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僕はホームに来た数日後から、蒼に「きっと役に立ちますよ」と、簡単な文字や計算を教えてもらっていた。
最初は理解できないことばかりだったけど、教えてもらうたびにどんどん色んなことが分かるようになってきて……、ついには「遊びに行こう」という紫たちの誘いを断って、暇さえあれば木の枝で庭にある砂地にがりがりと覚えた文字を書きまくるまでになっていた。
あれは何、これはどうしてと質問ばかりする僕に、毎回蒼は「知っていることしか話せませんよ」と困った顔をして分厚い本をめくるのだった。
そんなこととは知ってか知らずか、空が重い色をしていたある日、シュウが僕と蒼を散歩に誘った。僕は蒼との勉強の最中だったからむすっとした顔をシュウに向けたが、蒼はとても嬉しそうに「ちょうどいい、一息入れましょう」と渋る僕を強く引っ張った。
シュウは僕らの二、三歩前を楽しそうに歩いていた。
いつもホームの近くにしかいたことがないせいか、行く先々の砂にまみれた人や建物を興味深そうに観察していた。僕はここに来て数日中にファミリーのみんなに広い【スラム街】中を連れ回されたから、珍しくも何ともなかった。
道なりにあてもなく歩いている間、シュウがいくつも質問をしてきた。いつここに来たのか、それまでは何をしていたのか、両親はどんな人だったのか、将来の夢はあるのか、今一番何に興味があるのか――……。最終的には、「ここを出れるとしたら何がしたいか」と聞かれた。それを聞いた蒼は何かを期待するような顔で、もっとたくさんの知識を得たいと答えた。
「誰にも言ったことなかったんですけど、僕、富裕層の生まれなんです。母が医者も匙を投げるほどの病気にかかってしまって……、治療にはたくさんのお金が必要でした。だから少しでも望みがあるならとここに来たんです。ここに入れば、“最低額”はすぐに支給されますからね」
蒼の言う“最低額”が一体何のことかは分からなかったが、どうしてあんなにいろんなことを知っているのかがようやく分かった。蒼の見せたことのない表情を尻目に、少しひんやりとしてきた空気に腕をさする。
「僕はできれば、高く買い取ってくれる人に出会いたいんです。その額の何割かが母に渡ると聞いていますから。そうすれば、きっと……。もっと望むのなら、医者か研究者に助手として買われたいです。そうすれば僕が母のどんな病気をも治せるようになれますから」
蒼はそう、キラキラとした瞳で言った。
僕は……。僕は、何も答えなかった。
しばらく歩いていると雨が降り出してしまったので、僕たちは近くの軒先に逃げ込んだ。ボロ布が隣の建物まで引っ張られているだけだったけれど、なんとかしのげそうだ。しばらく止みそうにない雨の中、蒼がそわそわとした様子で口を開いた。
「あの、シュウは何しにこの国に来たんですか」
シュウは少しだけ、本当に少しだけ考えた後に笑って答えた。
「弟子を探すためだよ」
「何の弟子なの」
「そうだな……、君たちになら、話してもいいかな」
シュウは悪戯っぽく笑った。
そうして僕と目線が合うようにしゃがんで、ごつごつした温かい手で冷えてしまった両腕をやさしく掴んだ。
「――実はね、私は魔導師なんだ」
一瞬、シュウはこの国生まれの妄言老人なのではないかと思ってしまった。あまりにもおかしなことを言うものだから家族に捨てられてしまった人なのだと。
それは蒼も同じだったようで、僕たちは顔を見合わせた。
「そんな顔をしなくてもいいだろう……別に嘘は付いていないぞ」
『魔導師』なら、下流層出身の僕でも知っている。いつだったか祖母が教えてくれたのだ。この世には神様の力を借りれる人たちがいて、その中でもとくに神様に愛された人たちだけが、奇跡を自在に起こせる『魔導師』になれるのよ、と。あなたがいつか『魔導師』に会うことがあったら、きっと奇跡で母親を見つけてくれるかもしれない――。そんな夢物語とともに。
なんて言えばいいのか戸惑っている僕の隣で、蒼がいつもの表情で口を開いた。
「もしシュウの言っていることが本当なのだったら、誰にも知られないうちにこの国から出たほうがいいですよ」
と。
この国の王は国民を商品としてしか見ていないようなひどい奴だからとも言った。僕は言葉の真意が分からずに蒼の顔をまじまじと見ていたが、シュウはすべて分かっているような声色で、うんうんと頷いた。そして「いいかい」と前置きしてから、小さな声で話し始めた。
シュウがまだ若く、自分の故郷にいた頃――、一人の老人と会ったそうだ。彼は世界中を練り歩くサーカスの団長として団員を携えてやってきたが、実は魔導師で、弟子になれる者を探していると言った。まさに、今のシュウと同じことをしていたのだ。
自分の国に嫌気が差していたシュウは、魔導師に頼み込んだらしい。
「自分を弟子にしてくれ」、と。
魔導師はシュウの素質を見抜いてはいたが、少しばかり悩んだそうだ。だが自分の命が長く持つとは限らないと言って、シュウを弟子として向かえた。そうしてシュウは、サーカスと共にさまざまな国を旅しながら、魔導師としての勉強をしてきた、と。
そこまで話し終えて、シュウは再び僕たちに笑顔を向けた。
「君達なら、優秀だし……、きっとよい弟子になると思うんだ。どうかな」
「僕たち、二人だけですか」
「……そうだな、紅と紫もだ。彼らもいい子たちだからね」
蒼は、まるで神様か何かに出会ったような顔をして、大きく首を縦に振った。僕はシュウから視線を外して、まだ降り続ける雨を水たまり越しに見た。
なんとなく、ファミリーが欠けていく理由が分かった気がした。
***
あれから何日かの間、シュウの話を聞きに行かなくなっていた。
紅や紫に誘われても、適当に断って部屋からぼんやり夜空を眺めていた。窓から顔を出すと見えるシュウの部屋の灯りは、シュウが他の子たちに話をしてあげていることを示していた。僕は窓から数歩離れて、ぐしゃぐしゃに敷き詰められている布の山に寝転がった。頭の中は、今日教えてもらった文字と、シュウの言葉とで混乱していた。夜風と布に絡まってどこかにで行ってくれればと期待していたが、どうやら無駄らしい。
そのまま寝てしまおうと体勢を変えると、部屋の入り口に立つ紫と目が合った。
「よぉ、翠。ちょっといいか」
いつもはしない気まずそうな顔から、話の内容は分かってしまった。僕は寝転がっている隣を左手で叩いた。紫は人一人分あけて、壁際に座り込む。風がカーテンを揺らす音が、鮮明に聞こえた。
「シュウの話、聞きにいかなくていいのか? いつもすげー楽しみにしてたじゃん」
「……、それは紫もだよ」
「そっか、うん、そうだよな。……シュウから、あの話、聞いたんだろ」
「うん。ちょっと前に」
「……どう、するんだ」
「わかんない」
紫の言葉は、怯えているように途切れ途切れに放たれた。
この国から一歩も外に出たことがない僕たちにとって、この選択は命に関わるものだった。きっと死んでいくだけなんだろうと思って入った【スラム街】の中で、様々な施しを受けながらふわふわと生き永らえてきた僕たちにとっての、初めての賭けだった。
「オレ、行ってみようと思うんだ」
だいぶと経って、紫が言った。
「……蒼が富裕層の生まれだって、翠は聞いたか?」
「うん。シュウに言ってたのを聞いた」
「そっか。……実はさ、俺と蒼、同じ家で暮らしてたんだ」
紫は手元に触れる床のひびを、指先でなぞるようにしながら言った。
「蒼と紫は兄弟だったの?」
「いやあ違う違う。蒼の母親の使用人が、オレの母親なんだ。蒼とは年も近かったから、まあ兄弟みたいに育ったって言われればそうかもしんないけど。……それでさ、ある日オレの母親がなんかの病気にかかって……蒼の母親が気を使ってくれて医者呼んでくれたんだけど、結局治んなくて……死んじゃったんだ」
「……」
「その病気、他の使用人にも広がっちゃってさ……それで済めばよかったんだけど、蒼の母親にもうつっちゃって……」
僕ははっとして紫の顔を見たが、ちょうど影になっていてよく見えなかった。
「蒼の家族、ちょっと複雑でさ……。まあなんか、色々あって、蒼の母親の治療に山ほど金が要るって分かった途端、蒼のやつ、『スラム街に行く』って言い出したんだ。『読み書きのできる僕なら母さんの薬代くらいにはなれる』って、震えながらさ。……オレ、オレいてもたってもいられなくて、『オレも行く』って言ったんだ。『足しになるだろ』って。……でもあの時……、『ありがとう』って言った時の蒼の顔がさ……、オレ、全然思い出せないんだ……」
「……、」
「もしかしたら蒼は、オレのこと恨んでるかもしれない。オレの母親の病気が原因かもしれないからさ。……だから罪滅ぼしってわけじゃないけど、蒼の役に立つなら、オレはどこにだって付いていくんだ」
僕は何も言えなくて、ずっと紫が床をなぞる指ばかり見ていた。
「紅も言ってたぜ。必要とされてるなら、付いて行ってもいいかもしれない、ってさ」
「紅も、行くんだ」
「……蒼が行っちまうからな」
なんとなく予想はしていたけれど、紅にとっての神様はシュウじゃなくて蒼らしい。
「……、蒼がいなくなっちゃったら、ファミリーはどうなるの?」
「ん? あーそっか、おまえ蒼しか『長男』しらねーもんな。大丈夫だよ。蒼の前にも『長男』がいてさ、そいつもこっから出ることになったから、一番しっかりしてる蒼に変わったんだ。さらにその前は『長女』がファミリーを仕切ってたらしいぜ」
「会ったことはねーけど」と紫がいつもの顔で笑った。
その笑顔に少しだけ元気が出て、僕も口元だけで笑ってみた。
家族に必要とされず、捨てられたせいかもしれない。心のどこかで、暖かい家族を夢見ているせいかもしれない。どちらにせよ、僕には……。
シュウの話が終わって、いつも通り蒼に追いやられた子たちが部屋に戻ってくるまで、僕たちは空の星をなぞって過ごした。こうして紫と何もしないでいられるのも、今日が最後かもしれないな、と心の隅で感じながら。
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