ハイエナの少女
@miumiumiumiu
第1話
その夜に向けて
※
三月二十四日、木曜日。
本日は、
そんな一年生最後の日、一年一組の
「で?」
三年生はすでに卒業している。体育館で一、二年生のみの終業式を済まし、教室に戻って担任からほしくもない通知表を受け取った。自分の席に戻ってそっと通知表を開いては、平均よりいいのだろうが、かといってそれほど誇れる数字が並んでいるわけでもなく、ただただ嘆息するばかり。周囲が悲鳴にも似た声を上げて騒いでいるのを横目に、そそくさと学校指定の茶色い肩かけ鞄にしまった。思い返してみると、通知表を受け取る度に、こんな意味のあるようなないような、白くて黒っぽいなんとも言い様のない気持ちを抱いている気がする。
嘆息。
その後、終業式の日恒例の大掃除に取り組み、帰りのホームルームを経て、解散となった。これで一年一組での最後の一日を終えたことになる。明日から春休みで、明ければ自動的に二年生に進級するため、このクラスメートと同じ教室で過ごすことはない。教室を見渡してみると、解散になってすぐ帰るクラスメートもいたが、今日は最後の一日を惜しむように、残っている生徒が多い気がした。
制服の学らん姿である下釜勇耶は、黒板上にある時計を目にすると十一時三十分。午後から部活があるために、昼食のために一旦帰宅する。隣の席を見ると、持参した弁当を早くも食べている男子生徒。自分もそうすればよかったと思うも、部活がはじまるまで二時間あるため、やっぱり家に帰るのが得策であった。自分の選択に間違いはない、はず。
耳にかかる髪を小さく揺らし、席を立って鞄を肩にかける。クラスメートが残っている席を縫うようにして廊下に出ていこうした……そんな矢先、女子に声をかけられて足止めることに。
要件は、移動教室のある南校舎で少し手伝ってほしいという。聞いた瞬間、『面倒だ』という気持ちが表情に出たと思うが、相手の押しと持ち前の強引さに圧倒される形で、渋々ついていく羽目に。嘆息。『最後の一日ぐらいは持ち前の親切心を発揮しても罰は当たらないか』という寛大な気持ちで、肩かけ鞄を持ったまま背の低い女子につづいて廊下に出る。
雨が堪らないように段差になっている渡り廊下を進んで南校舎の三階に到着。終業式の日の昼前ということで、廊下には誰の姿もなく静まり返っていた。
そんな普段とは違う静かな廊下を、頭の位置が勇耶の肩ぐらいという小さい女子についていくと……突き当たりの美術室に到着。
「ここでおれに何を手伝えと?」
辿り着いたのはいいものの、美術室は施錠されているため、入ることができない。隣の準備室も同様で入ることができず、立っている廊下には何も置かれていない。てっきり手伝いといえば、高い棚の上から荷物を下ろす作業だと思っていたが、棚らしきものも見当たらない。ここで自分ができる手伝いを思案してみるが、まったくもって思いつかなかった。謎である。
その刹那、はっとした。目がぱっちりと開く。同時に、視線は激しく乱れるように左右に泳いでいった。
「あれ? もしかして、おれ、騙された?」
いやな予感が稲妻のように全身を駆け抜けていく。そうでなければ、置かれている現状の説明できない。
「
「……集らないから。あのね、どうしたらそんな発想になるのよ。ほら、わざとらしく怯える振りしなくていいの」
呆れるように言い放ち、わざとらしい仕草を大きく吐息した女子生徒は、勇耶と同じ一年一組の
「あのさ、勇耶からすれば、あたしってお金に困ってて、かつ、人を恐喝してお金を巻き上げるように見えるんだ!? へー、勇耶にはそう見えるんだ!? へー、へー、へー、へー」
「……いや、冷静になってみると、手伝えって一方的にここまで呼び出したところが、恐喝と同じな気もする」
「あたしってそんな狂暴な女なんだ!? へー、へー、へー、へー」
「存在自体が悪であると評しても過言ではないかと」
「あたしって、そこまで極悪非道で血も涙もない社会にとって最低の人間なんだ。へー、へー、へー、へー」
「…………」
藍得意の『へー、へー、へー、へー』を出されると、いつも言葉が返せなくなる。別に悪いことをしたわけでもないのに、なんだか自分が悪者のような気がして、蛇に睨まれた蛙状態に……はっと我に返り、首を力いっぱい横に振る。ぶるぶるぶるぶるっ。相手のペースに乗るわけにはいかない。自分が親切でここまでついてきたのであり、責められる覚えはない。一切。かけらも。かけた言葉はちょっとお茶目なコミュニケーションに過ぎないのだ。
肘を少し曲げ、腹の横で右手の人差し指をこきっと鳴らした、そうして気分を切り替えるように。
「で、おれにどうしろと?」
勇耶にとって藍は、今年一年間クラスメートになった間柄に過ぎないが、他の女子よりは親しみを感じている。というのも、クラスは一学期に一度しか席替えをしないのに、一学期も二学期も隣同士になったから。さすがに三学期まで隣という偶然は起きなかったが、それでも一年の大半を隣の席で過ごしたことで、遠慮なく喋れる間柄になっていた。こうして廊下で二人、喋っていても違和感がないぐらいに。
そんな親しい関係だからこそ、多少強引な冗談だって言えてしまう。ただ、それも今日までで、クラスが変わればこの心地よさもなくなることだろう。そう思うと惜しまれるものもある。
「ま、まさか、神田林はおれの体が目当てなんじゃ!?」
「うん、その通りだけど」
「通りなのぉ!?」
仰天。投げかけた冗談の上をいかれてしまった。勇耶の内側で唖然と驚愕が足された上で倍増し、もはや目玉が飛び出さん勢いである。『ストップ』という意味合いで、両方の掌を相手に向けた。
「は、早まるな、おれは純情をこんな所で失うわけにはいかない」
「なら、あたしの純情を奪っていいよ」
「どういうことぉ!?」
冗談に、さらにわけの分からない主張を織り交ぜられた。勇耶の頭上には巨大なクェスチョンマークが浮かんでは激しく点滅していく。そればかりか、浮かんだ疑問符のあまりの大きさに、頭が押し潰されるようにして、首が『がくっ!』と斜めに傾いた。
「えっ? えっ? 神田林の純情? ええぇ? じゅ、純情? どこにそんな尊さが存在するのさ? えっえっ? 微塵も感じられないってのに? ああ、なるほど、最近はかなり暖かくなってきたから、春の陽気にやられたんだろうな。うん、分かるぞ」
「至って正常だから、あたし。最近の陽気なんて少しも関係ないから。でもってでもって、冗談じゃなくて、あたしは本気だから。あたしのこと、勇耶には真面目に考えてほしい」
「こんな話題が真面目だとぉ!?」
「うん、真面目。大真面目よ」
藍はこれまでの軽い口調ではなく、小さいながらも強さを込めて言葉を吐き出すと、どこか照れを含ますように視線が下がっていった。その頬には紅色が色濃く目立つようになる。しかし、意を決するように顔を上げ、大きな瞳をうるうるっと潤ませながら、口を開けた。
「好き」
好き。
「勇耶のことが好き。あたし、勇耶のことが好き。好きなの」
「……わっ、三回も、『好き』って言われちゃった。どっひゃー」
「そっちはいつもみたいに冗談っぽくしてるけど、あたしは本気よ。何回だって言える。好き。勇耶のことが好きなの。好き好き好き好き好き好き好き好き!」
最後の方は全身から言い放つように身を乗り出し、瞼を閉じて叫ぶみたいであった。その直後には、またゆっくりと視線を下げていく藍。
そんな藍を前にして、勇耶はあまりにも予想外の展開に唖然とするしかない。ぽかーんっ……と口を開けることしかできなくなる。
受けた衝撃に、足元がぐちゃりっと大きく揺れては、崩れていってしまいそうな錯覚を得てしまう。今はただおろおろして意味なく手を腹と胸の前で動かすばかりで……戸惑いの色が絶頂を迎えていた。
(……えっえっえっえっ!? おれ、今、告白されてるぅ!?)
どう考えてもそうとしか考えられない。こんなの十三年間の人生で初めてのこと。どう対処したらいいか分からず、どういった表情を浮かべればいいかも分からずに、今は意味のない足踏みを繰り返すばかり。たんたんたんたんっ。
心は、あらゆる色が飛び交うような錯乱状態に陥っていた。
大パニック。
(あっ……)
耳に、女子生徒の楽しそうな笑い声が響いてきた。どれも跳ねるような高い声で、階段を上がってきている。このままだと、この場でばったり遭遇するだろう。
まずい。
「あ、あのさ……」
できることなら、この告白場面は誰にも見られたくないし、知られたくない。恥ずかしいから。きっと藍だって同じ気持ちだからこそ、この人気のない南校舎まで連れてきたのだろうし。
焦る気持ちが一気に許容を突破して、どこを見ていいのか分からなくなる。現状にできることがあるとすれば、追い込まれつつある状況を打破するために口を動かすしかない。
「あのさ、そんな、じょ、冗談は、よせよ。ほら、誰かくるみたいだし、変に勘違いされたら困るしさ」
「勘違いされたっていいよ。本気だもん」
「ぁ……」
こちらをじっと見上げてくる瞳からは液体が今にも零れてしまいそう。口を強く結び、小さく震える手は、とても冗談を言っているようには見えない。
階段の方から聞こえてくる女子の声は徐々に大きくなってくる。この階に到着するのは時間の問題であろう。
であれば、このまま黙っているわけにもいかず、だからといって現状をどうにかできる力量はなく……この話題とは関係のない言葉を口にすることで誤魔化そうとした。そうして時間稼ぎをして、どうにか現状の困惑がこの場から去ってくれるのを祈るのみ。
「きょ、今日でさ、一年生も終わりなんだよな。この前入学したと思ったら、もう終わりなんて、一年なんてあっという間なんだな。ほんとに。明日からは春休みだし」
「だから、こうしてるよ。休みになると、勇耶に暫く会えなくなっちゃうし、来月はきっと違うクラスになるだろうから」
一学年は十クラスある。同じクラスになる確率は十分の一。まず同じクラスになることはないだろう。
藍は、自分の気持ちを相手に伝えることを、最終日の今日決行することを前々から考え、こうして実行している。手が震えるほどの勇気を振り絞って。
「ねぇ、あたしじゃ駄目なの?」
「だ、駄目ってさ、それは、その……」
視界に、大きな声で笑い合っている三人の女子が現れた。緊迫した状態にある勇耶たちに気づいた様子はなく、そのまま西方にある音楽室の方に歩いていく。
その点については、ほっと安堵の息が漏れた。しかし、だからといって、置かれている問題が解決したわけではない。困惑する心情をそのまま言葉に乗せていく。
「そ、そんなこと、急に言われても、考えたことないから」
「なら、今考えて」
「あ、う……」
容赦なくぐいっと懐に踏み込んできた藍に対し、思わず身が引けてしまう。女子に迫られて、どうすることもできずにパニック状態に陥るなんて……自分が腑抜けであったことを痛感することに。
視線を前方に向けると、さきほどの女子三人組が廊下の中央辺りで、ちらっとこちらを振り返るのが見えた。異様な雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
まずい。
脇の下にはいやな汗が流れていく。つつーっと。
「あ、あのさ、そんなの、今すぐってのは、その、無理があるじゃないかな? その、これから部活もあるし、えーと……」
「本気だって言った。今、お願いしてる。じゃないと、こんな勇気、もう出せないと思うから」
「お、おう……」
小さな体から醸し出される強烈な雰囲気に圧倒され、片足が後ろに引いた。肩が美術室の扉にぶつかってしまう。瞬間、『徳俵に足がかかる』という言葉が頭に過っていた。
「わ、悪い、お前のこと、そんな風に見たことなかった」
覚悟するしかない。包まれている自分の気持ちを正直に、現状の戸惑いを全面的に、今できることをしていく。誤魔化そうとせずに、正面からぶつかっていくことが、勇耶にできる最善であると判断したし、経験値不足によってそれ以外の選択肢を思い浮かべることができなかった。
息を止め、自分よりも低い位置にある相手の瞳を見つめていく。
「ごめん、やっぱり考えられないってのが本音だよ」
「そこを考えて」
「……悪い」
藍のことは『仲のいいクラスメート』というのが勇耶の位置づけ。だからといって、恋愛感情に結びつくものはない。それに、勇耶には気になっている女子がいる。しかも同じクラスの女子。
「ほんとに、ごめん」
「……そう」
小さく呟かれた藍の言葉とともに、半分開けられた口からは長い息が吐き出されていく。唇を結んだままに、首を大きく回していって……もう一度吐息した。
刹那、藍の表情は一気に明るいものに変化する。鬼気迫る表情から憑き物が取れて、いつも教室にいるときと同じ少女らしい微笑みを携えて。
「ねぇ、勇耶ってさ、好きな人いるよね?」
「はぁ……!? そ、それは、どうだか?」
「しおりんでしょ?」
「ぉ!?」
言われた直後、勇耶の心臓が飛び跳ねた。ばっくんっ! 脳天から電撃を受けて、全身が麻痺したよう。その後はただただ脈動が強さを増していくばかり。
どくどくどくどくどくどくどくどくっ!
自分でも分かるぐらい、表情が引きつった挙げ句に歪んでしまった。
「な、な、なんだよ、それ? し、しおりんって……ま、
「あれ、もしかして、隠してるつもりだったの? ばればれよ」
「いや、その……」
「勇耶さ、部活で休憩しているとき、よく見てるよね、しおりんのこと」
勇耶はサッカー部であり、同じグラウンドを共有する陸上部をよく見ている。逆も然りで、陸上部の藍からもサッカー部の様子が見えるのである。
「凄いよね、しおりんは。一年生でいきなり三位だもんね。あたしなんて全然駄目だけど。試合にも出たことないし。そうか、しおりんのそんな凄いところに惹かれたのね?」
「ば、馬鹿言ってんじゃないよ。だ、誰が斑美のことなんか」
「好きなんでしょ?」
藍のそれは語尾にこそ疑問符がつけられているが、問いかけというより、確信があって断定する口調であった。
「ねぇ、好きだって伝えないの? もう同じクラスになれないかもしれないよ。って、同じ学校にはいるわけだからチャンスはあるかもしれないけど、クラスが離れちゃうと、なかなか話す機会もなくなっちゃうから」
「…………」
「気持ち、ちゃんと伝えた方がいいよ」
「…………」
「絶対すべきよ。そう思うでしょ?」
「…………」
「まったく……あーあ、なんであたし、こんな意気地なしを好きになっちゃったんだろ? 自分のことだっていうのに、好きになる人って、自由に決められないのよね。もはや摩訶不思議だわ」
浮かんだ疑問を心から納得できないように、藍は小鳥みたい小首を傾げてから……顔の横で手を振っていた。
「もういいよ」
手で追い払うような仕草。
「ありがとね、もういい。ばいばい」
「な、なんだよ? 人のことを呼び出しておいて、その『もういい』ってのは!?」
「だって、ほんとにもういいんだもん。用は済んだし、それに……勇耶に泣くところ、見られたくないし……」
「…………」
「ほら、いったいった。それともそんなにあたしのこと、いじめたいわけ? 性格悪いよ」
「…………」
相手の声が徐々に震えていくのを正面に受け、もはやかける言葉はない。藍にというより、この場所に『じゃあな』と素っ気なく言い残して、南校舎の廊下を端から端まで、西方に向かって歩いていく。校舎の構造上、そちらにしか渡り廊下がないから。
自分のスリッパの音を耳に、長く感じた廊下を経て、渡り廊下に到着。右折する際、視界の隅が美術室の前を捉える。そこでは、クラスメートの小さな少女が、さらに小さくなるようにしゃがみ込んだ。瞬間、胸に直接釘を打ちこまれたような衝撃を得て……一瞬のことであるが、忘れることのできない光景となった。
その胸は、棘が刺さるように、ちくりっと痛む。
下校。すべての欄が埋まった通知表の入る茶色い鞄を肩にかけ、並木道を経て学校の南門を出ていく。勇耶の家は中学校の南西方向にある。南門を出て西に進んでも南に進んでも構わない。だが、最近の傾向通り、部活帰りに立ち寄るコンビニエンスストアがある西方に進路を取っていた。
(…………)
天気は気持ちいいほどの快晴である。だというのに、南校舎の美術室前に残してきた藍のことを考えると、気分は沈む。その心は、ちょっとでも気を抜くと、大きな不安によって潰されそうな恐怖を得てしまう。こんな気持ちになるなんて、ほんの三十分前までは考えられなかったのに、抱く苦しみは確実に勇耶の心を苛んでいる。思いもしない落とし穴に嵌まった心境だった。
(…………)
果たして、あのような返答でよかったのだろうか?
もっとうまい言い方があったのではないか?
最後に見た泣き崩れた藍の姿に、駆け寄ればよかったのかもしれない。
こんな苦々しい思いではなく、二人がもっとすっきりした解決方法があったに違いない。
『ああした方がよかったかもしれない。こうした方が今後のためになっただろう。あれはもうちょっと言い方があったかもしれない。もっとうまく立ち振る舞うことができたのではないか?』などと、選ぶことのできなかった可能性を思い浮かべては、うじうじと悔いることとなる。それが今の勇耶であった。
嘆息。
なんだか体がだるかった。
(…………)
きっと藍とは別のクラスになるだろうから、今までのように接することはなくなるだろう。せいぜい廊下で擦れ違う程度に違いない。
今日はともかくして、ここ一年を振り返ると、藍とのやり取りはいつも自然体でいられた気がする。他の女子とは違う心地よさがあった。あれをあのような形で失ったかと思うと……喪失したものとても大きいものに思えてしまう。後悔の念は、心を大きく支配していた。
(…………)
これから家に帰って昼食を食べ、午後からサッカー部の練習。ならば、気持ちを引きずるわけにはいかない。大きく息を吸って……ゆっくりと吐き出していく。その息はもう白くなることはなかった。春である。雨が降っても気温が一気に下がることはない。
厳しさを失った風が、横から勇耶の頭を撫でていく。そうして風に気持ちよさを得られたこと、少しは心を整理できた証かもしれない。
(…………)
学校から西方に向かって徒歩五分、部活帰りによく立ち寄る外観が黄緑色のコンビニエンスストアに到着した。ファミリーマート。店の外には『味自慢 おでん』『串カツ』『こだわりの中華まん』という幟が立てられている。暖かくなってきたため、そろそろ内容が『ソフトクリーム』『かき氷』に変わるのだろうとぼんやり考えながら横を通り過ぎて……前方の交差点の色によって思案することになった。
このまま直進すると、小高い丘の上に神社がある
(……んっ?)
交差点に到着する寸前、背後からエンジン音が響いてきたと思うと、一台の乗用車が勇耶を追い抜いていった。交差点に突入する際にスピードを緩めて、車道の信号がまだ黄色になっていない交差点を直進していく。
(なんで!?)
車を見送った勇耶の双眸は幽霊でも目撃したように巨大化した。視線で追いかけた乗用車には見覚えがあり、ちらっと映った車内の様子に、頭上に巨大な感嘆符と疑問符が浮かぶ。同時に、胸には形のない不気味な闇が広がっていく……届けられた情報は、勇耶の心を大きく揺さぶるもの。
(斑美ぃ!?)
乗用車の助手席に、なんとクラスメートの
さらには勇耶を驚かせたのは、見知った人物が運転席でハンドルを握っていたこと。
(なんでもりやーとぉ!?)
なんと、学校の駐車場でよく見かける白いミニバンの運転席には、『もりやー』こと一年一組担任、
驚きである。一年一組のクラスメートと担任が同じ乗用車に乗り、真っ直ぐ国道の方に向かっていった……目を凝らしてみるが、車はすでに見えなくなっている。
(なんであの二人が!?)
衝撃の風に打ちのめされるように惚けてしまい、勇耶は交差点の手前で立ち尽くす。予定では交差点を左折するところだったが、結果的に赤信号を待つように立ち止まっていた。襲われた衝撃に、その瞳は焦点が合わず、すぐ前を横切る軽トラックも認識することができない。
(……斑美ともりやーが、どうしてあんな?)
胸のざわめきは木々を大きく揺らす台風のように強烈で、勇耶の存在そのものを強く締め上げていく。大切なものを鷲掴みにされる恐怖感すらある。その威力は、さきほど美術室前であった藍とのやり取りを吹き飛ばす壮絶な破壊力を有していた。
中学校に入学してもうすぐ一年となるが、あらゆるすべてを超越する驚きがこの瞬間に待っていたのである。
(…………)
ずっと見開いている勇耶の視界では……勇耶のことを足止めしていた信号が、赤から青に変わっていた。
斑美栞は、勇耶と同じ愛名市立東凪中学校一年一組に所属している女子生徒。学校の成績もよく、常に学年の上位に位置している。運動神経にも恵まれていて、秋の県大会で出場した走り高跳びで一年生でありながらも三位入賞を果たした陸上部のホープ。
『もりやー』こと森乃山は、愛名市立東凪中学校に勤める教員で、担当は理科。今年度は一年一組の担任であり、栞が在籍している陸上部の顧問でもある。よくクラスでは大会で活躍した栞のことを誇らしく話しているのが印象的だった。
勇耶は、一年一組で一年間過ごすことにより、栞のことが気になっていた。特に秋の県大会の活躍によってはっきり意識するようになり、その姿を目で追うことを止められない。その行為により、栞に対する好意を藍に悟られたと思うが……意識以前にそうしてしまうのだから、制御できるものでない。国語の授業で栞が朗読しているとき、席を立っている姿と聞こえてくる声に、胸がどきどきして仕方がない。
勇耶がサッカー部の練習しているときも、休憩時間になると、自然とその目はグラウンド反対側の砂場に向かっていく。そこでは青色ジャージ姿の栞が、ひたすら走り高跳びのバーに向かっている。そこで顧問の森乃山といろいろ話し合っている姿をよく目にしていた。その成果が県大会三位という快挙につながったのだろうが……しかし、いつの頃からか、二人のやり取りがぎくしゃくするようになっていた。それはグラウンドの反対側から見ている勇耶にも分かるぐらいに。
二人の間にいったい何があったのか? 部活が違う勇耶には分からない。見ている分には、顧問の森乃山がどうしたというより、栞が一方的に森乃山を毛嫌いしているよう。冬休み手前辺りから、森乃山のアドバイスを栞が相手にしないように顔を逸らす姿、よく確認された。さらにはその態度が教室でも見られるようになり、森乃山が担当する理科の授業だけ、二回に一回は机に突っ伏して寝ているのである。起きているときも不貞腐れるように、頬杖をついて黒板ではない中空を見つめるのみ。そんなこと、他の授業にはない。
栞に関することは何だって知りたいし、困っていることがあるなら一緒に解決してあげたい。そう切に願う。好きな人の力になりたいから。
そういったことを気にしながら三学期を過ごしてきたが、席が離れている影響もあり、なかなか声をかけるタイミングがなく、もやもやした気持ちをずっと引きずって、ついには終業式の今日を迎えてしまった。結局問題は先送りにした感がある。二年生でクラスが別れれば、話す機会も激減することだろう。そのやり残しこそ、藍が指摘した通りの意気地なしを証明するものに違いなかった。
「はあぁー……」
勇耶の人生はまだ十三年間しかないのだが、肝心な選択ほど正解を選べていない気がして、ただただ自身に嫌気がさすのだった。
※
短い春休みを経て四月となり、勇耶は中学二年生に進級した。学校には先月まで小学生だった後輩が入ってきて、校舎が一気に賑やかになる。四月いっぱいはこのふわふわとした落ち着かない雰囲気がつづくのだろう。
ふと疑問に思うことがある。小学校に通っているときは、中学生といったら体も大きく大人のように見えた。しかし、入ってくる新一年生を見てもそんな印象を受けないばかりか、制服の真新しさもあってかなり子供っぽい。『同じ中学一年生』を見ているのに、不思議である。
勇耶はどきどきのクラス発表により、二年六組に席を置くことを知る。クラスメートを確認すると、藍の名前を見た。目を見張り、強く脈動する。三学期の終業式の日に告白され、それを受け入れられずに気まずい思いを抱いていただけに、まさかまた同じクラスになるなんて……神から罰を与えられている気がして仕方がなかった。十分の一の確率でクラスメートとなったのだから、裏で勇耶の望まない巨大な力が働いていると勘繰りたくなる。と同時に、気持ちが滅入ることに。これから一年間、藍とはぎくしゃくした気まずい思いで過ごしていかなければならないのかと憂鬱であるが……それは杞憂に終わった。
『おっす、勇耶。また一緒のクラスだね、よろぴき!』
と背中を叩かれたのである。元気いっぱい。ばしっと。その笑みはこれまで見た藍のどれとも違い、実にはつらつとしていた。きっと無理しているのだろうが、藍のその勇気を無下にするわけにはいかない。勇耶は去年隣の席だった頃を思い出しながら、言葉を返していく。
『二年になったのに、お前は相変わらずのサイズだな。うまくすれば掌に載るんじゃない? いつかカチューシャに押し潰されてるんじゃない?』
とからかうように笑いかけては、藍にグーで肩を叩かれる……まるで一年生の頃の心地いい雰囲気を取り戻したみたい。終業式のやり取りなどなかったみたいに。
本当によかった。藍との心地よい関係を失わずに済んで。
(またもりやーか……)
二年六組の担任は、昨年につづいて森乃山であった。角刈りにも似た短髪は、新学期になってより角張って見える。思わず手を伸ばしては角を潰したくなるが、勇耶にはそんな無益で無謀なことをする度胸はない。
そしてそして、なんとなんと、誠に残念なことこの上なく、昨年同じクラスだった栞とクラスが別れてしまった。栞は隣の二年五組。二クラス合同で実施する体育は同じだが、男女が同じ授業を受けることはない。教室の間に存在する壁によって接することがなくなり、物理的にも姿を見る回数が減ってしまう。
こうして栞との接点がなくなることで、昨年抱いていた気持ちが徐々に薄れていくのだろうと、切なく、そして儚く思いながら……勇耶は四月十八日を迎えることになる。
もう二度と動くことのないと思っていた歯車が、またゆっくりと動きはじめる特異な日を。
※
四月十八日、月曜日。
朝から降っていた雨が、放課後には止んだ。しかし、グラウンド使用を禁止する赤い旗が立てられており、サッカー部の練習は中止となる。
学らん姿の勇耶は、学校指定の茶色い肩かけ鞄を肩に、紺色の傘を右手に握って南門を出ていく。西方に足を向けると、すぐ黄緑色のファミリーマートが見えた。
(なんか、腹減ったな)
午後四時。いつもは練習している時間であり、下校してコンビニが見えると、部活帰りのような感覚がして空腹を覚えてしまう。前後に自分と同じ制服は見えるものの、教員の姿はないため、肉まんでも買い食いしようとして……自動ドアから出てきた人物に、驚きによって目を丸くすることに。
「……斑美!?」
「あ、下釜くん、今帰り?」
自動ドアから紺色のブレザー姿の栞が現れた。いつものように背中まである髪の毛を後ろで一つに縛り、荷物をしまったばかりなのだろう、白いコットン製の手提げ鞄に手を入れた状態。
「寄り道はいけない。真っ直ぐ家に帰るべき」
「い、いや、そんなこと、出てきた人間に言われても……何買ったんだよ?」
「パンツ」
「ぱぁ!?」
驚愕である。口を『ぱ』の形で止めたまま、頭で『パンツ!』と絶叫した勇耶。なぜだか体が燃えるように熱くなってしまう。
(コンビニで、そんなの買うのぉ!?)
勇耶はこれまでパンツを自分で買ったことはないが、まさか女子生徒がコンビニでパンツを買って、しかもその事実をおおっぴらに公表するなんて……激しい衝撃が全身を駆け抜けていくばかり。
なぜだか分からないが、無性に背中が痒くなった。
「……な、なんで、そんなの買ったんだよ?」
「必要だからに決まってる。ほら、信号が青。あっちでいい?」
軽トラックが信号待ちをしている交差点を渡っていく栞の背中を目に、勇耶は引力によって引っ張られているみたいに追いかけていく。
(凄い凄い凄い凄い!)
展開としては呆気に取られるものがあるものの……けれど、こうしてあの栞と学校の外で会うどころか、一緒に帰ることができる。チャンスだった。二年生になって記念すべき初コミュニケーション。
喜びの絶頂に、顔がにんまりしてしまわないように気を引き締め、かつ、あんまり意識して緊張してしまわないように表情を両手で
「ほ、他には何を買ったんだよ?」
「パンツだけ。無駄遣いはいけない」
下着の話をしていることを一切おくびにも出さずに返答したかと思うと、栞は思い立ったことがあるように、次の情報を追加していく。
「ああ、パンツって言っても、トランクスだから」
「トランクス!?」
脳天に雷が落ちた。一瞬、ひらひらっと揺れている茶色と紺色のチェックスカートの下に、男物のトランクスを穿いている栞の姿を想像しては……名前の分かり情念を絶叫として空間に放ちたくなる気持ちを必死になって押さえるも、喉は大きく鳴った。
ごくりっ!
左手には幼稚園がある。柵越しに象の形をした滑り台が見えるが、帰宅時間を過ぎているのだろう、園児は見当たらなかった。反対の右手には五階建ての団地があり、団地の向こうにある公園から小学生のはしゃぎ声が聞こえてくる。
勇耶は、幼稚園の門から横を通り過ぎるまでに、もやもやした気持ちを消化すべく、抱いている疑問を直接ぶつけていく。
「な、なんで、斑美がトランクスなんて、買うんだよ?」
「だって、穿いてるから」
「穿いてるのぉ!?」
裏返る勇耶の声。この件に関して一切関係がないというのに、妙にどぎまぎしてしまう。
「ど、ど、ど、どうしてさ!?」
「そんなこと言われても……そういうもんじゃない?」
「そ、そういうもんなのか」
相手の素っ気なさに、動揺の色が濃くなっていく一方。今まで抱いていた栞に対する『できる女子』の印象が、音を立てて崩壊していく。
そんな勇耶のショックに気づく様子もなく、栞はにっこりと微笑む。
「あ、そうそう、下釜くん」
さきほどのトランクス発言同様に、一切感情の起伏がないまま、栞は次の言葉を告げる。その言葉により、勇耶がどれだけ衝撃を受けることになるかも考慮することなく。
「藍ちゃんのこと、なんで振っちゃった?」
「……はあぁ!?」
「去年あんなに仲よかったのに。お似合いだと思う、っていうのは余計なお世話だろうけど……藍ちゃん、いつもと変わらないように明るく努めてたみたいだけど、でも、春休みは引きずってて、ちょっと元気なかった」
春休み時点では、栞は藍と同じ陸上部で、一年一組のクラスメートでもあった。であれば、『お喋り藍に関する情報が栞と共有されている』と考えるのが妥当以上に必然である。世の理といっても遜色はない。
「最近は元気だから、春休みに気持ちを整理したみたい。って、わたしはあんまり練習に出なくなっちゃったから、よく分からないけど」
「あ、そういえば……」
勇耶にとって、藍を振ったことを知られていたことは恥ずかしいようで、知られてはいけない事実を知られて狼狽するところだが……そんなことより気になるのは、栞が部活に出なくなった理由について。
グラウンドを共有する部活に入っているのに、春休みぐらいから栞が徐々に部活を休むようになった。いつもグラウンド隅にある砂場が、無人になっているのを見る度に、見えない不安に潰されていく不気味さを得たものである。
「最近、部活休むようになったよな。どうかしたのか?」
「気にしなくていい。だって、部活なんて、わたしにとってはどうでもいいから」
前方に小高い丘が見えるようになった。あの上に青願神社がある。
「というより、陸上部、辞めようと思って」
「はあぁ!?」
さっきから『はあぁ!?』と間抜けな声を出しては驚いてばかり。けれど、この下校時間、無意識に声が裏返ってしまうほどの強烈な驚きの連続なのだから仕方がない。
「辞めるって……お前、ちょっと待ってよ」
二階建ての住宅街を抜けていくと、青願神社のある丘の北側に出る。ジュースと缶ビールの自動販売機が並んでいる酒屋の前で、勇耶が足を止めることで隣人の足を止めた。
「なんでそんなこと言うんだよ?」
栞は陸上部のホープである。一年生で県三位になったのだから、二年生になった今年は全国大会だって狙えるはず。
しかししかし、勇耶の興奮も我関せずとばかり、栞は大会のことや部活のことなんて興味なさそうに、実にあっさりとした口調で否定的な言葉をつなげていく。
「部活は強制じゃない。入る必要ないし、入ったところでつづける必要もない。だから、辞める。辞めること、おかしいとは思わない。現に辞めちゃう人だっている」
「待て待て待て待て。ちょっと待て。なんでそんな素っ気なく辞めるなんて言えるんだよ? あんなに毎日頑張ってたのに、いったいどうしちまったんだ?」
グラウンド隅の砂場で、栞が黙々とバーに向かっていく姿、勇耶は今日までずっと見てきた。ああして毎日懸命に練習に取り組む姿を知っているだけに、簡単に辞めるようなものでないと思っている。何か原因があると思えてならず、栞の事情であるなら、どうしても知っておきたい。
「お前は高跳びの才能があって、全国だって狙えるなんだから、辞めるなんてもったいないだろ?」
「わたしはそんな風に思ってない。そういうのって、そっちが変な期待してるだけじゃない? わたしなんて、たかだか県三位。世界三位ならともかく、県三位なんて、都道府県の数だけいる。そんなの大したことない。ただ、大したことないから辞めるってわけでもないけど、うーん、説明が難しい……」
栞は唇を尖らせてから、視線を斜め上に向ける。そうして目に映ったものに連動するように、口を動かしていく。
「ねぇ、ちょっとあそこ寄っていかない?」
栞が示している場所は、小高い丘にある青願神社。多くの木々に囲まれている神聖な空間。
愛名市北区には、青願公園という大きな公園がある。街中にあるのに、サッカーコート一面以上ある中学校のグラウンド五倍ほどの広大な面積を有しており、北側には小高い丘が聳えている。丘には無数の銀杏の木が生えていて、秋になると鮮やかな黄色く染め上がる。毎年大々的に祭りが開催されるほどであった。そんな銀杏の木に埋められる丘には百段ある石段があり、頂上に青願神社が存在する。
百段ある石段を上がると同時に境内に入り、待ち構えている巨大な赤い鳥居を潜る。そこから真っ直ぐ飛び石が社殿までつづいていて、社殿の手摺りの鮮やかな赤色が目に飛び込んでくる。飛び石の上を歩いていくと、左手には龍の口から水が出ている手水舎。少し視線を横にずらすと絵馬をかける台を確認できるが、四月という時期が時期だけに三、四つしか見当たらなかった。
「まあ、驚いたってのが正直なところだけど」
勇耶は、行儀悪く社殿に腰かけ、すぐ横の床に酒屋の前で買ったオレンジジュースを置いている。以前は炭酸を好んだが、運動するのに悪いという情報をテレビで得て、最近はやめていた。座っている社殿の床が地面から一メートルほどの高さ。太い手摺り部分が赤く目立つものがあるが、近くで見ると結構赤色が剥がれて茶色い部分が結構目についた。
この青願神社、秋の銀杏祭りと正月の初詣には大勢の人間が訪れる。しかし、百段ある石段を上がらなければならないネックがあるせいか、普段はあまり人が訪れることなく、今も境内には勇耶と栞の二人だけであった。
周囲には勇耶の五倍ほどある大きな銀杏の木が生えている。幹からいくつも別れている茶色い枝には、緑色の芽吹きを確認することができた。これから開花して、十一月ぐらいにはどれも鮮やかな黄色に染め上がることだろう。
「でも、なんとなく神田林とは付き合うって感じじゃなくて、あいつとはいい友達っていうのか、気の合う女子というか……うまく言えないけど、そういうんじゃなかったんだよ」
「そんな曖昧な気持ちで、藍ちゃんのことを振った?」
「曖昧っていうかさ……あー、いきなりのことで、おれだってどうすればいいかよく分からなかったんだ……なことより、そっちはどうなんだよ? なんで急に部活を辞めようなんて考えてるんだ?」
「あれれ? 話題を逸らして、誤魔化そうとしてる?」
「……半分はしてるけど、半分はお前の心配してる。いや、全部お前のことを心配してる。なんたって、いきなり部活を辞めようとしてるんだからな」
「『いきなり』ってわけじゃない」
栞は缶のミルクティーを口にして、小さく息を吐く。
「まず言えるのは、全面的にもりやーが悪い」
「あんまりうまくいってないみたいだな」
入学した当初は選手と顧問という関係で話し合っている感じだったが、いつの頃からか、二人が衝突するようになっていた。
「変なことでも言われたのか?」
「あの人、気持ち悪い。あー、身の毛がよだつ。もりやー、熱心な振りして近づいてきて、わたしに言い寄っては騙そうとしてる。果ては家族崩壊を目論んでる。許せない」
「……また壊滅的な展開になってるな。もりやーが詐欺師のように聞こえるけど」
「過言じゃない」
「『じゃない』の方なんだ」
栞はきっと練習で反りが合わないことを大げさに言っているのだろうが……目に力を入れて憤慨している姿は、冗談を言っているように見えない。思い返しては怒りが込み上げているみたいに、ぎゅっと唇を噛んでいる。心の底から森乃山のことを嫌悪しているに違いなかった。
だとすれば、『栞を騙そうとしていて、果ては家族崩壊を目論んでいる』なんて、とても聞き流せる発言ではない。
「本当のことなら、けしからんな」
「本当のことだから、けしからぬ」
拳を握る栞。その顔に笑みはない。けれど、十秒もしないうちに、強張っていた顔から力が抜けていく。
「もりやーがけしからぬことにプラスして……最近わたし、ちょっと忙しくて、今はちょっとお休みしてる。うん、だらけてる、わたし。こんなんじゃいけないんだろうけど、こうなっちゃってる。仕方がない」
栞は、疲労が蓄積されていることを表すように肩をがっくりと落として……直後に元気に跳ねた。背中で縛った髪を大きく揺らし、すぐ横の賽銭箱の前に着地。鈴を鳴らして、二回手を打ち、頭を下げる。
次に上げた顔は、僅かながら頬が緩んでいた。今の行為で荒ぶる感情が清められたのかもしれないが、多分違うだろう。
栞は、現在家庭で起きている重大事件を、あたかも大したことではないように、さらっと口にする。
「今、お父さんが入院してる。だから、毎日お世話しなくちゃいけないというか、着替えを持っていってあげないといけなくて、それでお休みしてる」
「えっ、入院してるの?」
「うん、入院」
決して愉快な話ではないのに、栞はにっこりと微笑を携えながら、再び床の高い場所に腰かけていく。
「まあ、お父さんの入院はやっぱりついでで、部活を休んでる一番の理由は、もりやーの顔を見たくないってこと。それが本音。部活だったら高校入ってもできるし、ランニングだって朝晩してるから、部活辞めたからってすぐ体が怠けるってこともないし、なら、辞めてもいい……というより、これもどれも全部、悪の根源はもりやー。今年、担任があいつじゃなくてほんとによかった」
「どういうことどういうこと? 入院ともりやーと、休みがちな部活と、どう関係してるんだよ?」
「うーん、分かりやすく言うと……お父さんが入院してるから、毎日病院にいかないといけなくて、部活は休みがち。顧問のもりやーのことが嫌いだから、もう陸上部は辞めたい。一番いいのは、もりやーがどっか遠い学校に転勤するか、陸上部の顧問を辞めてわたしが陸上をつづけること」
それ以外に道はないと言い切った。
そんな栞の主張に対して、勇耶はその耳に入ってきた栞に関する情報を整理していく。
(えーと、結局のところ、もりやーと反りが合わないってことなんだろうな)
栞はもりやーこと森乃山をとことん嫌っているみたい。森乃山の発言や行動が熱血漢っぽいので、勇耶もどちらかといえば苦手である。担任だけでもしんどいのに、もし部活が同じでもりやーとマンツーマンの練習をしなければならないと想像してみたら……嫌気以上に嫌悪感が臨界値を突破してしまった。そう思うと、栞はよくぞ今まで我慢してきたものである。感心するとともに、忍耐力は尊敬すら値する。
そしてそして、栞の父親が入院しているという。その影響で、栞は毎日着替えを持って病院にいかなくてはならず、物理的に部活に出ている時間がない様子。それなら、部活に出ていない理由も頷ける。
と、この瞬間、学校近くのコンビニで抱いた大きな疑問が氷解する。
「……ああ、トランクスって、お父さんのね」
「それ以外に誰が?」
「ふぇ……? う、うん。お父さんだよね。そうだそうだ。あー、お父さんしかいない。うん、なるほど。なるほどなるほど」
そういうことらしい。腑に落ちたと同時に、変な誤解をしていた自分があまりにも恥ずかしい。あろうことか、女子の栞がスカートの下にトランクスを穿いている想像をしてしまうとは……自分があまりにも恥ずかしい。苦虫を噛んだように表情が歪み、胸の奥に苦々しい思いが広がっていくよう……首をぶるぶるぶるぶるっと小刻みに振ることにより、この勘違いは都合よく忘れることにする。なかなかすんなり忘れることはできないかもしれないが、無理してでも強引にでも忘れることにする。
はい、忘れた。
「病状はどうなんだよ? そんなに悪いのか? ずっと部活を休まないといけないぐらいに」
「ううん。来週には退院だけど」
「あ、それほど深刻でもないのね……」
張っていた肩から力が抜けてしまう。
「なら、部活つづけたら?」
「うーん、どうしよう……? 春休みから休みがちだったから、その間に部活のない日を過ごしたわけ。で、部活があるときは部活がある日常が当たり前だったけど、ないときはないときが日常になる。そして思った、『部活、なくてもいっか』って」
『テスト一週間前は部活動が禁止になる。その期間は通常とは違う時間を過ごす。しかし、その期間が延長されて、ずっと部活のない生活にどっぷり浸かると、放課後に部活がないことが当たり前になり、部活のある日が特別なものになる。部活の練習はしんどい、練習がないのは楽。ならば、したいとは思えなくなる』といったことが栞の主張。部活の必要性を感じず、さらには、陸上にそれほどの思い入れはないという理由が、部活を辞める方向に拍車をかけている。
部活から遠ざかろうとしている現状に、栞は視線を上げて、どこでもない虚空を見つめていく。
「そもそも、わたしが陸上部に入ってるの、お母さんの影響だから」
栞の母親は、小学校から高校まで陸上部に入っていた。それも、小学生の頃から県大会で優勝して全国大会に出場するほどの実力者。
そんな母親に育てられれば、自然と背中を追いかけるように、同じ道を辿っていく。栞が陸上部に入ったのは、そんな母親の存在にあった。
「お母さんとは種目が違うけど、陸上は陸上だから……けど、これまではそうやってお母さんと同じことをするのが当たり前だと思ってたけど、でも、そんなことする必要ないことに気がついた。同じ小学校に入って、同じ中学校に入ったからって、わたしはわたしで好きにすればいい。そう思う」
それは、父親の入院期間により、練習がなくても栞の生活に影響がないことを知って。
そもそも栞は、大会での活躍なんて、望んだわけではない。
それ以前に陸上部に入ることも、望んだわけではない。
自ら陸上をやろうという意識はなかった。
なら、陸上をやっていること自体、栞には必要ないこと。
「だから、もういい」
小さく口角を上げる栞。これまで内側にしまっていた思いを吐き出せたことで気持ちが軽くなったよう、どこか晴れやかな表情。
(…………)
そんな晴れ晴れとした栞の姿、勇耶には存在自体が実に希薄に感じる。陸上部に関する執着がまるで感じられず、きっと今のは本心なのだろう。陸上部のホープであるのに、そんなものに固執することなく。
勇耶は、このままでは本当に退部届を出しかねない栞を前に、どうにかしなくてはならないと思った。そんなの、みすみす指を銜えて見ている場合ではない。
なんせ相手は、あの栞である。
勇耶はサッカー部の練習のとき、目の端に映る栞の姿に触発されて、ずっと励まされてきた。『一年生でもああして活躍することができる! なら、自分だって負けてられない!』と、家に帰ってからもトレーニングのためにランニングをはじめたのだ。そういった意識を持てたことで、最近は部活の練習にやり甲斐を抱くことができている。そう思わせてくれた栞には、なんとしても部活を辞めてほしくない。
そして、あの姿をずっと眺めていたかった。半円を描くようにバーに向かっていく姿は跳ねるようで、背面跳びで宙を舞う瞬間は羽のようにふわりっと浮かぶ。V字になってマットに弾む様子は芸術的。その一連の動作が、とても魅力的であり、ずっとずっと見ていたい。
「あのさ、斑美」
勇耶のわがままになってしまうが、栞には部活をつづけてほしい。それが願い。勇耶はありのままの気持ちをぶつけていく。
「お前の気持ちもあるんだろうけど、おれは見てたいよ、お前が頑張ってるとこ」
「どうして?」
「だって、凄いじゃん。あんなに高いバー、なかなか越えられないぜ? しかも背面跳びでなんて。あれがまた結構きれいなんだよな。授業でやってるベリーロールとは大違いだ。やってみたいけど、向かっていく方向に背中向けるなんて怖いし、おれにはとても無理だ。でも、あんなきれいにやってるんだから、お前にはやっぱり才能があるんだよ。今辞めるなんてもったいない」
「才能なんてないし、やりたいとも思わないからもったいないとも思わない。だから、やる理由なんてない」
「理由がないならさ、おれのためにやってくれ」
話の流れでつい口にした言葉であるが、『おれのためにやってくれ』なんて図々しいことを言ってしまった。まるで告白したみたいで瞬間的に耳が赤くなり、弾けるように視線が反対側に向けられる。
(わっわっわっわっ!?)
正面にある銀杏と銀杏の間に視線を彷徨わせて……恥ずかしい思いを抱くも、このまま黙っているわけにもいかず、相手に見えないように息を吐いて……口を動かしていく。
「……い、いつも休憩してるとき、お前が頑張ってるのを見るのが好きというか、習慣なんだよ。『斑美のやつ、またあんな高いの跳んでる。凄いなー』って。それが急になくなったら、寂しいだろう?」
「それっていうのは、おにぎりでいうところの昆布?」
「昆布?」
懸命に考えてみる。
「……確かに、さっと手が伸びるのは梅とか鮭とか焼きたらこだけど、たまに食べたくなるから、なくちゃ困るな」
「そっか、昆布だったんだ、わたし」
さらっと言ってから、栞は複雑な心境を処理するように頬を膨らませていき……ぷぷぷっと吹き出した。手をぱんぱんっと叩き、心から愉快層に笑っていく。
「あー、もー、分かった、もうちょっと頑張ってみる。もうすぐお父さんも退院することだし、わたしはどうでもいいけど、下釜くんのために頑張ってみる」
「その意気だよ。やっぱり今辞めるはもったいないって。今年こそ全国大会出場だ」
「さらば、部活のない日々。振り返ってみると、素敵な一か月だった。かけがえない日々は、一生忘れない」
「……部活がなかっただけで、随分と感慨深い大げさな一か月間になったもんだな。んっ……? 一か月?」
今から一か月前といえば、春休みに入るか入らないか、という頃。それが示す通り、栞が部活に顔を出さなくなったのは、春休みぐらいだった気がする。
瞬間、勇耶の脳裏にある印象的な場面が蘇った。
「もしかして、入院したの、終業式の日じゃなかったか?」
「うーんと……そう」
「なるほど、そういうことか」
得心いくことがあった。三学期の終業式の日、下校しているときに森乃山が運転する車に栞が乗っているのを目撃した。あれはきっと、父親の入院と関係があったのだろう。
(そういった事情があって、担任だったもりやーの車に乗ってたってわけか。なんか深刻そうな顔してたのも、そういうことだったなんだなー)
ここまで抱えていた疑問が解消されたことに、気分が軽くなった。ほとんど忘れていたような疑問だったが、それでもこんな気持ちが爽やかになるのだから、心のどこかにずっと刺さっていたのだろう。
(大変だな、親が入院するなんて)
隣に座る栞を見てみると、両腕を空に向かって気持ちよさそうに大きく伸びをしている。曇っていたものが、さあーっと晴れていくように。
勇耶の視線に気がついた栞は、にっこりと微笑み、小さく頭を下げていた。
「ありがとね、下釜くん。ちょっとだけ元気になれた」
「お、おう。どってことないよ」
なんとなく、二人の間にいい雰囲気が感じ取ることができる。こんなこと、これまでの学校生活になかったこと。実際、勇耶の胸はほっこりと温かくなっており、二人の距離が今までにないほど縮まった気がする。元クラスメートという関係から、相談を打ち明けてもらえるような親しい間柄に。
(……今なら)
感情の強さに、勇耶の喉が鳴る。
今だったら、言えるかもしれない。
気持ちを伝えることができるかもしれない。
三学期の終業式の日、誰もいない南校舎で藍が告白してくれたように、今度は勇耶が燻る思いを伝えるチャンス。
また喉が鳴る。ごくりっ!
一瞬にして帯びる絶頂の緊張は、全身を雁字搦めに縛りつけるよう。
胸の鼓動は決壊した川のように、自身を呑み込んでいく。
思わず逃げ出してしまいそうな震える衝動をぐっと抑えて、勇耶は拳をぎゅっと握って口を開けた。
最大級の勇気を振り絞って。
思いを奏でていく。
「……あ、あのさ、斑美」
「ただ、部活はいいけど、顧問がもりやーだから、しんどい」
「……あれ、まだ迷ってるの?」
「これだけは譲れない。うーん、どうしたら……あっ、ごめん、早く帰って病院いかないと。下釜くん、今日はありがとう。また」
栞は高くなっている床からすとんっと地面に下りると、新品のトランクスが入っている手提げ鞄と紅茶を飲み干した空き缶を持ち、顔の横で手を振った。直後には、飛び石を駆けていき、巨大な鳥居を潜って百段ある石段を下っていく。
そんな栞の跳ねるような背中を見送る勇耶は……帯びていた緊張から解き放たれるように全身から力が抜けていき、ぐったりと脱力したまま前屈みになっていく。
(あー、あー、あー、あー)
せっかく決意したのに、告白する気持ちが成就されなかったことは非常に残念。しかし、今はその行為をせずに済んだ安堵感が残念さを上回っていた。暴れていた胸の鼓動は、すぐ気にならなくなる。
(……結構難しいもんだな、『好き』って言うの。くそーっ!)
決意を行動に移すことはできなかった。しかし、二年生になってクラスが別となり、ずっと話せなかった栞と久し振りに話せたこと、さらには部活を辞めようとしていた栞を思い留めることができたこと、そしてそして、栞から『ありがとう』と言ってもらえたこと、気持ちが浮き上がるような心地よさを得る。このまま天まで飛んでいってしまいそう。
中学二年生の春、勇耶の中で何かが変われた気がした。
※
ゴールデンウイークには、サッカー部の試合があった。残念ながら、勇耶は試合どころかベンチに入ることもできず、一年生とともにチームの応援に声を嗄らすことになる。そんな勇耶の応援もあってか、一回戦を突破できたことで、連休二日目も試合となった挙げ句、呆気なく敗退。それも一対六の惨敗。『あの強豪によくぞ一点取れたものだ』と前向きに試合を振り返り、勇耶は『今度は自分があのグラウンドに!』と強く願った。三年生がいる間は難しいだろうが、それでも努力しようと密かに闘志を燃やしている。
連休が明け、世間に日常が戻ってくる。気怠い感じが教室を漂うも、二日もしないうちにいつもの生活に戻っていた。その辺りが中学生の順応力である。
五月中旬になると、徐々に気温が上昇してきて、学校には夏服のカッターシャツが目立つようになる。それに従い、女子の生地の薄い半袖のシャツに目を奪われること、あるにはあるし、ないことは断じてない。『つい』である。
校庭の桜はすっかり葉桜となり、夕方になると虫の音も聞こえる。太陽は徐々にその姿を出す時間が増えていき、燕が元気に空を横切っていく。
そうして巡ってきた五月の最終日、中学二年生の勇耶は、心が握り潰されるような事実をクラスメートの女子から伝えられることになった。信じてきた世界が、一気に崩れ去っていくほどの衝撃を得て。思わずその場に膝から崩れていくことになる。
五月三十一日、火曜日。
東凪中学校では、来週中間テストが実施される。それに伴い、放課後の部活動は禁止となり、全生徒は早く帰って勉強しなければならない。考えただけで憂鬱である。
しかし、掃除を終えた勇耶は、家に帰ろうとして、帰れない事態に陥った。その理由は、二年六組のクラスメート女子が声をかけてきたから。
それも、やけに弾んだ声で。
実に楽しそうに。
「ねぇねぇ、勇耶、知ってる知ってる?」
中学二年生といえば、成長期真っ只中だというのに、まるでそこから除外されたみたいにクラスで一番低い女子、神田林藍。頭は勇耶の肩ぐらいしかなく、初対面なら小学生と紹介された方がしっくりくる。白いカチューシャのある頭をひょこひょこっ上下させながら、口元は意味深長に緩ませていた。
「大変よ、愛しのしおりんが大変よ」
「わーわーわーわー」
教室にはまだクラスメートが残っている。大声で『愛しの』なんて聞かれるわけにはいかない。無理矢理藍の口を止め、二人で南校舎を目指していく。
渡り廊下を渡って辿り着くのは、南校舎三階にある美術室の前。ここは三学期の終業式に藍から告白された場所。自然と足が向かった先だが、まるでこの場所に引っ張られていたみたい。
この階には美術室と音楽室があり、普段は文化部が活動しているが、テスト前の今は誰の姿もなかった。しーんっ……と不気味なまでに静まり返っていて、まるで知らない場所みたい。
「で、斑美がどうしたって?」
「気になる気になる?」
夏服の制服である半袖のシャツに紺色と茶色のチェックのスカートを靡かせながら、藍は目を細めている。
「そうかそうか、そんなに気になるか、仕方がないなー」
「なんだその押売りのような言い方は? お前が変なこと言わなきゃ、おれは平和な
「洒落た言い方しちゃってさ。いいの? しおりんのこと、聞きたくないの? 気になって気になって仕方がないくせに」
「そこまで気になってるってことは、ないけど……」
「へーへーへーへー。なら、言わなくてもいいかな?」
「む……」
廊下からは北校舎と南校舎の間にある中庭の様子が見える。一定の間隔で
我慢。
「で、斑美がどうしたって?」
「ほら、やっぱり気になるんだー」
「気になるっていうか、別に……」
「へーへーへーへー。別になら、話さなくてもいいよね?」
「……気になる」
「うん、素直でよろしい。あのねあのね、大ニュースなの」
一拍溜めて、藍は衝撃的事実を告げる。
「一昨日ね、しおりんが
「はあぁ!?」
すぐ斜め下から投げつけられた情報は、凄まじい剛速球で、勇耶の心を抉る大ニュースだった。栞が誰かとデートしただなんて、ずっと描いてきた幻想を打ち砕くのに充分な破壊力。だがしかし、受けた衝撃を相手に悟られないように、なるべく無関心を装いたいところだが……あまりにも動揺が激しく、つい目が泳いでしまった。激しくクロールしては水面を波立たせては、バタフライで溺れそうになるほどに。
そんなパニック寸前の勇耶のことを見ているのが愉快なようで、栞は頬を大きく緩めて、言葉をつなげていく。
「昨日の朝練でね、なんか二人がぎくしゃくしてるように見えたの。しおりんに問いただしたら、なんとびっくり、デートしたんだってさ。きゃー。でもってでもって、なんか、矢橋部長から告白されたらしいよ。きゃー」
「…………」
放たれた言葉は、棒立ちしていた勇耶に、強烈な大砲を打たれた気分だった。今にも膝ががくがくっと震えて、落ちるようにしゃがみ込みたくなる。
話題にある矢橋とは、三年生で陸上部の部長。陸上をやっている人間特有のすらっとした長身で、男の勇耶から見ても格好よく思える。勇耶とはかけ離れた存在であり、比べてみれば、勝ち目なんてありっこない。それが敗北感全開の勇耶から見た陸上部部長、矢橋の印象であった。
そういえば、練習がはじまる前は終わった後、よく栞と二人で喋っているのを見る。二人とも実に楽しそうに。今にして思うとあれは、そういうことだったのだろう。
瞬間、暗黒の絶望感に覆われていく。
足元がぐにゃぐにゃと揺れているようで、ちゃんと立てているかの自信もない。
「…………」
「あの矢橋部長に告白されちゃったら、そりゃねー。きゃー」
「…………」
「いいないいな、しおりんいいな。幸せ、分けてほしいなー。きゃー」
「…………」
「あたしなんて、こんなやつに振られたっていうのに、しおりんはあの矢橋部長とだなんて。きゃー」
「……帰る」
重たい足取りで歩いていく。その姿、傷を負った兵士のように。
今まで藍と話していたことを忘却するように、今は止まることなく、ここではないどこかに向かってずんずんずんずんっ走っていきたかった。信じていた未来に裏切られた被害者妄想のまま、気を抜くと、開いている窓から身を投げ出したくなる。
刹那には、わさびを食べたときのように鼻の奥の方がつーんっと刺激されて、どんどん熱を持っていくことに。
(……そんな)
先月の青願神社のやり取りにより、栞とは少しだけ仲が深まったと思ったのに、一か月後にこんな絶望的な気持ちを抱く羽目になろうとは……輝きの存在しない、不幸な沼にずっぽりと身を浸している気分で、人生が深く底のない闇に呑み込まれていくみたいだった。
相手は陸上部の部長。ならば、勇耶なんかでは到底敵いっこない。とすると、もはや諦めるしかないだろう。どれだけ好きな思いを持っていたところで、クラスも部活も違って接点があまりにも薄い勇耶に勝てる可能性なんて、無に等しい。
そもそも栞は陸上部のホープである。学校の成績もよく、勇耶からすれば高嶺の花。憧れるだけの雲の上の存在。一瞬でもあの隣に立とうなんて思ったことが愚かである。勇耶では、そんな資格すらありはしないのだから。
僅差で敗北なら悔しさも残るだろうが、完敗以前に勝負にならない状況だけに……すっぱりと忘れられるかもしれない。去年一年間抱いてきた、栞に対する気持ちは。
どうにもできないから。
さようなら、甘い気持ちを抱いてきたこれまでの自分。
※
六月七日、火曜日。
今日は中間テストの最終日。午前中に終え、午後の授業は予定されていない。生徒にとっては解放感いっぱいの清々しい気持ちに覆われることだろう。
その生徒の一人である勇耶は、テスト最終日を終えて、
「…………」
さんざんだった。テストの手応えについて、地の底どころか地中を深く突き進んでいくほどに、洒落にならないものとなっている。
先週からずっと頭には栞のことが思い浮かんでしまい、ここ一週間、テスト前だというのにまったく勉強が手につかなかった。その結果、今の真っ暗な気持ちがある。
嘆息。
「はあぁー……」
放課後。今週は掃除当番ではないので、帰りのホームルールを済ましたらすぐ下校していく。肩をがっくりと落としながら、学校指定の鞄を肩に、南門を出て迷うことなく右折。
あの日以来、勇耶は一人で帰るときは、この道を真っ直ぐ西方に向かうルートを選んでいた。淡い期待を持って。またあの偶然が訪れるように。青願神社のあの奇跡を。
(…………)
信号待ちをしている振りをして、ファミリーマートを覗いてみたり、早足で前方の女子生徒の姿を確認したり、ゆっくり歩いて後方からの生徒を待ってみたり。
けれど、あの再会を再現することができない。
できないままに、先週藍よって告げられた驚愕の事実を突きつけられて、勇気を持って告白もする前から振られたように気分がめげている。
こんな気落ち、いつまでも引きずっているわけにはいかず、気分を変えようとして……そう簡単に切り換えることができないから、テストがさんざんだった。
未熟。
(…………)
午後からは部活の練習があり、早く帰って昼食を食べなければならない。重たい足取りではいつもの一・五倍ぐらい時間がかかることだろう。
嘆息。
(…………)
勇耶の横を、同じ制服を着た男子生徒二人が追い越していく。テストから解き放たれたからだろう、楽しそうな笑みが弾けていた。団地横を歩いていると、自転車に乗った主婦に追い越されて、次の道を左折していったことを目にする。勇耶もいつまでもこの道を歩いておらず、あの自転車のように左折しなければならない。家はそちらにあるのだから。
(…………)
歩いて歩いて歩いて歩いて……そして、青願神社のある小高い丘が見えてきた。今はただただ
(……もう)
もう諦めよう。少し遅かったかもしれないが、これ以上期待することなく、すっぱり諦めよう。
でないと、いつまでも覇気のない生活に身を置くことになる。
大きな息が漏れた。
大切に抱いてきた気持ちは、紅茶に溶けていく角砂糖のように、形を失って消えていく。
(…………)
左折する道を目に捉えて、これまで抱いてきた大切なものが、指と指の間を擦り抜けて失われていく喪失感を得るも、どうすることもできない。
(…………)
これで、すべてが、終わる。
(…………)
さようなら。
(…………)
「下釜くん、こんちはっ」
「……なんでさぁ!?」
勇耶の内側に渦巻く複雑な気持ちは、意味もなく語彙を荒げるものとなった。
たった今、諦めたばかり。もう自分が淡い期待をしてはいけない。甘い妄想をしてはいけない。勇耶は勇耶であり、見上げるばかりの人物とは関わり合いになることなんてない。高嶺の花にはどうあったところで手が届かないのである。であれば、すっぱり諦めよう……としていたのに。
なのに。
それなのに。
「斑美ぃ!?」
「あれれ? ごめん、驚かせちゃった? そんなに大きな声は出してないけど。うん、ごめん。素直に謝る」
「…………」
栞がいた。この道は栞に偶然会うために歩いていたが、なかなか叶わず、もう諦めようとしたタイミングで……栞が現れた。
そして今は、横に並んで一緒に同じ方角に歩いている。
「…………」
栞を見て、勇耶の口は、そうすることが定められているみたいに、自然と次の言葉を紡いでいく。このまま気持ちを続行するにしろ、諦めるにしろ、真実を本人の口から聞くために。
「お前、先輩に告白されたんだってな?」
「あぐっ!?」
目が丸くなる栞だが……すぐに元通りの楕円に戻っていく。思案するように斜め上に視線が向かっては、そこにある人物を思い浮かべるように、頬を硬直しながら苦々しい表情となる。
「それ、藍ちゃんでしょ? あの子、ほんとにお喋りなんだから。あれだけ口止めしたのに」
頬を膨らまして、栞は後ろで縛った髪を大きく揺らしている。空想にいる藍を睨むように力を入れたが、五秒後には力が抜けていった。
「告白された。びっくり」
頬を僅かに赤く染めた栞の言葉が、どれだけ勇耶の心を打ちのめすものかを知る由もなく、栞は言葉をつづけていく。
「矢橋部長、映画のチケットを親戚の人にもらったらしい」
先週の金曜日、栞は練習後に映画に誘われていた。春休みに迷惑をかけたことと、日曜日は暇だったので、断るのもどうかと思い、映画についていった。デートである。そしてその帰り、別れ際に告白された。『好きだ』と。
「まあ、矢橋部長はいい人だし、部活でもお世話になってるし」
「そ、そう……」
暗い気持ちに輪がかかっては、一気に押し潰されそう。デートや告白については藍から聞いた話であり、藍の冗談や勘違いという可能性もあったが……当の本人に告げられてしまえば、もうどうにも事実が覆ることがない。
嘆息。幾度となく嘆息。この上なく嘆息。
嘆息。嘆息。嘆息。嘆息。
改めて、嘆息。
「……それは、よかったな」
勇耶は、『あくまでも自分は関係のないことを装う』ように、素っ気なく呟くのが精一杯で、それ以外の言葉が出てきてくれない。しかし、その胸はぽっかりと大きな穴が空いたようで、喪失感は小学三年生のときに飼っていた甲虫が死んだときの百倍はあった。
痛い。
あまりにも痛い。
心にある大切な部分が猛烈に痛い。
「ほんとに、さ……」
祝福すること、それが今の勇耶にできること。栞が幸せになれるなら、お邪魔虫はそっと身を引くしかない。人生の終焉を迎えるような切なさを押し隠し、意に反する言葉をかけていく。
「よかったじゃん……おめでとう」
「あれれ? どういうこと? どうして『よかった』なんて、『おめでとう』なんて言う? 下釜くんは分かってない。うん、ちっとも分かってない」
むすっと頬を膨らませて眉を上げる栞。デート当日のことを思い浮かべるように中空を見つめてから、小さく息を吐く。
「ちっともいいもんじゃない。だって、相手は先輩。なら、断るのだって気遣うから、大変で大変で。もうあんなのたくさん。今度からもっとうまく断れるようにならないと」
「へっ……?」
勇耶の瞼がぱちぱちぱちぱちっと高速で動いていく。真っ暗だった暗黒の世界に、闇を切り裂く一筋の光が射し込むよう。
(もっとうまく断れるようにならないと……?)
状況をうまく把握できずに、頭が真っ白に……数秒後には、勇耶の口元が綻んでいくのを止められなかった。
「もしかして、断ったのか? その先輩と付き合ったんじゃなくて?」
「うん、断った。あれれ? 藍ちゃんから聞いてない?」
「聞いてない!」
一切聞いていない。先週の藍とのやり取りを瞼の裏に思い浮かべると……確かに付き合っているとは言っていなかった。『先輩とデートにいった』『先輩に告白された』『翌日先輩との間がぎくしゃくしていた』といった内容だったが、あの慌てた様子からすると、てっきり二人が交際するようになったと思い込んでいた。
とすると、勇耶の早とちりということになる。恥ずかしい。
瞬間、勇耶の脳裏に藍の喜色満面が浮かんだ。動揺しているこちらのことをおもしろがっているみたいに。
(あんにゃろぉ!)
血管が三本は切れたぐらい、怒り爆発である。勘違いしたのは勇耶であるが、はっきり言わずに曖昧な表現をしてこちらをからかった藍は、やはり悪意のある計画的な犯行だったに違いない。
ただ、冷静に考えてみると、二人が付き合うようになったなら、藍の話にあった二人の関係が『ぎくしゃく』することはなかったはず。その情報からでも気づくべきだったのだろうが……なんにしろ、この迸るような怒りは藍にぶつける必要がある。
(くそーっ!)
勘違いしたばかりに、ここ一週間深く落ち込むことになり、テストもさんざんな結果となった。
それもこれも、すべて藍が悪い。そういうことにする。なぜなら、まだ勇耶の心には、腹を抱えて抱腹絶倒している藍の姿があるから。
(くそーっ! 神田林め! 覚えてやがれ!)
藍への憎しみが全身を焦がさんばかりに燃え滾っていた。
そんな様子を栞に不思議がられて、勇耶は慌てて胸の前で手を振る。
「そうかそうか、お前たち、付き合ってはいないんだ。付き合ってないってより、振ったんだね。なるほどなるほど、振ったんだ。なるほどねー」
「あれれ? なんかちょっと嬉しそう?」
「んっ……? あ、いや、なんというか、嬉しいっていうか、嬉しいというのか……」
無茶苦茶に嬉しかった。あくまでも栞に対する気持ちは秘密なので、噴火寸前の感情は力の限り抑えているが、しかし、ここに栞がいなかったら、嬉しさのあまりにガッツポーズを振り下ろしてアスファルトの地面を叩きつけた挙げ句、フーリガンみたいにその辺の看板や石を投げつけてはご近所の迷惑になり、結果として警察や機動隊の出動となっていたことだろう。そこまでの激情が勇耶に渦巻いていた。
(これって)
考えてみれば、現状は大チャンス到来を意味している。先週の落ち込みは、そもそも自分から告白していれば、あんな思いをしなくて済んだはず。そしてそして、今は恋愛の話をしているから、告白するのは決して不自然ではない。『なぜ栞が先輩との交際を断ったことが嬉しい』という説明にもなるし。
今である。今こそが最大のチャンス。
話しながらで随分と歩調を緩めていたが、それでも視界には青願神社のある丘が眼前に迫ってきた。直進する栞に対し、勇耶は左折しなければならない。ならば、今。今こそが最大のチャンスであり、もしかしたら最後のチャンスかもしれない。
喉が、ごくりっ!
いく!
「あ、あのさ、斑美、ちょっといいかな?」
とくとくとくとくっ! 心臓が早鐘のよう。鼓動は手を当てなくても伝わってくる。
熱い!
きっと顔は真っ赤になっていることだろうが……気にすることはない。今は自分の気持ちを伝えることに集中すべきである。なんせ、今しかないのだから。
「その、先輩と付き合ってない、っていうならさ……」
今である! 今こそ突き抜けるとき!
「おれとさ、その……」
今こそ、ありったけの勇気を振り絞る瞬間である!
「付き合うっていうか……」
「わたしね、彼氏彼女っていうか、男子と付き合うっていうこと、興味はあるといえばあるけど、でも、まだいい」
「へっ……」
「今はそんなことより、家の方が大変だから、まずそっちをなんとかしないと。今は誰とも付き合う気なんてない。あー、それにしても、矢橋部長には悪いことしちゃった」
「あ、ああ……」
勇耶は、ぱんぱんっ! に膨らんで、今にも破裂しそうな風船が、一瞬にして萎んでいくような、激しい萎えを得た。『誰とも付き合う気はない』なんて、どうしようもない。
受けたショックに表情が歪んだまま、かちこちっに硬直する勇耶。
そんな勇耶の気持ちを知る由もなく、栞は元気に手を振っていく。
「それじゃあ、下釜くん。わたし、お昼食べてから部活だから。ふふーん、この前約束したみたいに、部活、ちゃんと下釜くんのために頑張ってるから。華麗な姿、ちゃんと見てて」
この前の青願神社でのやり取りを言葉に含ませてから、栞は西方へと歩を進めていく。颯爽と。迷いなく。一度も後ろを振り返ることなく。
遠ざかっていくそんな栞の背中に、石化したみたいに交差点で立ち尽くしている勇耶。
(…………)
また。
(…………)
また告白する前に、告白そのものが駄目になってしまった。
(…………)
下校時にあった今日までのテストのできを悔やむ気持ち、藍への憎しみ気持ちが掻き消されるほどに、ただ今はそうして呆然と立ち尽くしている。その瞳から住宅街を歩いていく栞の背中が見えなくなるまで。
(…………)
本当に、うまくはいかないものである。
がっくり。
※
六月になると、空気の密度が濃くなっていく。肌にまとわりつくようになり、むしむしと蒸し暑い。梅雨である。今年もその時期がきてしまった。憂鬱さはあらゆることに無気力になってしまう。
梅雨といえばどんよりとした曇り空。どんよりとした曇り空といえば雨。雨が降るとグラウンド状態が悪くなり、使用不可となる。すると、グラウンドを使用している部活は練習が休みに。希望としては体育館で行いところだが、体育館には体育館を使用するバレーボール部やバスケットボール部があり、練習時間を譲ってもらうことができない。だからグラウンドを使う運動部の活動は、せいぜい顧問が担当している教科の移動教室で筋力トレーニングとなる。理科室で腕立て伏せだったり、近くの階段をダッシュしたり。
雨でじとじとする時期を耐えていくと、世界は七月に突入する。七月といえば、学校で期末テストが実施され、梅雨とは違う憂鬱さが渦巻く。中間テストが目も当てられない結果となった勇耶は、汚名返上とばかり勉強に取り組んだが……元々の学校の勉強にセンスがないというか才能がないというかやる気がないというか気力がないというか……期末テストの結果として、汚名は返上できたかもしれないが、名誉を得ることはなかった。褒められるような成績ではなく、『悪くなかっただけ、まし』と処理することにする。
そして梅雨が明けると日差しが強くなり、うんざりする暑さに見舞われた。学校では一学期の終業式が行われ、同時に、長い夏休みがはじまる。
勇耶の予定は部活の練習がほとんどであるが、大会で三年生が引退するため、なんとしても花道を飾れるように、サッカー部に貢献しようと心に決めている。なんだかんだで、先輩は先輩である。いるといるでしんどい面もあるが、大切な存在に違いはない。
そんな勇耶の生活、部活以外の話題だと……意中の栞については、廊下で擦れ違うと気軽に声をかけ、少しは話をするようになった。やはり青願神社でのやり取りが、クラスが別れても二人の関係をつなげていたのだろう。あの日の自分に感謝である。といっても、『今は隣のクラスにいる元クラスメート』という関係に変わらない。進展したいところだが、なかなか叶えられるものではなかった。そういったことをよく現クラスメートの藍にからかわれること、癪でしかない。
ただ、夏休みに入ってからは、学校の廊下で擦れ違うことがなくなるため、話す機会が皆無となる。接点といえば、同じ練習日にグラウンドの隅から眺めている程度。下校時に一緒になることを期待したいが、こちらもこちらで一緒に帰る人間がいるように、あちらもあちらで一緒に帰る人間がいて、都合よく二人で下校するという願いは叶えられていなかった。
嘆息。
そうして学校が夏休みに突入することで、栞との接点が希薄となる勇耶だったが……それが盆を前にした八月八日、思わぬ展開を迎えることになる。
それはもう二度と体験することはできないだろう凄まじい経験をすることに。
それも、勇耶と栞の二人で。
かけがえのない一日に。
青春である。
※
八月八日、月曜日。
夜八時。夕食はかつ丼だった。中学二年生という成長期にあるのに、夏休みに入ってから暑さのせいで一キログラムも体重が落ちてしまった。連日三十五度を記録する毎日では、水分を補給しても次の瞬間には汗となって流れていき、最近は頭がぼぉーっとする。夏ばて気味。台所でご飯を食べていても、麦茶の入ったコップのように汗を大量に掻き、エネルギーを摂取しているのか消費しているのか分からなくなる。同級生と比べると勇耶は痩せている方なので、これ以上体重を落とさないために、無理してでもご飯をお代わりするように心がけた。その分、汗が出ては目に入ってくること、不快で仕方ない。さすがは一年で唯一、『不快指数』が気にされる季節だけのことはある。
夕食後、居間でテレビのバラエティー番組を観てはげらげらっ笑って汗を掻き、洗い物を終わった母親が居間にやって来たタイミングでテレビのリモコンを渡し、勇耶は照明の消された玄関に向かう。横に黒い線のあるスニーカーの紐を強く縛った。
今日は朝から夕方まで、熱中症が心配される炎天下のなか、学校のグラウンドで部活の練習があった。家に帰ってきてから水でシャワーを浴びてからずっと黒いTシャツに紺色ジャージ姿で過ごしている。その格好をしている理由は、過ごしやすいという点もあるが、夕食後にランニングするため。
玄関でスニーカーを履いて、扉が開いている居間に顔を向ける。
「いってきます」
夕食後のランニングは去年からつづけている。すべては一年生でありながらも県大会三位という結果を出した栞の活躍に感化されてのこと。当時はクラスメートで、こんな身近にスーパースターがいること、刺激されない方がおかしかった。強く惹かれ、そういう存在に少しでも近づこうと思ったのである。陸上とサッカーという種目は違うものの、自分も栞のように活躍したいと願っては……それがいつからか、恋心に変わっていた。
にしても、ここまで十か月ほど継続できている事実、自分でもびっくり。なんせ部活後のランニングである、はじめたはいいが三日坊主になることも充分考えられた。『今日は疲れてるから、明日でいいか』と幾度となく自身に甘えそうになるが、そうなった瞬間、勇耶の脳裏に黙々と練習に励む栞の姿が浮かび、姿勢を正す。いつかあの隣に立つに相応しい男になることを願い、どうにか今日までつづけていた。そこに加えて、ランニングコースに、あるチェックポイントが設けられているのも継続できている大きな要因である。考えてみると、こんなに何かを継続してやるのは、人生初のこと。今ではランニングしないと気持ちよく眠れないぐらい。
(よーし、今日も頑張るか)
玄関を出て、猫の額程度である庭を五歩で通り過ぎてから、肩ぐらいまである門を開けて出ていく。高くなっている段を二段下ると、直後に足は西方に向けられた。第一の目的地は国道沿いにある愛名市立大学付属総合病院。そこから青願神社の前の道を経て、学校の方までいってから家に戻るのがいつものルート。東西に長い巨大な長方形を描くように。
最初の五分間だけ歩きながら首を回したり腕を曲げたりというストレッチをして、ゆっくりと走りはじめる。息を鼻から吸って、口から吐くことを意識して、すーすーはー……すーすーはー……と呼吸方法を気にしながら駆けていく。
勇耶が穿いているジャージのポケットには、五百円玉があった。帰りにポカリスエットを買うためである。ランニング終わりに豪快に喉を鳴らすことを想像しては……思わず口元が緩まるのを止められない。
電柱同様に一定の間隔で設置されている街灯に照らされながら、小気味よく呼吸を弾ませて住宅街を抜ける。明かりが次々と自分の後ろに流れていって……五分すると、南北に延びる国道の明かりが前方に見えてきた。交通量の多い国道にぶつかる一本手前の道を右折し、直進して病院を目指す。十階建てのため、ここからでも窓から漏れる多くの明かりを見えた。
勇耶は、角の郵便ポストを通り過ぎ、左手に小さな公園、下り坂を経て、十階建ての病院が壁のように聳えるのを見上げられるようになる……しかししかし、巨大な病院の手前には、四階建ての宿舎があった。意識してスピードを緩め、最上階の一番西側の部屋に明かりが点いていることを確認すると、胸の鼓動が小さく跳ねていく。
(……斑美)
見上げている四階のベランダこそ、意中の栞が暮らす部屋。401号室。コンクリート製で、ぱっと見た目は長方形の消しゴムみたいな建物で、最上階のあの部屋の照明を見ると、まるで宝石を見つけたみたいに嬉しい気持ちになる。
いつもあの明かりが灯っていて、今あの部屋にいる栞がテレビを観ているのか、勉強しているのか、お菓子を食べているのか、風呂に入っているのか、パジャマ姿で髪の毛を梳かしているのか、もう布団の中にいるのか、などと想像を膨らましては、頬を大きく緩めて……通り過ぎていく。このチェックポイントこそ、ランニングを継続させている大きな要因であった。
胸がときめく宿舎の横を通ると、病院東側に到着。このまま北側へと回ると、雑草が茂っている堤防がある。高さは建物でいうところの三階ぐらい。この堤防にぶつかる病院北側の道を左折して国道に出て、川に架かる橋までの緩やかで長い坂道がランニングコース……そのコースに向かおうとして、病院東側を通る途中に、一定のリズムで動いていた勇耶の足が一気に鈍くなり、二秒後には止まった。
(っ……)
それは通り過ぎようとした横目に映った光景に、目が強く引かれたから。
(……あれって?)
病院北東部には、入院患者が散歩できる広場がある。柵に囲まれた広場にはいくつかベンチが設置されており、今は多くの緑が茂る花壇がある。隅の方に大きな銀杏の木も生えていて、秋には鮮やかな黄色に染め上がることだろう。青願神社に生えている銀杏のように……しかし、午後八時を回っている広場には、活気がなく寂しい雰囲気を醸し出している。設置されている外灯の淡い光は、暑い夏の夜なのに、どこか物悲しい印象があった。当然こんな時間に散歩している患者はおらず、そればかりか人の姿もほぼ皆無……であるが、まったく皆無ではなかった。こんな暗い時間帯に、なんとベンチに座る女子がいたのである。
それも、勇耶が見知った人物。
そればかりか、勇耶の愛しの女子。
(……斑美)
斑美栞。
この時間、この場所に、斑美栞がいた。午後八時過ぎ、誰もいない病院の広場、斑美栞。目を疑ったが、ベンチに座るのは間違いなく斑美栞である。幽霊でも妄想でも人違いでもなく、何度見直したところで斑美栞に違いはない。
栞は誰もいない広場のベンチにぽつりっと座り、明かりを背中に肩を落として俯いている。そんな暗い雰囲気、普段の栞にはないため、やはり人違いかもしれない。しかししかし、後ろで縛った髪の毛、ほっそりとしたシルエットは、勇耶が見間違えるはずがない。
栞である。
「おい、斑美、どうしたんだよ、こんな場所でさ」
柵越しに声をかけた。栞の家は道を挟んだ一本向こうで、もしかしたらこの広場に涼みにきているのかもしれない。としても、包まれる蒸し暑さはじっとしているのもしんどいものがある。けれど、たまに吹く風は気持ちがいいと思えば気持ちがいい。
病院の前が堤防であり、多くの草が茂っている。ちろちろちろちろっという涼しげな虫の音が聞こえた。ここで夜を過ごすのも乙かもしれない。
「お前もトレーニングしてるのか?」
勇耶同様に、ベンチに座る栞はTシャツにジャージ姿。トレーニング以外でその格好をしている理由が思いつかなかった。
「そうか、ここでストレッチやるのもありだな」
道路から柵を越えて広場に入っていく。すると、病院の建物は迫ってくるほど巨大に見えて、ヘリポートのある屋上を見上げるためには首を直角に曲げなければならない。各階から漏れてくる照明は、暗闇に強い存在感を示していた。
栞が腰かけているベンチのすぐ横に立つ。視線は堤防にある暗闇に揺れる雑草に向けて。
「奇遇だな、こんな場所で」
そんな台詞を、栞の家の近くをランニングコースにしている勇耶は平然と口にして……相手から反応がないことに、小さな疑問符が浮かぶ。
「ど、どうしたんだよ、元気ないみたいだけど」
「……うん、まあ」
「こんな場所で、いったい何してるんだ?」
「…………」
「斑美?」
「……家出」
家出。
「家出してきた」
「家ぇ……はあぁ!?」
豪快に声が裏返る勇耶。当たり前である、『家出』という衝撃的な事実も然ることながら、そんな重要事項をああも平然と言われたから。
ただ、包まれる雰囲気は冗談のように思えない。
(…………)
一瞬、頭が真っ白になり……栞の状況を理解すると、勇耶の喉が鳴った。同時に、ひやーっとした汗が脇の下に流れていく。
「い、家出ってどういうことだよ!?」
「そのまんま。家出は家出」
ぶすっと頬を膨らませる栞。不機嫌極まりないように、栞は勇耶ではなく病院の方を目にして、口に動かしていく。
「この病院ね、家の裏ってこともあるけど、お父さんもお母さんも入院してたから、結構知ってる。お母さんのときはまだ小さかったから、ずっと抱きついてた思い出がある。けど、病院だから、やっぱりあんまりいい思い出はない」
「ふーん、両親ともここに入院してたことがあるんだ。家族が入院した経験がないから、そういうのよく分からないけど……でも、今は退院できてるんだから、よかったよな」
「うん、お父さんはね」
そこから声音の変化なくつづけられる栞の声。
「でも、お母さんは退院できてないから」
「そうなんだ、まだ入院してるんだ」
「ううん。お母さん、死んじゃった」
「ぁ……」
勇耶の息がぐっと詰まる。あまりにも不用意だったことに、自身の軽率さを恨めしくあった。栞の親が他界しているなんて、知らなかったとはいえ、配慮があまりにも足りない。もう中学二年生だというのに、そんなこともできないなんて情けない。それも、栞に相手に。
嘆息。
そんな過去があれば、この場所にいることでしおらしくもなるだろう。
(…………)
勇耶にとって両親は、いるのが当たり前。いろいろとうるさくて、いない方が気軽でいいと思うこともある。しかし、両親が外出しているときは寂しく、自分の家なのに落ち着かなくなる。両親が帰ってきたとき、どれだけほっとすることか。本人に生意気な口を叩いたところで、親がいなくては困るのだ。それだけ勇耶が未熟なことを意味しているのだろう。特に母親がいなくなってしまえば、生活が一変する。食事も洗濯も風呂も掃除も、すべて当たり前のようにやってくれているが、やってくれている人がいなくなるのだ、『大変』なんて簡単な言葉では言い表せない。学校に持っていく弁当だって、登校するときには必ずできている。それは勇耶より早く起きて作ってくれているから。そんなこと、とても勇耶には真似できない。母親がいない生活なんて想像できないし、未熟な勇耶ではまともな生活も送れないだろう。
にもかかわらず、栞には母親がいないという。であれば、勇耶にとって母親が当たり前のように用意してくれているものすべてを、自分が補っていることになる。
凄い。
(……そうか)
栞に関する新たな事実を知り、改めて相手の凄さを実感するとともに、ずっと頭に引っかかっていた疑問が氷解していった。腑に落ちたのは春の栞の行動について。
「だから、斑美が病院に通わなくちゃいけなかったのか」
今年の春、栞の父親が入院していた頃、栞は部活を休んで毎日病院に通っていた。入院している父親の着替えを持っていき、看病をするために。
では、なぜそれを娘の栞がしなくてはならなかったか?
それは、栞しかいなかったから。他に兄弟姉妹がおらず、母親はすでに他界している。
「そういうことだったんだ。だったら……ごめん。斑美が大変だったときに、安易な気持ちで部活つづけた方がいいなんて言って、無責任だったかもな」
「気にしないでいい。大変っていえば大変だったけど、下釜くんのおかげで練習はつづけられてる。あの頃は本気で辞めちゃう気でいたから、今からすればよく言ってくれたと感謝。けど……けど、練習しても、最近は思うように記録が出せなくなっちゃった。どうしよう? いつの間にか、わたし、駄目になった。去年できてたことができないんだから。あーあ、情けない……」
「な、情けないって、そんなこと……」
言いかけた語尾が掻き消えていき、思わず口籠もる勇耶。栞の不調は、グラウンド横から見ていても分かった。踏み切ってからバーに向かう姿勢が、なんだか窮屈に見えたのである。昨年はふわりっと浮き上がるように体がバーを越えていたのに、今はその感じがなく、体でバーにぶつかっていくような。
素人だから、その辺をうまく表現することができず、本人には伝えられていないが……本人はスランプということで、こうして家を飛び出すぐらい深刻に悩んでいるのだろう。
であれば、力になりたい。技術的なことは無理だけど、精神的なことなら勇耶にだって支えになれるはずだから。
勇耶なら、力になれるはず。
多分。
きっと。
そう、なりたい。
なれればいい。
なれるように、努力する。
努力したい。
できると、思う、から。
力に、なる。
なりたいな……。
「素人のおれがこんなこと言うのもなんだけど、去年できたことなら、去年のことを思い出せばいいんじゃないかな? 助走していたコースとか、踏み切りの力の入れ方とか、跳んでるときにどこを見てたとか」
「そうやって一個ずつチェックしていくのは大事。でも、やってるけど、うまくいかない。でもでも、わたし、部活のことはどうでもいい」
「はあぁ!?」
びっくり仰天な発言をされてしまった。勇耶の目が巨大化してしまう。
「いいのぉ!? 部活のこと、どうでもいいのぉ!?」
「いい。どうでもいい。そんなことより、ねぇねぇ、下釜くん、時間ある? よかったら、一緒に海にいかない?」
「海……?」
目がぱちくりっ。
「う、海って、あの海だよな。ざばーんっていう」
「波の音? もちろん聞こえる。だって、海だから」
「海ね。海。うん、海」
勇耶の頭には、体育の授業で見た栞の水着姿が浮かんだ。ぴったりとした水着に沿ってほっそりとした体のラインは曲線的で、雑誌のグラビア女性と比べると未発展な印象を受けるが、今の勇耶にとってその未熟さが等身大で、とても魅力的。隣同士のクラスだからこそ、体育の授業が合同になるため、信仰心はないが、神という存在に感謝していた。
海にいくなら、もちろん水着姿が見られるだろう。ならば、断る理由なんてない。いや、そんなことより、栞と出かけられること、あらゆるすべてに代えがたい。
「い、いいよ。海だな。うん、海。早くしないとクラゲが出るっていうよな、急がないとな。うんうん」
「そう。じゃあ、いこう」
にっこりと微笑み、栞は勢いよく立ち上がった。そして堤防の方を指差している。それは川の下流の方。
そんな栞の姿に、勇耶の目が点。口は無意味に、ぱくぱくぱくぱくっと動いてしまう。刹那には、驚愕の事実が言霊として発せられた。
「今からあぁ!?」
「そう」
栞はさも当たり前のことのように頷き、過去を思い返すように虚空を見つめていく。
「お母さんが入院してたとき、病院の窓からよく
約束を果たす前に、母親が他界してしまったから。
「まあ、いくなら夏。だから、今からいく。そう決めた」
「夏は賛成だけど、えっ、今から!? それも歩いて!?」
「いやなら、いい」
栞は素っ気なく言い放つと、広場の柵を出ていってしまう。有言実行するように、堤防沿いを歩いていく。この斜面には階段がないため、一旦国道まで出なければならない。
勇耶の目には、歩いていく栞の姿はとても儚げで、不安定に見えた。まるで薄いガラスの上を歩いているような……学校では見ない姿で、もしかしたら、自殺志願者はああしてどこか悟るような姿をするのかもしれない。縁起でもないが、見ていてそう思えたのだから仕方ない。
「おーい」
勇耶は手を伸ばす。そこに。遠ざかっていくあの背中に。それこそが、勇耶の使命のように。
「待てよ、おれも一緒にいくから」
歩き出し、栞の隣に並ぶ。
そうして歩いていく。
この先にある、まだ見ぬ未来に向かって。
そうして勇耶は、一生に一度の夜を過ごすことになる。
とても長い夜を。
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