「その詩人は無口だった」


 彼は詩人だ。

 無口で無感動、冷酷な印象すら他者に与える詩人の消極的な性格は、夜空色の死んだ瞳がよく物語っていた。


 彼の一日は書斎にこもりきり。

 机で筆を走らせ、端正な字で詩を綴る。

 「詩」は特別で、価値がある。

 どれだけくだらない夢物語を語った詩でも、何のことは無い日常を謳った詩でも。


 「彼が書いた」という事に意味がある。


 筆を走らせ止まることなく書き連ね、一切の迷いなく、躊躇なく。

 昼から夕方、薄暗くなり手元が見えなくなるまで止まらず書く、正しく一心不乱に。

 ――そうして書き上げた詩の数は、一日だけで何百もあり、迷いも文字の乱れもない。


 ありのままの言葉で紡がれた祈りの詩は、一見なんの意味も持たない。

 だが彼が書くものは、走り書きですら持ち過ぎるほどの意味を持つ。


 背もたれに体を預け、詩人は天井を見上げた。

 心臓が血を回すように、肺が唸り続けるように、彼は言葉と共に生きている。


 ──本を読めるようになるのと同時に、言葉の「使い方」を詩人は知った。


 鋭過ぎる知覚の中でこの世界は、割れた硝子にも似て、極彩色の絵画のようでもある。

 その中に潜む、見えるはずのない不思議なものや、自由気ままに現れる精霊なんかに、言葉を使って触れることが彼には出来る。


 生きながらにして体得した力は民衆や、国や世界に多大な影響を及ぼし、彼は詩人としての生き方以外を、全て捨てることになった。


 ──詩人の胸から、金色の淡い光が飛び出して、薄暗い部屋を照らす。

 泳ぐ光を、無感動な夜空色が映している。


 金の光は、書き上げられた詩の上に染み込むようにして溶け消えていった。

 精霊だ、常人には見ることはおろか、知られることすらほとんどない。

 それは世界を形作っているもの、運命の正体だ。


 詩に精霊を宿らせることが出来る、世界を築くものたちと対話をする術がある。

 詩人にとってこの世界とは、滅ぼすことも救うことも容易いものだった。

 だけれど何があっても、詩人はこの世界を救う側にいると決めている。


 その「理由」は極彩色の絵画の中で、たった一色だけで描かれた、女の姿をしていた。

 


 静寂に満ちた書斎に、扉を叩く音が響く。

 詩人は向こうに誰がいるのかも、その意図も分かるから、無言で待った。


 二呼吸の後に開かれた扉から入ってくる、人の気配。

 共に入ってきた燭台の灯りで、暗闇になりかけていた部屋が淡い色彩に満たされる。

 金髪が揺れて、此方を伺う瞳が浮かび上がっているように見えた。


 赤い瞳の女は、名をフィナという。

 長寿族の数少ない生き残り、詩人の妻であるひとだ。


 部屋に踏み入ってきた彼女が寝巻きを着ているのを見て、そんな時間かと察する。

 詩人は立ち上がり、折を見て呼びに来てくれたのだろうフィナの元へと歩いて行った。


 灯りの中で金色の輪郭が溶けかけている、この世のものとは思えないほど美しく、姿を見ただけで何処か切なくなる。

 彼女の存在が不安定に思えて、詩人は陶器のような頬へと指先を滑らせた。

 フィナはくすぐったそうに身を捩りながら詩人の、空いている方の手を引き誘う。


「今日はご夕飯を食べて、すぐに眠りましょうね、あなた。

 エインセル伯の奥様への詩、書き上がったのでしょう?」


 詩人が頷き返すと、フィナは満面の笑みになって、机に置かれた詩の束を見つめた。


 「妊婦が安産になるように」という祈りが込められた詩。

 フィナの特別な瞳は、それに精霊が宿っているのを確かに見た。


 彼が書いた詩なのだから、この祈りは届くだろう、彼が紡ぐ言葉が幾つもの奇跡を起こすことを、人の何倍もの時を生きる女は知っていた。


「さぁ、食卓へ行きましょう。

 軽い物なら食べられるでしょうから」


 詩を書き上げたばかりで、詩人の中身が空っぽなのも、フィナにはお見通しだ。

 ──きみには敵わないな。

 と言われた気がして、フィナはおかしくて笑った、一体いつから共にいると思っているのだろう、あなたは。




 ◇ ◇ ◇




 軽い夕食を腹に入れて、増す倦怠感に負けじと体を動かそうとしたが、フィナに柔らかく止められた、気付かれている。


 彼女の前で弱い一面は見せたくないのだけれど、そう上手く隠せるものでは無い、というか相手が悪いようだ。

 詩人は大人しく長椅子に腰掛けて、己の体が倒れていかないようにだけ注意をした。


 精霊は詩に込められた祈りを叶える代価に詩人の「中身」を幾つか抜いていく。

 詩人がいつも死んだ瞳で無感動でいるのはその為で、常に気力が無いからである。


 詩人の横に、簡単に家事を済ませたフィナが座った。

 彼女を見やれば手には一枚の紙。

 その紙は昔、詩人がフィナに宛てた詩で、桃色の精霊が言葉の上を揺らいでいた。


 あまりにも恥ずかしい内容の詩を見てしまった詩人は目を丸くしてフィナを見やる。

 何年前の代物だそれは、と目だけで訴えてみれば、フィナは愛しそうに言った。


「大好きなんですよ、これ。

 はじめてあなたが私にくれた詩です」


 嬉しそうに言われてしまえば、何も言えなくって、詩人は目を伏せるしかない。

 詩を手にしたフィナが次にする行動を考えたら、恥ずかしくって堪らなかった。


 夫の事などお構い無し、楽しんですらいるフィナは、予想通りその詩を読み上げる。


「たとえ何万年が経とうとも

 何度でもこの詩を綴ろう」


 蜂蜜味の声が、言葉を読み上げていく度に、詩に宿った精霊がふわりと浮かび上がり踊り出す。


「たとえ時の彼方に消えるとしても

 この思いに偽りなく」


 光に包まれていく彼女の姿、詩人は伏せていたはずの目を開けていた。

 優しく、甘い声に紐解かれる思い出たち。


「たったひとつがあればいい

 この身を焦がす気持ちを呼ぶならば」


「愛というしかないだろう」



 なんて素直で真っ直ぐな詩を、昔の自分は書くのだろうか。

 恥ずかしいけれど、今の自分ならどう書くか、詩人は少し考えてみた。

 他者の幸福を祈り続ける詩人である、何にも縛られていなかった頃には戻れない今の自分が、彼女に詩を贈るとしたら。


 満足した様子のフィナは、詩人の方へと向き直り、そっと腕を広げてみせる。

 自分を迎え入れてくれようとする仕草に、詩人の胸の奥は痛いくらいに鳴った。


 誘われるままに体から力を抜いて、精霊をまとわす彼女の体に身を預け、詩人はフィナの心音を聞く。

 彼の特別は、ずっとここにいてくれる。

 未熟な頃の自分はこの音を愛と呼んだ、なら今の自分は。


 詩人は彼女の右手を持ち上げて、その掌に指で言葉を書いた。

 言葉は桃色を纏って、彼女の胸の内へと溶け込んでいく。

 フィナは驚いた顔をした後、幸福そうに笑って眠りに落ちる男の体を抱きしめた。


 今も昔も、きみだけをどうか、傍に。


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