第2話


 その夜を迎えて



       ※


 みょうじんなえには五つ年上の姉、紗那さながいる。

 紗那は幼い頃から名苗の知らないことをたくさん知っていて、たくさんのことを教えてくれて、たくさん知らない場所に連れていってくれて……姉の存在は、姉妹というよりも、憧れだった。


 名苗が小学校に入学したとき、姉の紗那は最上級生の六年生。身長も見上げるほど大きく、どんなことを質問してもすべて答えてくれる凄まじい姉。思わずクラスメートに自慢するほどに。小学校へは集団登校するのだが、近所の子供を束ねる分団長として黄色い腕章をして、毎日登校していた。小学校に入ったばかりの名苗は、登校途中でのことや、学校でのことをたくさん教えてもらった記憶がある。

 紗那は学校の成績もよく、生徒会の会長として毎週ある朝礼で前に立ち、挨拶していた。ああやって全校生徒の前に出て喋るのは、先生と紗那だけなので、やはり誇らしい。

 紗那は陸上部に所属しており、市大会を勝ち抜いて県大会に出場。二百メートル走でなんと優勝した。全体朝礼で表彰されていたこと、名苗は自分のことのように嬉しかったことを覚えている。そんな紗那のことをクラスメートに訊かれる度に、気持ちが高鳴って仕方なかったこと、ずっと胸に刻まれていた。

 名苗は、自慢の姉のことを見上げる度に、『今は駄目だけど、いつかあたしもああいう風になるんだ。頑張らないと』と思いを巡らせるのだが……名苗が六年生になったとき、改めて姉の凄さを痛感させられることになる。名苗の成績はせいぜい平均ぐらいだったし、入部した陸上部も紗那と同じ二百メートル走の選手にはなることはできたが、大会ではいつも予選落ち。生徒会にも入るどころか立候補すらすることなく、クラスの学級委員にも選ばれたことがない。六年間を振り返ったところで、何か大きなことを成し遂げた記憶がないままに小学校を卒業した……姉の紗那に当たり前にできていたことが自分にはできず、比較するとあまりにも惨めで、紗那の偉大さを改めて思い知らされた。

 いつだって、紗那は手の届かない憧れなのである。


 名苗が中学一年生から二年生に上がるとき、紗那は大学受験を勝ち抜いて、難関とされた国立大学に進学した。

 大学が県外なので家を出ることとなり、アパートで一人暮らし。名苗はその事実に戸惑うことになる。確かに姉は憧れで見上げるだけの存在だったが、それでも同じ子供だと思っていた。なのに、いきなり家を出て一人で生活するなんて、そんなこと到底子供にはできないことで、それを平然とやって退けるのだから……同じ子供だと思っていた紗那は、すっかり大人になっていた。名苗の知らない大人の女性に。それが、名苗の胸にぽっかりと大きな穴を作ることとなる。

 二人部屋から紗那の荷物がなくなり、二人でいるときは狭いと思っていた部屋の広さに、感慨深い思いに駆られた。寂しくて、喪失感が大きくて。

 その年の夏休み、母親に交通費をもらって紗那の家に遊びにいく機会があった。実家にいたとき同様に紗那の部屋は整理されていて、内装は白色を基調とした落ち着きのあるもの。手料理も振る舞ってもらい、名苗ではとても作ることができないぐらい、炒飯とオニオンスープはおいしかった。大学の構内を案内してくれて、アルバイト先のレストランでストロベリーパフェをご馳走になる。アルバイトしているときのエプロン姿の紗那は、家にいたときのどの姿とも違い、姉だというのに知らない人のように見えた。その違和感、なぜだか自身の存在を不安にさせるもので、気づくと視線が下がっていく。大好きだった紗那がどこか遠くへいってしまったみたい。

 それ以来、名苗は二度とアパートに遊びにいくことはなかった。正月に実家に帰ってきた姉に『また遊びにきてね』と誘われるも、半端な笑みのままに決して頷くことはしなかったのである。次に紗那に会ったとき、また自分の知らない姉になっていることが怖くて。


 名苗は市内の公立高校に進学した。中学までは紗那が通った道を辿るように陸上部に所属したが、姉と違ってそちらの才能はなさそうで、高校では演劇部に所属した。中学の文化祭の劇から興味を持ち、高校の新入生歓迎会でも活き活きと演技している姿に感銘を受けて、門を叩いたのである。

 二年生になったとき、秋の文化祭で演じる演劇の脚本を担当することとなった。演技があまり得意でなく、小道具といった裏方に魅力を感じていたが、ミーティングで脚本の話になり、それぞれ意見を出し合っていった結果……いつの間にか名苗が担当になっていたのである。『あれ? あれれ? おかしいな、こんなはずでは……』と思うも、決定の拍手が自分に向けられた以上、腹を括るしかない。当然のことながら脚本なんて書いたことがなく、部室にあるたくさんの台本を手本にしながら悪戦苦闘。梅雨の季節はそうして過ごすこととなった。

 そんなこんなで脚本に力を注いだ結果、期末テストはさんざんな成績となる。がっくり……それでも落ち込んでいられない。そんなことをしたところで成績を取り戻すことはできないし、脚本が進むわけでもない。

 脚本について、先輩に相談してはアドバイスをもらい、考えて考えて考えた末に、お転婆な姫が次元を跨ぐ大冒険をする話に決めた。そうと決まれば不思議とアイデアが次々と出てきて、どんどん真っ白だったノートが埋まっていく……しかししかし、順調に進めていた脚本作りの、最後の最後に苦戦することとなる。初の脚本といえ、どうせなら最後に大きな驚きを用意したいところ。なのに、アイデアが思いつかず、毎日頭を抱える羽目に。机の前で頭を抱えて唸っている姿を母親に目撃され、心配されてしまった。

 夏休みを前にしても、どうしても劇的なクライマックスは思いつかなかった。脚本の遅れに部員に迷惑をかけつつ、毎日ノートを前にしては、どうにかして脚本の最後を自身の内側から絞り出そうとして……そんな矢先、突如としてその悩みが吹き飛ぶ大事件に遭遇した。それはもう名苗の人生が大きく分岐するものだったのである。


 七月下旬。猛暑日の日曜日。大学四年生の姉、紗那が家に戻ってきた。盆休みまでまだ二週間あったのに、いきなり戻ってきたかと思うと、背広姿の見知らぬ男性を連れてきたのである。

 姉の口からは、衝撃的な事実が。

『来年、結婚することになりました』

 耳にした瞬間、名苗は目玉が飛び出すほどに驚いた。驚愕である。仰天である。なんといっても結婚。恋人との結婚。結婚なんて、自分には遠い未来の話で、姉の紗那だってようやく大学を卒業する年齢であり、まだまだそんな話が出るなんて思いもしなかったのに……突如として告げられた衝撃は、脚本の最後が決まらないことで悩む名苗のすべてを吹き飛ばしていった。同時に、抱える悩みと、提示された衝撃の差に、名苗がいかに幼い子供であるかを突きつけられる。たかだか部活動ごときで毎日眠れなくなるなんて、実に小さな人間のようで。

 旦那になる人は紗那の二つ上。今は大学院にいるが、来年からあい市内の大学に勤めるという。紗那は大学四年生で、市内の会社から内定が決まっていたが、急遽キャンセルして専業主婦に落ち着く。

 たまたま実家近くに大学の宿舎があり、来年からそこで新婚生活がスタートする。実家からは徒歩十五分の距離で、小学校単位でいえば同じ学区。

 名苗にとってお義兄さんになる人は、やさしそうで、ほっそりとした体躯はとても格好もよく、大学に勤めるので当然頭もいいだろうし、紗那にお似合いだった。それだけに、『おめでとうございます』としか言えない。もっと気の利いた言葉があったかもしれないが、あまりのショックにそれ以外の言葉が出てこなく、終始唖然としていたのが正直なところ。

 というように、夏休みを前にして、尊敬すべき姉の紗那が帰ってきたかと思えば、結婚して名字が変わるという大事件が起きた。おめでたいことなのに、名苗は一抹の寂しさを得ている。大好きな姉を失った気がして。

 そんな驚嘆な日に、脚本のラストシーンが決まった。あんなに悩んでいたのが嘘みたいに、すんなりと空白が埋まったのである。

 旅をしていた姫が目的を達して国へ帰ると、姫の帰りをずっと待っていてくれた王子が、他国との争いに巻き込まれて他界した事実を突きつけられる、というもの。

 そうして名苗は、自らが考えた劇でも大切な人を失うのであった。


 翌年、結婚した紗那は長女を出産した。

 りおちゃんの誕生である。


       ※


 名苗は二十六歳になった。高校卒業後は短大に進学し、そのまま愛名市にある商社に契約社員として勤める。今年で六年目。事務員として日々膨大なデータ入力業務をこなし、午後五時になると帰宅する。残業はない。

 独身。職場には自分より前に入社した女性が一人もいなかった。先日、契約社員から嘱託社員に登用する面接を受けたばかり。課長曰く、『嘱託社員に推薦状を書くのは初めてだよ』と笑っていた。推薦する前にみんな辞めていくから。寿退社とか寿退社とか寿退社とかで。職場を見渡してみると、未婚者の女性では名苗が最年長となっていた。

 吐息。

 二十六歳になった今でも、名苗にとって結婚は遠い未来のこと。だが、よくよく考えてみると姉は二十二歳で結婚した。現在、四つ年上になっているのに、そんな話すらない。そうやって意識すると、やはり姉には敵わないし、自分が情けなくなってくる。

 もちろん男性と付き合ったことはあり、そのような雰囲気になったこともある。あるが、些細なことで喧嘩して、関係が消滅した。それが尾を引いているのか、名苗にはなかなか浮いた話が舞い込んでこなくなり、今は会社と実家の往復が生活のすべて。

 家に帰ると、まだまだ両親ともに健在。ともに今年で五十六歳。結婚についてそれとなく言われることもあり、毎回苦笑するばかり。辛いといえば辛いが、こればかりはどうしようもない。

 そんな日常で楽しみがあるといえば、紗那の娘、りおちゃんの成長について。今年小学二年生。はきはき喋る姪はとてもかわいく、家が近所ということでよく連れ回しては、ファミレスでパフェを食べる間柄となっていた。

 名苗にとっては色なき生活に舞い下りた最愛の天使である。


 ふと思う。高校生の頃に見上げていた『二十六歳』といえば、結婚もして子供もいて、当然のごとく専業主婦をやっていると思っていた。が、現実はそんな気配すらなく、毎朝会社に出勤してOLをしている。あの頃見上げていた未来に立てていないこと……人生で何度も感じている罪悪感のようなものに苛まれる。これまでの時間を無駄にしてきた気がして。

 そんな将来性の不安以外は、特にこれといった問題もなく順風満帆な時間を過ごしていたが……強烈の暑さを有していた夏が過ぎ去り、ようやく落ち着いた毎日が過ごせるようになった秋の日、名苗の生活を大きく乱す事件が起きた。それは姉の結婚を知らされた以上の衝撃。

 姉の紗那が仕事中に倒れ、病院に運ばれたのである。

 最初は貧血と思われたが、詳細を検査した結果、急性白血病と診断された。発覚した段階ではかなり深刻なもので、症状は悪化の一途を辿るばかり。あの活発的な紗那からは信じられないぐらい、入院してすぐに病弱までに顔色が悪くなり、どんどん痩せ細っていく。それは坂道を転がり落ちていくボールのように、止めることができなかった。

 紗那の症状が芳しくないままに季節は移り変わっていき……冬の厳しい風が世界を席巻する。この時期になると、入院する紗那の存在は、もはや命の灯があってないようなほどか細いものに変貌していた。ちょっと触れただけでも壊れるようなガラス細工のように。

 どうにもならない凄絶な現実に、名苗の内側には発散しようのないやる瀬なさが募っていく。日々が過ぎていくことに不気味さと恐怖を得てしまう。

 このままでは、大切な人を本当に失われてしまう。

 失ってしまう。


「ななちゃん、お願いがあります」

 ベッドの上の紗那は新雪のように真っ白な顔色でありながら、携えるのは天使に負けないぐらい素敵な微笑み。薄ピンクのパジャマ姿で上半身を起こし、名苗のことをじっと見つめてくる。

「外の空気、吸いにいきましょう」

「……駄目よ、お姉ちゃん、今は安静にしてないと」

「ふふふっ。ちょっとぐらい平気ですよ。ほら、今日はとってもとっても調子いいのですから」

 前ボタンのパジャマが大きく感じられるほど体重が減っているが、本人は気にした様子もなく、紗那は目を細めながら薄い白色カーテンの向こう側を見つめている。

「今日はまた寒そうですね」

「そりゃ、冬だからね。外はやめた方がいいと思うよ。風邪なんか引いたら大変なんだから。お医者さんにも怒られちゃうよ」

「大丈夫です。風邪を引かないように気を張ります」

「いや、そんな気合いでどうにかなる問題じゃ……」

「こんな日に、ななちゃんと肉まんを半分っこして、はふはふっさせながら食べたいものですね」

「下の売店に売ってた気はするけど……お姉ちゃん、そんなの食べちゃ駄目だよね。我慢しよう。そのまま外に出るのも自粛しちゃおう」

「……最近、なんだか私に冷たくなってきましたよね、ななちゃん。私のことが嫌いになりましたか?」

「き、嫌いってわけじゃないよ。お姉ちゃんのことは好きよ。うん。だって、お姉ちゃんだもん」

「私もななちゃんのことが大好きですよ。じゃあ、外にいきましょう。出発でーす」

 耳を覆う程度の短い髪の毛を揺らし、近くのハンガーからコートを手にして羽織る紗那。ベッド下にあるサンダルを履こうとベッドから床に着地した、次の瞬間、バランスを崩して倒れるように体が沈んでしまう……反射的に、紗那は倒れることなくぎりぎりとところでベッドの手摺りに掴まった。

 そんな紗那の姿、パイプ椅子に座っていた名苗は『わっわっわっ』と慌てて手を差し出す。

「あ、危ないよ、お姉ちゃん。ほら、やっぱりやめようよ?」

 名苗が肩を貸すと、紗那は『ありがとね、ななちゃん。ななちゃんは昔からやさしかったですものね。さすがは自慢の妹です。よし、じゃあ、出発しますよ』と歯を出して笑っていた。

 そんな笑顔に、名苗は胸の奥を小さく圧迫されるような思いを得てしまう。『駄目だ駄目だ』と思いつつ、どうしても首を横に振れなくなり、紗那の願い通りに一階にある広場まで移動することに。

 通路を歩いてナースセンターの前を通ってエレベーターへ。見舞客と思われるコートを羽織った中年女性とともにエレベーターに乗り、一階ロビー。通路を東方向に進んでいき、色を失った花壇とベンチが五つある病院の広場に辿り着く。

 ガラス張りの扉を開けると、冷たい空気は壁のように名苗たちの進行を立ち塞がった。頬に感じた瞬間、思わず身震いしたほど。吹く北風は、冬の厳しさを示すように外気を冷やしている。特に通路の暖房と外の冷たさの間に立つと、温度差によって尋常とは思えないぐらい体が凍えてしまう。

「……寒いよ、お姉ちゃん。やっぱり病室に戻らない? お姉ちゃんもそうだけど、あたしも風邪引いちゃいそう」

「ふふふっ。この分だと明日は雪が降ってもおかしくないですね。あー、寒いです。凍ってしまいそうですね。とすると、冷凍人間になって、マンモスのようになったら、どうしましょう? 未来の人に発掘されて、美術館にでも飾られるのでしょうか?」

「それ、お姉ちゃんなら、『氷美人』ってな感じで人気が出そうね」

「そうですね、『氷美人姉妹』がいいですね」

「あたしも巻き込まれたぁ!?」

「それにしても、ほんとに寒いですね。ほらほら、息が真っ白です。すっかり冬ですね。早いものです」

 白い息を楽しそうに吐き出しながら、『寒い寒い』と口にする紗那。いつもそう。どんなことにだって、紗那は楽しそうに接し、苦なんてこの世に存在しないように過ごしている。世界は楽しさのみに満たされているかのごとく。

 そんな紗那が、頬の緩みを増しながら、名苗に声をかけてくる。その言葉にある決意を込めて。

「ねぇ、ななちゃん。ななちゃんは結婚しないのですか?」

「…………」

「ななちゃん、きっとウエディングドレスが似合うのでしょうね」

「…………」

 ベンチに腰かけた直後に姉の紗那に尋ねられたこと。いつも同じようなことを両親にも言われている。この話題に関しては、ただただ苦笑いを浮かべるしかない。

「……結婚なんて、相手がいることだから。あたしじゃ駄目よ」

「ななちゃんはこんなにかわいいのだから、相手なんて望むがままな気がしますけど。もはや選り取り見取りですよ。もしかして、理想が高いのです? っていう印象もないですし……うーん、不思議です」

「いやだわ、買い被っちゃ駄目よ。あたし、お姉ちゃんとは違うんだから」

「そんなことないですよ。ななちゃんは私の自慢の妹ですから、どこに出しても恥ずかしくない花嫁さんになります。世の男性が殴り合ってでもななちゃんに告白しにくるような気がします」

「『殴り合って』って、なかなかお姉ちゃんが言わないような言い方したね」

「世の男性がお殴りになる、なられる」

「丁寧といえば、だけど……」

「ななちゃん、いい人に巡り合えるといいですね。私もそうですし、お父さんもお母さんも楽しみにしてますから」

「頑張っては、みるよ……」

 二十六歳になり、『結婚』に関する台詞はよく耳にするようになったが、言われる度に、名苗はなんだか惨めな思いに駆られている。それを紗那に言われれば言われるほど、落ち込んでしまう。

 崩れて地面に溶けていきそうな気持ちをぐっと堪え、名苗は笑みを浮かべる。

「お姉ちゃん、寒いでしょ? ほら、息が真っ白。雲も厚いし、夜は雪になりそうね」

「雪の話はさっきしました。そうやってどうにかして話を逸らそうとしてます?」

「今なら肉まん買ってあげなくもないかな? どうするどうする?」

「でも、買っても私は食べられないのでしょう? お医者さんに止められてますから」

「……あーっ! 寒い寒い寒い寒い!」

 逆らうことのできない現実に抗うよう、両手をぶんぶんっ振りながら、喚き声を上げていった。

 じたばたっ。

「寒い! 寒いったら寒い! ほんとにもう!」

 ダッフルコートを羽織ってきたが、それでも体の芯から冷たさを感じてしまう。だとすれば、パジャマの上に同じようなコートを羽織っている紗那は相当寒いはず。外の広場へきたことは本人が望んだことだが、病人をこんな屋外に連れてきたのは、やはり失敗だったかもしれない。早く病室に戻らなければ。

 両足を踏み鳴らしながら、短いピッチで白い息を紗那に向けていく。

「ねぇ、そろそろ戻ろうよ。お姉ちゃん、このままだと、ほんとに風邪引いちゃうよ」

「戻りたかったら、ななちゃんだけ先に戻ってください。私はまだ平気ですから」

「……意地悪しないでよ」

「ふふふっ。いつもそうやって困らせてしまいますね。こういうところは反省しないといけないと思います。はい、反省」

「……してないでしょ、絶対」

「ななちゃん、お願いですから、もうちょっとだけゆっくりさせてください。だってだって、久し振りの姉妹水入らずなのですから、こうしてななちゃんと喋っているだけで嬉しくて嬉しくて。寒さなんて吹き飛んでいっちゃいました……っくしゅん」

「……くしゃみしてるよ」

「ふふふっ」

 それはいつだって変わることなく、紗那は今が一番楽しいと思えるほどの満点の笑みを携えている。視線をどこでもない虚空に向け、そこにかけがえのない輝きを見つめているみたいに。

「ななちゃん、覚えてますか? 夏休みにザリガニ捕まえにいきましたよね? あれ……? おかしいですね、もしかして覚えてないのですか?」

 紗那の首が大きく傾く。

「近所の男の子が捕まえていくっていうから、ついていったじゃないですか。自転車でそこの川を越えて、道路から用水路に網突っ込んで。バケツいっぱいになりましたよね。がさがさがさがさっ、真っ赤でした。ほんとに覚えてないのです? うーん……そうですか、私が小学生ってことは、まだななちゃんは幼稚園にいってたぐらいですものね、覚えてなくても仕方ないかもしれないですね」

「幼稚園って……なら、覚えてるわけないよ」

「ザリガニ捕まえに、またいきたいですね。今度はりおと三人で」

「なんでまた、いきなりそんな古いことを? それに、あたし、ザリガニなんて怖くて触れないよ。子供のときだって、無理だったんじゃないかな?」

「ふふふっ。ななちゃんだって目を輝かせながらザリガニ持ってましたよ。それも両手で。ダブルピースがさらにダブルでした。ああ、そういえば、指挟まれて『痛い痛い』って言ってましたね。ちょっと泣いちゃったりして。あー、懐かしいです。夏になったら捕まえにいきましょう。はい、約束しましたからね」

 にっこり。

「入院しててずっと暇ですから、なんかよく子供の頃を思い出すのですよね。田んぼで蛙捕まえては持ち帰って水槽で飼ったり、夏休みなんか網持って神社いって、どっちが蝉をたくさん捕まえられるか勝負しましたね。ななちゃん、転んで服汚しちゃって、一緒にお母さんに怒られました。あれは大変でしたね」

「ああ、蝉のことなら、なんとなく覚えてる。うん、あったね、そんなこと……なんかさ、男の子みたいだったね。元気に外を飛び回ってさ。人形遊びとか、ままごととか、ゴム跳びとか、女の子らしいことは全然しなかった。あたし、小学校に入って、友達と『蛙捕まえにいこう』って誘ったら、変な目で見られたから。『あれ? 遊ぶっていえば虫捕ったり、釣りしたりすることじゃなかったんだ?』ってびっくりしたもの」

「ふふふっ。ごめんなさいね、私ががさつなせいで、ななちゃんとは女の子っぽい遊びができなくて……」

「でも、いつの間にかそんなじゃなくなったよね。不思議」

「うーん……それ、なんとなくきっかけがあったのですよ。幼心に衝撃だったので、今でも鮮明に覚えています」

 変わらずに笑みを携えながらも、少しだけ表情を曇らせる紗那。

「男の子と野球やってて、いつの間にか男の子みたいに遠くに打てなくなっちゃったのです。あれは小学校四年生ぐらいだったと思いますけど。何回やってもボールが飛ばなくて……それで『男女の違い』ってことを意識しました。自分が力の弱い女の子だって思い知った気がします。それからですね、もう男の子と一緒に遊べなくなったのは。でも体を動かしたい欲求はあったから、陸上部に入ったのですけど」

「へー、そうだったんだー。あたしはお姉ちゃんが男の子と遊ばなくなったから、自然とそうじゃなくなったんだなー。けど、驚いた。お姉ちゃんは運動神経いいから、陸上部にはそれで入ったのかと思ってたけど、そんな経緯があったんだね」

「こういうの、なんか不思議ですね。普段はそんなこと意識しませんけど、こうやってゆっくり当時のことを思い返してみますと、結構覚えてるものですね。楽しかったこと、悔しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと……」

「昨日の夕食は思い出せないのにね」

「ふふふっ」

 吹いてきた風に、紗那は耳を覆う程度の短い髪を揺らしていく。凍えるほど冷たいはずなのに、そうあることもこの世界の楽しみのであるように、紗那の表情から笑みが消えることはない。

 紗那はゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐き出していく。その姿、深呼吸するようでもあり、心を落ち着けるようでもあった。

「ななちゃん、折り入ってお願いしたいことがあります」

 紗那の眼差しは真っ直ぐ名苗に向けられている。視線を受けているだけで、思わず喉が鳴る。

「ど、どうしたの、お姉ちゃん? そんなに改まっちゃって」

「りおのこと、ななちゃんにお願いしたいのです」

「り、りおちゃんのこと……? ど、どういうこと? その、急にどうしちゃったの?」

「私は、もう、こんなですから……りおのためにしてあげられることはありません。だから、ななちゃんにお願いしています。その……母親としては無責任な発言かもしれませんけど、こんなことをお願いできるの、ななちゃんしかいませんから」

 紗那の瞳が弱々しいものとなっている。そんな姿、名苗は一度として見たことがなかった。だというのに、そんな弱さが目の前にある。

「お願いします」

「ば、馬鹿なこと言わないでよ、お姉ちゃん。りおちゃんにはお姉ちゃんが必要よ」

 冗談ではない。あろうことか、愛娘のりおちゃんのことを託すだなんて、そんなの名苗の知る紗那ではない。

 名苗にとって紗那は、いつでも憧れの存在でいてもらわなくては困る。

「もうそんな寂しいこと、冗談でも言っちゃ駄目よ。悲しくなっちゃうじゃない」

「……ごめんなさいね、ななちゃんに辛い思いをさせてしまいまして。でも……でも、これが現実ですから、目を逸らすことはできません」

 紗那の残り時間は、あと僅か。それを当の紗那は知っている。ならば、ここで会話を中断するわけにはいかない。

「……自分のことは、自分がよく分かります。私にやれることなんてもう残り少ないですから……」

「お、お姉ちゃんは、りおちゃんの結婚式にドレスを着ていくのが夢なんでしょ? だったら、それを叶えないと駄目よ。しっかりして」

「ごめんなさいね、それもお願いすることになってしまいます」

「お姉ちゃん、こんなのもうやめて……」

 にこやかな表情は変わらないが、それでも命の終焉を悟る紗那に、その白く滲む微笑みに、名苗は言葉をつづけることができなくなってしまった。医師より事実を告げられているだけに、安易な慰めの言葉は相手を騙す意味合いを持ち、とても口にできない。

 けれど、だからといって簡単に諦めていい命ではない。最後の最後まで懸命になってもらわないと、名苗の好きな紗那ではない。

 でなければ、憧れの姉でなくなってしまう。

 紗那にはいつまでもあの紗那でいてほしい。

 だから、だからこそ、思いつく現状にとっての最適な言葉を紡いでいく。

 そうして会話をすることで、目の前にある命もつなげるように。

「りおちゃんのお母さんはお姉ちゃんなんだから、間違ってもそんなこと言っちゃ駄目よ。ってより、お姉ちゃんらしくない。お姉ちゃんはいつも自分のことは自分でやってたじゃん。何でもできちゃうのがお姉ちゃんなんだから。あたしの好きなお姉ちゃんは、いつだってそうよ」

 名苗が見上げていた紗那は、どんなこともできた。学校の勉強も部活の陸上も絵を描くことも歌を歌うことも……名苗にとって無敵の姉である。

 だからこそ、弱気な笑みは似合わない。

 そんな姿、見せてほしくない。

「あたしじゃ、りおちゃんのお母さんになれないよ。お姉ちゃんじゃないと。そんなのあたしに押しつけないで。お願いだから……」

「ごめんなさいね、変なこと言ってしまいまして。けど、けれど、見えない振りをしていても解決する問題ではありません。もちろん時間が解決してくれる問題でもありません。今の私がしっかり向き合わないといけないことなのです」

「…………」

「こんなこと、とても辛いことではありますけど……」

 寂しそうに視線を下げてから、紗那は思案するように二呼吸分の間を空け……口を開ける。どんなに胸を張り裂く苦しみを含んでいたとしても、逃げるわけにはいかない。

「ななちゃん、そんな深刻そうな顔しないでください。もうちょっと気軽な感じで考えていきましょうよ」

 自分の命について話しているのに、やはり紗那の顔から笑みが消えることはない。それはもちろん、それこそが紗那であるから。

「ななちゃんだって保険に入っていますよね? それと同じです。入っているからって保険に縋ってるわけじゃなくて、そういうものがあることで、安心して普段の生活を送れるようになります。万が一のことが起きても大丈夫なように。じゃなきゃ、こんなにいっぱい日本に保険会社があるわけないじゃないですか。そうではありませんか? 保険がなければ、誰も安心して車を運転できなくなってしまいますよ」

「そうだけど……」

 屁理屈にも似た話、それは紗那の特技であり、そう言われると名苗では言い返すことができなくなってしまう。どんなにこちらが正しいと思うことを主張したところで、紗那の話術によって最終的には納得させられてしまうのだ。

 それが現時点でも分かってしまうから、名苗は強く拳を握るしかない。

 断じて認めていい話ではないというのに。

「…………」

「ですからね、ななちゃん……そんなことはないと信じていますが、万一のことがあったときは、りおのことをよろしくお願いしますね。こんなこと、頼めるのはななちゃんしかいません」

 紗那は深々と頭を下げる。妹に対するものとは思えないぐらい深く頭を下げ、それからゆっくりと顔を上げた。

 そこにある紗那の顔は、これまでの雪の日のような冷たく静かな雰囲気とは違い、小春日の日差しのような心地よい笑顔を携えている。それこそが紗那の真骨頂であるように。

「来月には手術もありますし、ななちゃんとももっといっぱいお喋りしたいですからね、そう簡単には死ぬわけにはいきませんよ。でもってでもって、りおの結婚式、一緒に出席しましょうね。でなきゃ、死ぬに死にきれません。でも、その頃は私、すっかり……いや、あまり考えたくないですね」

「う、うん。うんうん。諦めちゃ駄目だからね。お姉ちゃんは凄いんから。いつもいつも凄いんだから」

「ふふふっ。名苗ちゃんの方が凄いですよ」

 やはり紗那の表情は、輝く笑みがよく似合っていた。

『お母さぁーん』

 建物の方から声がした。名苗が振り返ると、黄色いワンピースに真っ赤なジャンパーを着た女の子がこちらに大きく手を振っている。縛った髪を揺らしながら、元気いっぱいの紗那の娘、りおちゃん。母親がどういった状態であるか知る由もなく、世の中に辛いことなんてないと思わせる満面の笑み。両腕を大きく振って、地面を跳ねるようにして駆けてくる。

 そんな姿に、名苗はさきほど紗那から託された思いを胸に抱く。

『りおのことをお願いします』

 託されたのは、紗那に飛びついていった女の子の生涯について。背負うだけの力量が名苗にあるとは思えないが、目の前で紗那に抱きついている笑顔を見つめていると、『なんとかしなくちゃ!』と思えてくる。

 責任感に心の芯が凍るような思いとともに、着ているコートの裾を強く掴んでいた。

(…………)

 風が吹く。建物横にある葉のない銀杏の木が小さく揺れ、直後に名苗の背中まである髪の毛を大きく靡いていった。冬の冷たさはまだまだつづくのだろうが、春になればそれも終わる。に対し、抱く不安な気持ちは自身の存在を揺るがすぐらいとても大きなもので、終わりを見ることができない。けれど、それでもきっと冬の寒さが緩まると同様に、この気持ちをどこか遠い地へ吹き飛んでいるだろうと、実に都合のいい想像をして……今は紗那のいるこのかけがえのない時間を過ごしていく。

 今こそが、とても大事な時間であるから。


 名苗がどれだけ強く願ったところで、時間が止まることはない。それは残酷なまでに流れていき、世界に約定されているみたいに無情にも過ぎ去っていく。

 冬の厳しさが和らぎ、そろそろ春の足音が聞こえはじめた頃……桜の開花を待つことなく、紗那はこの世を去った。静かに、すっと消え去るようにして。

 享年、三十一歳。

 葬儀では、娘であるりおちゃんが祭壇の前で、命を削るように泣きじゃくる姿が印象的だった。忘れることができないほどに、胸に強く刻み込まれていく。

 きっと自分もそうできればいいのだろうが、りおちゃんほど大きな悲しみを抱くことはできそうにない。

 小さな体を震わせて、命の限りに泣きじゃくるりおちゃんを見つめ、その姿を目に焼きつける。


       ※


 紗那が亡くなってから四年が経過した。りおちゃんは小学六年生。

 十二月の第一週目。世間では徐々に年末年始に向けての賑やかさが目につくようになった。イルミネーションが夜を彩ることとなり、名苗が勤める会社近く駅前広場はとても華やかなものへと化している。いよいよ電飾が飾られた巨大なもみの木も設置され、早くもクリスマス色が世界を染め上げていた。

 そんな忙しなさに背中を押されるような平日の月曜日。残業なしの午後六時に帰宅すると、近所に暮らすりおちゃんが風邪を引いて家にきているという。りおちゃんの父親、お義兄さんは大学に勤めていて、研究のためにいつも夜は遅い。そのため、名苗の母親が家に連れてきたのだ。

 名苗は夕食を済ませ、お粥の載った盆を持ってりおちゃんの看病に向かう。

(熱は相当ありそうね)

 普段は両親の寝室であり、あまり華やかな色のない部屋の隅のベッドに横たわるりおちゃん。苦しそうに顔を真っ赤にさせながらも、しかし、部屋の照明を点けたまま、目を閉じることなくぼんやりと天井を見つめていた。学校を休んでずっと寝ていたため、眠れないのかもしれない。

 そんなパジャマ姿を見た瞬間、名苗の心が小さく圧迫された。『守ってあげなきゃ!』そう思うことは何度かあったが、その度に同じような緊張を得る。

 喉が大きく鳴っていた。ごっくん!

「こんにちは、りおちゃん。風邪引いちゃったんだってね。どう、起きられるかな? お粥持ってきたよ、食べよ」

「……食べたくない。食欲、ないから……」

「そんなの駄目よ、ちゃんと食べないとよくならないから。ほら、一口でもいいから」

「……いらない」

「無理してでも、ちょっと食べよう。ねっ?」

「……じゃあ、名苗さんに食べさせて」

 言ってから、かけ布団を口元まで引き上げるりおちゃんの仕草は、心がくすぐられる超絶なかわいらしさを有していた。『あらあら、仕方ないなー』と言いながらも、まんざらではない。心が弾む。

 名苗は、病人を前にして口元が緩んでいることに気がつき、小さく咳払い。

「今日のりおちゃんは、随分と甘えん坊さんだね。かわいい」

「そ、そんなことない」

「なら、自分で食べる?」

「それは……食べさせてほしい」

「まー、なんてかわいらしいのかしら!」

 目に星を散りばめながらベッド近くに椅子を置き、お粥を掬ったスプーンをベッドで上半身を起こしたりおちゃんの口元に運んでいく。個人的なサービスで『ふーふー』と息をかけると、より気持ちが高鳴る。ときめきが止まることはない。

 口を『あーん』するりおちゃんにスプーンを運んでいき、運んでいって、運んでいって、運んでいって……五回目になると、なんとなく鳥の巣の様子が思い浮かんだ。口を開ける雛に餌を与える母鳥のような心境である。

 六回目になると、りおちゃんは小さく首を横に振る。

「あれ、もう食べられない? ううん、無理しなくていいのよ。そうだ、りんごでも剝いてあげようか? スポーツドリンクもあるみたいだから、持ってきてあげるね。待ってて」

 一階の居間では母親が刑事ドラマを観ていた。名苗は台所でりんごを剝き、一ブロックを口に入れてはその味に頬を緩める。ガラスコップに常温で保管してあるスポーツドリンクを注ぎ、盆へ。零さないように慎重に運んで二階に戻ると、りおちゃんは仰向けのまま、天井を見つめていた。何もないそこに何かを見つめるみたいに。

「りおちゃん、りんごなら、食べられるよね。ちょっと摘んでみたいけど、結構甘かったから、食べやすいと思うよ。もしかして、また食べさせてほしい?」

「ねぇ、名苗さん……」

 その瞳は、とても遠くを見つめているよう。

「お母さんって、わたしと同い年のときはこの家に暮らしてた?」

「うん、そうよ。お姉ちゃんは大学進学のときに家を出たから、それまでは暮らしてたのよ。あたしと同じ部屋で、ずっと一緒に寝てたわ」

「そっか……お母さんって、小学校通っているとき、どんな感じだった?」

「お姉ちゃんか……それはもう完璧な人だったよ。なんたってあたしにとって自慢のお姉ちゃんだからね」

 五歳差なので、小学校では一年しか一緒でなかった。名苗はその貴重な期間の思い出を記憶から絞り出していく。近くでずっと見上げていた紗那のことを。

「お姉ちゃんは、やさしくて、頭がよくて、いっぱいいろんなこと教えてくれて、いっつも楽しそうで……うん、とにかく完璧だった」

 生徒会の会長をやっていたことや陸上部で県大会に優勝したこと。学校の成績もよく、いつも勉強を教えてもらった。それに、誰にでも好かれる印象がある。

 そんな紗那の遺伝子を持つ女の子が目の前に。少しだけ、切ない思い。

「きっとお姉ちゃんのいいところが、りおちゃんにも継がれたのね。かわいいし、頭もいいし。学校でも人気者でしょ? きっと陸上部で活躍してるんだろうな」

「そんなことない。お母さんは大会で優勝したって。でも、わたしはようやく決勝に出られる程度だから」

「決勝に出てるじゃない、凄いよー。あたしなんて、毎回予選落ちだったわ。あ、思い出したら、なんか落ち込むなー……あたしはあたしなりに頑張ったつもりでも、どうにもならなかったなー。やっぱり、りおちゃんはお姉ちゃんの娘なのね」

 そういった経緯もあり、名苗は陸上を諦めて高校では演劇部に入ったのである。挫折。

「早く風邪を治して、練習しないとね。いつ大会あるの? 休みの日だろうから、応援にいっちゃおうかな?」

「うん。頑張る。名苗さんのためにも頑張るね……あ、あの、名苗さん、お父さんは? もう帰ってる?」

「ああ、さっき電話あったよ。今日はまだお仕事してるみたいで遅くなるって。大変ね、大学の先生って。そう思わない? もう八時だけど、まだ仕事してるんだから。あたしなんて職場のみんなが残業してても、五時になったらすぐ帰ってきちゃうから。チャイムが鳴ったら即『定時ダッシュ』よ」

「うーん、凄いとは思わないけど……だって、遅いってことは、仕事するのに時間がかかってるってことでしょ? 学校でいうところの、居残り勉強してるようなものじゃない? ちっとも凄くないし、夜遅いのはいつものことだし……」

 どこか不貞腐れるように唇を尖らせるりおちゃん。りんごを二つ食べ、スポーツドリンクを半分飲んでから、ベッドに横たわっていく。変わらず赤い顔だが、さきほどよりは顔色がいい。

 名苗はりおちゃんの額に手を当てると、まだ熱かった。この分だと明日も安静にしていなければならないだろう。お義兄さんに小学校に連絡してもらわないといけない。代わりに名苗がしてもいいが、やはり親がすべきだろう。

「お義兄さん、いつも帰りは遅いの?」

「だいたいいつもわたしが寝る前。顔が見れないときもある」

「そう……それはちょっと寂しいね」

「朝起きると、お父さん、まだ寝てる。ランニングして帰ってくると、朝食作って待っててくれるけど。わたしが出てすぐ起きてるのかな?」

「なるほど、そういうさり気なさはさすがね。お義兄さんの作る朝はどんなメニューなの」

「普通の和食。ご飯とお味噌汁と……目玉焼きとサラダって、和食だっけ? あれれ?」

 りおちゃんは小鳥のように首を小さく傾げてから、何もない虚空に視線を彷徨わせていく……直後、その視線から力がなくなり、どこか弱々しい眼差しで名苗のことを見つめる。これまでにない神妙な顔つきで。

「……あのね、名苗さん、お願いしたら、叶えてくれる?」

「あらあら、今日はとことん甘えてきたね。かわいいりおちゃんの頼みには弱いからなー。うーん、困ったなー。よし、あんまりお金がかからないことだったら、叶えてしんぜよう」

「ほんと? ほんとにほんと? 絶対だから。約束したから」

「いや、まだ頼みも聞いてないから、約束はできないけど。ケーキの食べ放題でもいきたいの? あたし、太っちゃうなー」

「あのねあのね」

 りおちゃんは一瞬の間を置き、瞳に力を入れてから、素早く口を動かしていく。胸の前で両手を組み、その人生を懸けて懇願するように。

「あのね、お父さんと結婚してほしい」

 りおちゃんはそう言い切った。迷いなく、その願いが叶えられると信じて疑わないように。その言葉の影響なんてお構いなしに、ただ自分が望んだまま口にしていく。

「名苗さんがお母さんになったら、嬉しい。お父さんも喜ぶと思うし、わたしはもっと嬉しい! だから、結婚して」

「…………」

 熱のせいで真っ赤な顔をしたりおちゃんに告げられた言葉、そこに含まれる意味に……名苗はすっかり頭が真っ白になってしまった。

 間抜けにも口をぽかーんっと開け、視線がどこでもない宙を彷徨ってから……急激に焦点がりおちゃんに合っていく。

 声を出す前、意味なく手が震えてしまった。

 どぎまぎ。

「……お、お、お、お義兄さんと、あたしが結婚んんん!?」

「うんうん。お似合いだと思う。もしかして、名苗さん、お父さんのこと、嫌い?」

「き、嫌いってわけじゃないけど……」

 もちろん嫌いではない。高校生のとき、姉の紗那を取られたときはちょっとショックで、いやな思いもしたけれど……嫌ったことなんて一度もない。そればかりか、今では好意すら感じている。大学に勤めながらりおちゃんを育てていて、やさしくて、容姿もよくて……自慢の姉にはぴったりであったし、親戚としても鼻が高かった。『お義兄さん、大学の先生なのよ』と。

 ただし、好意は抱いているものの、だからといって『お義兄さんと結婚』となると話は別である。名苗が抱く好意は、断じて恋愛に発展するものではない。あくまでも『素敵なお義兄さん』である。

 名苗にとってお義兄さんは、大好きな姉の旦那に過ぎない。あの二人だからお似合いなのであって、名苗が横に並ぶなんてとんでもない。考えるだけでも、あまりに申し訳なくて思わず息が止まりそうになる。

(…………)

 四年前、まだ紗那が入院していたとき、余命の短さを察してりおちゃんのことを頼まれた。それには頷いたが、だからといって、実際に母親になるのは違う。

 少なくとも、そんな発想、名苗にはなかった。

 微塵も。かけらも。

 お義兄さんと結婚なんて、恐れ多くて。

「りおちゃん、馬鹿なこと言っちゃいけないよ。ああ、そうか、そうやって、大人をからかってるんだね? 今のは聞かなかったことにするけど……いい、冗談でもそんなこと言っちゃ駄目よ」

「どうして駄目なの? わたし、馬鹿なことも冗談も言ってないし、からかってるわけでもない」

 その眼差しは真っ直ぐなもの。世界に汚れたものなど存在していないと信じているように。

「名苗さんにお父さんと結婚してほしい。心からそう思ってる。そしたら、名苗さんがお母さんになってくれて、嬉しい。うんうん」

「本気で言ってるの?」

 りおちゃんが力強く頷いたことに、名苗はつい視線を横に逸らしてしまう。このやり取りを終えるうまい方法が見つからず、ほとんど破れかぶれで口を動かす。

「そ、そのためには、あれだよ、お義兄さん、お姉ちゃんと離婚しないといけないんだよ。それでもいいの?」

「あぐっ……!?」

 これまで考えもしなかったことを突きつけられたように、りおちゃんは忙しなく視線を動かす。首を右に、左に、右に、左に、また右に……刹那、ぴたっと視線が止まっていた。その瞳に覚悟の色を滲ませて。

「……そりゃ、お父さんとお母さんが離婚しちゃうのは、いや。いやだけど、名苗さんが再婚相手なら……いい」

「と、とんでもなく買われてるな、あたし。とてもじゃないけど、お姉ちゃんの代わりなんて務まらないよ」

「お母さんの代わりなんてしなくていい。名苗さんは名苗さんだからいいんであって、そんな名苗さんにお母さんになってほしいだけだから。どうどう? 結婚してくれる? それとも、お父さんじゃ駄目?」

「だ、駄目ってことはないけど……」

 風邪を引いて学校を休んでいる人間とは思えないほど輝かせた笑みは、とてつもない期待の眼差しを向けてくる。

 名苗は相手のことをまともに見えなくなった。『ど、どうしたものかな?』と困惑しつつも、自然と体が熱くなっていることに気づく。その頭は、このやり取りをうまく誤魔化すことしか考えていない。

 吐息。

「ほらほら、そんな冗談は、りおちゃんの風邪が治ってからでいいでしょ? まずちゃんと寝ないと。はい、おやすみなさい」

「わたし、真剣。そうやって逃げないでほしい。名苗さん。今のはちゃんと答えてほしい」

「駄目でーす、あたしは逃げちゃいまーす。じゃあ、また明日ね。お大事に」

「あー、名苗さーん!」

「おやすみなさーい」

 もう動かす足を止めることはしない。そそくさと立ち上がると、壁のスイッチで照明を消し、部屋を後にした。直後に、りんごとコップが載った盆を忘れていることに気がついたが……取りに戻るのは気が引ける。扉を背にして大きく息を吐き出し、ベージュ色のスリッパは階段を下っていく。

(……りおちゃんったら、馬鹿なこと言って。よりにもよって、お義兄さんと結婚なんて)

 そんなこと考えたこともないが、ただ、そうやって意識してしまうと……なんとなく、胸がくすぐられているようで、体温が上昇してしまう。

(あー、変なこと考えちゃ駄目。駄目よ、あたし)

 階段を下って、明かりの点いている居間へと入っていく。『さっきのは子供の冗談で、深く考える必要はない』そう自身に言い聞かせる。であれば、早く忘れるべきこと……しかし、今のやり取りが、胸の奥の方にしこりとなって残っていく。


 二時間後、申し訳なさそうにお義兄さんがやって来た。頭を掻きつつ、何度も何度も頭を下げて、耳の上で整えられた髪の毛が小刻みに揺れる。

 そんなお義兄さんを迎える名苗は、りおちゃんとのやり取りを意識してしまい、視線が合わせられなくなってしまう。こんなこと初めて。

(いやだ、もう、あたしったら、変に意識しちゃってる)

 お義兄さんの顔をまともに見られず、変な気持ちでいる名苗のことを見て、あの世で紗那がにっこり笑っている気がした。そう思うと、つい唇が尖っていく。

(もぉー……)


       ※


 名苗が三十一歳になった年、文蔵ぶんぞうと出逢った。運命というやつだったかもしれない。

 誰にでも真っ直ぐな眼差しを向ける人で、一緒にいると心休まる感じ。名苗のことも家族のこともよく考えてくれて、この人とだったら一緒になってもいいと思えた。

 ただ、名苗は紗那にりおちゃんのことを託されていて、成長を見守る義務がある。そのことを正直に告げると、文蔵はいやな顔せずににっこりと微笑んでくれた。『教育に焦りは禁物だ。子供とはともに歩んでいって、しっかり導いてあげることが大人には必要なんだ。俺たちがそうなろう』と拳を前に出して言ってくれたこと、胸が熱くなるほどに嬉しかった。『やはりこの人だ』そう思えるほどに。

 ただ、思春期であるりおちゃんのことは二人の間で大きな壁となり、なかなか踏み出せない。けれど、いつまでもそんな曖昧ではいられず、正直に自分たちのことを打ち明けなければ。そして、できることならりおちゃんに認めてもらい、祝福してもらいたいものなのだが……やはりそう簡単にはいかないだろう。

 けれど、そこから逃げるわけにはいかない。文蔵に巡り合えた今だからこそ、二人の関係を隠すことなく、正直に告げなければならない。

 勇気を持ち、りおちゃんと向き合うことを決めたのが、翌年の三十二歳の暑い夏の日のこと。そしてその日は結果的に、その行為を一晩中深く悔いる辛い日となってしまう。


       ※


 八月八日、月曜日。

 今日も今日とてお義兄さんは大学の仕事が遅いということで、名苗はりおちゃんの家に夕食を作りにいった。といっても、素麺を茹でて、買ってきたサラダにドレッシングをかけてテーブル中央に並べるだけ。隙間の多いテーブルを眺めると、もう少し精進しなければならないが、そう何度も思ってきているのであって、いつも思うだけで、こうした現状となる。

 吐息。

 冷蔵庫を開けたら刺身が入っていた。お義兄さんの夕食のためにりおちゃんが買ってきたものだという。少しだけもらって、サラダの上に載せた。

 簡単にではあるがりおちゃんと食事する席を設けたこと、今日の名苗にとってはとても重要なこととなる。なぜなら、勇気を持ってこの席で告白することがあるから。

 緊張の度合いは半端でなく、わざわざ胸に手を当てなくても心臓が高鳴っていることが分かる。会社の会議で挙手して発言するのなんて比較にならないほど、この夏一番の緊張であった。

 喉が大きく鳴る。ごくりっ。

 けれど、帯びている緊張を処理する前に、することがある。

 なんせ、暑いから。物凄く。

「……ねぇねぇ、りおちゃん、暑くない? もう夜なのに、いつまでも暑いのよね。エアコン点けないの?」

 台所の横には首の長い扇風機が回っているが、連日三十五度を記録するこの時期は、午後七時でも室温が三十度に達していた。さきほど火を使ったばかりということもあり、猛烈に暑い。

 帯びている緊張もプラスされて、会社の昼休みに冷房の部屋から太陽の下に出た瞬間ぐらい、もう気が苦しそうになるほどに暑い。頭がくらくらっしてしまう。

「点けようよ、エアコン」

「駄目。贅沢は敵。節約しないといけない」

「そんなこと言ったって、今しかエアコン点ける時期ないよ。今を逃したら、ただの壁の味気ないオブジェになっちゃうよ」

「あるからって使わなきゃいけないことはない。それに、わたしはもう慣れてる。気にならない」

「あたしは慣れないよー。気になるよー」

 昼間は会社の冷房が寒くて長袖を着ていることもあり、夏の暑さには弱体化している。大きな氷を入れた素麺を食べていても、体が熱せられていくよう。もう会社ではないのでファンデーションを気にする必要はないが、それでも崩れるのは気が引ける。いきなりお義兄さんが戻ってきたら、この上なく恥ずかしいことになるから。

 振り返ってみると、高校生の頃は汗が額から滴り落ちていたが、化粧を気にするようになった二十歳ぐらいから顔に汗を掻くことは少なくなった。自然と。けれど、さすがにこれほどの室温となるとその能力も怪しいものがある。目がパンダ状態になったら、りおちゃんに笑われてしまう。気をつけなければ。

 花柄のハンカチを取り出し、額に当てる。水色をしているから見た目は涼しげであるが、実際に涼しいわけではない。ハンカチは色が濃くなる部分があった。

(それにしても、こんな暑さにも慣れってあるんだー。さすがに子供は順応性が高いなー。あたしも中学生のときはこんなだったのかな? あ、そうか、冷房のない教室で授業受けてから、今よりは丈夫だったんだろうなー。うん、若さって偉大だ。『若さ』って言葉、宝物のように思えるよ。しみじみ)

 はち切れんばかりの若さ満点りおちゃんは、強烈な蒸し暑さも気にすることなく素麺を啜っている。背中まである髪の毛を後ろで一つに縛り、黄色いTシャツに横に黒線のある白色ジャージを穿いているのは、夕食後にランニングにいくから。トレーニングしていないと次の大会に挑めないのだとか。さすがである。昨年は一年生ながら、県大会で三位になったらしい。確実に紗那の才能が色濃く遺伝されている。

 名苗は冷えた麦茶を口に含み、一瞬の涼を得てから、またポケットから花柄のハンカチを出しては、首筋に当てていく。

「あー、暑い暑い」

 テーブルの下、膝よりもやや長いスカートをぱたぱたっさせることは行儀が悪いと分かっているが、やめられない。なんせ猛烈に暑いのだから。

 けれど、そんなことしていては箸を持てないので素麺が食べられない。扇風機がこちらを向いたタイミングで箸を持ち、垂れに入っている素麺を啜っていく。

 ずずずずずーっ。

「毎年思うけど、素麺は偉大よね。夏は食欲が落ちるのに、これならなんとかなるもんね。うん、間違いがない。あー、おいしいー」

 台所のラジオでは野球中継が流れていた。二人とも興味はないが、静かなのも落ち着かないので点けている。もちろん落ち着かないのは、重大な告白をしなければならない名苗が、であるが。

 試合内容は巨人が二点リードしていたところに、ホームランが出て四点差となっていた。ホームランが出た瞬間はアナウンサーの声が大きくなり、映像があるわけでもないのにぱっとラジオに目を向ける名苗。なぜ?

 開いている窓からは、じじじぃっという虫の音と直後に車のクラクションが聞こえてきた。近くに国道があり、もう少し深い時間帯になると走行する車の音が大きく聞こえるようになる。

 ふと窓の外に視線を向けると、空は間もなく茜色を完全に失うだろう。暑い八月とはいえ、夏至の頃に比べれば日が短くなった気もする。

 壁にかけられている振り子時計は、七時を少し回っていた。横にある電気屋のカレンダーは、水着を着たカバが海水浴をしていて、おいしそうにスイカを食べているイラスト。

 瞬間、頭上で光が閃くことに。

(明日はスイカでも買ってこようかな?)

 想像では一口目の甘さが口いっぱいに広がっていくようで、無性に食べたくなった。仕事帰りにスーパーに寄ろうと心に誓う。

「りおちゃんもスイカ好き?」

「……ご馳走さま」

「へっ……? あらあら、もういいの?」

 テーブル中央に置かれた素麺はまだ半分以上残っている。少し多め作ったこともあるが、しかし、成長期のりおちゃんはもっと食べられるはず。

「遠慮しなくていいのよ。お義兄さんの分は、また茹でればいいんだから」

「ううん。夏だから、あんまり食欲ない」

「そ、そんな……素麺が夏の暑さに負けるなんて」

「……意味の分からないところで敗北感を全面的に出してる名苗さん、ちょっとおもしろい」

 りおちゃんは、後ろで縛った髪を揺らしながら食器を流し台に運んでいった。蛇口を捻って、自分が使った食器を洗っていく。この辺りが、母親のいない娘のしっかりしたところなのだろう。名苗も見倣わなくてはならない。本来なら、名苗こそりおちゃんの見本にならなくてはならないのに……その道は険しい気がする。なんといっても実家に暮らしている最大のポイントは、毎日母親が台所に立ってくれること。その誘惑、どうしたところで抗うことはできない。

(にしても、りおちゃん、食べるの早いよ)

 昼間会社で考えた予定では、食事の席でりおちゃんに大事な話を打ち明けなければならなかった。なのに、まさかあんなにも早く食べ終わってしまうなんて。

 だがしかし、りおちゃんはまだランニングにいっていない。打ち明けるのはランニングから帰ってきてからでもいいが、後回しにしては逃げている気がして、待っている間に勇気が萎んでしまうだろう。

 やるなら、今。今である。

(……よし)

 心の中心に思いを集中させてから、ぐっと息を止めた。内容が内容だけに、なるべく相手を刺激しないように心がけて、声をかけていく

 まずは本題から外れた箇所からアプローチ。

「ねぇねぇ、りおちゃん。『改めて』とか『今さら』ってことになるんだけど、あたし、りおちゃんのこと、まだ『りおちゃん』って呼んでていいのかな?」

「どういうこと……?」

 タオルで拭いていた手をぴたっと止めて、心の底から驚いているように目を丸くするりおちゃん。狭い台所を素早く移動して、名苗の横に立つ。

「わたし、名苗さんに変なこと言った? だったら、謝る」

「違う違う。りおちゃんがどうだってことはないよ。そんなんじゃなくてね、えーと、その……前々から思ってたの。りおちゃんももう中学二年生でしょ。そろそろあたしが『りおちゃん』ってのもどうかなって思って」

「中学二年生だと、呼び方変えなくちゃいけない? わたしは気にしない。だから、名苗さんも気にしなくていい。そのままでいいし、そのままがいい。じゃなきゃ、名苗さんじゃない」

「そう? いつまでもあだ名じゃなくて、ちゃんと名前で呼んだ方がいいんじゃないかなって思ったんだけど。」

「うーん……そういえば、どうしてこういう風に呼ばれるようになった?」

 小首を傾げるりおちゃん。視線を宙に彷徨わせているが、思い当たる記憶に辿り着かないようである。

 そんなりおちゃんに経緯を教えてあげようと唇を開いた瞬間、名苗の頭上に疑問符が浮かぶ。

(……あれ?)

 あだ名の由来について覚えているつもりでいたが、口に出そうとして、思い当たるものが何もなかった。

(どうしてだっけ?)

 当時幼かったりおちゃんが思い出す可能性は極めて低いだろう。とすると、なんとしても名苗が思い出さなくてはならない。でなければ迷宮入りになってしまう。

 自分にプレッシャーを与えるように頭を指でつついて刺激を与えて……両手で乱暴に探っていた記憶の水槽に、思い出そうとしていた記憶を掴むことができた。

「ああ、そうそう、逆さ言葉に嵌まってたのよ。りおちゃんじゃなくて、お姉ちゃんがね。覚えてないかな? 暫く『ケチャップ』のこと『ぷっちゃけ』って言って、『ぶっちゃけ』みたいな感じでお姉ちゃんが使ってるの」

「うーん……そんなことあった?」

「あったの。それでりおちゃんも真似してね、自分の名前を言ったときに、お姉ちゃんが『それもかわいいね』ってことで『りお』って呼ぶようになったの。あたしはそこに便乗して今に至るわけ」

 あの頃は紗那と二人、りおちゃんをいろんな場所に連れ回した。どこにいっても三人でいれば楽しくて、世界から祝福されているみたいに日々が輝いていた気がする。

 けれど、もうあの三人が揃うことはない。

 小さかったりおちゃんは中学二年生となり、成長とともに、線の細い顔つきが紗那に似てきている。

 そんなりおちゃんに、名苗は今からりおちゃんがいやがることを口にしなければならない。

 気が重い。

(…………)

 とてつもなく気が重いが、目を逸らすことはできない。相手が紗那から託されたりおちゃんだからこそ断じて逃げることなく、正面から向かっていかなくては。

 心の中心に、決して壊れることのないダイヤモンドの強度を用意した。

「それでね、りおちゃん、今日は話しておきたいことがあるの。ちょっとそこに座ってくれないかな?」

「……いや」

 ここまで和やかに話していた雰囲気が一変。りおちゃんが強く首を振って、流れを切る。

「聞きたくない。名苗さん、聞きたくないこと言おうとしてる。そんなの絶対にいや」

「ど、ど、どうしてそう思うの?」

「名苗さんの声が弱くて、ちょっと震えてる。名苗さんがそういうとき、わたしにそういうことを言うときだから。料理が失敗したときとか、ぬいぐるみを汚したときとか……お母さんが死んだときとか……」

「……この子、さすがはお姉ちゃんの遺伝子を受け継いでいるだけあるわね」

 母親の紗那も勘は鋭かった。服を汚したとか借りていたものをなくしたとか、名苗が後ろめたい思いがあるとき、すぐばれた。ただ、そうやって知られてしまうからこそ紗那には相談に乗ってもらい、問題を解決できたが。

「じゃあ、なんとなく分かるなら、話が早いわね。聞きたくないかもしれないけど、真面目な話だから、しっかり聞いてほしい」

 こほんっと咳払い。

「あたしね、文蔵さんと結婚しようと思ってるの。具体的な日取りはまだ決めてないけど……りおちゃん、祝福してくれる?」

「…………」

「結婚、あたしもようやくできるみたい。祝福してくれるでしょ?」

「…………」

「りおちゃん?」

 顔を覗き込むと、りおちゃんの唇が小さく震えている。ぶるぶるぶるぶるっ、と。爆発せんばかりの感情を必死になって抑え込むように。

 そんなりおちゃんの姿、逆鱗に触れるようで、空気を読むならこれ以上この話をつづけるべきではないのだろうが……しかし、名苗だって譲れない。ぶつかること覚悟で言葉をつなげていく。どれだけ衝突する事態に陥ったとしても、今を譲るわけにはいかない。

「あたしね、絶対幸せになる自信があるんだ。お姉ちゃんたちがそうだったように、あたしだってきっと」

「…………」

「だから、ねっ、りおちゃんには祝福してほしい」

「……そんなの」

 下げていた顔を勢いよく上げるりおちゃん。その瞳に光るものを溜めながら。

「祝福なんて、するわけない! なんで名苗さん、あんなやつと結婚する!? 信じられない!?」

 名苗の結婚という事実を吹き飛ばさん勢いで激昂するりおちゃん。感極まった顔を背けるように後ろを向いたと思うと、玄関に足を向けていく。もう聞く耳を持たないとばかりに。

 そんな急変化に、名苗は自分にこんな反射神経があったのかと驚くぐらい、素早く反応した。

「りおちゃん!」

 声を荒げながら、出ていこうとするりおちゃんの腕を掴む。ここが勝負。この場を逃したら、もう次はない。多少心を鬼にしても、りおちゃんをこの場に留めなければ。

「真剣なの! 文蔵さんは、りおちゃんが卒業するまで待ってくれるって言ってくれてる。だから、あたしたちのこと、認めてほしい。お願い」

 文蔵は、りおちゃんが学校を卒業するまで待ってくれる。二人が結ばれるのはその後でいい、というのが名苗たちのけじめであった。りおちゃんのことを一番に考えて、そう決めたのだ。

 けれど、ここに大きな溝があっては交わることのない平行線を進むよう。そんなの幸せにはなれない。自分たちが笑顔になるには、交わりを拒んでいる溝に橋を架け、触れ合えるようにならなくてはならない。

 でないと、りおちゃんの幸せと自分の幸せがたがえてしまう。

 そんなこと、断じて望みはしない。天国にいる紗那だって望まないだろう。名苗はりおちゃんのことを託されている、ならば、りおちゃんを悲しませることをしてはならない。

 名苗が幸せになるためにも、りおちゃんが幸せになるためにも、歩み寄っていくべき。決して妥協することなく。

「あのね、りおちゃん。文蔵さんは、りおちゃんのことも大切に思ってるよ。だから、りおちゃんがいやなら、なるべくそうしてあげるように努力するよ。するけど、でも、できることなら仲よくしてほしいな」

 名苗たちの門出とともに、一緒に歩んでいってほしい。

「今度さ、一緒にどっかご飯でも食べにいこうよ。そうしよう? あたしとりおちゃんと文蔵さんの三人で」

「冗談じゃない! あんなやつとご飯だなんて、死んだ方がまし!」

「りおちゃん!」

 世の中には言っていいことと悪いことがある。母親の死を経験しているりおちゃんが、『死』という言葉を口にしたこと、断じて見過ごすわけにはいかない。

「お願いだから、そんな悲しいこと言わないで。あたしはりおちゃんのこと、大切に考えてるよ。りおちゃんのために、いっぱいいっぱい努力するよ」

「だったら!」

 視線を下げたりおちゃんは、小さく唇を噛んだと思うと……一気に感情を爆発させる。瞳から溢れる涙を弾かせながら。

「わたしのことを大切に考えてくれてるなら、お父さんと結婚して!」

「それ、は……」

「お父さんと結婚してくれるって、前に約束した!」

「いや、約束は……そんなことは、ないよ。うん、約束はしてない」

 願いをされたことはある。それも何度も。けれど、一度として首肯した覚えはない。だから、約束なんて話はないが……ただし、名苗の返答としては、その場を誤魔化す曖昧な対応しかしておらず、はっきりと否定せずにきた……あの半端な態度が、いつの間にか、肯定を意味することになっていたのかもしれない。

 だとすると、はっきり伝えなかった名苗に責任。りおちゃんを苦しめている原因は、名苗なのである。

「…………」

 心を落ち着けるように、一度空気を吸ってから……張っていた肩から力を抜くように息を出す。

 自身の脈動の周期は、自分をおかしなものに変貌させるほどに乱れていた。

 今後、悪いことが起きる予感が渦巻いていく。けれど、もう後戻りできない。

「あ、あのね、りおちゃん……ごめんね、あたし、お義兄さんとは結婚できない。そのつもりもない。あたしが結婚したいのは、文蔵さんなの」

「そんなのいや!」

「りおちゃん……」

「いやったらいや!」

 りおちゃんは、掴んでいた名苗の手を乱暴に振り解いたと思うと、後ろで縛った髪の毛を振り乱していた。その激しさが、感情の乱れを示している。

「そんなの絶対認めない! 名苗さんが結婚するのはお父さんなんだから!」

「…………」

「名苗さんはわたしのお母さんになるんだから!」

 言うが早いか、空間に涙を弾かせたりおちゃんは、玄関に駆けていった。直後に、玄関の扉が、ばたんっ! と大きな音を立てる。

(…………)

 残される名苗。残像として空間に残る、涙の散ったりおちゃんの表情に、その感情の強さに、心が深く抉られていくばかり。

 出ていったりおちゃんを追いかけるどころか、その場から動くこともできなかった。ここで動けなかったことを、激しく後悔することになるとも知らずに。

(…………)

 今日という日が、名苗とりおちゃんの新たな出発になる予定だったのに……説得に失敗した。そのまま喧嘩別れのように出ていったりおちゃんに、さらには、そんなことをさせた自身の存在に、激しい罪悪感が募っていく……今はただ、視線を下げて定まらない焦点でどこでもない虚空を見つめるのみ。

 頭は白濁しており、存在自体が不安定に。小さな力が加わるだけで、砂の城みたいにぼろぼろっと崩れていってしまいそう。

(…………)

 こんなはずではなかった。

 もっとうまくやれるはずだったのに。昼間に仕事をしているときから、今夜のりおちゃんとのやり取りを何度も何度もシミュレーションして、最後にはりおちゃんと笑顔で抱き合い、結婚を祝福してもらう予定だったのに。

 あろうことか、『最悪』と呼ばれる結果となってしまった。

(…………)

 名苗は身動きすらせずに、ただ今は椅子に腰かけたまま。視線を上げることができず、さきほどのやり取りを何度も脳裏で繰り返しては、胸の痛みが増殖していく……気がつくと膝の上に置いた手がぷるぷるぷるぷるっ、震えていた。

 首筋から背中にかけて、尋常とは思えない汗が流れていくのに、心は凍りついたように感覚がなくなる。

(…………)

 また一つ自分のことが嫌いになった。これまでずっと、こういう人生を歩んでいる気がする。

(……りおちゃん)

 ぼやけていた視界が時間とともにゆっくりと色を取り戻していき……テーブルの上には素麺が残っている。けれど、もうそこに箸が伸びることはない。今はただがっくりと全身を脱力させて、椅子に座り込むのみ。

 ラジオからは、変わらずに野球中継が流れていた。その中継を楽しみにする人間なんて、この台所にいないというのに。

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