「いつか願われたように」


「実はねソウヤ、お前は人間では無いんだよ」


 家の片隅で図鑑を開き、床に座っている息子に父親は言った。

 告げられた言葉の意味が分からず、まだ十歳にもならない息子は、鮮やかに描かれた蝶の絵から目を離し、父親を見上げる。


「どういうこと?」


 たった一言、幼い子どもが発しただけで、色とりどりの光が舞い散った。

 精霊たちに集られて淡く光る息子に対して、父は腕を組んで、どう言ったものかと考える。


「そうだなぁ……ソウヤにはお母さんがいるんだけど」

「ぼくにもいるの?」


 父の言葉に息子は更に問いを重ねる。

 ──おかあさん、なんてみたことがない。

 お話の中でしか知らない母という存在に興味が湧いて、息子は図鑑をパタンと閉じた。


「ああ、いるよ。

 ……というか人間は皆、お母さんから産まれてくるからね」

「でも、ぼくは人間じゃないんでしょ?」


 父の話ではそのはずだ、息子は傷付くことも戸惑うこともせず、ただ興味のある事柄を探求したい一心で父親を問い詰める。

 突拍子もないことばかり言うけれど、決して嘘を吐かない父親は苦笑いをしながら、息子の頭を撫でた。


「そう、半分だけ人間じゃない。

 君はねソウヤ、精霊の王様と僕の子どもなんだ」


 父親の言ってることは、息子には良く分からなかった。

 ただ何となく納得というか、腑に落ちたような感覚だけあって、お腹の辺りをさすってみる。

 指先にとまった赤色の精霊を、息子はふぅと吹き飛ばした。

 赤色は漂って空気の中を泳いで行く。


「分からなくてもいい、でもね。

 忘れないでほしいんだ」


 泳ぐ精霊を父親は右手で掬った。

 美しいこの輝きが秘める万能さが、どれだけの人を幸福にし不幸に出来るのか。

 それを良く知っているから、父親は息子が幼いうちから繰り返し、言い聞かせると決めていた。


「ソウヤは僕と彼女が愛する自慢の子。

 ……だけど、君は人として生きるのも精霊として生きるのも、きっと難しい」


 そんなふうにうまれたことを、息子はかなしいとは思わない。

 そもそも、かなしい、が分からないのだけど、少なくとも父親に愛されている自覚だけはあった。


 父がこんなにも愛しさと辛さが混ざった顔で、自分を見てくる理由がわからない。


 お父さんはかなしいの、つらいの、ぼくがうまれたこと。

 そんなわけないでしょ、だってあなたはぼくを「愛している」


 父親に抱き締められて、息子はされるがままに立っていた。

 深い夜を思わせる瞳同士で、見つめ合う。


「ソウヤは好きな方を選んで良い。

 精霊として生きても、人間として生きても良い……でも孤独にだけはならないで」


「誰かと手を繋いで、想い合い、分かり合いながら生きていくんだ。

 そうすればきっと、大丈夫だから」


 一つだって、お父さんの言っていることは分からない。

 いつもそうだ、この人の言っていることを理解するには時間が掛かる。


 いつか、分かったときが来たら。

 分かったって言ってあげようと、ソウヤは決めた。


 ただ今は抱き締められて、頭を撫でられていよう。

 父親は愛しい息子に笑い掛ける。


「大丈夫、お母さんはいつでもソウヤを守ってくれるから」




 ◇ ◇ ◇




 昨晩、フィナが話していた内容のせいだろうか。

 父親の夢なんて久しぶりに見たな、と思いながら詩人は目を開けた。

 部屋の中は薄暗く、窓の外をみればまだ夜が明けきっていないことが知れる。


 珍しく、一人きりの目覚めではない。


 腕の中で微睡む妻を眺めて、詩人は穏やかに笑った。

 金色がシーツの上に流れている、指を絡ませればするすると溢れて綺麗だ。

 小さく開いた口から吐かれる息、寝顔は幼いんだなと見る度に思う。


 深い眠りに一度入ってしまえば、フィナは朝まで目覚めない。

 今ならいいかな、と詩人は考えた。


 彼女が眠っている今なら、と詩人はゆっくり息を吸う。

 触れ合った素肌の感触が、分け合った温もりが、自分が人間であることを知らせてくる。


 起きるまで握っていて、なんてねだられた手は約束通り、今も繋がれていた。


 ソウヤは口を開いて、本当に久しぶりに喉を震わせた。


「……愛している」


 たったそれだけの言葉が、七色の光に変わって体を染めた。

 淡い色彩のなかでフィナは変わらず眠り続けている。

 愛している、あいしている、何度もソウヤは繰り返す。


 一番聞かせたくて、でも意味を持ちすぎるがあまり、決して聞かせられない言葉。

 ソウヤの声に込められた願いを精霊は必ず叶えてしまうから、良くも悪くも。


 彼女に愛を強制したい訳ではないのなら、決して聞かせられない、言葉。

 


 想い合って、分かり合って生きていけと父親は言っていた、今のソウヤになら分かる。


 あの日、父親が何を伝えたかったのか。

 残念ながら、分かったと言いに行く機会は永遠に失われてしまったけれど。


 自分が満足するまで声にして……詩人は深く深呼吸をした。


 大丈夫、俺は孤独にだけはならない。


 フィナが生きている限り、いつまでも詩人は人間で、この世界の味方だ。


 きみの愛する場所で生きていく。

 なんて良い響きだろうと思いながら、もう少しだけ眠りたくて、詩人は目を閉じた。

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