「君がいる世界を愛している」

 

 手帳に走らせていた筆を止めて、詩人はふと目の前に広がる薔薇園へ目をやった。


 ──子どもの頃、迷路のような城の庭園は最高の遊び場で、よく幼馴染たちとかくれんぼをしたものである。


 敏感すぎる感覚を持つ詩人にとって、花の匂いは慣れるまで時間を要するものだが、この場所は慣れ親しんでいるからなのか、あまり不快感は感じない。


 咲き誇る薔薇の姿を眺めた後、手元に視線を落とす。


 テーブルの隅に置かれている茶器には、紅茶が淹れられていた。


 ……大広間へと向かったフィナを見送って一人になり、時間を潰そうと庭園へやってきた詩人を、まるで予想していたかのように出迎えたのは侍女長だった。


 流石の詩人も唖然としてしまったのだが、彼女は黙って紅茶を淹れて、昔と変わらぬ距離感で詩人に仕えた。

 侍女長からしてみれば、詩人もまだまだ子どものソウヤのままということらしい。

 正午の鐘が鳴ると、侍女長は一つ頭を下げて大広間へと向かって行った。

 なので詩人は今、一人きりだ。


 一人でいることを寂しいとか、かなしいと思ったことは詩人には無い。

 煩くないし、眩しくないし、クラクラするような匂いもなければ、情報量に圧倒されるようなことも起こらない。


 どうしようもなく退屈で、何もない時間の中にいなければ満足に息も出来ない体で、それなりの年数を生きてきた、慣れない方がおかしい。


 慣れない方が、おかしい。

 ……何度か口の中で繰り返してから、詩人はペンをテーブルの上に置いた。


 背もたれに身を預けて、澄んだ青空を眺めてみる。

 己はこの世界に愛されていると、親から教えられて生まれ育った。


 子どもの頃から自分に起こせない奇跡はないのだろうという万能感があり、万能を悪戯に振りかざす必要すら感じないほどいつの間にか達観していた。

 

 自分は愛されている、特別だ、その自覚がある。

 だっていうのにこの胸は、時折渇いて仕方がない。


 満たされているくせに、飢える。

 人間じゃないのに人間として生きている。

 喋りたいと思うのに、それを禁じている。


 矛盾の中で頭を抱えながら生きていくことを、嫌いだとは思わない。

 悩みながら選択を繰り返す度、人として生きている気がするからむしろ好きだ。


 ──でも、こんな生き方はフィナがいなければ御免だ。


 彼女がいる世界を、詩人は愛している。

 彼女がいる世界の味方で、彼はあり続けると決めている。


 無意識にまた、ペンを握った。

 開き掛けた口を閉ざす為に、溢れ掛けた呟きを誰にも聞かせない為に。


 詩人は書く、書いてきた。

 どんな時も、どこにいても、書き続けて、奇跡を起こして、人を救って、喜びを与えて、祝福して、願いを叶えて。


 そういう生き物、みたいに。


 一心不乱に筆を走らせ続ける彼は、人間ではないように見える。

 その事実が、彼は『嫌い』だった。


 インクが滲んでも、筆は進む。

 悪い詩は書かない、危険すぎるから。

 恐ろしい言葉は使わない、何よりも恐ろしいのは自分自身だと知っているから。


 良い言葉を紡げるように、善側で居続けられるように、ただ一人、愛しているものの姿を思い描く。

 一人きりの彼を人に戻せるのは、極彩色の絵画の中に落とされた、一雫の光。


「ねえ、あなた。

 見てください、綺麗でしょう?」


 響いた声に、詩人は顔を上げた。

 書きかけの文章なんて放って、夜色の目を輝かせて、笑みすら浮かべて問い掛ける声の主を探す。


 美しいひとが、薔薇園を背に立っていた。




 ◇ ◇ ◇




 城中の殆どの人々が外へ行ってしまって、静けさに満ちた庭園は寒いくらいだ。

 そんな中で詩を書いていた夫に、妻は声を掛ける。

 頭に付けたままのヴェールを揺らして。


「綺麗でしょう?」


 フィナが問い掛けてみると、顔を上げた詩人は目を丸くして首を傾げた。

 

 儀礼服の方は借り物だから、既に自分の服に着替えている。

 頭の上だけ煌びやかで、明らかに浮いていて、その様を詩人は不思議がっているのだろうと察し、フィナは微笑んだ。


「これだけでも、見て貰おうと思って。

 せっかく作ったので」


 ああ、と音もなく口が動く。

 何処かほっとしたような顔で、詩人は頷いた。


 何事か言い掛けた唇が動いて、言葉を飲み込むような仕草を見せる。

 そんな詩人の目をじっと見つめていたフィナは、彼の感情を拾い上げた。


「喜んでもらえて、よかったぁ」


 笑い声をあげたフィナは、ヴェールを揺らす。

 金糸の刺繍が陽光に煌めいて、詩人は目を細めた。


 眩しかったのかな、とフィナは思ったけれどそれだけではないみたいで。

 おいでおいでと手招きする詩人の元へ、フィナは歩いて行く。



 フィナが傍に立つと、詩人も立ち上がった。

 頭一つ分、見上げる形になって今度はフィナの方が首を傾げることになる。


「あなた?」


 何を考えているのか、思っているのか、知りたいから目を合わせた。

 夜色はいつにも増して深く、吸い込まれそうな色をしている。

 静かな輝きに触れてみたいと考えるより先に、フィナの体は詩人の方へと傾いていく。


 ヴェールで隠れている頰に彼の手が触れ、ああと気付いて目を閉じる。


 唇が重なる寸前に、私の名を呼ぶあなたの優しい声が聞こえた。



 ◇ ◇ ◇




 ──昔、それこそ子どもの頃の話だ。


 庭園で遊び疲れると決まって、ミーティアとアルバスはテーブルに突っ伏して寝てしまう。

 フィナとソウヤだけがいつも残され、仕方ないから声を潜めて二人は話をするのだ。

 二人が起きるか、侍女が呼びにくるまで。


「レテランドの外にはさぁ、砂漠もあるし海もあるんだよ。

 南の方には湿地帯があって、伝説になるような大蛇が住んでる。

 北の方にある山岳には雪が年がら年中積もってるんだ」


 懐から取り出した地図を広げて、ソウヤは楽しそうに語ってくれる。

 フィナも聞いているうちにわくわくしてきて、二人のことを起こさない程度の歓声をあげながら問い掛ける。


「じゃあ、ソウヤが一番見てみたいのはどこですか?」

「僕が見てみたいのは北かなぁ、寒いだろうけど静かそうだ」


 ソウヤらしい理由に、おかしくなってフィナは笑った。

 くつくつ肩を揺らすフィナのことを見ながら、ソウヤは首を傾げる。

 

「フィナは何処に行きたい?」


 いつもされている問い掛けなのに、フィナは吃驚して目を丸くした。

 目の前に広げられた地図は小さいのに、広くって、フィナはうーんと唸ってから。


「……ぜんぶ、見たいなぁ」


 結局、決められなくてそんなことを言った。

 フィナは自分の頰に手を当てて俯く、まるで我儘娘になってしまったみたい。

 そんな少女の横で、少年は楽しそうに笑いながら言った。



「うん、分かった。

 『いっしょにみにいこうね』フィナ」


 いつかいこうねと、笑い合って。

 ──その言葉が本当になると、きっと少年は知っていた。


 舞い散る精霊の光を、良く覚えている。

 我儘だったのはたぶん、二人ともだった。

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