第5話


 記念すべき一日



       ※


 三月一日、土曜日。

 前日は四年に一度しかない日で、その日を過ごすことは、今日を迎える不安と緊張に押し潰されるように胸が張り裂けそう。夜もろくに眠ることもできず、午前四時まで確認したことを覚えている。

 中学教師のもりやま。今日は一生に一度の白銀セレモニースーツに身を包んでいる。光沢のある素材は、まるで自分がマネキンにでもなったよう。今さっき係員にチーフをつけてもらう際、ぎこちない笑みが浮ぶほど、緊張はピークを迎えている。普段は気にすることのない短髪も、今日はハードワックスによって剣山のように尖っていた。

 ついさっき、新婦の純白ドレスを目の当たりにしたばかり。それはもう目玉が浄化されるほどに神々しい輝きを放っていること、感極まって危うく泣きそうになった。危ない危ない。こんなめでたい日に人生の汚点を作るところであったから。

 それほどまでに、新婦の美しさは超絶なものだった。ウエストから広がったスカートはお姫様のイメージで、首元に輝くネックレスは大きな輝きを有している。頭につけた金色のティアラから流れるベールは、神聖な雰囲気を新婦に醸し出していた。

 この日のためにジムに通って頑張ったという新婦のほっそりとしたシルエット。もう言葉はいらない。

 森乃山はその神々しいまでの美しさに、口をぽかーんっと開けて惚けていたら、邪魔だと係員に追い出された。新郎なのにひどい扱いを受けたものである。

 それから親戚に挨拶をして、今はこの待合室で出番を待つ。

 窓にかけられている白いカーテンの向こう側は、真っ青な晴天が広がっている。この日を祝福してくれているよう。待合室のベージュの絨毯を目に、壁にある鏡はもう数えきれないほど見たので、これ以上自分を飾ることはできない。テーブルの上にはコーヒーが置かれているが、一口含んだだけで、今は湯気なく冷めている。隣にあるクッキーはとても喉を通りそうになかった。

 椅子に腰かけていると、自然と震える膝を止めることはできない。

 どきどきどきどきどきどきどきどきっ!

 胸の鼓動は、口から飛び出しそう。

 これから行われる挙式、絶対にへまをするわけにはいかない。なんたってあのきれいな新婦とともに挑むのだ、失敗は許されない。事前に猛勉強しているとはいえ、本番になったら頭が真っ白になるかもしれない。帯びる緊張からすると、最悪のケースだって考えられる。しっかりしなくては。

(えーと、入場して、誓いの言葉を読み上げる。万一のために、ふりがなを打っておいたので読み間違える心配はない。よし、大丈夫。結婚証明書に署名して、誓いの杯。あまり酔わないように、酒は薄くしてもらっているので、ここも万全。立会人の承認宣言を聞いてから、退場する……よし、一連の流れはばっちりだ)

 そうしてこれまで幾度となくしてきたシミュレーションはばっちり成功した、ように思えたが、そうではなかった。

(……って! 指輪の交換が抜けているぞおおおぉ!?)

 もう大パニック。

 おろおろと慌てている間に、係員から呼び出された。出番である。本番である。緊張に震える膝を鼓舞して立ち上がる。

(大丈夫! 大丈夫!)

 絶対に失敗することはできないので、根拠のない『大丈夫』という言葉を自身に塗り込んでいって……波打っている鼓動の大きさに、萎縮してしまう。

 できることなら、置かれているあらゆるプレッシャーから逃げ出したい心境だが……今からそんな及び腰では、先が思いやられる。

(俺、こんなんでほんとに大丈夫かよぉ!?)

 溜め息が漏れていく。

 扉がノックされた。心臓が跳ねるとともに、返事をして立ち上がる。係員に促されるように会場に移動しようと、通路に出た。毛の長い絨毯の上を歩いていって、その双眸は、

(……あれは)

 薄ピンク色のドレスに身を包んだ一人の少女を発見。向こうもこちらに気がついたようで、どこか不機嫌そうにこちらを見つめてくる。

 森乃山は小走りで近寄っていって、声をかけた。

「よっ、きてくれたみたいだな。ありがとな」

「…………」

「おいおい、そんな睨むことないだろう。めでたい席なんだから、笑顔で祝福してくれよ。こんなこと、一生に一度しかないんだぜ」

「…………」

「そうそう、インターハイに出たんだってな。さすがとしか言い様がないな」

 森乃山がこの少女と最初に出逢ったのは、三年前の春。当時はまだあどけなさがあったが、成長を遂げた今は大人っぽさを身に着けつつある。とはいえ、まだ高校一年生で、子供であることに違いない。なんたって、まだこちらのことを睨みつけているのだから。

「これからは親戚になるんだから、もうちょっと愛想よくしてくれよ。なっ?」

「…………」

「こら、ぶすっとするな。せめて、式の間だけでも笑顔でいてくれよな。頼んだぞ」

 どう声をかけたところで、少女の目から力が抜けることはない。式をぶち壊さん迫力があり、その内殺気を帯びるのではないかと、ひやひや。

 けれど、この少女がそんなどす黒い感情を抱いているわけではないこと、ちゃんと分かっている。ただ譲れない思いがあるだけで、ちょっと意固地になっているだけ。その辺りがまだまだ子供であった。

「お前、随分と大人っぽくなったよな。ドレス姿もきれいだぞ。何年後かには、お前の式に出席することになるんだろうな。いや、ちょっと気が早いか。はははっ」

「…………」

「調子はどうなんだ? お前のことだから、そろそろ日本一ぐらいになれそうか? だったら、俺も鼻が高いんだけどな。って、今でもお前のことは自慢だけど。俺が受け持ったもっとも優秀な生徒、の一人である。うんうん」

「…………」

「……頼むから、そろそろ許してくれないか?」

 こちらが譲歩したところで、相手が譲らないのだから仕方がない。それはいつものことで、どうしようもない。

「精一杯幸せになってみせるし、幸せにしてみせるから、そろそろ認めてくれよ」

「…………」

「なっ、りおちゃん(ヽヽヽヽヽ)」

「りぃ!」

 これまで一言も発することなく睨みつけていた少女の感情が爆発する。溜まりに溜まったマグマが噴火するように、それはもう大爆発。

「その名前で呼んでいいのは、お母さんとなえさんだけぇ! この馬鹿もりやー(ヽヽヽヽ)がぁ!」

 茹でだこのように顔を真っ赤にしたと思うと、少女は絶頂の憤慨を絵に描いたように大声をぶつけ、ワンピースタイプのドレスを着ているのに、大股で会場へと入っていく。下は絨毯なので靴音は響かないはずなのに、耳には『だんだんだんだんっ!』と聞こえた。

 そんな『怒』を背中に宿した少女の姿に、虚を突かれたように目を丸くした森乃山であったが……数秒後には口元が大きく緩んでいく。

(大変だ、こりゃ)

 感想とは裏腹に、内側の感情はどこか胸躍るよう。やり取りに懐かしい感覚を得るとともに、これから楽しい生活が待っていることを予感させる。

(さあ、本番だ。みっともないところは見せられないぞ)

 ぐっと息を呑み、心の水面を落ち着けていく……不思議とざわめきは消えていた。少女に怒鳴られたことで、緊張がどこかに飛んでいったのかもしれない。だとしたら、感謝である。

(幸せに、ならなくちゃ)

 そうして森乃山は、人生に一度の特別な場所でスポットライトに照らされる。大勢に見守られながら、人生の門出を華々しく演出するように、満開の笑顔を浮かべるのであった。

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ハイエナの少女 @miumiumiumiu

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