「狭間の町」の話

 気がついたとき、俺は、その「町」を歩いてた。


 どこまで行っても奇妙な町並みが続いてる場所だった。

 壁のない家、入口のない家、屋根のない家。

 どれ一つとしてまともに住めそうにない家ばかりだった。

 普通の世界じゃないって、すぐにわかったよ。壁のない家は窓が宙に浮いてるしね。他にもいろいろとおかしな町だった。


 辺りに人の気配はなかった。

 大声を出して誰かいないか呼びかけようとしたけど、何か、声が口元でこもって、全然遠くまで響かないんだ。

 普通、空気は音を伝えるよな。あの町の空気はそうじゃなかった。


 何軒か近くの家に入ってもみたけど、どの家にも人は住んでなかった。


 町は昼のようだったけど、太陽は見えなかった。

 空はわずかに濃淡のついた灰色の雲でまんべんなく覆われてて、雲はいろんな方向へ流れてた。

 町のあちこちに暗がりがあった。それらは、周りの明るみから切り離されてるというか、唐突に光を失ってる空間だった。

 昼に溶け残ったような真夜中そのものの暗闇が、そこだけだまみたいになって固まってた。



 しばらく町を歩き回ってみたものの、どうにもこうにもならない。

 とにかく厄介だったよ。

 階段や坂を上っても必ず上に行けるわけじゃない。

 下っても必ず下に行けるわけじゃない。

 真っ直ぐな一本道を歩いてるはずなのに、いつの間にか元の場所に戻ってきてさっきと同じ方向へ同じ道を進んでる。

 かと思えば、今来た道を引き返してもさっきと同じ場所に戻ることができない。

 こうして聞いててもどういうことなのかよくわからないだろうけど、本当にそうだったんだ。



 俺は歩き続けた。

 太陽は見えず、日は暮れず、ただ町の中に明るい所と暗い所があるだけ。

 だから時間の経過なんてまったくわからなかった。

 でも、とにかく長い時間だった……少なくとも、俺の感覚の中では。

 何日も、もしかしたら何十日も、さまよい歩いてた気さえする。


 ずっと、一人で――。


 そのとき、自分が何を考えてたのかはよく覚えてない。

 自分の感覚の中で気の遠くなるような時間が流れていってるように感じてた反面、頭の中は時を止めたみたいに、ぼんやりとして思考回路が働かなかった。



 頭の中の時間が再び動き出したのは、突然のことだった。


 目の前にある闇の溜まった小路の中を、ふと、人影が横切ったんだ。

 女の子の人影だった。

 俺はとっさに走り出して、その子の手を掴まえた。

 その子は、当時の俺よりもいくらか年下――高校生か中学生くらいの見た目だった。

 けど、着てる服は少女の体のサイズには全然合ってなくて、デザインも、その年頃の女の子が着るようなものじゃなくて、そこがちぐはぐだった。

 少女は俺とちょっと目を合わせて、それから俺のことを眺め回して、すぐに興味をなくしたようにふいとそっぽを向いて、俺の手を振りほどいた。

 そのまま去っていこうとする少女を、俺は慌てて引き止めた。


 ――待ってくれ。君は、この町の人間なのか? 


 俺がそう尋ねると、少女は言った。


「この町の? うーん、そう聞かれると、なんて答えたらいいかわからないな。とりあえず、この町にあたしの家はないよ。どの家とったって、こんな町に住めるわけないじゃない」


 確かに、そうだった。その町の家は壁がなかったり入口がなかったり、どれをとっても家としての役割を果たさない中途半端なものばかりだったんだから。


 俺はまた少女に尋ねた。


 ――君は、この町がなんなのか知ってるの? 


 すると、


「……お兄さんは、ここがどんな町だと思う?」


 少女は、服の触れ合うぎりぎりまで俺に体を寄せて問い返した。

 そのくらい近くにこなければ、お互いの声はひどく聞き取りづらかった。


 この町の正体。それは――。


 ここに来る前のことを、薄っすらとは覚えていた。

 確か、乗ってたバスが事故に遭ったんだ。

 それで……だから……。 


 ――いわゆる、死後の世界ってやつか? 


 俺はそう答えたけど、少女は首を横に振った。


「ここはね、生者の世界と死者の世界の間にある世界なの。生きてる人も死んでる人も普通は入ってこられないはずなんだけど、ときどき迷い込んでくる人もあるみたい。お兄さんは、ちゃんと生きてる人間だね。わかるんだ、あたし。あたしの目には『道』が見えるの。お兄さんからは、生者の世界へ続く道が伸びてるよ。その道をたどって、お兄さんはこの町から抜け出せるはず。……でも」


 少女は、俺の右手に目を落とした。


「手に、何を持ってるの?」


 少女に言われて、俺は自分の右手の中を見た。

 手に持ってたのは、バスの中で拾った栞だった。

 紐で編んだ栞。

 たぶんこの町に来たときから、ずっとそれを持っていたことに、俺はそのとき初めて気づいた。


「その栞はお兄さんの?」


 いや、と俺は答えた。


 ――この栞は、今はたまたま俺が持ってるだけだ。この町に来る直前、俺は、この栞の持ち主と一緒にいた。


 ――その人を捜しに行かなきゃならない。


 俺はそう説明した。


 それまでも、俺は意識せずその人を――彼女を、捜し歩いてたのかもしれなかった。


 俺は、俺と同じ歳くらいの女の人を見かけなかったかと少女に尋ねた。

 けど、少女は冷たく目を細めてこう言った。


「その栞の持ち主は、もう死んでるよ。栞のほどけた紐の端から、死者の世界への道が伸びてるのが見える。お兄さんがこの町に迷い込んだのはその栞を持ってるせいかな」


 それを聞いて、俺は、まさに目の前が真っ暗になるって感覚を味わった。




 しばらくの間、その場に突っ立って栞を握りしめてた。


 彼女に会いたい――。


 彼女の死を知ったことで、その思いが否応もなく膨れ上がった。

 死んだ人間を生者の世界へ連れ戻すことは、きっとできないんだろう。

 そう思ったからこそ、なおさらだった。

 彼女が死者の世界という場所にいるのなら、そこへ行って、せめてもう一度、一目だけでも彼女に会いたかった。


 そんな俺の胸の内を見透かしたように、


「だめだよ」


 と、少女は俺を睨みつけた。


「栞の持ち主って、女の人なんでしょ? お兄さんの恋人じゃないの? もしそうなら、お兄さんは、その人に会いに行ったりしたらだめだからね」


 少女の言葉に、どうして、と俺は抗議するような目で問いかけた。

 すると、少女はいっそう鋭く俺を睨み上げて、こう言った。


「お兄さんみたいに、死んだ恋人を追って死者の世界まで行っちゃう人が、きっとたまにいるんだよね。あたしの父さんもそうだったんだと思う。あたしは、生者の父親と死者の母親との間に生まれた子どもなの」


 さらりと告白された少女の正体に、俺は声を失った。

 少女は、その口元にゆっくりと微笑を浮かべた。


「ねえ、お兄さん。あたしの話を聞いていかない? 生者と死者の間に生まれた子どもが、生者の世界でどんなふうに過ごしたか、どんな末路をたどったか。教えてあげる」


 そうして、少女は語り始めたんだ。

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