第4話


 トンネルを抜けたとたん、雪がやや強くなった。

 私と由香子は、戸口の両脇に向かい合って立ち、飛んでゆく雪の粒を見ていた。


 ——海だ。


 荒れた海だ。

 防波堤には真っ白な雪が積もり、その向こうに青い海が広がっている。波が砕けると白い泡が飛んだ。緑がかった波にまみれて漆黒の岩礁が見えている。かもめが一羽、か細い足で留まっていた。

 列車は汽笛を鳴らし、大きく海岸線に沿ってカーブしてゆく。

 雪雲を通したかすかな光のマジックだろう、海は緑から青に変わった。


 ——黒い青だ。


 どこか闇色の青。

 雪が闇に溶けてゆく。

 海に降る雪は、どこか違和感。不可思議な感じがする。

 雪が水に溶けてゆくのは当たり前なのに、存在していたものが、闇に飲み込まれて、すべてが消えてゆくような気がしてくる。

 宙を舞う雪は、闇色の青に飲み込まれてしまうためだけに、空の遠くから落ちてきたのだろうか?


 ——なんだか、怖い。


 私と由香子は、荒々しくて怖い青を見つめていた。これが望んでいた青だったのかわからないまま……。

 そして列車は、いつのまにか街中に入り、小樽の駅に着いてしまった。



 たいした気分も晴れないままに、私たちはホームに降り立った。

 屋根のない部分には、かなりの雪が積もっていた。こちらのほうが雪がずっと降っていたのだろう。


「帰るか……」

「うん」


 海を見たって、大学を落ちた事実は変わらない。何も変わることはない。

 冬の昼間は短く、もう夕暮れが音もなく近づいている。冒険する気力も、陽光とともに褪せていった。

 私たちは階段を上り、隣のホームへと移動した。

 列車には時間があるらしく、ホームにお客は誰もいない。

 冷たいベンチに腰掛けていると、先ほどまでプラットホームの雪掻きをしていた駅員さんがやってきた。


「君たち、いったいどこからきた? なぜここにいる?」


 列車を待っているだけなのに、急に話し掛けられて驚いた。


「何? 答えられないのか? 切符は持っているのか?」


 私と由香子は顔を見合わせた。


「あの……乗り過ごしたから、このまま乗り換えて帰ろうと思って……」


 私の口からとっさの嘘が出た。

 駅員さんは私たちの切符を見て、再び私たちの顔をじろりと見た。睨んだというべきだろう。


「乗り過ごしは乗り過ごしだ。清算してさっさとホームから出て行きなさい」

「あの、でも降りる必要はないんです。このまま帰るから……」

「ふざけたことを言うんじゃない! さあ、こっちにきなさい!」



 先ほどまでのセンチメンタルな気分はすっかり消し飛んだ。

 なぜなら、私は余計なお金を持っていなく、まっとうに清算したら家に帰ることが出来ない状態だった。由香子も似たようなものだった。

 駅員室に座らせられて

「家出ではないか?」

 と尋問され、震える声で

「違います」

 と言うしかなかった。

 小さな部屋にはストーブがあり、その上のヤカンは、湯気を出していた。充分に暖かいはずだったが、私たちはコートも脱がず、小さく凍り付いていた。


「切符代が払えないなら、親に電話だな。それか警察に保護してもらうか……」


 青くなった。

 心が……ではなく、顔色がひけてしまった。

 楽勝だと思っていた大学を落ち、しかも警察に補導され、親を呼び出す羽目になったら……。人生本当に終わっている。


「払います、払いますから……」


 半分泣きながら、私はお財布もポケットもひっくり返し、お金を探した。しかし、あとわずか、百五十円足りない。由香子も二百二十円足りない。

 目の前が真っ暗になった。

 私のつまらない独り言のせいで、とんでもないことになってしまった。

 その時、由香子が何かに気がついたように、

「あ!」

 と小さな声をあげた。そしてコートを脱ぎだした。

 駅員さんたちが不思議そうに見ている中、ダッフル・コートをいきなり裏に返すと、裾のあたりを探りだす。

 裏地にコインのあとが見えた。

 なんと、五百円玉だった。

 長年活躍した由香子のコートのポケットはほころびていた。

 無造作に入れられた五百円玉は、ポケットの穴から落ち、コート地と裏地の間に入り込んでいたのである。


 ***


 すでに真っ暗で海も見えない。

 人気の少ない帰りの列車は、ゆったりと座れた。二人掛けを一人で使い、向かい合って座った。暖かいせいか、窓は曇ってはおらず、自分と由香子の顔ばかりが写っている。

 ご飯を食べていないから、おなかがすいた。でも一文無しだった。


「ごめんね、最悪な一日だったね」

「うん……でも、私ものったことだから」


 私のつまらない独り言のせいだった。


 遠くにいけば慰められるかもしれない。

 自分の気持ちよりも凍えた青い海を見たならば、少しは気分が晴れるかもしれない。

 そんなバカなことを考えたばかりに、由香子にも嫌な思いをさせてしまった。

 海も世間も受験に失敗した女の子に情けを掛けるほど甘くはない。

 傷ついたといって、誰もが手を差し伸べ、優しく慰めてくれるわけじゃない。

 そんな当然のことが、今日一日で痛いほどわかった。


「五百円、本当に助かった。ありがとう。あとで返すよ」

「あ……あれね」


 突然、由香子は何かを思い出したのか、乾いた笑いを浮かべた。


「あれさ、実はお母さんが神社にお参りしてからいったほうがいいって言って、くれた五百円だったんだ。お賽銭しろってさ」


 由香子は天井を見つめて息をついた。


「でもさ、今更願掛けても結果は決まっていることでしょ? ポケットに入れたままお賽銭しないで、あとで漫画でも買うつもりだった」


 賽銭しなかった言い訳のように、由香子は付け足した。


「神様に願掛ければどうにかなるなんて、お母さん、古いんだよ」


 でも、私は違うように感じた。

 由香子のお母さんはなんだかんだいって、ちゃんと由香子の希望を叶えてあげたいと思っているにちがいない。

 さらに、もしかしたら娘の窮地を予感していたのだろうか?

 すごい……と思った。

 由香子は神頼みなどしないタイプだ。いや、もしかしたら、お母さんのひそかな応援に照れているだけなのかもしれないが。


「ちゃんと神社にいけばよかったかな? 天罰かな? って思ったよ。でも、いったところで結果が変わるでもなし、お賽銭していたら今頃警察だったかも知れないし……」


「神様の思し召し、だったのかな?」


「お賽銭しないことが? だったとしたら笑えるね」


 今度は本当におかしかったのか、由香子はいつもの笑顔を見せた。

 賽銭の5百円玉は、確かに私たちを救ってくれた。


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