「影のように実体のない身体を持って生まれた少年」の話①
僕の母親は、僕の本当の父親でない男と結婚していた。
母は、夫と出会う前に付き合っていた恋人と、死に別れてたんだ。
けれどある日、その死んだ恋人が母の夢枕に現れた。
母は夢の中で、死者であるその恋人と交わり、僕を身ごもった。
僕が母の腹の中にいる間、母の腹は少しも大きくならなかったらしい。
それどころか、生理さえも普通にあったんだと。
だから、多少腹が張っているような感じはあったものの、母は自分が妊娠しているなんて思ってもみなかった。
母が自宅でいつも通り家事をしているとき、それらしい前触れすらなく、あっさりと、僕は産み落とされた。
母が歩いている途中、腹の中から畳の上へ、まさに「落ちた」んだ。
僕を出産したことは、母の体になんの感覚ももたらさなかった。
ただ、産んだあと、かすかにあった腹部の張りが消えただけだった。
ふと床を見て、そこに生まれたばかりの赤ん坊がいるのに気づいた母は、当然びっくりした。
母はとりあえずその赤ん坊を抱き上げようとした。
だが、できなかった。
母の手は、そこに確かに見えている赤ん坊の体をすり抜けて、畳の床に付いた。
姿は見えるのに触れられない。
幽霊のようなもの、といえばわかりやすいんだろうか。
生者の母親と死者の父親との間に生まれた僕の体には、実体がなかったんだ。
僕は、生き物――いわゆる生命体じゃ、なかった。
かといって死体というわけでもない。
僕は生きても死んでもいない者として生者の世界に「生まれた」。
人や物が僕に触れることができないように、僕自身も生者の世界にあるものには何一つ触れられなかった。
僕の体は光も遮らないから、明るい場所に立っても影もできなかった。
声や音は互いに伝え合えたが、僕の声が届くのは、相手が僕のことを視界に入れてるときだけ。
相手が僕の姿を見ていないとき、僕がどんなに大声で叫んでも、どんなにすぐ近くにいても、その声は相手の耳に聞こえない。
そんな僕をどういうものだと考えればいいのか、母は悩んだ。
最初、母は僕を幻覚じゃないかと思ったんだ。
僕の姿は幻覚で、僕の声は幻聴だと。
姿が見える、声が聞こえるという以外に僕がそこに存在する根拠が何一つないのだから、そう思うのも無理のないことだった。
けれど、僕の姿は母だけじゃなく、父にも見えたから、それで、僕が単なる幻じゃないことがわかった。
母は、すぐに僕の本当の父親が誰なのか勘づいた。
ずっと前に見た夢を、夢の中での死者との交わりを覚えていたから、そのために僕のような子どもが生まれたんだと理解した。
僕が幻覚なんかじゃなく、確かに自分の産んだ子どもなのだとわかって、母は戸惑いもしただろうが、僕が生まれたことを喜んだ。
夫婦の間には子どもがいなかったし、死に別れた恋人、僕の本当の父親は、母にとってずっと大切な人だったんだ。
普通の生きている子どもにするように、抱きしめることも、頭を撫でることもできない、幽霊のような存在でも、大切な人との間に生まれた自分の子どもは可愛かったらしい。
母は惜しみない愛情を僕に注いでくれた。
僕は物を食べたり飲んだりすることはできなかったが、何も口にしなくても、その姿形は月日が経つにつれて成長していった。
母は、僕の体が育っていくのに合わせて僕のための洋服を買ったりした。
もちろん、実体のない僕の体は服を着ることなんてできない。
だが、服の影を作ってその影を僕の体に重ねると、影はそのまま僕に貼り付いて、黒い服を着てるみたいになった。
僕と影が似た性質のものだったからだろうか。どっちも実体がなくてさわれないものだ。
服の他にも、母は僕にいろいろな物を買い与えた。
僕がうれしかったのは本やアニメビデオの類だ。
それ以外の物はたいてい僕が持っててもどうしようもない。
おもちゃはさわって遊べないし……普通の子どもだったら小学校に上がる歳になったときは、ランドセルなんかも買ってもらったが、僕が学校に行けるはずもないからな。
母は僕に本を読んでくれたり、一緒にアニメビデオやテレビを観たり、お遊戯歌を一緒に歌って踊って遊んだりしてくれた。
文字の読み書きや算数を教えたりもして、普通の子どもを育てるのと同じように僕を育てた。
父のほうは――ここで言う父は、母が結婚した男のことだ。
本当の父のことは、僕はなんにも覚えていないからな。
一度も会ったことがないから当たり前だが……。
正直、その人が父親だっていう実感が全然ない。
だから、母の夫である男、生まれたときから家族として一緒に暮らしていたあの人のことを、僕は父と呼ぶ。
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