川原町団地 14号棟 10階
「おお……」
眠気覚ましにとベランダに出てみたのだが、どうやら間が良かったらしい。思わず唸っちまった。
視界の端から端まで所狭しと、この季節にしか拝めない桃色の花弁のダンスが展開されている様は正に、一大パノラマ。風の悪戯と言うには、なかなか風情がある。
近隣に多摩川が流れている所為か、ここに舞う風はいつでも湿り気を帯びているし、妙に風力が強かったりする。人間に優しい風とは言えないかもしれないけれど、俺はこの風が気持ち良く思えるんだ。昔から肌で感じ続けているから、慣らされてしまったのかな。
「う……くあ……っ……」
ぐーっと背中を伸ばすと、大きな欠伸が遅れてやってきた。今朝は瞼がいやに重くて、布団から出るのが嫌で嫌で仕方がなかった。先月末から続いた二週間弱の連休期間を怠惰に過ごしてしまった代償だろうか。
「
せっかちな母さんの呼ぶ声が響く。わかってますって、ちゃんと時計は見てるから。父さんを見送った後はいつもまったり過ごしている母さんだが、今朝はやけに浮き足立っている様子。毎日が慌しくなるの、母さんじゃなくて俺なんだけどな。
世の学生さん達が大好きな春休みは昨日で終わり。本日、四月六日。今日から新学期。高校生活最後の一年が始まる。
ベランダから室内に戻りスクールバッグを引っ摑む。スラックスの右ポケットにスマホ。左ポケットに財布。ブレザーの左ポケットには自転車の鍵も。内ポケットには……ひーふーみーよーいー。うん。ちゃんと五本。家の鍵が五本、キーリングにぶら下がっている。
「忘れ物ない?」
「今日授業ないから忘れ物も何も」
「わかってるけど、あんた妙に抜けてるとこあるから心配なの、お母さん的には」
「そらすいませんね。ていうか、あいつの心配するのが先でしょ」
「あー」
「あーってなんだ……そろそろ行くわー」
「あの子は放置?」
「ぼちぼち来るよ。多分」
「だろうねぇ」
まったくもうと呟き苦笑する横顔はまるで、あいつが今どんな状況に陥っているのか、その全てを把握しているかのようだ。わかり易いもんなあ、あいつ。
確度の高い予想をしようと思う。
昨夜、あいつは夜更かしをした。これでは明朝しっかり起床出来るか心配だ。だからきっと、明日の朝起こしてね! 絶対だからね! などと一方的な約束をあちらのお宅の面々に押し付け爆睡。そして今朝。あちらのお宅の一人娘が言われた通りに声を掛けるもあいつは目を覚まさない。あまりの無反応っぷりにカチンときたので時間ギリギリまであいつを放置する事に。で、いい加減物理的に叩き起こそうかと思い始めたあちらの方々の行動を待たずにぱちっと目を覚ます。どうして起こしてくれなかったのとあちらの娘に噛み付くも軽くあしらわれ、遅刻遅刻ーなんて喚きながら今頃こっちへバタバタと……。
「遅刻遅刻ー!」
ほら、聞こえてきた。
「ね、寝坊したー!」
ぶち壊さんばかりに玄関を開け放ち、朝の挨拶もそこそこに、あいつは叫んだ。
目元には目ヤニ。口元には涎の跡。お気に入りの寝巻きは皺くちゃ。トレードマークである綺麗なブロンドヘアはぼっさぼさ。女子高生と言う生き物に淡い幻想を抱いている方々にはとてもお見せ出来ない絵面だなこれは。
「おはよ」
「おせーよ。あとうるさい」
「だって
「腹出して気持ち良さそうに寝てるあんたに気を使ったんでしょ、美優は」
「え!? なんでわかったの!? それ美優も言ってたよ! ねーなんでなんで!?」
「勘ね」
「お母さんの勘すごっ!」
「ふっふーん」
素で驚くこいつもこいつだし、ドヤ顔決める母さんも母さんだ。何度このパターン繰り返してんだって話だよ。
「っていうかあんた」
「何ー?」
「時間」
「時間? 時間……時間時間……あー!」
「ちんたらしてると間に合わないわよー」
「わかってるよー!」
「先行くぞー」
「ちょい待ちー! あヤバ! ママにおはようしてなかった! だーもう! 時間が時間がー!」
「自業自得だろ。行ってきまーす」
「行ってらっしゃーい」
「何をー!? あ! 待って! 待ってよ奏太ー!」
悲鳴のようなキンキン声から逃げるように玄関の外へ出ると、エレベーターホールに足を踏み入れる最中の男子高校生一人と、女子高生二人と目が合った。
「おはよう、奏太」
「奏ちゃんおはよう」
「はよー」
「おー」
簡単な挨拶を交わし、四人まとめてエレベーターに乗り、操作パネルに印字されている中で唯一の奇数階である一階をプッシュ。
こんな言い回しをしたのには理由がある。このエレベーターは、偶数階の表記しかないのである。つまりこの建物は、地上階である一階以外、奇数階が存在しないんだ。初めてこのエレベーターに乗った人間の大半はこれだけで驚いてくれるので、友達や親戚をここに乗せる瞬間は、十七歳になった今でも少しドキドキする。
「美優」
「んー?」
「あいつ全然起きなかったろ?」
「起きないどころじゃないよ」
ノンストップで一階へ到着したエレベーターから降りるなり、気怠そうに目を細めている同級生、
「声掛けたらうるさーいまだ寝るのーってさ。しかも枕投げのおまけ付き。顔に当てられたんだけど」
「そりゃあ起こそうなんて気にもならんわ」
「キレなかったの褒めて欲しいくらいだっての。次からはベランダで寝せるかなー」
「そうしろそうしろ」
「ダ、ダメだよ!」
もう一人の女子高生がすかさず食い付いて来た。高校三年生の平均身長をちょっとばかりオーバーしている俺より、更に高い所から。美優ほどじゃなさそうだが、この子も胸がデカい。いいぞいいぞ。
「本気にするなよ、
「あたしは本気だけどねー」
「だから言ってるのっ! もうっ……」
モデルどころか、スーパーモデルもびっくりな高身長の持ち主、
「あれ? 夏菜、少し髪弄った?」
「うん。美優ちゃんがやってくれたの」
「似合ってる。いい感じ」
「ありがと、修ちゃん」
髪型の変化を褒められたのが嬉しいのか、目を細めて笑う夏菜。その変化に逸早く気が付いたのは、夏菜よりほんの少し背が高い……ように見えるイケメン、
小さい頃は夏菜はもちろん、修よりも俺の方がデカかった筈なんだけど、いつの間にか抜かされちまったなあ。
「もう気付いた。やるじゃん修」
「いや気付くでしょ」
「奏太は気付いてないみたいだけどねー」
「言われてみれば……少し整った気がしないでもないな……」
「そんなに大きく変えてないから、奏ちゃんが気付かないのも無理ないよ」
「普通気付くって。奏太が鈍いだけ」
「うるせ。修が目敏いだけだ」
「いや、俺ディスる必要あるかそこ」
「そんな僻み根性だからモテないんじゃないのー奏太」
「うるせっての」
「怒られた。ほんとの事言っただけなのに」
「まあまあ奏ちゃんも美優ちゃんも落ち着いて」
不快感皆無な言葉の交換をしながら駐輪場へ向かう、その道中。
「あら、おはようみんな。始業式今日だったわね」
「おうお前ら。なんだ、喧しいのは揃って寝坊か。大変だなあお前らも」
「あ! 夏菜ちゃん前髪弄ったんだね! すっごい可愛い! 前よりずっといいよ!」
「美優がやってあげたんでしょ!? 今度わたしの髪も弄って弄ってー!」
「ねーねー修くん僕ね僕ね、リフティングが十回以上出来るようになったんだよ! そしたらクラブの監督が褒めてくれたの! やるから見ててー!」
「奏太奏太ー! あたし昨日ね、こーんなちっちゃい野良猫見たんだよ! それでね、ママ達に内緒でその子を飼いたんだけど、奏太ならいい場所知ってるでしょ!? 教えて教えて!」
「今朝も賑やかだなあ。ああそうそう。どうやら今年のお前さん達、全員同じクラスになるようだよ。ふふん、この千里眼は嘘を付かんからな。え? 去年も同じ事言ってたって? はて、記憶にないなあ……」
下は幼稚園児、上は八十路まで。老若男女を問わず、沢山の人達に声を掛けられた。それはもう親しげに。
ありがとう。そのヘアピン可愛いねと返し、自分の膝くらいの背丈の女の子の頭を撫でる夏菜。いいけど、ちゃんとお母さんとお父さんに許可取ってくるんだぞーと、悪戯っぽく笑う美優。随分と上達したな。けどそろそろ学校行かなきゃ遅刻しちゃうぞーと、優しく諭す修。俺はというと、二号棟の近くなら見つかり難いかも。けど一番良いのは里親を見つける事だからな。なんてアドバイスをしちゃったり。
俺達が暮らすこの場所は、ずっとこう。これが当たり前。だから困りも緊張もせず、自然と言葉が出てくる。
こうして、俺達なりのありふれたやり取りを経て、別れ際には必ずこう言い合う。いってらっしゃい。いってきます。と。
この何気ないやり取り。昔から代わり映えしないこの空気が、俺は好きだ。
同じ区画に住む人らと言葉を交わしながら駐輪場へと入り、それぞれの自転車に跨り準備完了……なのだが。 誰一人として、出発する様子はない。
「まーた千里眼がーって言ってたね、田島のじいちゃん」
「年度と学期が変わる度に言ってるからなあ」
「的中率一割切ってるだろ今んとこ」
「でもでも、今年は当たるといいね」
「そうだね」
「べっつにー。あいつらと同じクラスになったんじゃ喧しいったらないでしょ」
とかなんとか言いつつペダルを踏み込む素振りを見せず、あいつらが来るのを待ってしまう美優みたいなヤツの事をツンデレと言うのだろうか。
「待ってよー!」
「待て待てー!」
そのツンデレに応えるかのようなタイミングで、ピーピー喧しい声が響いてきた。あの金髪と、もう一人。 こちらへと駆けてくる姿が確認出来た。遅刻は免れそうだな。
「来た……」
夏菜がソワソワと、髪を弄り始めた。今朝聞いたばかりのキンキン声ではなく、もう一つの声に反応しての事だ。本当、夏菜はわかり易いったらないな。
「間に合ったー!」
「よーしセーフだ! な!?」
「うるさいっての千華。ついでにあんたも」
「俺はついでかよ!?」
「喚かないでってば。さっさと行こ」
「うん!」
先程までのだらしのないナリは何処へやら。限られた時間の中でもそれなりにキメてきたらしいな。うちのアホ担当、
「お前はまた寝坊かよ、元気」
「おう! バッチリ寝坊した!」
「元気は一人じゃ起きられないからなあ」
「なわけあるか! 今日はたまたまだ!」
「で、でもね、これからはもう少し早く起きた方がいいと思うの。その方」
「待った!」
「が……ど、どうしたの?」
「夏菜さ……」
言葉を遮られたのに驚いたのか、夏菜が背中を丸めて後退る。夏菜は何処か小動物染みた仕草をする所があり、そのギャップが一部の男子に大好評だとかなんとか。実際、身内の贔屓抜きで、夏菜は可愛いからなあ。胸もデカイし。
「髪弄ったのか!」
「え? う、うん……そうなの……」
「やっぱそうかー! 昨日会った時より可愛く見えたのはその所為かー!」
「かわ、かわわ……」
「おう! 夏菜は可愛いぞ! 俺が言うんだから間違いない!」
「あっ、あ! あり! ありが……と……」
「なんで礼なんか言うんだよ。ほんとの事言っただけなんだから礼なんてすんな」
「で、でも……」
「また猫背ってる!」
「は、はいっ!」
「そうそう。そうやって堂々と胸張ってればいいんだよ。折角可愛いのに背中丸めてたんじゃもったいねえよ。そういう所は直そうな、夏菜」
「う、うん……頑張るね……元ちゃん……」
「おうおう! 頑張れ!」
一体何様な男、
あれ? っていうか元気、夏菜の変化に気付いてね? もしかして俺、元気より鈍いの? 元気くらいしか取り柄がないなんて美優に小馬鹿にされてる元気より鈍いの? うわヘコむ。辛い。
「いちゃいちゃするのはそれくらいにしてそろそろ行こーよ」
「い、いちゃいちゃなんかしてない……もん……」
「そうだぞ美優。目腐ってんのか」
「あんたに言われたくないっての。このどチビ」
「あんだと性悪女!」
「何よ?」
「何だよ!?」
鼻先が触れそうな距離で睨み合いを始める美優と元気。お前らほんと仲良しな。
「あーもうやめなって。早く行こうよ、本当に遅刻しちゃうから」
「そ、そうだよ二人共……」
「いいぞもっとやれー!」
「いいぞいいぞー」
「千華と奏太は煽らない!」
この仲良しコンビを止めに入るのは、決まって修か夏菜。俺と千華はリングサイドで観戦時々煽り担当だ。
「っと、マジで時間ないんだったな! じゃあ俺は原付で」
「ダメ! バイク通学は校則違反だって前にも言ったでしょ!」
「な、なんだよ。別にバレなきゃ」
「ダメです! 絶対ダメ!」
「うぬぬ……」
「そんな顔してもダメ。ほら、早く自転車乗って。バイクの鍵と一緒に引っ掛けてるの知ってるんだから」
取り付く島もない。色々ルーズ過ぎる元気の立ち振る舞いは、校則や規則の遵守に人一倍うるさい夏菜には看過出来ないものらしく、よくよくこうして雷を落とすのだ。普段は気弱な子なのだが、元気が何かやらかした際は特に、変なスイッチが入るらしい。
「ぐぬぬ…………ったく……ほんと頑固だよなー夏菜は」
「別に頑固なんかじゃ……」
「まあなんでもいいか! 行こーぜー!」
「なんであんたが偉そうにしてんのよ」
「なんでお前は突っ掛かってくるんだよ」
「だーもう! さっさと行く! 早く!」
「あ、修がキレた」
「サッカー部のキャプテン様がキレた」
「モテモテの修様がキレた」
「修ってば牛乳足りてないんじゃない?」
「はよ行けはよ!」
「わーってるって! うりゃ!」
「と、飛び出したら危ないよ元ちゃん!」
「放っときゃいいよーそいつは」
「千華、まだ寝癖残ってるよ」
「マジ!? わ、ほんとだ!」
「家で直して来いよ。俺ら先行くから」
「うん! って! 行くな!」
「遅刻すんなよー」
「ほんとに置いてく気だ!? もう学校で直すもん! だから置いてくなー!」
勢い良く飛び出した元気を先頭にわいのわいのしながら、巨大組織の秘密基地とか宇宙コロニーなんかと見間違えてしまいそうな、それこそマンガの世界から飛び出て来たかのような俺らの家。
実に騒々しくて落ち着きがない。きっと去年までと何も変わらないのだろう一年が、今年も始まった。
* * *
「おいこれマジか」
と、俺が呟き。
「こんな事もあるんだねー」
と、美優が続き。
「自称千里眼半端ないな」
と、修も続いて。
「やった! 今年はみんな一緒だね!」
と、夏菜が喜び。
「千里眼ってなんだっけ? めっちゃ視力良いとかだっけ?」
と、元気がバカっぷりを発揮して。
「うっそ!? 千里眼仕事したの!? 奇跡じゃん! 宝くじ買うなら今しかないんじゃない!?」
と、千華が叫んだ。
数週間振りに足を運んだ校舎の昇降口脇に新年度からのクラス分けが張り出されていたのだが、三年六組の張り紙の前で、六人揃って動きが止まってしまった。
「帰ったら報告しなきゃだな」
「ほれ見た事かーとか言いそー」
「なあなあ千里眼ってなんだ!?」
「それはね元ちゃん」
「あーいいから行こ。千華、見た?」
「うん! 全クラス覚えた! 行こ行こ!」
出席番号の若い順に、
この六人が同じクラスになるのは、小学校年少以来。しかし、あの頃とは違う。まだまだ青二才だろうけど少しだけ、大人ってヤツに、俺達は近付いた。
悪いが、前言を撤回させて欲しい。
今年は、何かが変わりそう。何かが起こりそう。
確信めいた予感が胸の内に根を張ったような、そんな気がした。
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