脆い盾

「酷い」


 寝惚け眼で見渡した土曜日早朝の自室は、そう言わずにはいられないくらい酷いものだった。テレビは付けっ放しゲームは付けっ放し窓は開けっ放し食べっ放し飲みっ放し。もう本当、ひたすら酷い。


「人の事は言えないか……」


 座椅子で眠りこけてしまったらしい俺も似たようなものか。


 体育祭の熱気に浮かされた三年六組の面々で軽い打ち上げをした、その後。全員それぞれくつろぎモードに着替え、俺の部屋に押し掛けて来た。どうやらゲーム対決をするという話は本当だったらしく、我が物顔で勝負を始めたのだ。始めは二人の一騎打ちだったのだが、観戦者四人にも飛び火し、気が付けばこんな有様。


 奏太は机。元気は床。美優はベット。美優に落とされたのか単なる寝相の悪さ故か、千華はベットの足元。四人とも実に気持ち良さそうに眠っている。千華に至ってはお腹出してるし。年頃の娘だろ、気を付けなさい。


 昨夜はもう一人、女の子がここにいた筈なのだが。部屋に戻ったのかな。


「っと、時間……」


 あまりのんびりもしていられなかった。千華に毛布を掛け、室内環境を多少改善してリビングへ移動すると、寝起きの鼻と胃には刺激が強過ぎる香りが強襲してきた。


「あ、修ちゃん。おはよう」


 ああ、もう起きていたのか。俺の母さんのエプロンを身に付け、朝食の支度をしていたようだ。台所に立つ姿の似合う事似合う事。


「おはよう。朝から張り切ってるね」


 味噌汁、卵とほうれん草の炒め物に、春野菜と鶏肉のごまダレサラダに、牛肉とごぼうの炒め物、ウインナーを炒めて、あとは納豆なりをお好みで、って所かな。


「あーうん、ちょっと作り過ぎちゃった。後で冷蔵庫の補充しておくから」

「気にしなくて」

「ダメなのっ! こういうのはちゃんとしなきゃ!」

「ならお任せするよ。夏菜は相変わらず頑固だなあ」

「頑固じゃないですっ! これから部活だったよね。ご飯どうする?」

「食べる食べる」

「任せて! 座って待ってて!」

「あ、ご飯少なめで」

「はーい!」


 頼られるのが嬉しいのか、目を細めて笑っている。配膳の手際の良さこそ段違いに向上しているのだろうが、ご機嫌な横顔の幼さは変わらないな。


「はいお待たせ!」

「みんな起こして来ようか?」

「まだ寝かせといてあげようよ。遅くまで騒いでたし」

「元気と美優はバイトじゃなかった?」

「あるけど時間はまだ大丈夫!」

「じゃあ先に?」

「うんうん! いただきます!」

「いただきます」


 しっかり手を合わせていただきます。疎かにすると向かいに座る女の子、夏菜が眉をひそめてしまうからね。


「夏菜、またレパートリー増えたんじゃない? この炒め物始めて見るよ?」

「わかった!? おばあちゃんが作ってるの見て真似してみたの! 食べて食べて!」

「じゃあ…………うん、甘辛で美味しい」

「ほんと!?」

「ほんとほんと」

「味濃過ぎたりしない!?」

「いい塩梅だと思うよ」

「やった……!」


 大袈裟なくらい喜ぶ姿も見慣れたもの。ふじのやの手伝いをするようになってからは台所仕事に一層のめり込んでいる感がある。性に合っているんだろうなあ。


「また主婦スキル向上したんじゃない?」

「そーお?」

「うんうん。手際もいいし料理も絶対上手くなってるし」

「そ、そうかなあ……えへへ……」


 真正面から褒めるといつもこうだ。頬を赤らめ、少し困ったように笑うんだ。


「修ちゃんのお墨付きもらえたって事はお母さん達に少しは近付いたって事かな! 今度ふじのやのキッチン一人で任されてみようかな! あーでもやっぱ気が早いよね! おじいちゃんもおばあちゃんもお母さんもみんなすっごく上手だし!」


 ああ、そっか。そうなんだな。


 気付いてしまった。気落ちしている自分を誤魔化す為、無理矢理テンション高く振る舞っている、と。


「丸一日は厳しいかもしれないから、一時間くらい試させてもらうとかから始めたらいいんじゃない?」


 とりあえず、わざわざこちらから触れる真似はしないでおこうかな。夏菜の気落ちしている原因が原因だし。


 夏菜は真面目過ぎるくらい真面目な子だ。昨日の出来事が尾を引いているんだと思う。バトンを落としてしまった事もあるだろうが、レース後の出来事こそ本命だろう。


 夏菜のリレーへの入れ込み方は半端じゃなかった。謙之介と元気が決めた賭けは恐らく無関係。胸に期する、自分だけの理由があったんだろうな。昨日、謙之介と別れた後、俺達と距離を置いて元気と話していた事も何かしら関係ありそうだ。勘でしかないが。


「じゃあおじいちゃん達に相談してみよっかな!」

「うん。何事も経験経験」

「だね! よーっし……!」


 良く笑うし、良く喋ってはいるが、箸はピタリと止まっている。取り繕う事に集中するあまりだろう。昨夜の夏菜もそうだった。常時ボーッとしていて、話を振られた時だけ大げさに反応し、なんとか取り繕う。終始そんな具合だった。


 似たような状態になってしまった夏菜は何度も見てきたが、今回は少々特殊なケースと言えるだろう。異性に告白された経験、異性をフる経験。どちらも始めてだろうから。


 今度は食事をするあまり無口になってしまった夏菜に調子を合わせ、黙々と食事を続けていると。


「あの……修ちゃん?」


 控えめに名前が呼ばれた。どうやら、内側に隠しておくのは難しいみたいだ。


「ん?」

「私は……どうすればよかったのかな……」

「……昨日の事?」

「その……こんな事初めてで……何をどうしていいかわからなくて……」


 味噌汁の入ったお椀を左手に持ったまま、伏し目がちに問うてくる。こんな事を聞いてしまう事そのものが嫌。とでも言いたげな、苦々しい顔をしている。


 こんな事初めて、ね。俺に言わせれば、昨日が初めてだった事そのものがおかしいくらいなんだけどな。


 人見知りで、人前で話すのも大きい声を出すのもダメ。目立つ事が大の苦手。だというのに驚くほど身長が伸びてしまった為か、他者が羨む高身長というスペックは、夏菜にとって最大のコンプレックスになってしまった。その影響か、特に中学時代の夏菜はいつだって背中を丸め、周囲の視線に怯えてばかりだった。


 しかし。本人はまるで気付いていないようだが、いつだって夏菜は、一定以上の人気を得ていた。それもそうか。この子は可愛いからな。身内の身贔屓などではなく、今日まで白藤夏菜を客観的に見た者として、そう断言出来る。


 が、表立った浮いた話となると、一つも耳にした事がない。結構な人気者であるにも関わらず。何故か。


 簡単だ。夏菜の隣にはいつでも、松葉元気がいるからだ。


 夏菜の矢印が向く先があのうるさいヤツだと言う事など、少し観察していれば誰にだって理解出来るというもの。それを察して離れてしまう者は大勢いただろう。いいやそんなの知るかと突撃していく者も中にはいた……のだが。夏菜に届いた人物は、一人としていなかった。


 向けられている気持ちに気付かない。それでも、夏菜の一番近くで、過保護と言ってもいいくらいに夏菜をガードしていた元気。その元気の背中にいつでも隠れ、元気にしか向けない笑顔を見せる夏菜。


 あの二人の間には、他者の立ち入れない独特な空気がある。俺達でさえ割り込み辛さを感じる瞬間があるのに、顔見知り程度の人間がどうこうしようと言っても難しいだろうな。近付けば近付くほどに無情な現実を思い知らされ、勝ち目のない戦いである事を無慈悲なまでに痛感させられ、折れてしまうんだ。


 そう思うと謙之介は頑張ったよ。サッカークラブで知り合った頃からだから、小学生年少時代から二人のアンバランスなイチャイチャを間近で見続けてきたわけだ。それでも今日まで一途に想い続けてきて、いよいよ突貫までしたんだから。ちょっと尊敬してしまうレベルだ。


 罪な二人なんだよ、夏菜と元気は。色々ね。


「もっと違う、いい方法とかなかったのかなって……」

「ないよ」

「な、ないのかな……」

「夏菜は謙之介と付き合うつもりなんてなかったから断ったんでしょ?」

「そ、それは……その……」

「その気はなかったなら何も間違ってない。きっぱり言い切っただけ偉いと思うくらいだよ」

「偉くなんか……謙ちゃん……泣いてたし……」

「あれは謙之介が繊細過ぎるだけだよ。寧ろフラれて泣いて、結果的に夏菜がこうしてネガティブな深みにはまってるんだから、謙之介に対して思う所が出来たくらいだよ」

「そんな! 謙ちゃんは何も」

「じゃあ夏菜が悪いの?」

「……わかんない……」

「ごめん、今のは意地悪だったね」

「う、ううん全然! 私こそごめんね……気使わせちゃってるよね……」


 背中を丸め、更に縮こまってしまった夏菜。どんなに言葉を選んで、気にする事ないんだよ何も間違ってないんだよと伝えても、夏菜には刺さらないんだろうな。


「とにかく。夏菜が悪いとか謙之介が悪いとかない。これは仕方のない事で、正解なんてない事なんだよ」

「そういうものなのかな……」

「そうだよ。だから夏菜? 気に病んでいても何も先に進まないよ? 夏菜がいつまでもそんな調子じゃみんな心配するし、謙之介にだって気を使わせちゃうかもしれないよ?」

「謙ちゃんが……」

「もしかして、謙之介の事嫌いになった?」

「絶対ならないよ! ならないけど……」

「けど?」

「今は……いろんな事がわかんなくなっちゃった……」

「そっか」


 ああ、これは長くなる。急かしてはダメだな。


「そのいろんな事っていうのが少しでもわかるようになる為の手助けくらいなら出来ると思うから、遠慮なく言ってね」

「うん……いつもありがと……」

「どういたしまして。冷める前に食べた方がいいよ? こんなに美味しいんだから」

「うん……」


 力なく頷いて、箸を動かし始めた。うんと言ってくれたが、俺にはわかる。きっと、一人で頑張ってしまうのだろうなって。


 きっと、今以上に俺を頼ってくれる事はないのだろうなって。


 特に高校に上がってからの夏菜は、元気を始め、俺達に助けを請うのを酷く嫌がっている節がある。少しは自立しないと、いつまでも甘えてちゃだめだ、なんて考えているのだろう。悪い事ではないと思うが、少々極端過ぎると思う。


 一人で出来ない事くらい、誰にだってある。そんな時に頼れる人、力になってくれる人がいる。それは誇っていい事だし、素直に甘えていい事だと思うのに。


 当たり前のように頼って欲しいし、どんな些細な事でも力になりたい。俺にだけ出来る事なんて何もないってわかっているけれど、何かは出来るはずだから。


「ねえ修ちゃん?」

「ん?」

「……難しいんだね……恋愛って……」

「……そうだね……」


 まるで昨日今日知ったみたいに言うんだね。俺はね、もっと前から知ってたよ? 思い通りになんかいかないものなんだって事。ずっとずっと、ずーっと前から。


「ふぅ……ごちそうさまでした」

「もういいの?」

「これ以上詰めたら練習中大変な事になるかもしれないからね。今日も美味しかったよ。流石はふじのやの看板娘」

「そ、そう言われるの苦手だって知ってるくせに……修ちゃんの意地悪っ」

「似合ってると思うんだけどなあ」

「私なんかには似合わないもん……あ、お皿置いといて。私やるから」

「ありがとう。よっし……」

「もう行くの?」

「ちょっと早めに行きたくて。着替えてくるね」

「うん」


 少しは調子が戻ったらしく、笑顔に漂う無理矢理感は薄れていた。あとはじっくり、ゆっくり片付けていかないとね。


 民泊施設状態の自室から極力物音を立てぬよう制服と荷物一式を抜き出し、洗面所で着替るべく移動。


「おはよ」


 しようとしたのだが。俺のベッドを独占する美優と目が合った。


「起きてたのか」

「今ね。もう行くの?」

「ああ。朝ご飯あるよ」

「夏菜?」

「正解」

「やった。起きるかぁ……」


 布団を被ったままぐっと体を伸ばす様を見ていたら、十の位が八あるとかなんとかな部位が、乱れた衣類の隙間からバッチリ見えてしまった。なんだろうか、この罪悪感と申し訳なさ。


「結局元気とケリ付いたの?」

「百戦してまったくのイーブンだった。次は絶対泣かす」

「戦績まで仲良しか」

「うっさい。あ、この枕さ」

「ん?」

「ちょっと汗臭い」

「悪かったな」

「あぅ。デコピンよくない」

「洗濯出しといて」

「うん」

「じゃあ」

「あー待った」

「ん?」

「んーと……」


 人の顔をジロジロ見ながら首を傾げている。美優がこういう仕草をするのは割とレアな気がする。


「修、よくない顔してる」

「不細工って事?」

「作りのいい顔を台無しにする表情してるって言いたかった」

「そんな酷い?」

「っていうか……ん」

「んぐ」

「それ、あたしが嫌いな顔」


 布団からにゅっと飛び出て来た左手に、右頬を摘まれた。特段痛くはないんだけど、なんだか妙に効く。あと胸元。気が緩むるのはいいけど、そこのガードを緩めるのはどうかと思うよ?


 美優は昔から、俺が時折見せているらしい、ある表情が嫌いだそうな。面と向かって言われた時は何がなんだかとちょっとした混乱状態になったもんだ。しかも、具体的にどんな顔をしているのかを教えてくれた試しがない。言われた直後に鏡を見ても見慣れた桃瀬修が映るばかりで、答えらしきものは見出せなかった。


 今だに解く事の出来ない、難問中の難問だ。


「具体的にどんな顔してるの?」

「わかんない」

「めちゃくちゃじゃない?」

「わかんないけど、あたしが嫌いな顔なの」

「めちゃくちゃ理不尽じゃない?」

「だって嫌いなんだもん」

「俺はどうすればいい?」

「帰ってくるまでにその表情捨てて来て」

「よくわかんないけどよくわかったから、そろそろ解放してくれない?」

「うん」

「いてっ」


 最後にぎゅっと力を入れ、ようやく解放してくれた。ちょっとヒリヒリする。


「頑張ってね。部活とか人生とか」

「そりゃ頑張らないとだね」

「うん。いってらっしゃい」

「いってきます。うりゃ」

「ふにゅ」


 お返しに頬を突いてやって部屋を後に。夏菜じゃないけど、なんだかわからない事が一つ増えてしまったな。


 洗面所に入りササッと変身。鏡を覗いてネクタイが曲がっていないかチェックしているとそこには、至って普通で、至って健常そうな人間が写っていた。


「……嫌いとか言われても……」


 人を小馬鹿にするかのような表情をしているようにも見えない。敢えて言うなら、底の浅さが伺える、如何にも退屈な人間が見せそうな無表情……みたいな? それどんな表情だよなんてセルフツッコミが捗るばかり。どんどん正鵠から遠退いているような気がしてならない。


 やっぱり、まるでダメだ。生まれてから十七年を共に生きてきたのに、浅葱美優という女の子の全貌は、今だに掴みきれない。


「忘れ物ない?」


 玄関でローファーを突っ掛ける俺の背中に浴びせられる夏菜の声。エプロン付けてお見送りとか、主婦感全開だね。


「大丈夫。美優起きたみたいだよ」

「ほんと? ならみんな起こしちゃおうかな」

「それがいいよ。じゃあ……」

「修ちゃん?」


 一つだけ、軽口でいいから触れておくべき事があったなと、思い至った。


 昨日。夏菜は、謙之介に嘘を付いた。


 勢いに押されての事なのは理解出来る。しかし、嘘は嘘だ。


 これからずっと、あの嘘を盾にして、謙之介の突進を躱し続けるのだろうか。人の嘘ならまだ許せても、自分の嘘は許せない。真面目な夏菜に、そんな事が出来るのだろうか。かといって撤回するというのも無理だろう。


 なら、あの嘘を貼り通すのか? だとして、その盾はどこまで耐えられる? その盾を握る手はいつまで保つ?


 その嘘を貫き通さなくてはいけない事実の重さに、いつか耐えきれなくなる日が来る。夏菜自身、理解しているはずだ。


 それならば……俺が。


「なんでもないよ」


 俺が支えればいい。一人で持ちきれない盾ならば、俺が一緒に持つ。だって俺は、夏菜の味方だから。


 夏菜は何も悪くない。何も間違っていない。自分を守っているだけだ。


「変な修ちゃん」

「夏菜ほどじゃないよ」

「え? わ、私って変かな……」

「そういう所が変だって言ってるの」

「うーっ……わかんない……」

「悪い意味じゃないから気にしないでよ。じゃあいってきます」

「う、うん……いってらっしゃい」

「……ねえ夏菜」

「なあに?」


 一体、それの何がいけない?


「俺は……夏菜を応援してるからね」


 自分に嘘を付いて、何がいけないっていうんだ?

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