普通の関係

「ん……んんっ……誰……?」


 近くで聞こえたガサゴソ音が、重たい瞼を無理矢理に持ち上げた。


「おはよう」

「修……?」

「悪い、起こした」


 薄暗い部屋の中には、スポーツジャージに身を包んだ見慣れたイケメンが。えーっとえーっと……何がどうしたら、起きたら五秒でイケメンに出会うのか。うーんと……ああ、そっかそっか。


「寝落ちしちゃったかあ……」


 バイト帰りに修の部屋でマンガ読んでてそのまま、ってパターンだ。久し振りにやっちゃったなあ。


「寝言言ってたよ」

「修のすけべ」

「なんでそうなるんだ。お陰様でこっちは座椅子で寝る羽目になったんだけど?」

「今朝も行くの?」

「感心するレベルのスルースキルだな。後で起こすからまだ寝てなよ」

「あたしも行く」

「いいのか?」

「うん。う……っくう……よいしょ……」


 ぐいっと体を伸ばし、反動付けて上半身を起こす。ほんとだ、枕元に何冊もマンガ積んじゃってた。のめり込み過ぎちゃったかあ。修が逐一面白いマンガを買ってくるのが悪いねこれは。うんうん。確か同じ作者さんのマンガを奏太が持ってたはず。学校終わったら奏太の部屋行かなきゃ。


「寒っ。パーカー借してねー」

「あとこれも必要だな」

「わ」


 あたしにはかなり大きいサイズのパーカーに袖を通していると、何かがすぽんと、頭に被せられた。


「寝癖」


 修お気に入りのキャップだった。気が利くじゃん、修のくせに。


「ありがと」

「ん」

「タオルと水」

「これ」

「行こ」

「ああ」


 手渡された朝のお供一式とスマホを掴んで部屋を出て、修の代わりに家の鍵を閉める。流石にまだ誰も起きていないのか、ついこの前もあたし達の声で喧しかった修の家も、生まれてからずっと暮らしてきたこの団地も静まり返ってる。いつもなら混雑するエレベーターもスカスカだし、この棟の一階にある古めかしい商店街、夢モールに入っているお店も全てシャッター降りたまま。この団地が眼を覚ますのは、もう少し先だ。


「時間」

「見とく」

「頼む」

「いってらー」


 念入りにストレッチを済ませて耳にイヤホンを突っ込んで、団地の外へと駆け出して行く修に手を振ってみたり。ベンチに腰を下ろして、スマホのタイマースタート。この団地を一周ぐるりするラップタイムを計る事と、走り終えた修に水とタオルを渡す事があたしの仕事。この時間だけ、あたしが修のマネージャーみたいなもんね。


「大っきくなったなー」


 遠去かる背中を見てたら、ふとそう思った。


 初めてここで修に付き合ったのは中一の春。俺、明日から朝走るからって言われたのが始まり。急に何言い出すんだろうって思ったけど、修みたいなもやしっ子にはいいんじゃないかなって曖昧に頷いて、興味本位で様子を見に来たの。あの頃の修は体力もイマイチだしペース配分も下手だしで、初日から死にそうな顔してたなあ。あんまり疲れ過ぎちゃったのか、その日の授業中爆睡しちゃって先生に怒られてたのが懐かしい。修のあんな姿、今思うと貴重だったかも。


 今ではあんな面白い顔になる事はなくなっちゃった。逞しくなった証拠なんだろうけど、どんなに背が伸びても、あの背中の頼りなさだけは据え置きのまま。


 そんな頼りないあの背中を見送るこの一瞬が、あたしは好き。修が朝を迎えに行ってるみたいだって、そう思えてさ。


 もう日は出て来てるけど、まだ明るくないし寒い。でも修が自分に与えたノルマを達成してあたしの前で足を止める頃にはすっかり明るくなって、影が伸びてるから。修が帰ってくると、あたしの一日も始まる。みんなも目が覚めて、この団地の一日も始まるんだって、いつだってそう思えるの。


「わ、蚊。この、このっ」

「美優」


 突如襲来した蚊と戦っていると、見慣れたおじいちゃんに声を掛けられた。


「たーじい」

「おはよう」

「おはよ」


 修じゃないけど、毎朝のウォーキングが日課のおじいちゃん。たーじいなんてあだ名であたし達に呼ばれたりもしてる、田島のじいちゃんだ。


 息子夫婦とこの団地で暮らしている田島のじいちゃんは、あたし達がちびっこかった頃からずっと良くしてくれている人。


 趣味は将棋と毎朝のウォーキング。あたし達やこの団地に住むみんなが出掛けるのを見送ってから家に帰るんだってさ。特技は千里眼。本当に千里眼の持ち主かどうかは推して知るべし。昔からあたし達を笑わしてくれている、愉快で優しいおじいちゃんだ。


「あ。それ、蚊取り線香?」

「携帯用だ。ここは蚊が多いからなあ」

「じいちゃんさ、ちょっと休憩していきなよ。それがいいよ」

「蚊取り線香だけ置いてけと言わない美優は優しいなあ」

「言うわけないでしょ」

「何か飲むか?」

「冷たいお茶で」

「お茶お茶……ほら」

「ありがと」


 自分の何倍も人間やってるおじいちゃんに自販機のお茶を奢ってもらって、並んでベンチに座る。こうしてたーじいと二人で話すのは久し振りだ。


「修か?」

「うん」

「もしかして、昨夜は修の部屋で?」

「恥ずかしながら」

「どこまでいったんじゃ!?」

「目血走らせないでよ。血管切れてもしらないからね」

「どこまでいったか聞いとるんじゃ!」

「どこにも。そんなんじゃないって知ってるでしょ」

「なんだ!? まーだお前さん達は進展がないのか!? まーったく面白くない! 最近の若いのは差し出された据え膳に飛び付くどころか裏がないかだの本当にいいのかと躊躇してばかりでいかん。このロートルが若い頃は連日連夜」

「あーはいはい武勇伝はいいから。そういうのはお孫さんにでも聞かせてあげて」

「だから、聞かせているだろう?」

「あたし達は孫じゃないでしょ」

「つれないのう……」

「本気でしょぼくれないでよ」


 いや、あたしだってほんとのおじいちゃんみたいに思ってるけどそれはそれ、これはこれ。言うなら、孫擬き、とか?


 こういう気安い関係なのは、何も田島のじいちゃんだけじゃない。その最たる例が、あたしとあいつら。というか、あたしん家とあいつらの家。付き合い長いとか仲良しだとか、そんな簡単な言葉じゃ片付けられないくらいほど、密接になってる。


 なんでもあたし達、かなり普通じゃないらしいよ? 何度友達連中に言われた事か。昨日の出来事なんかいい例かもね。


 バイトから帰った女子高生がお風呂と着替えを済ませ、お隣に住む男子高校生の家の鍵を開けて入って、男子高校生が勉強してるのを無視して勝手にベッドに寝転んでマンガ読み始めて、そのまま寝落ち。で今は、その子のパーカーとキャップを身に付けてマネージャーしてる。


 ほら、色々変でしょ。なんで鍵持ってんのとか。なんで堂々と入ってっても家の人は誰も止めないのとか。なんで部屋に踏み込んでも部屋の主は追い返さないのとか。なんで普通にベッドに寝てんのとか。なんで朝まで寝てんのに何もないのとか。なんでそいつの服借りてんのとか。今更感あるけど一応言っとくね。あたしと修、彼氏彼女じゃないから。


 修の家の鍵はずーっと昔から持たされてる。というか、奏太と千華のとこのも元気のとこのも夏菜のとこのも持ってる。あたしだけじゃなくて、あいつらみんな、それぞれの家の鍵を持ってるの。いつからか、当たり前みたいにこうだった。


 それぞれの家に入るのにお邪魔しますなんて言った事ない。ただいまが当たり前。迎え入れる側もおかえりが当たり前。誰かの家でご飯を食べるのも当たり前。流石に頻度は落ちたけど、お風呂も寝るのも当たり前。


 単に仲良いとか幼馴染だからとか、そういう域を越えてる。あたしはそう思ってる。


 言われなくてもわかってる。こんなの普通じゃない。今でも子供の頃のノリを引きずってる高校三年生の男女六人なんて、どう考えても不健全だ。


 けどさ、なんかもう今更過ぎて直そうとか正そうとか考える事すらないんだよね。上手くやってくかーってなとこが精々かな。そんなんだから美優達には彼氏彼女が出来ないの! って言われた事あったっけ。耳が痛いです。


「よくやるなあ修は。大したもんだ」


 露骨にしゅーんとするじいちゃんを尻目にぼけぼけ考え事してたら、いつの間にか再起動してた。相変わらず立ち直りが早い。


「じいちゃんには敵わないでしょ。修は毎日走ってないもん」

「量の問題じゃない。質と、目線の問題だよ」

「何それ?」

「自分で定めた目標から目を逸らさず、視界に捉え続ける事が大事、って話だ。足元を見るのは時々でいい」

「ほほー」

「一度目を離してしまうと、知らぬ間に実像は歪んでいってしまうものだからなあ」

「なるほど?」

「美優にも覚えはないか?」

「あるようなないような」

「そのうちわかる。嫌でもわかる。人それぞれ人生の密度は違う物だが、迎える分岐点は誰も似たり寄ったりだから」

「ふーん」


 なんか満足気に笑ってる。良い事言ってやった感半端ないドヤ顔だ。とりあえず覚えといてあげよ。


「そうそう、目標と言えば」

「何?」

「千華の事、聞いたよ」


 もう耳に入ってたか。あれから三日も経てばこうなるか。っていうか、一介の女子高生の進路一つが大きな噂になっちゃうこの団地って、やっぱおかしいよね。


「とりあえず海外行きは確定。けど志望校はこれから決めるって。大雑把過ぎでしょ」

「なんともあの子らしいじゃないか」


 はっはっはと笑い始めるじいちゃん。ほんと、千華らしいよね。


 なんで海外なの。なんで何の相談もないの。なんであたし達に言わなかったの。


 これでもかと出て来た言いたい事、その全部を飲み込んで、あたし達は笑うしか出来なかった。だって、千華だし。天真爛漫で自由奔放で、あたし達とは何もかもスケールの違う千華だから。そうやって自分を、無理矢理納得させて。


 わかってた。いつかこんな日が来るって。でも、なんとかなるかなって。なんだかんだとみんなこの団地から離れないでいられるのかなって。そうなるといいなって。そういう甘い期待を手放せなかった。


 だからこそ、この団地を離れると宣言されたあの瞬間。ああそっか。来るべき時が来ちゃったんだ。そんな時、来なくていいのにって、そう思った。


 千華の耳に入ると調子に乗っちゃうの目に見えてるから言わないけど、やっぱ寂しい。あのアホがいなくなる事が。あたし達六人が、一緒にいられなくなる事が。


「素直に応援してやる事は出来ないか?」


 何? お見通し? 敵わないなあ。


「いやいや、応援してるよーマジで。昔からの千華の夢だもん」

「そうだな。皆がそう思っている事だろう」

「うん」


 十年以上も口にし続けている夢だもん。叶えて欲しいに決まってる。


 実際、千華は医者になると思う。それもスーパーな医者ってヤツに。


 あの子はただ、あの目で見た物を覚えているだけじゃない。その過程や物の仕組みを自分の頭で思考し、導き出す努力をしている。結果だけ記憶してわかった気になる自分を良しとしてないのだ。それに、そもそもの地頭が凄く良い子だ。それこそ、天才と言ってもいいくらいに。記憶力が良いだけじゃテストと名前の付く物全て満点取り続けるなんて不可能でしょ?


 目指す世界が世界だ。知識や能力以外にも越えなきゃいけないハードルは沢山あるだろうし、何もかも思い通りになんてならないだろうね。でも千華なら。あの子なら絶対。そう思える。


「確固たる信念と明確な目標があるなら、それだけで強い。あの子ならきっと成し遂げるだろう」


 じいちゃんも同じ気持ちか。知ってた。


 ま、千華の場合は信念というか、執念みたいなものだと思うけど。


「千華、強いもんね」

「そうだな。ただね、美優」

「うん?」

「強いと言う事は、弱くないと言う事ではないんだよ」

「なんか深い事言ってる?」

「まさか。こんな浅いセリフもあるまい。当たり前の事を口にしているだけだから」

「ふーん」

「ただ、忘れがちな事ではあるから、今のうちに覚えておくといい。それがいつか、千華の助けになるだろうから」

「千里眼がそう言ってるの?」

「半世紀以上生きたジジイの勘だ」

「なら千里眼より信頼出来るね」

「なんだとー!?」

「怒んないでよー」

「朝から元気だね、じいちゃん」

「おお修か。おはよう」


 短めに揃えた髪を揺らしながら、顔に汗の玉を浮かべた修が帰ってきた。最後にあたしがマネージャーした日より、今朝はタイムがいいみたい。


「おはよ」

「今朝はもう終わりか?」

「あと二周行くよ。じいちゃんが女子高生をナンパしてるの見えたから足止めただけ」

「何をバカな。年寄りにだって女を選ぶ権利くらいあるわ」

「遠回しにディスられてないあたし?」

「ディスってなんだ?」

「そんなとこだけおじいちゃんムーブ発揮するのか……お? 珍しいな」

「んー? あ」


 修の視線を追った先、青いジャージに身を包んだ見慣れた顔が、こっちへ歩いてくるのが見えた。


「おーっす修って、じいちゃんに美優? 今朝は賑やかだな」


 奏太。山吹奏太。あたしの幼馴染。


「おはよう奏太。まだ登校するにはちと早いんじゃないか」

「この格好で察してよ。早く目が覚めちゃったし、たまにはね。体育祭も近いし、体動かしとこかなーって」

「そうかそうか」

「動機が完全にジジイじゃん」

「うっせーぞ美優。お前はまた修んとこで寝落ちか」

「やっちゃった」

「行動が完全にババアじゃん」

「うっさい。早く行くっ」

「わかってるって。な、あと何周すんの?」

「うーん、三周かな」

「んか。行こうぜ」

「ああ」


 二人横並びでスタート。徐々にペースを上げると、あっという間に二人の背中は見えなくなった。


「さっきは二周と言ってなかったか?」

「奏太が来たから気が乗ったんでしょ。明らかにさっきよりペース早いし。へばんないといいけど」

「ほうほう。修も存外、負けず嫌いな子だなあ」


 ううん。きっとね、負けず嫌いとかじゃないんだよ。小さな頃から、今でもずっと。隣を走るあいつは、修にとって憧れの存在だもん。だから少しでも長く。これだけじゃないかな。


「それにしても」

「んー?」

「奏太はまた一段と精悍さに磨きがかかったようだ」

「そーお?」

「そうだとも。立派になったものだ、あの悪ガキも」


 ほんと、随分丸くなったもんね。


 毎日のように泥だらけになって、擦り傷切り傷なんてお構いなしにこの団地を暴れ回ってたあの悪ガキは、いつでも誰かに頼られて、いつでも誰かを引っ張っていた。自然とみんなが奏太の周りに集まって、みんなが奏太の後に付いて歩いてた。何か人の為になる事をする時も、バカやる時も、怒られる時も。いつだってあたし達の先頭に立ってたのは、奏太。


 いつだって頼もしくて、誰にだって優しい。山吹奏太っていう男の子は、あたし達みんなのリーダーだった。


 そんな悪ガキも、今じゃあすっかり落ち着き払っちゃって。雨の日でも風の日でもどんな時でも、何もかもが楽しくて仕方ないみたいに笑って見せてたあの頃からはちょっと想像出来ないよね。


「うん……そうかもね……」


 とは言いつつ。ただ、バカをやる機会が減って、少し体が大きくなっただけかな、あたしに言わせれば。少なくとも、あたしにとっての奏太は何も変わってない。ずっとずっと、あの頃のままだ。ちょっとテンション上がっちゃうと直ぐあの頃の片鱗見せるんだもん。ほんと、いつまでもクソガキのまんまだよ、奏太は。


「ほーう? ほほーう?」

「今度は何?」

「なあ美優。今度からはマスクもしてくるといい」

「なんで?」

「そのだらしのない口元を見せびらかすのはどうかと思っただけだよ」

「何? 涎の跡付いてるとか? うわ恥っず……っていうかもっと早く言ってよそういうの……」

「うんうん。そういう事にしておこうか」

「そういう事って?」

「いやいや、この老いぼれの孫は、本当に可愛いもんだなあと思っただけだ」

「急にどしたの? つーか孫じゃないし」

「急じゃない。昔からそう思っとるよ。お前さんは本当に可愛い子だ」

「褒めても肩揉みくらいしかしてあげないからね」

「はっはっは。それで充分だ。なら早速お願いしていいかな? お茶代も兼ねて」

「意外にガメついよねーじいちゃん」

「長生きの秘訣の一つだよ。ほらほら」

「はいはい……」


 言われるがまま背後に回って肩に手を載せる。最後に肩揉みした日よりもずっと骨張っちゃったなって、触れた途端に気が付いた。


「なんだ、下手くそだなあ。この老いぼれに長生きして欲しいならもっと上手になってもらわんとなあ」

「あーはいはいはいはい」


 そか。なら、頑張るしかないや。この先もこうしていたいもん。


 けれど、時間は待ってくれない。のんびり過ごしてるだけで知らない所へと進んで行ってしまう。だから勝手に、あたしが望まない何かはやって来てしまう。


 だったら、どうなる? あたし達は? あたしは?


 あたし達なら、このままでいたい。ずっとこんな感じがいい。


 じゃあ、あたしだけならどうだろ? ずっとこのままでいい? 何も変わらない、穏やかな日々でいいの?


 それは嫌だ。このままは、絶対嫌だ。


 何処からか聞こえた悲鳴のような叫び声は、あたしの中のあたしが発した物なのだと気付くのに、さほど時間は掛からなかった。

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