第3話
列車はよく知っている駅に停まった。
この駅は由香子の家の近くである。でも、由香子は降りなかった。目の前でドアが閉まってゆくけれど、私も何も言わなかった。
次は私の降りる駅だ。でも、私も由香子も降りなかった。
私が手のひらで拭いた窓ガラスが戸袋から戻ってくる。落書きのあとに、新たな霜が付いていた。
帰りたくない。
二人に共通した思いだった。
「このまま乗っていたら小樽だね。たぶん、ここから海が見えるはず……」
夏にはよく海水浴にいった。だから、トンネルを越えたら海が見えるとこも知っている。でも、冬の海など見たことがない。
「小樽に行ったらどうしよう?」
「わかんない。行ってから気がすんだら、また札幌行に乗りかえて戻ってくればいいんじゃない?」
「気がすまなかったらどうしよう?」
「そのまま、また遠くにいく列車に乗り換えればいい」
市内を離れ、人が少なくなってきた時、私と由香子はやっと会話することが出来た。
——遠くへいこう。
それは別に本当に遠くにいくのではなくて、ただ列車に揺られて景色を見て、気分転換できればいい……。それくらいの気持ちだったと思う。
旅をすることにしたとたん、私と由香子は少しだけいつもの自分たちに戻れたような気がした。
母の顔が目に浮ぶ。
きっとこう言う。
「いいじゃない。とりあえずは受かったんだから……」
本当は本州の学校だって受けたかった。ここが嫌いなわけではないけれど、知らないところへ行きたかったのだと思う。
でも母の
「女の子だから、家から通ってほしいのよ」
の一言で、私はすべてあきらめてしまった。
古い親だと思う。
でも自分の希望を訴えるほど、私は気が強くなかった。
それに、なぜ遠くへ行きたいと思ったのか、それすらもよく解らない。
自分だって、将来どうしたいのか、まったく見えてはいないのだから。ただ、なんとなくでは、親だって動かないだろう。
今から思えば、第一希望をあきらめたところで気が抜けてしまい、受験を甘く見ていたのかも知れない。
でも由香子は違った。
彼女は私よりも成績がいい。公立の大学の滑り止めだった。
彼女の家は
「女の子なのだから大学にいく必要はない」
という考え方なのだ。
かなり厳しいと言われていた公立を第一希望にしたのは、親が公立ならば……と言ったからであり、星北大学を滑り止めにしたのは、学費が安かったからである。
もちろん、落ちたら浪人はなしだ。
「頭、固いんだよ」
と言いつつ、由香子も親との約束を守るつもりだった。
私たちは、よく一緒に勉強した。
とはいえ、途中からおしゃべりやら食べることに夢中になってしまい、はかどらないことが多かったが。
由香子の家に勉強しに行くと、よくすぐ上のお姉さんが時々遊びに来ていたりした。
高校を卒業して銀行に就職しすぐに寿退社。今は歩いてすぐの家に住んでいる。
由香子の部屋で勉強をしていると、時々赤ちゃんの泣声がした。
「由香ちゃん、ごめんね。邪魔したわね。またあとで」
どうしても赤ちゃんが泣き止まないと、お姉さんはそそくさと帰っていく。
由香子はペンを耳元で回しながら、
「うん、別にいいのに……」
などと、気のない返事をしていた。
お茶を持ってきてくれたお母さんが、由香子に聞こえるように、私に話しかける。
「由香子もねぇ、別に何になりたいって希望もないわけだから、早く就職して結婚してくれたほうが安心なんだけれどねぇ」
ペンを回していた由香子が、
「うるさい」
とつぶやく。
「学校の先生になる」
「お前にそんな気ないの、知っているよ」
そういってお母さんは下の階に降りてゆく。
確かに、由香子は学校の先生になる気はないはずだった。
雪が降り始めたころ、由香子の家に家族が増えた。
一番上のお姉さんが、東京から帰っていたのだ。
ダウンのコートの襟を立てて、庭先で煙たそうにタバコをすっていた。メッシュに染めた茶色い髪のせいで、すぐ上の姉さんよりも若く見える。
外はもう寒いのだが、タバコ嫌いの由香子が家の中での喫煙を許さないらしい。
「東京の大学まで行ったのに、フリーターして、貧乏になると帰ってくるんだ」
「そうじゃなく冬だから仕事がなくなるんでしょ!」
聞こえたらしく、姉さんが言い返す。
「それにさ、就職難なのよ、今。あんただって、そのうち同じ目にあうんだから」
由香子がこのお姉さんを嫌う理由は、悪い前例を作ってしまったからだ。
もともと古風な考えの親に、説得に説得を重ね、東京へ行き、高い仕送りをさせて大学を出たはいいが、いまだに親のスネカジリで嫁にも行かない姉。
「そんなに大学に行きたいの? じゃあ何になりたいの?」
そう親に聞かれて、由香子は答えを見出すことが出来ず、それならば……。となってしまったのだ。
「でもさ、私、まだ人生決めたくないんだ。お母さんったらまるでレールを引いたような人生が女の幸せだって思っているんだもん。結婚して子供産んでって考えると、人生終わったと思っちゃう」
そういって、由香子はため息をつく。
「だけど、強くは言えなかったんだ」
由香子ににしては、またずいぶんと消極的な反応だ。しかし、彼女は自分に嘘がつけなかったのだと言う。
「何で大学行きたいの? って聞かれたら、ちっとも何も浮かばなかった。やはり自分も姉さんと同じかな? って思っちゃったよ」
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