてるけど、夏菜絡みなんでしょ?」
「あ、ああ……」
「やっぱねー。遠回しにしないではっきり言いなよねー。男らしくないなー謙之介」
「ぐ……」
「あたしに言わせればね、夏菜とどうこうなろうとかもう手遅れだから。これはもう今更どうしようもないから諦めってわー!? 何泣いてんの!?」
「な、泣いでねぇじ……だだの汗だじ……」
「めっちゃ泣いてるじゃん! どんだけ繊細なの!? あーもう! 動かない!」
半ば呆れ顔の千華が、向かいの席から謙之介の目元を拭っているのだが、まあ乱暴。謙之介、痛そうにしてるし。
「ずまん……」
「まったく……めんどくさい性格してるよねー謙之介も」
「うるせ……」
「ほら、あたしのポテトあげるから元気出しなよ。あ、三本だけね」
「ぐすっ……ありがとよ……」
言われるがままにポテト三本をハムハムと齧る姿はまるで忠犬のようだ。普段はクールな男って雰囲気な謙之介だが、少し弱い部分突かれると途端に子犬のようになるの面白いな。謙之介、犬之介説。あるか? あるな。
「もう今更だけどさ、ずっと好きだったんでしょ?」
「……です……」
「ならもっと早くに言えば良かったのに」
「言えるわけねぇだろ……あいつが……いつでも近くにいるってのに……」
「まーそりゃわかるけどさ……」
千華でさえ渋面を作る有様。長い付き合いの謙之介でさえあの壁は……松葉元気の壁は高過ぎた。なんとまあ、堅牢で強固な城壁だろうか。
「で、その結果見事にフラれちゃったと」
「う」
「もっと早く動いてればわかんなかったと思うよ?」
「た、確かに断られてしまったが……俺はまだ諦めたわけじゃない。これを前進だと捉えてまたアタックを」
「うわ、ウザっ」
「う、ウザ?」
「ウザいでしょーそれは。っていうか、今の夏菜にちょっかい出すのやめてね。ただでさえ混乱中なんだから」
隣に座る奏太が目を丸くしたのがわかった。アホアホ呼ばわりされる日々を送っているが、夏菜の事となるとちゃんと気付いているらしい千華に驚かされた、とか?
「混乱中ってまさか……な、なあ……もしかして俺……よっぽど嫌われてんのかな……あんな嘘まで付いてよ……」
「嘘?」
「自分より身長高い人じゃなきゃ、ってヤツ……」
まあ、気付くか。夏菜がずーっと昔から想いを寄せている人物の事を知っていれば誰だって。
あの嘘を本気にしているのは、恐らく元気だけだろう。謙之介が信じ切っていると決め込んでいるだろう夏菜だって、あの嘘を本気にしている一人とも言えるか。
さっきの意味不明な質問は、事実を知っていても一縷の望みに縋りたいという気持ちの表れ。俺はこう解釈している。
「アレはその場凌ぎだろ。なあ修?」
「だろうね。元気が口挟んだもんで余計にテンパってた感あったし」
「だとしても……俺ってやっぱ……白藤に嫌われて」
「ないよ。ない。あたしが断言する」
「東雲……」
「そもそも、あの超人見知りちゃんに、人を嫌いになる程の余裕があるとでも?」
「ないな」
「ないね」
「……なさそうだな……」
確かに。自分の事でいつでも精一杯だし、人に嫌われる事を怖がっているきらいもあるんだ。そんな夏菜が露骨に嫌悪感を示すなんて想像すら出来ないな。
「でしょ!? っていうか問題はそっちじゃなくて! 逆だよ逆!」
「逆?」
「そ。謙之介さ、昔から露骨に夏菜の事避けてたじゃん?」
「さ、避けてなんかねぇ! まともに目を見れなかっただけだ! 恥ずかしくて! 可愛過ぎて! ああもう! 何であんなに可愛いんだ!?」
「キモっ」
「ガチトーンで言うな自覚してるわ!」
「なんでもいいけど。それ、夏菜の目にはどう映ってたと思う?」
「それって?」
「客観的に見てみなよ。謙之介はあたし達六人の中で夏菜にだけ目を合わせない。話し掛けない。話し掛けられてもぶっきらぼうに返すだけ。これ、自分だけ避けられてる、嫌われてると思ってもおかしくないよね? どう思う?」
「……た……確かに……」
「って事はつまり?」
「…………なるほど!」
「なるほど! じゃないわ! 夏菜ってば謙之介に嫌われてるもんだと思ってたんだから! 昔からずーっとね! 本人に聞いたわけじゃないけど!」
「そ、そうだったのか……道理で俺にだけ余所余所しいなって……」
「あんたの所為でしょあんたの!」
顔を真っ赤にして怒鳴る千華と顔面蒼白汗まみれな謙之介の対比が面白いな。奏太に至っては謙之介の写真撮ってるし。やめてあげようよ……。
「だから昨日の夏菜は、ずーっと昔から自分の事を嫌いだと思ってた人にいきなり告白された。意味がわからない、なんでどうしてこのあとどうしたらいいのー? で頭がいっぱいいっぱいだったと思うよ」
「そ、そうなのか……」
「で、時間を置いた今はきっと、謙之介に悪い事しちゃったとか、もっとああしたらよかったのかな、こうしたらよかったのかな、謙之介に嫌われたりしてないかなとか、考えなくていい事まで考えてると思うよ」
「そんな感じだろうな」
頬杖を付く千華の隣で奏太が頷く。十余年の付き合いは伊達じゃないな。ほとんど百点じゃないか。
「なら……今から俺はどうしたら」
「そんなの知らないよ。フラれたのも勘違いさせたのも全部自業自得じゃん。自分で解決しなよ」
「耳が痛いが……少しくらい」
「っていうかあたし、怒ってるんだからね」
「お、俺にか? どうして?」
「何年も何年も夏菜の心を圧迫するような振る舞いしてた事」
「う……」
「もちろん夏菜にだって悪い所はあるよ? そんな所だって可愛いんだけどさ」
「ふむふむ」
おい。うんうん頷くべき場面じゃないぞ、謙之介。
「けど、あんな態度を取り続けてきた謙之介はやっぱムカつく。どんな理由だろうとあれはないわ。謙之介を見る度に思い悩んでた夏菜の気持ちとか考えてみなよ」
「そ、それは……」
「自分のダウナーな部分に夏菜を巻き込んだって事、ちゃんと自覚して。自分がどんだけ独り善がりだったかって事」
相当効いたらしく、黙り込んでしまった。同じチームでボールを追い掛けていた頃にも見せた事のない、陰鬱な表情だ。
「……言っとくけど、あたしは謙之介の敵になるつもりはないよ」
数伯の間を置いて放られた言葉の主の目付きが、鋭くなっている。
「なら」
「けど、味方にもならない。絶対に」
「……そうか……」
「そりゃそうでしょ。あたしは夏菜の味方だもん。夏菜にとって一番良くなるよう応援して、出来る事をするの」
「俺とじゃ……一番良くなれないか?」
「そんなのわかんないよ。っていうか、これからの謙之介次第じゃない? 謙之介が夏菜をその気にさせられたら、きっと一番は変わってるはずだから。まあ無理だと思うけど」
「無理……か……」
「そんな事、謙之介自身が一番わかってるんじゃないの?」
一切遠慮ない千華の口撃にもはやグロッキー状態の謙之介は、何も言わずに俯いてしまった。
「いたっ!?」
奏太が千華の脇腹に肘を入れたのが見えた。言い過ぎだぞお前、だろう。それを受けても千華の表情には力が入ったまま。ほんとの事言っただけだもん、とでも言いたげだ。
「東雲」
「なに?」
「ありがとな」
「ほぇ?」
俯いたままの謙之介の一言は、千華の毒気を抜くには充分だった。間抜けに開かれた口に、パチパチと忙しない大きな瞳。如何にも普段の千華らしい、如何にもアホの子らしい、間の抜けた顔だ。
「え? なんであたしお礼言われたの? 謙之介ってドMなの? 引くわー」
「そうじゃなくてよ……今日知りたかった事のほとんどを教えてもらえたからよ……」
「何それ?」
「なんつーか……俺の立ち位置……みたいなもんをさ……」
立ち位置。言い換えるなら、夏菜から見た謙之介、って所だろうか。
「勘違いしまくってたし……勘違いさせまくってたんだな……今更知ったわ……」
「遅いってば。せめて五年前には気付けっての。自分ばっか見てるから肝心なとこ見落としちゃうんだよ。ほんとガキだよねー謙之介。全然進歩してないもん」
「返す言葉もねぇわ……けどここまでだ。こんなのはもう、終わりにする」
語勢が強まったのがわかった。それは謙之介が俯くのをやめたからか、他に何か理由があるのか。
「諦めるって事?」
「諦めたわけじゃないってさっき言ったろ? 逆だよ逆」
「え、無理だと思うって言ったよね? っていうか絶対無理。それでも?」
「それでもだ。諦めたくねえ。つーか諦められる気がしねえ」
「ふーん」
「だから、間違いを正して誤解を解いて……謝ろうと思う。そんで……今度こそちゃんと、友達になる。ここから始めるつもりだ」
「友達ねぇ……」
「今の友達関係なんて友達のそれじゃねえ。絶対正しくねえ。だからもう一度やり直す。今までの事は捨てずに、今までとは違う、互いにわだかまりなく認め合える、ガチな友達に。これが当面の目標だ。なんと言われたってやってやるんだ。もちろん、白藤を圧迫しないように」
決意表明を終えた謙之介は、不敵とも取れるような、好戦的な笑みを浮かべていた。
「……ねえ謙之介」
「ん?」
「ウザい」
「何でだ!?」
「や、なんかウザくて。セリフとか顔付きとか声とか茶髪とか存在から何から何まで」
「存在は流石に酷くないか!?」
いやいや全部酷いからね。昨日、美優に顔付きが嫌いとか言われたもので妙にシンパシーを感じてしまっていけない。
「ギリギリ合格」
とは、昨日部活から帰った俺の顔を眺めた美優のセリフだ。なんだ、ギリギリって。
「あとやる気満々な感じね。超ウザいし、また空回りしちゃって一人でどっかに転がり落ちてく未来しか見えないし」
「そうならないよう気を付けながら進めていくわ。つーか……止めないのかよ?」
「止まる気ないってわかってるヤツに無駄な事言ってもね。ま、やり方間違えないでちゃんと誤解を解ければ、夏菜にとって大きな前進だと思うしー?」
「それするから。絶対やるからよ」
「あっそ。ああそーだ! 夏菜の気持ちもちゃんと考えてよ!? 一切間違えるななんて言わないけど、せめて大切にして! 今まで通りじゃ全然ダメだから! わかった!?」
「ああ」
「ならいいけど……もっかい言っとくね。あたしは謙之介の応援はしない。それと……夏菜を傷付けたら……絶対許さないから」
「……わかってる」
コクリと頷く謙之介を見てか、千華の口角が少し上がったようだ。なんだかんだとお人好しだよね、千華は。隣で似たような顔してる奏太の影響もあるのかな。
「よし……帰るわ」
「もういいの?」
「充分過ぎるくらいだ。ありがとな」
「礼とかいいから。ま、精々足掻いてみればいいんじゃない」
「そのつもりだ。とりあえず明日、白藤と話して……話して……」
「明日?」
「ラ、ラインを……聞こう……かな……」
「っ」
「いやでもいきなりは……」
「っつ……」
「ああでもやっぱり」
「だーもう! ウザいうるさい鬱陶しい! 明日聞け! 返事!」
「わ、わかった……明日聞く……超聞くから……」
「ならイメトレ! 予行演習! さっさと帰って特訓! レッツゴー!」
「お、おう!」
店外を指差す千華に煽られ、謙之介退場。しっかり自分のトレーを片付けてから。
「慌ただしいなああいつ。元気とこいつの事どうこう言えねえじゃねえか」
「あたしは含めなくていいから!」
「つーかイメトレってなんだよ」
「ほえ? なんか変だった?」
「ライン交換しないかって壁に向かってお願いしてるあいつ想像してみろよ」
なんとも容易に想像出来てしまった。謙之介なら本当にやるんだろうな。何度も何度も繰り返して、本当に夏菜の元に行くのだろう。夏菜が絡むと足が重くなる謙之介だけど、今回はなんとかしそう感がある。
「うわ、超シュール。あたしなら絶対教えないわ。イメトレ相手に昔の夏菜の写真とか使ってたらドン引きっていうか絶交まである」
これも、渋面を作っている千華のお陰だね。結果論だけど、千華に来てもらってよかった。言葉を選ばない千華の物言いは、素直で生真面目な謙之介には効果覿面みたいだったから。俺と奏太だけだったらこうはなってなかったろうな。
「赤嶺家の中からあいつの居場所がなくなったらお前の所為だからな」
「知らない知らなーい。そこまで面倒見れないっての」
「まーな。さてどうなる事やらなあ。謙之介の方も癖があるけど、ディフェンス側の夏菜も独特な癖あるし」
「ディフェンスは抜群だけどオフェンスは全然だったからね、謙之介は」
「対夏菜に関してはディフェンスも全然だったけどな。ずっと空回りしてたろ」
「緊張しちゃうとダメダメな謙之介らしいね」
「だな」
ディフェンスは抜群に上手いのに、オフェンスはてんでダメ。リフティングもからっきし。大技小技なんて以ての外。大舞台が大好きなのに、大舞台に強くない。謙之介は、昔からこんな感じだ。
けど、そろそろいいだろう。そんな自分を脱却しても。
俺も千華と同じ。大手を振って謙之介の応援は出来ない。けれど、少しでも前進できるよう、密かに応援しているよ。
「はいはいサッカー脳自重して」
「うるせ。行くか」
「だね」
「うん! はー食べた食べた!」
トレーを片し店外へ出ると、五月初旬にしては優しくない熱気が俺達を出迎えた。本格的に夏へ突入する以前から随分と暑くなるらしい。勘弁して欲しいものだ。
「そっかそっかー。謙之介は夏菜が好きだったのかー」
落ち着きなくキョロキョロしながら千華が呟く。くるくる回ってないでちゃんと前を見て歩きなさい。
「二人は昔から知ってたんだよね?」
「まあな」
「そうなるね」
「ふーん。あたし知らなかったなー」
「むしろなんで気付かないんだってレベルだったんだが」
「口にしてはなかったけど、謙之介の態度も露骨だったし」
「そうだったかなあ……うーん……」
「っていうか千華、充分に謙之介の事応援してたよね」
「そ、そう?」
「ツンデレめんどくせー」
「ツンデレじゃないし! ツン要素ないし! っていうかデレてないし! 思った事言っただけでっ!?」
「きゃっ!」
進行方向に背を向け後退していた千華が、こちらへつんのめった。通行人にぶつかったらしく、千華の向こうで床に尻餅を付く女性の姿が見えた。手にしていたスマホは守ったみたいだが、バッグの方は守りきれなかったらしく、中身がいくつか飛び出してしまっている。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「あたた……だ、大丈夫です……ごめんなさい……スマホ見て歩いてました……」
「いえいえ! あたしの方が……ん?」
振り返り、その女性に手を貸そうとした千華の動きが止まり、慌てふためく様はどこへやらな、無表情へと早変わりしていた。
あの表情をする時は決まって、脳内データベースの検索閲覧をしている時だ。この女性に見覚えでもあるのか? いずれにしても、擦り合わせは今じゃなくていいだろう。
「おい何ボケっとしてたんだよ千華。すいません、ケガないですか?」
「私は大丈…………そっ……そ……」
「どうしました?」
「あ……あ、あ……!」
支え起こそうとする奏太を、次に俺を、そして千華を。それぞれ順番に見渡したかと思えば、フレームもレンズも大きい眼鏡の下の目を大きく見開き、その人は硬直してしまった。口元には白いマスクをしているので情報不足は否めないが、服装の雰囲気や背格好を見るに、俺達と同年代か更に下くらいに見える。
「え? あの、や! いや、その……」
ツインテールの上に被せたキャスケットを目深に被り直し、目を伏せてしまった。この反応だし、千華も相変わらず検索モードだし、もしかして本当に面識のある人だったりするのかな? って、そんな場合じゃないか。
散らばってしまった小物を拾う。アニメか漫画か何かの男性キャラクターがウインクをしているキーホルダーだった。見れば、奏太の足元にも似たような物がいくつか。この建物の二階にあるアニメグッズ専門店の包装に包まれてる何かも確認出来た。さっきまで上で買い物をしていたのだろうな。
「奏太、それその人の」
「ああ」
「ダメっ!」
「おわっ!?」
奏太が伸ばした手を追い越すように女性の手が伸び、奏太の腕を抱えるようにして動きを阻害し、物凄い速さでキーホルダーを回収した。なんだ、今の早業と慌てっぷりは。
「割れてない……良かった……はぁ……」
「あ……あのー?」
「はい?」
「その……腕……」
「腕? 腕…………ご、ごめんなさいっ!」
「いや、俺は」
「本当にすいませんなんか色々と! 私の方は大丈夫ですから! ほんと大丈夫なんで気にしないでください! とにかくこれで失礼します!」
くるりと振り返ると、競歩の選手かってくらいの勢いで歩き始めてしまった。
「ちょっと待って待って!」
「落し物! まだありますって! これ!」
「あ……! ど、どうもです! あの! この事は内密にお願いします!」
サッとUターンして来て、無理矢理に俺の手から奪い取って、ササッと背を向け去ってしまった。
「……なんだったんだ?」
「俺に聞かれても」
「そりゃそうか。しかも内密とか、一体誰に何を伏せとけって話だよ」
「ちょっと変わった子みたいだね」
「だな。で? 厄介事を引き起こした張本人はまだ検索中かー?」
「もう済んでるんだけど……」
「わからなかった?」
「ううん。なんかね、違和感が凄いの」
「違和感?」
「絶対覚えてるのに絶対違うというか……よく知ってるのによく知らないというか……声も背格好も全部照合してみたのに……」
「一人に絞れなかった?」
「うん……条件緩めて探したら候補四人くらいになっちゃったし……うーん……」
凄いな。道ですれ違っただけの人や、ドラマや映画のエキストラさえ覚えてしまう千華は言わずもがなだが、その検索網に引っ掛からないあの人がだ。一体何者なんだろう?
「そもそも見た事ない人説は?」
「それは絶対ない。みんなも知ってるはず……だと思うんだけど……せめてマスク外してくれてればなあ……うーん……」
「ま、終わった事だし、もういいだろ。帰るぞ」
「ぐぬぬ……あーもう! スッキリしない! なんか背中痒くなる!」
「騒ぐな暴れるな。スッキリする前にまずは反省をしろ反省を」
「んがー! こんな時は勉強するに限る! ちょっと本屋行ってくる! 先帰ってて!」
「は? お、おいこら! お前今日風呂当番だろ!」
「直ぐ帰るからー!」
家庭的な理由で止めようとする奏太の言葉など右から左。駆け足で人波へと飛び込んで行ってしまった。
「ったく……あのアホ、また本増やすつもりじゃねえだろうな」
「医療関係の教材増やすんだろうね。持ってるのは全部覚えたって言ってたし」
「あんな鈍器みたいな本の隅から隅まで頭に入ってるとかほんとどうなってんだよ……」
「改めてとんでもないよね、千華って」
「確かに、とんでもないアホだな」
「素直に褒めてあげればいいのに」
「褒めたら褒めただけ調子に乗って考えられないようなポカやらかすからいいんだよ」
「気苦労が絶えないね」
今日も、この先もずっとそうだろうね。だって、千華が海外へ行く事、まだ折り合い付けられていないんだし。見てればわかる。
今はこうして笑っていられるけど、この先どうなるんだろうね、俺達は。
「他人事みたいに言うなよ……ところで、さっきの女の子だけどさ」
「うん」
「胸デカかった」
「は?」
「腕で触ったっていうか挟まれた。今すげー幸せ感じてるわ」
「あっそ……」
「逸材だぞ、あの子は」
「嬉しいのはわかったからもう帰ろう……なんか疲れたよ……」
「俺はそうでもないけどな」
「知ってるよ……」
いい笑顔しちゃって。奏太が幸せなら何よりだよ。奏太に気がある子達が今の奏太を見たらどんな顔するのか気になる所ではあるけどね。
「……ねえ」
そういえば。奏太のそういう……好きな人がどうとかって話、聞いた事がないな。小さい頃から、一度も。
「んー?」
「好きな人、いる?」
「……そんな話振ってくるの珍しいな」
「いや、なんとなくね。どう?」
「……いないな」
「そっか」
「その……お前はどうなんだよ?」
「いるよ」
「……そっか……」
「ああ」
「……早く帰ろうぜ。人多過ぎなんだよここ……」
「だね」
この話はここ限り。それ以上の追求は互いにしなかった。いや、出来なかった。
これ以上言葉にしてしまうと、後戻りが出来なくなりそうな、何かが終わってしまいそうな、そんな気がしたから。
男女六人、生まれたその日から一緒に育った。幼馴染の枠を越えている事は認めているけれど、だけどもどうしたって幼馴染。この大枠は外れない。
けれど、限界が近いのかもしれない。これ以上、今を保つのは。
幸せなんて言う割には物憂げに映る奏太の横顔を見て、そう思った。
* * *
その後の話だが。大量に本を買い込んで帰宅した千華に再検索をお願いしても、やはりピントは合わず終い。モヤモヤに振り回されっ放しの千華は、日付けが変わっても唸ってばかりだったそうな。
本当、あの子は一体、誰なんだろう?
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