翼のない私は夢を見る。

夕凪 春

本文

 唐突で申し訳ありません。少しだけ昔話にお付き合い頂けないでしょうか?

 ええ、ほんの少しだけ――



 仲間達は華やかな場所で人々からの注目を浴び、その場で気に入られれば新たな主人の元で幸福な時を過ごす。そこは孤独も寒さもなく明るく暖かな場所であると聞いております。

 一方のわたくしはというと、それとは正反対であろう環境に置かれておりました。待つ事しか出来ず時は永遠のように長く感じられ、ようやくその時が過ぎたと思えば閉じられた世界だけが私を待っているのです。

 連れられる事も稀にはありましたが、幾日かを過ぎれば再び同じ場所へと戻らなければならず、またその扱いも粗雑な事が多く心休まる場所とは程遠いものでありました。

 ここは言うところの『監獄』のようなものに相違ないと、はじめのうちは何度も思案を巡らせたものです。


 私がここに来たのはもう二十年、いえ、三十年にはなるでしょうか。そしてこの世に生を受けたのはもうどれほどになるでしょう、恐らくは四、五十年ほどではないかとそのように記憶しております。

 私を産んでくれた存在、取りも直さず親となる方のことはあまり覚えてはおりませんが、それでもその方には感謝の念しかありません。私が今こうしてここに居られるのですから――。



 駅郊外に居を構えるこの図書館――あくまで話に聞く限りではありますが――に私は居ります。ここにはあらゆる分野に属する仲間達、児童書に始まり文学書、歴史書、辞書などに至るまでが読まれるのを待っております。

 私はとある一冊の本としてここへやってきました。幸いなことにこの位置からは様々なものが見られます。


 この図書館を利用する人には様々な方が居ります。ひたすら熱心に時を忘れて読む人。目当てのものが見つからずに肩を落とす人。家に持ち帰り楽しむ人。勉学に励む人に穏やかに眠る人。騒がしくする人。それを注意するまでもなく自然に伝える人。

 またこの館内で働く人々。どの方も勤勉であり、私達を大事にしてくれているのが伝わります。特に目の前の司書と呼ばれる、白髪が目立ち始めて久しいこの女性はすべての本の在り処ありかを記憶しているようです。これは長年の知識や経験の賜物でしょう。なかなかにできるものではないと、いたく感心をしております。


 私はこの場所が、行き交う人達が好きです。人は一人ひとりにそれぞれの生活があり、それぞれが目的や目標を持っているのです。同じように見える人であってもその中身はまったく異なるものなのです。私はその様子を見ているのがこの上なく好きなのです。

 ですから恐らくは人の多様性、在り方というものが好きなのだと思います。


 私は聞くところによる『絶版』なのだそうです。それが意味するは最後の一冊。しかし他の仲間達はそうではないようで、どこかへ行ってしまったり破られてしまったりしても代わりが存在しているそうです。しかし私にはそれがないのです。

 そういったことも恐らくではありますが、いつ最後になってもいいように、好きなものを胸に焼き付けていたい理由になっているのかもしれません。


 とある日のことです。

 一人の男性がこちらへとやってきました。私はどちらかと申しますとあまり手には取られない方で、正面の棚に居る仲間達ほど人気というものではないようです。

 そのような私を軽く持ち上げると、彼はまるで旧友と再会したかのような優しい表情をしました。

 そして近くの椅子へ腰掛けると私を読み始めます。ただいつもと違ったのはどうやら彼は以前にも私を読んだ事があるようでした。というのもパラパラと体を捲り読み進めていくからです。

 彼は「もう戻らないんだな」と小さく零すとしばらく手を止めます。

 そして私の最後のページをひとつ、ふたつ、雫で濡らすのです。彼は泣いているようでした。私もこういった事は初めてで戸惑いましたが何故でしょうか、とても心が温かくなる思いがしたのです。


 あれからはあの男性のことばかりが思い出されます。私は彼が落とした涙の意味をどうしても知りたかったのです。

 しかしながら彼はその姿を現すことはありませんでした。


 そして数ヶ月が経った頃でしょうか、とある会話が私の元へ飛び込んできました。

 それは『この図書館が取り壊される』ということでした。建物自体の老朽化や来館者数の減少などが原因であるようでした。

 それは私にとっては居場所を失うことでもあります。しかしながら私に出来得る事は何一つとしてないでしょう。人であれば声を上げることが出来ましょう、何かしらの行動を取る事が出来ましょう、ですが私は遠く憧れた存在ではないのです。

 この時ばかりは本であることを後悔とまではいきませんが、己の無力さを思い知らされる事となりました。


 それからというものの時が経つのは早いもので、ついには閉館の日がやってきたのです。

 しかしあと数時間ほどで終わってしまうにも関わらず私は目を疑いました。

 ここには沢山の人が居ました。そのほとんどが見覚えのある人達です。ここに日頃から足繁く通っていた利用者の方達だったのです。


 この日だけは静寂などはありませんでした。それぞれが最後の日を惜しむかのように声をあげています。感謝の言葉を述べているのです。そしてそれに対して注意する無粋な者はこの館内には誰一人として居ませんでした。

 誰もがここを大事に思っていたのでしょう。その終わりを見届けたかったのでしょう。それがやはり私にとってはこの上ない喜びとなっておりました。


 そして夕刻近くでしょうか。あの男性が、ずっと会いたかった人がやってきたのです。この方も図書館の最後を見に来たのでしょうか。

 忘れもしないあの日のように目の前に立つと、私を軽く抱えあげます。それから貸し出しカウンターへ行くと司書の方と何やら話をしています。

 しかしながらそれを聞くことは叶いませんでした。

 私は消えていくように意識を失ったのです――



 夢を見ていました。

 それは鳥になる夢。

 自分の意思で自由に飛ぶことができるのです。

 並んだ大勢の仲間達と一緒に。

 それはそれは楽しくいつまでもこうして居たいと思いました。

 ですが突然声がどこからかするのです。

 『まだそこへ行ってはいけないよ』と。

 その声の懐かしさだけを頼りに、私はひとり大地へと降り立ちました。



 ――目を覚ますと、私は今までと違う暖かさを感じる事となりました。

 パチパチと何かが燃える音がします。煉瓦れんが造りの箱のようなものの中で木が燃えているのです。

 そしてその近くにはモミの木が、それはとても綺麗な飾り付けをされて明るく輝いていました。これが何を意味するのかはわかりませんが、心が躍るようなそのような気持ちがしました。

 一体どうなってしまったのでしょう。私は確かにあの場所に居ました。最後を迎えるはずの図書館に。

 そう思案に耽っていると、私の視界には二つの影が見えます。

 すっかり歳を取り皺の深く入った顔、白く蓄えた顎の髭。

 それでも間違えようがない面影と、聞き慣れたあの声と。


 私はすでに知っていたのです。

 その人の悩む顔も泣く顔も、悲しむ顔も笑う顔もすべて。

 ああ、ここは私の在り処ありかだ――



「おっきいじぃじ、そのご本なあに?」

「これはね、じいじが昔に書いた物なんだよ。まだ読むにはちょっと早いかな――」

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