無口な詩人と永久の花嫁

みなしろゆう

「無口な男の心象風景」


「夜を唄い朝を唄い 若人は旅立つ

 青春を握りしめ 夢を抱いて歩き出す」


 鳥のさえずりとは別に、遠くから声が聞こえた。

 聞き馴染みがある声は、楽しそうに、誰かに詩を読み聞かせているようだ。


 奇怪で下手くそな、青二才が書き上げた半端な詩を。

 未熟な言葉には微々たる力しかないというのに、声は弾んでいる、聞いているだけで、愛おしそうに文字列をなぞる指先までもが見えて来そうなくらいに。


 朝の光が差し込む窓脇の寝台で、彼の瞳は既に開いていた。

 体を動かして起き上がる、それだけの事に四苦八苦、呼吸音だけが部屋にはある。

 寝不足で鉛より重たい頭に、青年は手をやりながら、寝台の下へと足を下ろす。


 元より暗い夜空色の目が死んでいるのを、良く磨かれた床と向き合って彼は自覚した。


 寝室には寝台が二つある。

 一つは今、彼が腰掛けているもので、もう一つはきちんと整えられて空だった。

 枕元に押し花の栞が挟まれた手帳が置かれている。

 ……確か、ポピーだったかな、彼女は季節ごとに栞の装いを変えるのだ。


 ぼんやりと、彼が一人で考えている間にも、詩を読む声は聞こえ続けている。

 早く言って止めないと、いや、止めるほどのことはないのだけど、恥ずかしいからやめてと伝えないと、彼は立ち上がった。 

 深く息をすれば肺と喉が唸りをあげる、

 世界の起床より少し遅れて、詩人の彼は目を覚ました。




 ◇ ◇ ◇




 廊下を歩いていくと、床が軋んで音をあげる、それが威嚇のように聴こえて詩人は顔を顰めた、いったい俺が何をしたというのか。

 寝不足の頭は神経質に悪態を吐く、今に始まったことではないのだけれど、彼の五感は他人より鈍感さを嫌う性質だった。


 詩人はまた一つ、肺を鳴らして、開けっ放しの扉から書物が溢れ出ている書斎の前を通り過ぎ、階段を降りて居間に向かう。

 歩くほどに声は大きく、よりはっきりと聞こえてきて。


「取り放題の夢の雨 甘い甘い悦の味

 苦い苦い蜜の味 冷たい心を舐めた味」


 部屋中に、可憐な声が響き渡っていた。

 色を付けるなら薄桃色、味をつけるなら蜂蜜味の声の主は、古ぼけた手帳を開き、それに綴られた詩を読み上げている。

 その手帳にとても見覚えがあったので、詩人は取り返すべく居間の中へと踏み入った。


 テラスへ続く窓の向こう、真昼の明かりの下、椅子に座っているのは一人の女。

 金色の緩い巻き髪を揺らす彼女のまわりには、揺蕩うように色とりどりの光の玉が幾つも浮かんでいた。

 光は意志を持って動いている。

 その正体は自由気ままに現れて人を守護するとされるモノたち。

 精霊と呼ばれる彼らに、彼女は詩を読み聞かせていたのである──詩人がただの少年だった頃に書いた作品を。


 彼女の赤い瞳が詩から外れたのは、文字を追う華奢な指先を男の指が捉えた時だ。


 詩人は片足をつき、騎士の如く彼女の手を取って、そのまま握った。

 彼女は中途半端に開いた口を閉じ、きょとんと彼のことを見つめてくる。

 ベリーみたいに瑞々しい赤色に、跪く錆びた夜色の男が映り込む。


 詩人は彼女と指を絡ませて、唇を動かしたけれど、発声することはなかった。

 彼女は口端を緩め、詩集を閉じる。

 聞こえることのない声を聞いたのだと言わんばかりの反応だ。

 精霊たちはつまらなそうに、二人の元から去っていく。


「おはようございます」


 誰もいなくなって──二人きりになってから、彼女は満面の笑みで言った。

 表情や声、込められている親愛だとか情愛だとかの綺麗なものから、詩人は思わず顔を背けかける、けれど。


 彼の顎に、白い手が添えられた。

 目を逸らしてはだめ、と言外に告げられている、慣れることのない彼女からの好意を真正面から受け止めることになって、詩人は落ち着きたくて深く息を吸った。

 花の香りがする、どこからしてくるのかなんて考えなくても分かる。


 無言で、笑顔も返さない男。

 美しく何処か浮世から離れた女。


 彼女は穢れぬ可憐さで、楽しげに言った。


「朝ごはんが出来ていますよ、あなた」


 柔らかな微笑、息を吸っても吐いても、詩人にはきみの香りしか感じられない。

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