第3話
この夜をまどろむ
※
午後九時。
りおちゃんが出ていってから、もうすぐ二時間。名苗は家に帰ることなくずっとこの台所で待っていた。戻ってきたりおちゃんと、もう一度話をするために。
テーブルの上、食器がそのままになっているのは、それを片づけるだけの余裕がなかったから。
「……っ」
名苗の耳がぴくりっと動く。玄関の方から音がした。がちゃっ。扉が開かれた音。
扉の音と連動していたみたいに、名苗は立ち上がると、スリッパ音を響かせながら玄関に向かっていく。
「りおちゃん!」
「……あれ、名苗さん?」
名苗の予測したTシャツにジャージ姿は、玄関に存在しなかった。代わりに、半袖のワイシャツ姿がある。今は名苗の姿を見て目を大きくしているお義兄さん。そんな驚いた表情も一瞬のことで、革靴を脱いで隣の棚から黒いスリッパを出している。
「いらっしゃい。また遊びにきてくれたんですね。ありがとうございます」
「ああ、いや……その、お義兄さん、その辺で、りおちゃん見ませんでしたか?」
「あれ、いないんですか?」
「あ、あの……」
気まずさが自身を雁字搦めに縛りつけていくよう。けれど、りおちゃんがまだ戻らない以上、黙っておくわけにはいかない。なぜなら、相手はりおちゃんの父親であるから。
「すみません、実は……」
こんな現実を作り上げたのだ、名苗は今すぐにでも消え去りたい心境だった。
「そうですか、あの子がそんなことを……」
テーブルの前、汗を掻いた麦茶のグラスを前にして、お義兄さんは小さく息をつく。
「名苗さんのことが好きでしたからね、結婚はショックだったかもしれませんね」
「……すみません、あたしが悪いです」
「いえいえ、自分を責めることなんてありませんよ。おめでたい話なんですから、名苗さんに非はありません。ただ、あの子にとって名苗さんは母親みたいなものでしたから、それを奪われるような感じがして、ショックだったのでしょうね」
お義兄さんは上半身を捩じり、居間にある写真立てを見つめた。そこには耳を覆う髪の毛をそっと手で押さえた紗那が微笑んでいる。世の中に楽しいことがたくさん溢れているかのような笑み。
「考えてみますと、紗那さんが亡くなって、あの子には随分と寂しい思いをさせてしまいました」
お義兄さんは仕事の都合でいつも夜遅いので、りおちゃんは誰もいない静かな家に帰宅する。買い物にいって、夕食の準備をして、部屋で一人だけの食事。これまで寂しさを口に出すことがないのは、りおちゃんの強さなのだろうが……どれだけ強い子であろうと、りおちゃんはまだまだ心も体も未熟な中学生、本音の部分では家族団欒という姿に憧れていたに違いない。
「いけませんね、父親である僕が、しっかりしなくてはいけなかったのですが……名苗さんにも迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません」
「そんな、迷惑だなんて。その、『本当の娘』っていうのは、娘がいないから分からないですけど、でも、りおちゃんにはそういう気持ちで接してきたつもりです。なんて台詞は、なんとなくもう会えなくなるような気がするので、なんですが……これからだってりおちゃんとは一緒にいたいです。だって、大好きなお姉ちゃんの娘ですから」
紗那から託された思いがある以上、それを果たさなければならない。りおちゃんの成長を誰よりも近くで見守り、りおちゃんの結婚式に出席して、紗那の分まで祝福する。
「けど、あたしが結婚することで、りおちゃんに辛い思いをさせてしまうなら、考え直さないといけないかもしれません」
「いえいえ、そんなことを気にする必要はありませんよ。名苗さんが幸せになることは、あの子だって願ってることですから。今回はちょっと、いきなりのことで、どうしたらいいか戸惑っているだけですよ」
「でも……」
「問題は名苗さんじゃなくて、僕なんです。僕がもっとしっかりしないといけません。反省です。つい仕事のせいにして、あの子に寂しい思いをさせてしまいました。あの子、弱音なんて吐かないですから、つい甘えてしまって……考えてみれば、今は思春期ですよね。多感な年頃で、気持ちが不安定になることがいっぱいあるはずです。そこに名苗さんの結婚話ですからね……やはり母親がいないのは考えるものがあるのでしょうか?」
「…………」
お義兄さんの話に、少しだけ暗い気持ちになることとなる。話の流れが、『再婚』に向かっている気がして。ずっと紗那の旦那でいてくれると心のどこかで考えていたのに。
それに関連することだが、名苗はりおちゃんとのやり取りで、お義兄さんとの結婚話を持ち出されたことは秘密にしていた。ここまで冗談と受け取り、お義兄さんには一度も話していないのである。そんなことを言って、お義兄さんを困らせるわけにはいかないので。
しかし、りおちゃんのためを思うと、名苗よりも新しい母親が必要なのだろう……意を決するというか、話の流れに乗るようにして、問いかけていく。
「あの、失礼な話ですけど、その……お義兄さんは、再婚は考えていないんですか?」
「再婚ですか?」
お義兄さんは小さく首を傾げたが、一切考える様子なく言葉をつなげていく。
「はい、気がないですね。まったく。そういう出逢いもないですし」
「大学で、そういったことはないんですか?」
「はははっ。大学にいるのは、学生か教授ぐらいですよ。学生たちの出逢いはたくさん見てきましたし、僕たちの出逢いも大学でしたが、この年になるとそんな浮いた話ができるような人になかなか出逢わないですね。名苗さんみたいに、会社に勤めているなら別かもしれませんが……って、すみません、余計なことを言いました」
お義兄さんは、会社勤めである名苗が未婚であることを察し、口を閉じた……と、次の瞬間、胸の前で小さく手を打つ。『再婚』という言葉に関連した何かを思い出したように。
「そうそう、そういえば入院してるときだったかな? あの子に『名苗さんと再婚しろ』って言われましたよ。はははっ。今回の件といい、やっぱり名苗さんに紗那さんのことを求めているのかもしれませんね」
「へっ……?」
時が止まったよう。名苗の目が点になっている。
「り、りおちゃん、お義兄さんにもそれを言ってたんですか?」
「ということは、名苗さんにも言ってたみたいですね。はははっ。あの子、どうしても僕と名苗さんを結びつけたいみたいですね……ああ、僕のことはお構いなく。僕は僕で、なんとかしますから」
「……すみません」
「いえいえ、そうやって謝られると、告白もしていないのに振られた気分になりますね」
「すみません、そんなつもりはないですけど……ほんとに、すみません……」
この件に関し、名苗に罪意識や罪悪感といったものはないが、今は『すみません』という言葉を伝えないといけない気がした。
「あの、お義兄さんにはお義兄さんに似合いの人がきっと現れるはずですよ。あたしじゃなくて、もっと素敵な」
「……あれ、やっぱり振られてます?」
「ううんううんううんううん。そ、そういうことじゃなくて、ですね……あー、もー、あたしったらー」
「はははっ。すっかりパニックですね。本当に僕のことはいいですから、名苗さんは名苗さんの幸せを求めてください。じゃないと、僕たちのせいで名苗さんを困らせているみたいで、紗那さんに怒られてしまいます。『かわいい妹をいじめないでください』って」
お義兄さんは振り返った先に立てかけてある紗那の写真を見つめてから、その視線を振り子時計に向ける。瞬間、表情を鈍らせていた。
「にしても、ちょっと遅いですね」
「そう、ですね……」
時刻は午後十時。七時過ぎに出ていったランニングから戻ってくるには遅過ぎる。いつもはせいぜい一時間ぐらいなのだから。
(…………)
現状は、心が細くなるほどに心配となる。
大切なことが書かれている紙から、どんどん大切な文字が消えていくような不安を得てしまった。
「……あの、あたし、心配ですから、その辺を捜してきますよ」
「ああ、いいですいいです。しっかりしてる子ですから、大丈夫ですよ。名苗さんが心配するようなことにはなりませんから。そんなことより、もう遅いですから、家までお送りしますね」
「そんな、りおちゃんが戻ってきてませんから、せめて戻ってくるまで待たせてください。あっ……」
『もしかしたら名苗がいるから、りおちゃんが戻ってこないのではないか?』という事実に思い当たり、視線が下がっていく。
「……あの、すみません、やっぱり帰ります」
「名苗さんを送ったついでに、僕がその辺を捜しますので安心してください。見つけたら名苗さんに連絡させますから。まったく、心配かけていけない子ですね」
「よろしくお願いします……」
もうここに居座っているわけにもいかない。後ろ髪を引かれるように部屋を出て、名苗はお義兄さんに送られて徒歩十五分の距離を歩いて自宅に帰っていく。
不安な気持ちを押し殺しながら。
暑い夏の夜ではあるが、今は蒸し暑さにあまり不快な気持ちを抱くことはなかった。
家に帰ってからも、心のざわめきが消えることはなく、かといってどうすればいいかも分からずに……縋るように、りおちゃんの年代に詳しい文蔵に電話した。
すると、文蔵はすぐ飛んできてくれるということで、電話から三十分後に外で会い、一緒にりおちゃんのことを捜すことに。
まずは徒歩五分のところにある夜の
足を南方に向けて、最寄りの地下鉄の駅までいってみる。ファーストフードやゲームセンター、本屋やコンビニなど、まだまだ明るい駅前の道を捜してみたが、見つからない。似たようなジャージ姿も見かけたが、りおちゃんではなかった。
その後も学区周辺のいろんな場所を捜してみたが、りおちゃんは見つからなかった。そろそろ日付が変わろうとしているのに。
『やっぱり名苗さんは家にいてください。もうちょっとしたら、俺も帰りますので。大丈夫ですよ、けろっとしてますって。中学の頃って、こうやって親を困らせませんでしたか? 俺はこんな感じでよく親に怒られましたね』
そう言われると、名苗もたくさん親に心配をかけたので、ちょっと帰りが遅くなるぐらい大したことではないように思えるが……けれど、そのきっかけを作ったのが名苗である以上、やはり心配であると同時にずしりっと重たい責任を感じてしまう。これでもし取り返しのつかないことになってしまったら、もう生きていけない。
なんせ、紗那に託されたりおちゃんを、あろうことか名苗が不幸にするかもしれないのだから。
『俺はその辺をもう一回りしてから帰りますよ。明日も仕事ですよね、早く帰って休んでください』そう言って街灯に照らされる薄暗い道を駆けていった文蔵を目で見送り、名苗はとぼとぼと帰宅する。帰ると普段ならとっくに眠っている母親が出迎えてくれて、まだお義兄さんから見つかったという連絡はないという。
見通しが不安定な現状に、名苗は胸の奥底から、黒いもやもやしたものが徐々に自身を染め上げていく気持ち悪さを得てしまった。
汗で全身が気持ち悪い。シャワーを浴びてみたものの、靄がかかるような頭はすっきりすることはなかった。
吐息。
半袖の寝間着に身を包んで二階の部屋に向かう。
ベッド脇にある時計を見ると、午前一時になっていた。
まだりおちゃんが見つかったという連絡はない。
「…………」
楽観的に考えてみると、りおちゃんは気まずくて家に帰れず、友達の家に遊びにいっている確率がある。だから、りおちゃんの友達の家に片っ端から電話をすればいいのかもしれないが、日付が変わったこの時間では不謹慎であるし、それ以前に電話番号を知らない。お義兄さんや文蔵に頼めばなんとかなるかもしれないが、やはり時間が時間だけに気が引けた。
せめて安否が分かれば安心できるのに。
ただ、お義兄さんも言っていた通り、りおちゃんはしっかりしている子。自分からおかしな道を選ぶことはないと信じているので、そういったことに関しては心配していなかった。
けれど、りおちゃんのことを信じていても、悪意はりおちゃんに関係なく向かってくる。夜の道を歩いていて、いつその毒牙にかかるかもしれないと思うと……胸が引き裂かれそうになる。
帯びている絶頂な不安に、冷たい汗が脇の下を流れていくこと、止めることはできない。
(りおちゃん……)
最後に見た姿は、激情に身を委ねるように声を荒げ、その直後に浮かべたりおちゃんの泣き顔。泣いていた。りおちゃんのあんな姿を見たのは、紗那の葬儀以来である。それぐらい、自分と文蔵の結婚を反対する気持ちは大きなものだったのだろう。そんな思いをさせてしまったことに、胃が縮こまるほど強烈な罪悪感を得てしまう。
心が凍って深い底へと沈んでいくよう。
(…………)
ベッドの上でやきもきしていたところで、問題が解決することはない。できることがないなら、明日に備えて今は休むしかない。りおちゃんの無事を信じて。
目を閉じる。
(…………)
こうして横たわっているのはいつもと同じベッドで、いつも通りの仰向けなのだが……落ち着かない心情では、聞こえてくる秒針の音が、心臓の鼓動を乱していく。
かちかちかちかちっ。
どくどくどくどくっ。
乱れている胸の鼓動は、わざわざ手を当てなくても如実に伝わってくる。
(…………)
現状、まだりおちゃんの無事を確認できていない。狂おしいほどに、存在が不安定になってしまう。
(……駄目だ、寝よう)
やはり、今は眠ること、それが名苗にとっての最善である。ただ、りおちゃんが失踪したのに、こうして眠ることしかできないなんて、あまりに惨めに思えてしまう。ずっと紗那の後ろに隠れていた名苗は、やはり何もできずに誰かに縋ることしかできないのかもしれない。
(…………)
今にして考えてみると、この問題に文蔵を巻き込んだこと、申し訳なかった。あの時はどうすればいいか分からず、不安に潰される思いから逃れるように文蔵に連絡したが、これは名苗が解決しなければならない問題。だというのに、文蔵のことを巻き込んでしまった。
本当に、情けない。
(……あー、やっぱり駄目だ)
自分が起こした問題、その決着を確認しないままに眠ろうとしているなんて……気持ちが昂っている現状ではできそうにない。同時に、不安の波が奥底から自身を呑み込むように襲ってくるのを、このままベッドの上にいては受け止めることもできそうになかった。
もし、りおちゃんが何か事件に巻き込まれていたらどうしよう?
この夜、取り返しのつかないことになったら、もう一生紗那に顔向けできなくなってしまう。
荒れる心には、真っ黒な不安が募る一方。
(……いこう)
目を開けた。上げた瞼は少しも重たくなかった。
蒸し暑い部屋で、就寝する際は扇風機を回しているが、冷房はかけていないので、全身が汗でぐっしょり。しかし、今日はいつもと違って、暑さでない要素の汗が、大半を占めていることだろう。
体が重い。
上半身を起こした。体を捻って、ベッドから立ち上がる。静まり返っている家にスリッパの音を響かせながら、一階の風呂場へ。汗を流す程度に軽くシャワーを浴び、夜遅いのでドライヤーを使うことができずに、居間の扇風機で髪の毛を乾かしてから……さすがにパジャマで出ていくわけにはいかずに、部屋に戻って着替えることに。
(…………)
下着を身に着ける際、伸びていた手が止まった。箪笥の下着から取り出そうとして、視線は未開封の新品に向かっていく。ビニールを見つめて、手に取った際の『ざかざかっ』という音に、はっと我に返る……手を引っ込めて手前にあった下着を身に着けた。今まで自分がしようとしていた行為に大きな疑問を抱きながら、紺色の半袖ワンピースを着込んで玄関に向かう。
そんな名苗の気配に気づいたのだろう、寝間着姿の母親が起きてきた。『どうしたの、こんな遅くに?』そう声をかけてくる母親は、眠そうな顔をしていなかった。まるで名苗同様に一睡もしていないみたいに。
そんな母親に、名苗は心配かけないようににっこりと微笑む。もう親に縋るような子供ではない。起こした問題は自分が解決しなくては。
「やっぱり心配だから、ちょっと見てくるよ。お母さんは休んでて。お父さんにまで心配かけたらいけないし」
急いでサンダルを履いて家を出ていった。ついてこようとした母親をどうにか留め、住宅街の薄暗い夜道を歩いていく。
(…………)
一定の間隔で街灯が照らす夜道は歩く分に支障はないが、けれど、静けさは不安な気持ちを煽るようであった。夜のしじまを縫い、サンダルの音が反響する。二階建ての多い住宅街を抜けて角を右折する際、頭上にある街灯には虫が集っているのが見えた。包まれる空気の湿度は濃く、今日も蒸し暑い。進める歩は、背中を強く押されるように回転が早くなる。
普段なら徒歩十五分かかるところを十分で、病院近くにある四階建ての宿舎に到着。南方のベランダ側から見上げた建物は、ほとんど真っ暗であるが、しかし、最上階の一番西側のベランダには明かりが灯っていた。
その光を目にした瞬間、名苗の心臓が大きく跳ね上がる。
宿舎にはエレベーターがないので、コンクリートの階段を上がっていく。かつっ、かつっ、かつっ、かつっ、サンダルの音は、コンクリートの壁に反響する。
四階の401号室前、丸ボタンのインターホンを押すと……瞬間、自分が化粧をまったくしていないことに気がついたが、現時点ではどうすることもできない……すぐ扉が開いてお義兄さんが顔を出した。
「あれ、忘れものですか?」
「あ、あの、りおちゃんは帰ってます?」
「いえ……まだですよ」
口を結んで、お義兄さんは小さく首を横に振っていた。
「まったく、名苗さんに心配かけて、いったいどこにいってしまったんでしょう? どうぞ、中に入ってください」
「すみません……」
こんな遅い時間にお邪魔するのも気が引けるが、帰るわけにもいかない。中にいると、台所のテーブルに麦茶のコップが置かれている。今までそこにお義兄さんは座っていた証。玄関から一番近いこの場所に。りおちゃんが帰ってくるのを待つように。
名苗はテーブルで向き合うように座り、改めて深々と頭を下げていく。
「あたしが至らないばかりに、こんなことになってしまい、申し訳ありませんでした」
「やめてくださいよ。別に名苗さんが悪いわけじゃありませんから。あの子だってもう子供じゃないんです、きっと分かってくれますよ。今回はちょっとびっくりしちゃっただけで。それをどうすればいいか分からなくて、こんなことになったんでしょうね」
「いえ、あたしのせいですよ。あたしがりおちゃんの気持ちを分かってあげられなかったから、こんなことになってしまって」
「うーん、名苗さんにはどう見えているかは分かりませんが、思っている以上にあの子はしっかりしてるんですよ。我が子をこんなこと言うと親馬鹿と思われるかもしれませんけど」
お義兄さんはもう一つコップを取り出し、冷蔵庫に入っていたペットボトルから麦茶を注いで名苗の前に出した。
「僕が入院していたとき、家のこと、全部やってくれましたからね。名苗さんやお義母さんのおかげで、料理も覚えましたし。言わなくても率先して掃除や洗濯もやってくれます。ああ、聞いてくださいよ、今では家計簿をつけてくれるんですよ、あの子。この前なんて『レシートをちゃんともらってきてくれないと、計算できないでしょ』って小言まで言われてしまいました。いやー、僕は中学生だった頃からは考えられないぐらいしっかりしてるんです。遊びたい年頃だっていうのに、家のことを考えてくれてるどころか、実際にやってくれてるわけですからね。あ、いや、僕、あの子に随分と苦労をかけています、面目ない限りです」
「お義兄さんの仕事が大変なことは、ちゃんとりおちゃんも理解できてますよ。勉強も部活もやって、お義兄さんが入院しているときは毎日着替え持っていって、初対面の人にだってちゃんと挨拶もできる子ですから……さすがというか、やっぱりお姉ちゃんの子供だけのことはありますよ。非の打ち所がないですね、まだ中学生なのに」
「非の打ち所がない、ですか……ああ、だからかもしれませんね。今までぼんやり考えてましたけど、名苗さんの話を聞いて、はっきりしました」
お義兄さんは、テーブルに肘をつき、顔の前で組んだ手の上に顎を載せた。
「僕たちがあの子のこと、『しっかりしてる』とか『優等生』っていう感じで接していたからこそ、しっかりしなくてはならなくなって、しっかりしてるんでしょうね。けど、その反動で誰かに甘えたかったのかもしれません」
けれど、りおちゃんには甘えられる存在がいない。母親である紗那は他界している。父親であるお義兄さんは、いつも仕事で遅いし、入院していたこともあり、面倒を見る対象であって甘えられる対象ではなかった。
「それが結果、名苗さんになってしまったのでしょう。名苗さんに母親を重ねて。その気持ち、なんとなく分かる気がします。僕も父親を早くに亡くしましたから、お盆なんかで会う叔父たちには、母親にない豪快さとか逞しさに憧れたものです」
「…………」
お義兄さんが述べている言葉、名苗も分かる気がする。ずっと一緒に暮らしていた紗那が大学進学でいなくなったとき、さらには結婚して名字が変わったとき、大切な人を失った気がした。それまで抱いていた気持ちをぶつけられる相手をなくしたようで、喪失感は大きかった。
それは、尊敬していた紗那が、もうこれまでのように接することのできない遠い世界にいったようで。
名苗の場合は乗り越えることができた。紗那が結婚したところで近所に暮らしていたし、名苗には一緒に暮らしている両親も健在だったし……けれど、お義兄さんと二人暮らししているりおちゃんは、いつもお義兄さんの帰りが遅く、家で一人きり。学校から帰っても誰もいない暗い部屋で、寂しく夕食を食べている。
そんな生活、両親が健在な名苗には想像もできないぐらい寂しく、辛いものなのだろう。
りおちゃんは弱音を吐かない強い子だからこそ、寂しい感情を自身に押し留めてきたに違いない。けれど、溜め込むのも限界があり、捌け口として縋ろうとしたのが、母親の面影があった名苗だったに違いない。しかし、名苗が文蔵と結婚することで感情の行き場を失われる超絶の悲しみは、存在を揺るがすほどの衝撃だったことだろう。それは、名苗が紗那を失ったときとは比較にならないほど、存在を激しく打ちのめしていったことは明白である。
突きつけられた現実をどうにも心の整理ができず、圧迫された感情がパンクして、爆発するように後先考えず、家を飛び出すぐらいに。
(……りおちゃん)
できることなら、自分の人生と引き換えにしてでもりおちゃんを無事に帰らせてあげたい。そう願うこと以外、今の名苗にはできることがなかった。
「……あの、あたし、やっぱりその辺を捜してきます。このまま待ってるだけなんて、心配で、落ち着かなくて」
「ああ、大丈夫です。ほら、もう遅いですから。いえ、もはや遅いどころの騒ぎでもなくなっていますが……さすがにこんな時間にその辺をうろうろしているわけありませんから、きっと友達の家にでも泊めてもらっているのでしょう」
「そんな呑気なこと……りおちゃんにもしものことがあったらどうする気ですか?」
「安心してください。本当にもしものことがあったら、すでに家に連絡がきてますよ。けど、それはまだありません」
出ていったりおちゃんに関して、まだ誰からも連絡は入っていない。警察からも病院からも。だから万一のことは起きていないと、お義兄さんは名苗を安心させるように力強く頷いていた。
お義兄さんは実に冷静な対応をしているが……名苗には、それが本心かどうかは判別できない。ああ見えて、名苗以上に不安な気持ちに潰されているのかもしれないのだから。なんといっても、お義兄さんはりおちゃんの父親である。
(…………)
名苗は、組んでいる足先の震えを抑えることができず、小さく唇を噛みしめることで、今にも外に出ていこうとする気持ちを堪えていた。
「それでも、あたしは、心配です」
「紗那さんの娘は、不甲斐ない父親の分までしっかりしているんです。なら、万一のことが起きているなんて、疑う理由はありませんね」
にっこりと微笑み、お義兄さんは半分残っていた麦茶を口にする。
名苗は、決して慌てることのないお義兄さんのポーカーフェースに、少しだけ荒れる心の波が小さくなった気がした。
(……お義兄さん)
実の娘がいなくなったのに、本当は名苗よりも心配だろうに、それを微塵も表さないように平然を装っているお義兄さんは、名苗からすれば大人に見えた。年齢だけではない、本物の大人に。
だからこそ、名苗はこれまでの人生で幾度となく抱いてきた劣等感に苛まれる。小さい頃は紗那と比べて感じていたそれを、まさか紗那が他界してからも抱くことになるなんて。けれど、それも仕方がない。なぜなら、紗那からりおちゃんのことを託されたのに、その約束を果たすどころか、裏切るような行為をしてしまったのだから。
情けない。
「じゃ、じゃあ、せめてここで待たせてもらってもいいですか? 家にいても心配で、このままじゃ眠れそうにないですから。ああ、ご迷惑でなければですが……」
数時間前は断れて、家まで送ってもらった。けれど、今度は譲るつもりはない。どれだけ反対されも、迷惑をかけようとも、りおちゃんの無事が確認するまでは帰らない。そう決めた。
「お願いします。この通りです」
「ええ、それは構いませんよ。こんな時間に出ていかれる方が心配ですからね。けど、明日も仕事じゃないんですか? よかったら、奥で休んできてください」
「大丈夫です。りおちゃんがいなくなっちゃったんですから、おちおち寝てなんかいられませんよ」
「すみません、ご迷惑をおかけしてしまいまして」
「そんな、お義兄さんに迷惑をかけているのはあたしの方ですから。あたしが不注意だったばかりに……本当にすみませんでした」
ここで会話は途切れて、静寂が訪れることとなる。中央に置かれたテーブルが大半を占める台所には、密度の濃い空気に覆われることとなった。
「はあぁー……」
大きく漏れた息。現状において、存在が潰れていくような強迫観念は、紗那が他界したときを思い起こすものがある。
辛い。
こんな気持ち、抱きたいとは思えないのに、これまでの人生で幾度となく繰り返している。
いったい名苗は、いつになったら誤った選択をした負い目から、解放される日が来るのだろうか?
名苗では一生、その答えを得られそうにない気がした。
「…………」
深い沈黙が覆い尽くす台所で、お義兄さんと二人きり。深夜と呼ばれる時間に、男女が一つ屋根の下。
(ぁ……)
意識すると、どきんっ! と心臓が跳ねてしまう。
(お義兄さん……)
お義兄さんは、会社の課長を思わせる人物でもあった。頼り甲斐があって、頭がよくて、加えてほっそりとして格好いい。憧れの紗那にぴったりの旦那である、お義兄さんも憧れの存在。
(……あたし)
紗那からりおちゃんのことを託され、そんなりおちゃんに、お義兄さんとの再婚を求められた。お義兄さんはとても素敵で格好いい人で、一緒にいても居心地の悪さを感じることはない。それは今も。
ならば、選ぶべき道はすでに用意されている、のかもしれない。
目の前に、こうして。
「あの、お義兄さん……」
声をかけたのに対し、相手がこちらに視線を向けたのを知り、高揚していく気持ちを止めることができない。
脈動の周期は激しく乱れていた。
「あ、あの……」
ここから先は、夜の魔物に魂を操られていたかもしれない……名苗は色濃く頬を染めて、正面にいる人物を見つめていく。
「あの、あたし……やっぱり、お義兄さんと一緒になった方がいいような気がします」
一緒になった方がいい。結婚した方がいい。
「あたし……」
普段にはない意識が、頭頂から足先まで染め上げていく。色でいえば、それは『色鮮やかな桃色』に違いなかった。
予兆はあった。なぜ家を出る際、下着のことを気にしたのか?
それは、目の前の人を義兄としてではなく、一人の男性として意識したから。
思いを口に出したのだから、もう後戻りすることはできない。
「あたし、お義兄さんのこと……好きです」
好きです。
言葉以上に溢れる思いが、激流のように体中を巡っていく。
「あ、あたしじゃお姉ちゃんみたいな素敵な母親になれないかもしれないけど、でも、りおちゃんだって喜んでくれると思いますし……もしお義兄さんがいいのでしたら、あたしと……」
「結婚ですか……? 名苗さんと僕が? 名苗さん、冗談でもそんなことを言うべきではありませんよ」
「じょ、冗談じゃありません! あたし、本気です!」
立ち上がった。その勢いに椅子が後ろに倒れたことも気にすることなく、真っ赤にした顔は、胸を飛び出さんとする心臓の鼓動に突き動かされていく。
「真剣なんです!」
もう止まらない。止まることができない。手を襟にかけて、紺色のワンピースを脱ぎ捨てると、台所の湿った空気が肌に張りついていく。薄ピンクのレース下着を選んだことは、無意識にこういう事態を想定していたのかもしれない。
今は鼓動の強さに背中を押されるように、言葉を紡いでいく。
「あたしじゃ駄目ですか? あたし、お義兄さんのこと、好きです。お義兄さんとなら、あたし……」
「名苗さん」
お義兄さんは立ち上がった。
近づいてくる相手に対し、名苗は空支度なる視線を上げたまま、両手を伸ばすお義兄さんに身を任すようでもあるが……しかし、激しい感情に耐えるように全身に力が入ってしまう。
膝が震えた。
(お義兄さん……)
近づいてきたお義兄さんの息遣いを感じられるようになる。すぐ前に顔があり、両肩には温もりを感じられた。
(あたし……)
すべてを委ねることが、今の名苗にできること。
「名苗さん、いいんですか?」
「あ、はい……」
「名苗さん」
お義兄さんの声が、名苗を含むこの空間を破裂するように響いていく。
「いけませんよ、こんな無理をしては」
「っ!」
かぁーっ! と血が昇っていくよう。目がぎょろぎょろっと暴走する。
「む! 無理なんてしてません!」
「名苗さんは無理していますよ。あの子のためにこんなことするの、やめてください」
「違います違います! そ、そりゃ、りおちゃんのこともありますけど、でも、あたしはお義兄さんが本当に好きなんです!」
「本当に好きなんですか?」
「好きです!」
「じゃあ、どうして泣いてるんですか?」
「へっ……?」
指摘されるまで一切気がつかなかった、両方の瞳から涙が溢れ、いくつも頬を伝わっていることに。
「あの、これは……」
分からない。分からないが、瞳から涙が止まらない。鼻の頭が熱くなるのを意識すると、名苗は手の甲で頬を拭っていく。
「あたし……」
「いいですか、名苗さん、告白っていうのは、そんなに悲しい顔をしながらするものじゃありません。ほら、早く服を着てください。目のやり場に困ります」
「あたし……」
実に冷静で、かつ、おおらかなお義兄さんの対応に、名苗は唇を噛みしめることはなかった。そればかりか、胸を撫で下ろしている自分がいることに気づいたのである。
「あ、あの、すみませんでした……」
夜が深いこと、まだりおちゃんが戻らないこと、重責によって心が潰れようとしていたこと……それらにより、普段にはない名苗であったことは間違いない。
下着姿の名苗は素早く床に落ちたワンピースを拾うと、胸の前に抱えて洗面台に向かう。
(あたし……)
名苗はまた、誤った選択をしてしまった。
ただし、心臓が暴れる現状なら、胸にあるときめきは断じて偽物ばかりでなかったのかもしれない。
目の前の鏡には姉妹だというのに紗那とは似ても似つかない惨めな女がいて、まともに見ることもできずに……今はただ抱えているワンピースを身に着けていく。そうして貧弱な体が隠れたことに安堵感を得るのと同時に、口から大きな息が漏れていった。
※
何もない真っ白な空間。右も左も上も下も、あらゆる場所が白く塗りたくられている異質な世界。気がつくと、名苗はその場所に立っていた。
耳を澄ましたところで、ありとあらゆる音が存在しない無音が、空間を圧迫するように深く厚く満ちている。それがより、ここに立つ名苗の心を大きく乱していた。心臓の鼓動は、高校のときに走った持久走の完走直後のように大きく跳ねている。
どくどくどくどくどくどくどくどくっ!
胃酸が逆流してくるように、気持ちが悪かった。
「…………」
全身が熱い。足元から火で炙られているよう。けれど、額に浮かぶ汗を拭うことはできない。まるで金縛りのように身動きが封じられているから。
そんな名苗の前に、一人の女性が立っている。それは名苗のよく知る人物でもあり、ずっと背中を見上げていた人物であり、絶対に追いつくことのできない尊敬する人物。
紗那。
『ななちゃんには少し荷が重たかったかもしれませんね』
いつも笑顔で、いつもの口調で、紗那は名苗に向かって真っ直ぐ言葉をぶつけてくる。
『こんなことになるなら、りおのことをななちゃんにお願いすべきではなかったですね。残り時間が短くて焦っていたとはいえ、判断を誤りました』
「…………」
『りおはとっても素直な子です。まさかそれを裏切るようなことを平気でするなんて、とても信じられません。こんな日が来てしまうとは、本当にがっかりです』
「……あたし、は」
正面からぶつけられる辛辣に、名苗は心臓が潰されそうな気持ちを堪えて、どうにか言葉を返していく。
「りおちゃんのこと、いつも考えて、た……」
『私なら、りおのことを泣かせるなんてこと、絶対にしません』
「あたし……」
『りおを悲しませること、絶対にしません』
「…………」
ああ言われてしまっては、どうにも言葉をつなげることができなくなった。名苗はりおちゃんの不幸なんて願っていない、いやがることなんてしたくないし、いつも笑っていてほしい。それは、ずっと見つめていた紗那のように。
けれど、現実として、名苗はりおちゃんを泣かしてしまった。独り善がりな告白によって、りおちゃんをひどく傷つけた。
名苗の内側に渦巻く闇が、力を強めて自身を縛りつけていく。自由を奪う以上に、存在を拒絶するように。
呼吸が苦しくなる。
圧迫される心臓は、より激しく脈動していく。
「…………」
言葉を紡ぐことができず、この世に存在することが申し訳なく、今は拳を握ること以外に何もできない。
そんな心情の葛藤に苦しむ名苗の前では、紗那が変わらず微笑みを携えている。愉快なものを目の当たりにしているみたいに。
『思い返してみると、ななちゃんはいつも駄目でしたね。私の後ろをついてきては、私がやることを真似するばかりで、まったく自分というものを持っていませんでした』
「…………」
『そのくせ私の真似をした陸上も半端でしたし、教えてあげた学校の勉強もいまいちでしたね。大学に進学することもできず、勤めている会社でも正社員採用されることはなかったですし。ふふふっ』
「…………」
『不思議なものですよね。なんで私ができたこと、真似しているななちゃんにはできなかったのでしょう? どうして姉妹なのにこうも違ってしまったのでしょう? 同じ両親から生まれて、同じ家で育ってきたというのに』
「…………」
『ななちゃん、よく聞いてください。こちらからお願いしておいて申し訳ありませんけど、もうりおに関わらないでもらえますか?』
「ぁ……」
『ななちゃんが関わらないことが、りおのためになるはずです。よろしくお願いします』
「…………」
『だって、ななちゃんに私の代わりは務まりませんから』
「…………」
『りおの母親は、私ですから』
「…………」
目の前の口から紡がれる言葉はすべて、名苗の胸へと突き刺さっていく。その痛み、今では視線を上げることができなくなってしまった。目の前に大好きな紗那がいるのに、世界中の誰よりも尊敬する紗那がいるのに、今はもう話すことのできなくなった大切な存在が目の前にいるのに……ろくに顔を見ることもできず、存在を掻き消すように全身を硬直させていく。
体は相変わらず熱く、全身はより強く縛られていくよう。このままここにいては、存在がどんどん希薄となり、すぐにでも失われるかもしれない。
(……あた、し)
名苗は、すでに自分のことは諦めている。自身の苦しみにより、抱えている問題を解決することができるなら、それでもいいと思う。逃げることができるなら、このまま無に化したって構わない。
けれど、
(あたしは)
けれど、ここでこうしていたところで、問題は解決しない。それに、名苗の右拳は、諦める行為を強く拒絶するように強く握りしめられている。
胸の心臓に負けないぐらい、心が激しく躍動している現状では、まだ屈するわけにはいかない。
自身の存在を主張するように唇を開けていた。
「……あたしは」
あたしは、違う。
「そうよ、あたしはお姉ちゃんとは違うよ」
敵うところなんて一つもない。いつも紗那を見上げるばかりで、いつもその背中を追いかけていただけで、追い抜くどころか、横に並ぶことすらできなかった。陸上も勉強も、りおちゃんのことも。名苗にとって紗那は、決して手に届かない存在である。
でも、それでも、一つだけ勝っている点がある。それは、りおちゃんを大切にしている気持ち。そこだけは絶対に負けていない。それは、今の名苗でしか力を注ぐことができないことだから。
名苗はこうして生き、紗那はすでに死んでいるのだから。
「あたしはお姉ちゃんの分まで、りおちゃんを守っていくよ」
紗那が他界して以降、名苗がずっと面倒を見てきた。いなくなった紗那ではなく、りおちゃんには名苗が傍にいて、ここまで成長を見守ってきたし、それはこれからも変わらない。
紗那ではない。
名苗である。
今のりおちゃんは名苗が必要である、何もできなくなった紗那ではなく。
「確かにあたしはお姉ちゃんとは違うよ。あたしはお姉ちゃんほど万能じゃない。優秀でもないし器用でもないし頭だってよくないしお喋りだって苦手だし、背だって低いし、美人でもないし、料理も下手だし、包容力もないし……勝てるところなんて一つもないよ。でも、りおちゃんのこと、ずっとずっと大切にしてきたことは負けてない」
絶対に負けていない。
「死んじゃったお姉ちゃんの分まで、あたしはりおちゃんのこと、ずっとずっと大事に見守ってきたんだから」
名苗は、自分がりおちゃんを愛する気持ちと、紗那に託された気持ちを力いっぱい抱きしめて、今日までりおちゃんという存在と接してきた。
その気持ち、誰にだって負けない。
負けているはずがない。
少なくとも、死んだ人間になんて。
「死んじゃったお姉ちゃんより、あたしの方がりおちゃんを大切にできるんだから! これからだって、ずっとずっと、大切にすることができるんだから!」
人生を振り返ったとき、紗那とは喧嘩をした記憶はない。なぜなら、いつも姉の言うことは正しくて、いつも姉こそが正義であった。
けれど、今回は譲ることができない。りおちゃんを残して死んだ紗那よりも、生きている名苗の方が正しいに決まっている。
でなければ、りおちゃんを大切に思うことができない。
「あたしは!」
名苗は、りおちゃんに幸せになってもらいたい。
それは紗那に託されたからでもあるが、それ以前に、名苗の望みでもある。
「りおちゃんのことが大好きだから!」
母親である紗那よりも、ずっと!
ずっとずっと!
「お姉ちゃんには、もう負けない! 負けないんだから!」
主張を力いっぱい相手にぶつけるように鼻息は荒く、肩を上下させながら、息巻くように言い放った名苗。
正面に立つ紗那は、興奮する名苗にも表情を変えることなく微笑を浮かべたまま、その口からはいつもの笑い声が漏れていく。
『ふふふっ』
いつもの笑い声。世の中には愉快なことしかないと思えるほど、紗那のそれは幸福に満ちている。
それは、名苗からぶつけられる言葉など、少しも痛手と感じていないように。
『だったら、証明してみてください。ななちゃんがりおのことを幸せにする様子を、私に見せてください』
「いいよ。いいよいいよ。いくらだって、あたしがりおちゃんを幸せにしてみせるよ。お姉ちゃんの分まで、あたしが幸せにしてみせるから」
『ふふふっ。それは楽しみですね、ななちゃんにどんなことができるか。ちゃーんと約束しましたからね』
「うん、約束するよ!」
名苗は、目の前の人物に頭から体当たりするように声を上げた。
もう迷わない。
逃げることなく、正面からぶつかっていく。
どんなに辛いことにも。
どんなに苦しいことにも。
目を逸らすことなく、突き進んでいく。
解決できない問題だって、決して諦めることはしない。その先に待っている高みの世界に立つために。
名苗は立ち向かっていく。
全力で。
懸命に。
突き進んでいく。
「りおちゃんの結婚式には、お姉ちゃんも連れてってあげるからね。だから、もうちょっとだけあたしのことを信じて待ってて」
『ふふふっ』
「お姉ちゃん」
さきほどまで胸を渦巻いていた刺々しかった思いが、いつの間にか消えていた。今は真っ直ぐ紗那の顔を見つめることができている。自身を拘束する金縛りのような力もなくなっていた。
自身の奥底から思いを発したことにより、どっしりと伸しかかっていた荷物を下ろせたみたいに。今は背中に羽があるみたいに、軽やかな気持ちである。
「りおちゃんのことは任せておいてね」
任せてほしい。今はもう紗那の知る名苗ではないのだから。紗那の知らないりおちゃんをたくさん知っている。
今はもう、紗那の背中を追いかけていた頃の名苗ではない。
「もうあたし、お姉ちゃんより年上になったんだからね」
紗那が他界したのは三十一歳。名苗は今年で三十二歳。人生で初めて、年齢が紗那を追い越した。一抹の寂しさを得つつも、それでも大きく胸を張る。
「今までずっと、ありがと、お姉ちゃん」
正面にある笑顔に負けないぐらいの笑みを浮かべる名苗。
「またね」
と、突然、真っ白だった空間に黒い穴が生まれていた。ぽっかりと口を開けて、足元から名苗を呑み込んでいく。
一切抵抗をすることができず、名苗はただただ落下していく。重力に逆らうことができず、全身が頭から潰されるように落ちていく。落ちていって落ちていって落ちていって落ちていって……そうしてあらほど世界を満たしていた白色に、黒い線が生まれたかと思うと、黒は数を増やし、視界が白色と黒色によって錯綜していく。感覚として、自身が濡れた雑巾のように絞られて、ぐにゃぐにゃに世界が歪んでいくよう。
落ちるスピードはどんどん加速していき、その速さに熱が発生しているみたい。今は全身が燃えているようであり、隕石になって大気圏を突破するみたいに。
落ちて、燃えて、そして世界に激突する。
名苗はもう、この世界には戻れない。
名苗のいる場所は、ここではないから。
名苗には、進むべき未来がある。
である以上、歩を進めなければならない。
どれだけ強く後ろ髪を引かれたところで、真っ直ぐ前に進まなければならない。
だから、
だからこそ、
どんな困難にだって、体ごとぶつかっていく。
「いっけえええぇ!」
と、次の瞬間、名苗という輝きの光が、猛スピードで穴の底に激突していった。
※
「……っ!?」
全身ががくんっ! と大きく揺れた。その身はこの世の終わりを得たような驚愕を浴びることとなり……直後に、閉じられていた双眸を開く。
「……ぁ」
目の前に白色がある。ぼやけた視界の焦点が徐々に合っていくと……テーブルクロスであることが分かった。首に力を入れて視線を上げると、引き戸と振り子時計、食器棚と冷蔵庫が目に映ったことにより、ここが台所であることが分かる。
(あたし、寝ちゃったんだ……)
りおちゃんを心配してお義兄さんの家にお邪魔して、午前四時ぐらいまで待っていた記憶はあるが……どうやら眠ってしまったらしい。肩に違和感があり、見てみると青い水玉のタオルケットがかけられている。
「あ、すみません、寝てしまったみたいで」
テーブルの対角にお義兄さんが腰かけ、文庫本に目を落としている。あの様子だと、ずっと起きていたのだろう。
「あの……りおちゃんは……?」
この状況が残っているだけに、いい返答がないことは分かっているが、そう問いかけずにはいられない。案の定、お義兄さんが小さく首を横に振られてしまう。ずしりっ! と重たいものが胃を下に押しつける痛みとなった。
壁にかけられた振り子時計を見てみると、午前五時三十分。もう窓の外はすっかり明るくなっている。開けられた窓から入ってくる空気は、若干の清涼感が含まれていた。
洗面所を借りて、顔を洗う。 鏡を見ると、化粧のないすっぴん顔。目の下に薄く隈ができている。とても人前に出ていける状態になかった。
吐息。
(駄目だな、あたし……)
お義兄さんはずっと起きていたのに、原因となった自分が眠ってしまうなんて……こうして家に押しかけておいて、まるで緊張感が足りない。りおちゃんがまだ見つかっていないのに……きっとお義兄さんも呆れたことだろう。
情けない。
こういう胃が縮むような思い、これまでの人生で何度もあった。何度もあったのに、もうしたくないと思っているのに、なぜだか繰り返してしまう。
「あの、お義兄さん、じっとしててもなんですから、朝食作りますね。きっとりおちゃんが帰ってきたとき、お腹空かしてるでしょうから」
そうやって自身を覆う気まずさを見えない場所に押しやり、台所で手を動かしていく。ご飯は炊飯器に残っている分でなんとかなる。それは昨日気まぐれで名苗が夕食の素麺を作りにきたことで、余った分。冷蔵庫を開けてみるとハムと玉子があったので、ハムエッグを作ることにした。冷蔵庫には刺身も残っている。これは昨日りおちゃんが買ってきた食材。昨晩はそれをサラダの上に載せたが、残りはお義兄さんのために取っておいたもの。刺身は足が速いため、朝食には合わないかもしれないが、それもテーブルに並べることにした。
午前六時には準備ができた。いつもと比べると一時間早い朝食である。三人分。しかし、ここには二人しかない。その事実が、今はとても悲しい。
「…………」
箸を動かす二人に会話はなく、淡々と食事をつづけていく。かちゃかちゃっと箸と食器のぶつかる音だけが耳に入ってくる。言い様のない不安と、落ち着かない気持ちを抱く現状では、味が濃いのか薄いのかも分からない。お義兄さんの感想もない。黙々と箸を動かしていき……食後にポットのお湯でインスタントコーヒーを淹れる。
食後、お義兄さんは昨日から変わらないワイシャツ姿のまま一階の郵便受けまで新聞を取りにいき、湯気の立つコーヒーカップの前で広げていく。こんな朝食後の風景をいつもりおちゃんは見ているのだろうし、きっと生前の紗那も見ていたのだろう。そう思うと、実に感慨深い。いや、紗那がいたらもっと会話が弾んでいたことだろう。そう思うと、やはり名苗では紗那の代わりが務まらないこと、いやでも痛感する。
吐息。
(…………)
朝食を終え、食器を片づける。すべてを食器乾燥機に入れると、もうすることがない。テーブルで頬杖をしていると……時計の針が午前七時三十分を示した。名苗は会社に休暇取得の連絡をする。とてもではないが、出社して仕事ができる心理状態ではない。お義兄さんはもう少し様子を見て決めるらしい。大学の先生だから、授業の関係で簡単には休めないのだろう。そんな迷惑をかけていること、とても申し訳なくて、世界から消えてしまいたくなる。
(…………)
八月は朝から暑く、あっという間に気温が上昇していく。お義兄さんに『エアコン点けましょうか?』と声をかけられたが、首を横に振った。昨夜りおちゃんに節約を言い渡されている。ならば、りおちゃんのいないところでそんなことするわけにはいかない。
(…………)
時間の経過とともに、じりじりと室温が上がっていき、午前九時を迎えた。停止していた空間が、一気に動きはじめる時刻。
(……っ)
りおちゃんが出ていったのは昨夜の午後七時だから、かれこれ十四時間経過したことになる。そうやって数字を意識すると、不安と焦りが増殖されていく。
「す、すみません、ちょっと外いってきます」
理由は分からないが、無性に外の空気を吸いたくなった。文庫本に目を落としてるお義兄さんに断って、『よくこんなので外出しようと思ったもんだな? 相当慌てていたに違いない』と愕然とした玄関で、
扉を開けたそこはすぐ階段で、早くも蝉の声を聞こえてくる。命を削っている声に、なぜだか年々胸を痛めるようになってきた。小さい頃はあの声が聞こえてくると嬉しかったのに。
名苗は扉の前で手を組み、照明の消えたコンクリートの天井に向かって大きく伸ばしていく。
うーんっ……。
宿舎の北側には、十階建ての病院が巨大な壁のように聳えている。その大きさ、小学生のときに遠足でいったダムを思い起こさせるもの。そんな病院との間には真っ青な空を見ることができた。今日も暑くなりそうである。また三十五度を記録するのではないかと想像するだけで、げんなりしてしまう。
耳に、すぐ前の道路を走行する乗用車の音が響いてきた。
(…………)
力いっぱい伸ばしていた腕から一気に力を抜き、だらーんっとぶら下げる。脱力感が、半端なかった。一瞬、気が遠くなったほどに。
刹那!
(……っ!)
右肩の方角に人の気配がした。同時に、目の端に何かを見つける。引っ張られるように視線を向けると……瞬間、そこにかけがえのない存在を見つけた!
「りぃ!」
その時はもう、真っ暗だった暗黒の世界に、力強い太陽が顔を出すような超絶の祝福を得ていた。
「りおちゃん!」
声が大きく裏返ったほど、感情が跳ね上がる。
階段の踊り場にりおちゃんがいた。昨日出ていった黄色いTシャツ、黒線のある白ジャージのままに……今はすぐそこが自分の家なのに、しゃがみ込んだままじっとコンクリートの床を見つめている。
名苗は慌てて駆け寄っていき、手を取って立ち上がらせた。顔が汚れていて、少し黒ずんで見える。
「おかえりなさい! よかった、無事に帰ってきてくれて。りおちゃん、心配したのよ」
「…………」
「りおちゃん、昨日はごめんね。あたし、変なこと言っちゃって」
「…………」
「あたしのせいだよね。あたしが駄目だから、りおちゃんを追い詰めるようなことしちゃったよね。ごめん」
りおちゃんが見つかるまでは心配で仕方なかった。一刻も早く見つかることを願うばかりで……ただ、こうして見つかったとき、どういった言葉をかければいいか考えていなかった。
その口から紡がれたもの……謝罪ばかり。
「ごめんね。ごめんね。あたしが全部悪いから。ごめんね」
「……違う」
りおちゃんは俯いたまま、小さく首を横に振る。ふるふるっ。ふるふるっ。反応はとても小さいものの、そうはっきりと意思を主張するように。
「名苗さんじゃない……悪いの、わたし、だから」
「ごめんね。ごめんね」
「違う。違う。名苗さんが謝る必要はない。悪いのは、わたし……わたしがいけない」
りおちゃんの瞳が光を反射するようになると、滲む液体によって満ちていく。次の瞬間には頬へと垂れ、足元のコンクリートに黒い染みを作っていった。
「わたしのせいで名苗さんにいやな思いさせた。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
声を出す、顔をぐしゃぐしゃにして。りおちゃんは堰が切ったように泣きじゃくっていく。まるで幼子のように、全身から感情を爆発させるかのごとく。気丈に振る舞っている普段からは想像もつかない姿である。
「ごめんなざいごめんなざいぃ! わだじぃ! わだじぃ!」
「りおちゃん、いいよ。泣かなくてもいいのよ。りおちゃんは悪くないから」
やさしくりおちゃんのことを抱き寄せると、もうどこにもいってしまわないように力いっぱい抱きしめる。
「りおちゃんを困らせるようなこと、しないからね。あたしはいつだってりおちゃんの味方よ。ごめんね、りおちゃん。寂しい思いさせて、ごめんね」
「ごめんなざいごめんなざいごめんなざいごめんなざいぃ!」
「りおちゃん」
名苗はずっと『紗那のようにうまくやろう』と考え過ぎていたのかもしれない。亡くなった紗那からりおちゃんを託されて、紗那のようにしっかりりおちゃんを育てないといけないと思って。自分は紗那とは違うのに。だからこそ、無理をしなければならず、無意識に気を張っていたのかもしれない。
けれど、名苗に関係なく、りおちゃんはこうして感受性を豊かに、立派に成長している。学校の成績も運動神経も名苗が中学生の頃よりいいし、お義兄さんが入院したときも毎日病院に通ってお義兄さんの面倒を見ていた。
りおちゃんは、名苗が見ていなくても充分生きていける。
なら、しっかりしなくてはいけないのは、名苗の方。名苗こそ、これからの人生、りおちゃんに迷惑をかけないように生きていかなくてはいけない。
「ねぇねぇ、りおちゃん、お腹空いてるでしょ? ご飯用意してあるからね。ほらほら、いつまでもこんなところで立ってないで、入って入って。もー、かわいい顔が台なしじゃないの」
もう育てていくという意識は持たない。これからはりおちゃんとともに生きていく。
一緒に、幸せになる未来を探していく。
それこそが、名苗とりおちゃんの正しい関係であると分かったから。
「この夏休み、また遊びにいこうね。りおちゃんと一緒なら、どこだって楽しいから」
玄関に連れていき、シューズを脱がせ、りおちゃんを台所のテーブルに座らせる。すぐに冷蔵庫から冷たい麦茶を出した。
まだ感情が落ち着くことはなく、両手の甲で何度も何度も涙を拭うりおちゃん。
そんなりおちゃんの頭に、お義兄さんはぽんっと手を置いた。まだ中学生で、あろうことか無断で家を一晩空けたのだ、父親として怒鳴り声を上げるかと思ったが……お義兄さんは言葉なくぽんぽんぽんぽんっ叩いてから、奥の部屋へ引っ込んでいった。これから仕事にいく準備をするのか、はたまた一眠りするつもりなのか。
静かなお義兄さんの反応は意外だったが、けれど、あれだけでりおちゃんに伝えたものがあったように見えた。さすがは父親である。名苗ではああはいかない。
名苗は頬を緩めて、自分の分も麦茶を注いで、喉を潤す。とてもおいしかった。人生で一番おいしい麦茶だったかもしれない。これを作ったのは昨日りおちゃんだから、さすがである。
「りおちゃんりおちゃん、ほら、ご飯食べちゃって。お腹空いてるでしょう? じゃんじゃん食べてね」
そうして精一杯涙しているりおちゃんのことを見つめていく。
(これって……)
もしかすると、見つめている今の視線が、紗那がずっと名苗のことを見ていたものなのかもしれない。そう思った。
この瞬間、ちょっとだけ紗那に近づけた気がする。
「さあ、今日は休暇取ったことだし、ちょっと寝たらどこかお買い物にもいきましょうか? 楽しみー」
名苗の脳裏には、いつもいろんな所に遊びに連れていってくれた紗那の姿が思い浮かんだ。
頬は自然と緩んでいく。
この日を境に、世界が楽しいことで満たされていく気がした。
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