第一章:魔法使いと弟子
1
大陸の東に、とある国があった。
東西に伸びる楕円形の二重の城壁を持った、金と珍しい物をこよなく愛する王が収める賑やかな国だった。
なだらかな緑地と、ごつごつとした岩肌を見せる丘に囲まれた城壁の中に入ると、すぐに活気あふれる中央市場が現れる。港と大陸との交易ルートの間にあるためか、様々な国や地域の商人の休息地兼交易の場として栄えていた。彼らによって珍しい商品を売る屋台や工房などが軒を連ねており、この国を訪れたものは「賑やかで豊かな国」という印象を受けるだろう。
市場を抜けて裏通りに入ると裏市場があり、そこから先は下流層の住居区域になっている。もう少し進めば中流層、さらに入り組んだ路地と階段を進んで城に近づけば富裕層へと、住む人間が変わっていくようになっていた。
そして国を見下ろす高台に、白光りする美しい壁に囲まれた、要塞とも芸術作品ともとれる城がそびえ立っている。
城門からまっすぐ続く中央市場を進んでいっても、城には決してたどり着くことができない。人口が増えるたびに継ぎ足された住居や通路は、城壁内をまるで迷宮のように変えてしまっていた。
だが、城の裏にある【スラム街】には、壁沿いに歩いていけば誰でもたどり着けるようになっていた。
高く高くそびえ立つ城とは対照的に、深く深く掘り下げられた穴倉のような【スラム街】は端から端までぐるりと壁で囲まれていて、唯一の入り口――鉄柵の門は屈強な兵士によって守られていた。
僕はそんな国の、下流層の子供として育った。
付けられた名前は忘れてしまった。
というより普段から呼ばれることがなかったし、付けられたかどうかも分からなかった。物心つく前に――いやもしかしたら僕が生まれてすぐに――生みの親は僕を置いてどこかへ行ってしまったらしい。育ててくれた祖母が病に臥し、同じく体を悪くして日雇いの仕事でぎりぎりの生活費しか稼げない祖父が僕を「スラム街に入れる」と言ってきたときも、まあ、そういうものなのかもしれないと、どこか他人事のように聞いていた。
「お前を、養ってやれる金がないんだ。……恨むなら、お前の母親を恨んでくれ」
そう、苦々しい表情をした祖父に言われた。
自分の孫に、母親――自分の娘に対して「恨め」なんてどうして言えるのかぼんやりと考えたが、別に、誰も恨んではいなかった。
近所のよく遊んでくれた年上の女の子も、もうずいぶんと前に【スラム街】へと連れて行かれてた。あの時は、あの子が言った「ばいばい」の意味が分からなかった。どうしてなのか、明日はもう会えないのか。そんなこと、聞くことなんてできなかった。ただあの子を見送る母親の目が、小さな家の机の上で輝く銀貨が、考えるだけ無駄だと知らしめているようだった。
僕は一人で【スラム街】へと歩き出した。
手に身分証明書と呼ばれる薄い金属片を持って。
気が遠くなるような階段と入り組んだレンガの路地を歩き詰め、やっとの思いで門の前までたどり着いた。
【スラム街】は、聞いていたよりもずっとずっと城の近くにあった。白く輝く壁が高すぎて見上げても城の全体はつかめないけれど、太陽の光にも負けないくらい輝いているのだけは分かった。その城壁と壁の間に鉄の門はあって、屈強な兵士たちが近寄ろうとする僕を睨みつけていた。
祖父に言われたとおり握りしめていた金属片を門番に見せると、「一人で来たのか」と聞かれた。祖母と祖父は足が悪くてここまで来れなかったと言われたとおり伝えると、門番に深いため息をつかれた。「まあいい」と詰所の奥から別の兵士が数字が彫られた腕輪を鉄柵越しに受け取って、僕が持ってきた金属片とともにじゃらりと腕に付けた。金属特有の冷たさを持った腕輪は見た目より重たくはなかったが、そう簡単に外せそうになかった。
門番が赤く錆びた、重たそうな門扉を僕の後ろで閉めた。
一度だけ哀れみの視線を投げ掛けてくれたような気がしたが、それっきり振り向こうとはしなかった。
(わあ……)
【スラム街】は、聞いていたよりもずっとずっと断崖絶壁の下にあった。
崖沿いに申し訳程度に設置された木の階段を、滑らないように注意しながら降りていく。天然の岩と石造りの絶壁には等間隔にいくつも小さな穴が開いていたが、その奥は暗くてよく見えない。ゆっくりと階段を下りる度に、砂ぼこりで見えづらかった【スラム街】の様子がよく分かるようになってきた。
階段が張り付いている崖を支えるように立つ塔がいくつかある以外、二階以上の建物はなさそうだ。崖と反対側――城壁側になるにつれ、手入れが行き届かず建物も人もボロボロになっているように思えた。体の一部を失った人間、どこか虚ろげな眼をした挙動不審な人間、壁に凭れて動こうとしない人間……、どの人間の目にも光は宿っていなかった。
僕はそんな中を、とぼとぼと行く当てもなく歩いていた。
祖父の「スラム街に行ってもらう」という言葉通りここまで来たものの、これからどうすればいいのかが何も分からなかった。降りきった階段から続く大通りらしい道を逸れ、建物に挟まれた路地に入った。その先の階段に上ろうとした時、後ろから声をかけられた。
「よお」
僕は慌てて振り返って、誰もいないことに首をかしげた。
「上だよ、上。おまえ、さっき来ただろ。オレこっから見てたんだぜ」
声のした方に顔を上げると、少し崩れかけた建物の屋上にいる少年と目がかち合った。ちらりと見える服はボロボロで、髪もしっちゃかめっちゃかに跳ねまわっている。
「……、誰?」
「オレ、サイ。おまえはなんて名前だ?」
「名前なんて……ないよ」
「そっかそっかおまえもか。オレも昔そうだったんだぜ」
サイはどこか誇らしげににかりと笑って、僕の前に飛び降りてきた。そして慌てる僕の手を力強く握って、階段を駆け上がり始めた。
「ど、どこ行くの」
「オレらん家だよ。どうせ行く当てなんてないだろ?」
あまりにも図星すぎて、言い返せなかった。
でも少し、嬉しかった。
サイは僕の手を引いて階段を上りきり、右に曲がり、家と家の隙間を走り、段差を飛び越えて――……。こんなに走り回ったことがない僕は、手を引かれていたとはいえ足がもつれて大変だった。息も絶え絶えになって「もう走れないよ」と訴えようとした頃、サイが急に立ち止まった。
「ここが、オレらん家だ」
そこは、二階建ての建物が円形にひしめく場所だった。
建物と建物の間には雨避けのボロ布が掛けられていて、洗濯物を干すためだろうか、紐のようなものもたくさん張り巡らされている。中央には水場の代わりなのか、雨水の溜まった大きな壺がいくつも置かれている。僕の住んでいた地域のように地面が舗装されているわけではなかったが、どこからか拾ってきたであろうレンガや破片が器用に敷き詰められていた。
僕がきょろきょろと見まわしている間に、サイの声が聞こえたのか、建物の中からそろりそろりと子供が出てきた。僕より小さな子も、少し大人びた子も、一斉に僕とサイを見た。
サイは笑って、後ろに隠れていた僕を前に突き出した。
「こいつ、さっき来たばっかなんだぜ。名前もないんだってさ」
こちらを品定めするように見ている子たちがの目が、懐かしむものに変わった。同時に建物の奥から、青い布を首に巻いた少年が出てきた。僕よりいくつか年上に見えた。手には分厚い本を持っていたが、まともな教育を受けていない僕には表紙に書かれている文字は読めなかった。
「やぁ、初めまして。僕は蒼。ここのファミリーの長男やってます」
「ファミリー……、みんな他人なのに?」
「ふふ、本当の家族もそんなものでしょう。僕らには法的な鉄くずよりも、もっと強い絆があると思ってます」
ソウは笑って手首の腕輪をちゃらちゃらと鳴らした。そして、僕のことを少しばかり観察しているようだった。
「そうだなぁ、君は目が深い緑色だから……、翠なんてどうです」
ソウは手に持っている分厚い本を捲りながら言った。
何のことを言っているか分からず首をかしげたが、サイが「おまえの名前だよ、なまえ」と耳打ちしてくれてようやく気付いた。それよりも分厚い本の正体が知りたくて、僕はサイの後ろから首伸ばしながら「それは何」とソウに尋ねた。
「これですか? これは世の中にあるすべての言葉が詰まった本――、辞書って言うんですけどね。初めて見ますか?」
僕は頷く。ソウは笑って、「ジショ」を貸してくれた。それをおどおどしながら受け取って、分厚い表紙を捲って、書かれている文字を眺めてみた。紙の集まりがどうしてこんなに重たくなるのかが不思議でならなかった。ソウは「これが君の名前ですよ」と難しい形の文字を指してくれたが、隣の文字との違いがよく分からなかった。
そうしている間に、少しウェーブの掛った髪の女の子がソウの隣に現れた。サイと同じようにぼろぼろの服を着ていたが、その下には赤いワンピースが見える。
「ねえ蒼、その名前じゃあ女の子みたいよ」
「えー、オレも女かと思ってたんだけど」
「……、女だよ」
「あらごめんなさい。じゃあ翠ね。よろしく、私は紅よ」
手をさし伸ばされて戸惑っていると、コウの違う手が僕の手を強引に引き寄せた。そして「よろしくね」と微笑んだ。
ソウが『長男』を務めるファミリーは、全員で二十人ほどいるらしい。全員が何らかの理由でこの【スラム街】に来て、寄り集まって暮らしているのだと、ソウが慣れた様子で説明してくれた。その中にあの近所の女の子がいるかどうか聞いたが、「僕の知る限りでは知らないですね」という答えが返ってきた。
ここでの一通りの暮らし方と決まり事を教えてもらった後に、【ホーム】――ファミリーが住んでいる小さな広場を取り囲む建物一帯の呼び名――の中のまだ屋根のある部屋の一つに案内された。木張りの床の上に何枚か薄い布が敷かれているだけの、何もない小さな部屋だった。とは言えここに入るまで僕が住んでいた家も、似たようなものだったけれど。
「ここが今日から貴女の部屋よ。って言っても私たちと合わせて四人部屋だから、そんなに広くは使えないわよ」
コウはそう言って、彼女の後ろに隠れるようにして立っていた女の子に目配せした。その子は少し顔を赤らめて、近くの部屋の中に入ってしまい見えなくなった。つぎはぎの布で作られたカーテンを開けて、広場で走り回っている他の子たちを見た。コウが隣に立って一人一人の名前を教えてくれたが、まったくもって覚えられなかった。
***
意外なことに、食べる物はあった。
毎日朝と夕方に、崖に張り付いている塔――管理塔から出てくる揃いの白服の人たちが、固いパンやジャガイモ、スープのような食べ物を配ってくれるのだ。育ち盛りだった僕たちには到底足らない量だったが、それ以上望めないのも分かっていた。そして何日もここで暮らしていると、子供に対して待遇がいいことが分かってきた。ただの哀れみかどうか分からなかったが、食事を貰ってホームに帰ろうとするとカラフルな紙に包まれた飴玉をこっそりくれることがあったからだ。他にも、擦り切れそうな靴や服などを与えてくれたり、たまに洗浄と散髪までしてくれた。
そして意外なことに、たまに富裕層らしき人たちが来ることがあった。管理塔の三階からこちらを眺めるのが大半だったが、近くまで来る人たちもいた。彼らはまあ揃いも揃って口元を抑え、酷く迷惑そうな顔を僕たちに向けていたが。
とはいえ崖の上の様子は、なにも分からなかった。管理塔の壁に貼り出されている長い羊皮紙には書かれているらしい。大人たちはそれを読みながらあれやこれやと難しい話をしていたが、僕には到底読めそうにもなかった。
僕はここが【スラム街】だというのに、食事や情報に恵まれていることが不思議でならなかった。祖父の言い方では、もっとひどいところのように思えたから。
考えようによっては、祖父母といた頃よりもずっといい暮らしをしているようにも感じていた。下流層であったような窃盗騒ぎや喧騒などはなく、朝起きて、ご飯をもらい、少しばかりの掃除をし、ソウに文字を教えてもらい――。
ただただ、緩やかな日々が流れていた。
不思議でもあったけれど、ここはそういうものなんだなと納得することにした。
たまに、ファミリーの子がいなくなることがあった。
誰もが気付いているはずなのに話題に出ることもなく、まるで最初からいなかったかのような空気に少し戸惑った。ソウに「あの子はどこにいったの?」聞くと、困ったような顔をして、頭一つ分小さい僕をめちゃくちゃに撫でてうやむやにされた。
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