エスシリーズ
村雨廣一
名も無い記憶
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//序章
「悪魔だ」
と、誰かが呟いた。
はっとして声がしたほうを見ると、一人の兵士が後ずさりした。
状況は良くなかった。
どうにしろ、僕は失うものがなくなったのだ。
今ここで死んでしまっても、なんの未練もない。でも、そうしてどうなる。なにかを成し遂げたことになるだろうか。僕たちのファミリーを、あの人との約束を、守ったことになるだろうか。
僕は今、なにをすべきなのだろうか。
体中に滝のような雨が降り注いでいた。
体から熱が奪われて、浴びた赤も溶けていく。まるで石像になったかのような気分だ。腕の中の体温も、ゆっくりと下がり始めていた。変わらないのは僕を囲む兵士たちと銃口だけだろう。彼らは恐怖と興奮が入り混じったような瞳で、座り込んだ僕を睨みつけていた。雨に濡れた銃身は、ぎらぎらとにぶい光を放ちつづけている。
(やっぱり、あのとき残ればよかったんだ)
長い間雨に打たれているせいか、思考がはっきりしない。フードに雨が当たる音がやけに大きい。体に張り付いたローブはすでに防水の機能を失っている。ぎらつく銃口が狙うのは、僕の心臓だろうか。雨が僕の体を流れるたびに、思考の欠片が流れ落ちるようだった。
ふいに、包囲が解かれた。
なんだろうと視線をやると、兵士達の間から暖かそうなローブに身を包んだ、かつて師と仰いだ老人が現れた。
「シュ、ウ」
思うよりも先に、その名前が口に出ていた。
シュウは眉一つ動かさなかったが、僕は混乱していた。雨に溶けていた心臓が飛び跳ねて、頭の中に取り留めのない言葉が浮かんでは消えていった。
「……、まだ生きていたのか」
そんな言葉が、しわくちゃの口元から出た気がした。
同時に青色の液体が入った小瓶が足元に投げられた。
小瓶はかしゃんと軽い音を立てて割れて、赤茶色い水溜りに青い歪みを作る。液体はまるで生きているかのように水面を走り、僕ににじり寄ってくる。シュウはその場から動こうとしない僕を尻目に、足早にその場を立ち去ろうとする。そういえば、シュウは雨が嫌いだったなと、頭の隅で思い出した。
兵士たちも一瞬戸惑いはしたものの、銃を下げ、シュウの後について立ち去ってしまった。
この青い液体は、まだ息のある僕たちを殺すためのものだろうか。
止む気配のない雨の中、青い液体はついに僕のローブへとたどり着いた。じわりじわりとローブに染み込み、舐めるように布の色素を奪い取っていく。僕はなにも思わなかったが、地面に蹲るようにして倒れていた蒼が震えながら体を起こし始めた。僕は慌てて抱いていた紅の冷え切った体を横にして、蒼の震える体を支える。
その途端、にじり寄ってきていた青い液体が紅とローブを飲み込んだ。
黒かった布はまたたく間に灰色に変わっていく。紅が気に入っていた赤い服も、艶のあった黒髪も、老婆のように鈍い銀色になってしまった。
「ど……して……んた……」
蒼の口から出る言葉は、とてもではないが理解することはできなかった。
弱い心音と共に、地面は赤く染まっていく。
「蒼、喋らないほうがいい」
そうは言ってみたものの、もうどうにもならないことぐらい蒼自身も分かっているだろう。ファミリーの中で、一番賢かった子なのだから。いつも大切そうに持ち歩いていた本は、赤と青の液体によって二度と捲ることはできなくなってしまっていた。
蒼の泥と血で汚れた手が、シュウが行ってしまった方向に伸ばされる。
シュウはもう見えない。
酷い雨は、僕たちの視界さえ奪っていた。
ゆっくりと、蒼の手が下ろされる。いつしか祈るような声も聞こえなくなり、心音も微かにしか感じられない。僕のローブと服も、灰色に染まってしまった。紅の体は、まるで石像のように白く変わり果ててしまった。冷たくなった頬にそっと触れると、ほろほろと砂のようなものが零れ落ちる。
一体、これはなんの魔法なのだろうか。
もしシュウが僕らのことを始末しようとしているのならば、もっと効果の速い魔法があっただろうに……。
「僕は、どうすべきだろう」
誰に言うでもなく、呟いた。
蒼は、いつの間にか眠りについていた。長い、長い、この世界から逃れることのできる眠りに。その体は紅と同じく石造のようだったが、まだほんのりと暖かさが残っていた。蒼を紅の隣にそっと寝かせて、僕は立ち上がる。青い液体が髪の毛にまで達していたが、まだ元の色は残っていた。近くに落ちていた蒼の本を拾い、その手に抱かせる。蒼と紅の体の周りに円を描いて血を垂らす。長時間雨に打たれていたせいで、小指の付け根を噛むのに少し手間取ってしまった。内緒話をするようにお別れの言葉をささやくと、二人の体はゆっくりと地面に吸い込まれていく。
「ごめん……こんなことしかできなくて」
呟いた懺悔の言葉は、滝のような雨に流された。
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