麦の穂が青くきらめく大地の端に、太陽が顔を覗かせた。

光は障害物のない荒野を走り、城壁を登りつめ、【スラム街】には一瞥もくれずその門にたどり着いた。城が朝日を受けて輝き始めた頃、僕もようやく窓から差し込んだ光で目が覚めた。薄い毛布を跳ねのけて、まだ寝ている同室の子たちを起こさないように部屋を抜け出す。

広場に出て、空を見上げた。

今にも崩れそうな建物によって切り取られた空は、今日は天気がよさそうなことを告げていた。

ここに来て、もうどれくらい経っただろう。

元々暮らしていた場所と似たような環境のせいか、それともここでの時間があまりにも穏やかに過ぎたせいか……、僕はここが心地よいと思い始めていた。

朝起きて空を見上げ、後から起きてくるみんなと街の中を駆け回り、配給の鐘が鳴れば貰いに行き、それから蒼に文字や計算を教えてもらって……。捉え方によっては、中流層の子のような生活ではないのかと思えるだろう。それでも、僕たちは【スラム街】の中に住んでいる。この腕に番号が彫られた金属の腕輪が付いている限り、ここから出るという選択肢は存在しない。


僕はシュウがまだ部屋から出てきていないことを目尻で確認し、さっさと顔を洗ってしまおうと、昨日から降り続いた雨がたんまりと溜まっている壺を覗き込んだ。数匹のアメンボが、澄んだ水面を走っていた。


「そんなあからさまに避けるな」


水に手を入れたのと同時に、後ろからシュウの声がした。僕が慌てて壺の反対側に隠れると、シュウは心底悲しそうな声で「傷付くじゃないか」と呟いた。言われてみれば、弟子の話があった日以降ほとんど言葉を交わしていない。


「なぜ避けるんだ。何も獲って喰おうとはしてないだろう」

「……、だって……嘘かもしれないし」

「魔導師だと言ったことがか? それとも弟子にしたいと言ったことか?」

「……、どっちも」


本当は、これといった理由はなかった。

ファミリーを欠けさせるシュウが悪者のように感じたせいかもしれない。それ以前にシュウを、シュウという大人を本当に信じられるかどうか迷っていたせいかもしれない。

頭の中がぐちゃぐちゃになって黙ってしまうと、シュウは小さくため息を付いた。そして壺を覗き込み、僕に見ているよう言いつけた。僕は恐る恐るシュウの傍に寄り、一緒に空の色を映す水面を覗き込む。ちらりとシュウの顔を見ると、ほっとしたように微笑むのが分かった。


「何するの?」

「まあ見ていなさい」


シュウは左手の人差し指にある水色の石がはめ込まれた指輪を撫でて、小さく何かを呟いた。それは聞いたことのある言葉のようでもあったし、知らない音のようでもあった。何をしだすのかとシュウの顔を眺めていると、唐突に顔を水の中に突っ込んだ。アメンボは慌てて空へと逃げていき、白髪は水面に情けなく浮いている。僕は目を丸くしてその行動を見ていたが、何秒経ってもシュウは顔を上げようとしなかった。


――、一体、何分が経過したのだろう。

人間はこんなに水の中で息を止めていられるものなのだろうか……。


一向に顔を上げないシュウが心配になり、その埃っぽいローブを「ねえ、もういいよ」と引っ張った。それが聞こえたのか、シュウはざばりと顔を上げた。長く息をしていなかったからその老けた顔はきっと色が良くないだろうと思っていたのに、水に付ける前と何ら変わってはいなかった。それどころか、適当に伸ばされた長い髪も髭もまったく濡れてなかったのだ。

シュウは新鮮な空気を肺一杯に吸い込み、乱れた髪を撫でつけた。


「これで私が魔道師、……いや、普通の人間じゃないことが分かっただろう?」


ローブをつかんだまま目をぱちくりさせている僕に、シュウが満足そうに笑った。

認めるしかなかったが、どうしてなのかが分からず、シュウの髪や指輪を弄ったりしていた。シュウは僕の気が済むまでしゃがんだまま、バレない悪戯をした子どものように楽しそうな顔をしていた。


「どうして、どうして苦しそうじゃなかったの? 髪もどうやって?」

「答えるのは簡単だ。だが、君が理解するのには時間がかかるんだよ。私がそうだったようにね」

「…………、僕も、シュウみたいなことできる?」


僕のこの言葉を待ち望んでいたように、シュウは僕を強く抱きしめた。あまりにもぎゅっと抱きしめるものだから息が詰まったが、興奮しているシュウには抗議の声は届いていなかった。シュウは「もちろんだ」と何度も何度も言い、そのまま回り始めたものだから僕は軽く目が回った。

やっと放してくれた頃には、太陽は城壁近くまで昇っていた。

蒼たちも目を覚まし始め、ホームの中が騒がしくなり始めている。僕は今日、紫たちと西側へ遊びに行く約束をしていたことを思い出して、慌てて顔を洗ってホームに走り出した。その途中で振り返ると、笑顔のシュウが早く行きなさいと言わんばかりに手を振っていた。






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