第10話「それぞれの恋」
サイレンの音が、どこか遠くに消える。それにつれて、遠のいていた俺の五感が取り戻されてきた。
誰かが何か、言っている。その声は次第に大きくなり、やがて近づき、
「うっ!?」
急に肩をどつかれ、俺はその場に倒れた。
「相太、立て。萌恵沙さんが走っていった。追うぞ」
倉之助の声だ。手を差し伸べられたので、素直にその手を掴んで起き上がる。
「ぼーっとするな、今は萌恵沙さんが最優先だ」
倉之助はそれだけ言って走っていった。俺はすぐにその後ろを追う。
倉之助が俺を突き飛ばして、正気に戻させてくれたのか…。
小声で、ありがとうと呟いた。別に伝えるつもりではなかったが、倉之助は振り返らずに「別に」と答えた。
萌恵沙の追跡には、相太が活躍した。自慢の脚で視界に捉えている限り追い続け、ついにマンションの屋上に出た。
膝に手をつく相太の後に捺実、研が続き、遅れて倉之助と俺が到着する。
「いや…壁を通過する幽霊相手に鬼ごっこは厳しすぎだろ…」
相太は息を切らしながら俺に訴えた。別に答えは求めていないらしく、すぐに背筋を伸ばし、萌恵沙に歩み寄る。4人もその後ろに続いた。
「…なぁ萌恵沙さん」
「…」
返答がない。その顔は幽霊なのにさらに蒼白しており、そしてもう何もかもがわからないという顔だった。
「あの人は確かにお母さんだった。でもお母さんは私は私じゃないって言う…。私は萌恵沙、でも萌恵沙に持ってるものは私にはない…」
突然何かに取り憑かれたようにまくしたて始める萌恵沙。異様なその様子に堪らずに相太が救済の目を向けた。
「私は誰?い、いや私は萌恵沙。それだけは確か。確かなのに……、私は、私は、私は、私は、私は、私は、」
「おい誓太!」
相太が遂に声を荒げた。早くしろと言いたいのだろうが、
「わかってる!」
すぐさまそう返答するも、最善策がわからない。萌恵沙がパニックになっているのはわかるが、
このままだと、萌恵沙が悪霊化しかねない。
…悪霊化しそうな幽霊は強制除霊をするのじゃ。完全に有効だと思う方法が何も無いのならばな…
師匠にそう言われ、俺はその教えをずっと守ってきた。だから何も有効な手立てが無い以上、強制除霊をする他ない。
だが、ここまで、…俺だけでなくみんなが力を合わせて、やっとの事でゴール目前までこぎつけたのに、ここで止めるのか?それにみんなは納得するはずもないし、俺も納得しない。だが悪霊化は何よりの恐怖だ。手に負えない場合は最悪、ここにいるみんなが命を落とすことになる。
…何か無いか、
その時、
俺らの運命は、
まだ俺らを見捨てていなかった。
「っ、」
ポケットに違和感を感じ、手を突っ込む。その指先が、スマートフォンのバイブレーションを捉えた。
藁をも掴む思いで取り出すと、登録していない番号が表示されていた。……いや、この番号は覚えている。小学生の頃、自分の家の黒電話から何回もかけたのだから。しかしスマートフォンを持ってからは億劫になり、登録していなかった。
「おい誓太、そんなことしてる場合じゃ…」
相太の制止を無視し、俺はボタンを押して耳に当てる。
「もしもし師匠!?」
その言葉に皆がハッと息を飲む。そしてその音をかき消すように、
「遅い!何回かけたと思っとるんじゃ!!」
スマートフォンがビリビリと言っているのではないかと思うほどの怒号が、俺の耳を貫いた。思わず痛々しい顔でスマートフォンから耳を離す。
「え、そんなにかけてました…?」
「5回以上はかけた、出ないのじゃったら電話を持ち歩いている意味がないではないか!」
「ご、ごめんなさい、携帯を気にしている余裕が無くて…」
それより何か、と俺が話題をそらすと、師匠は間髪入れずに本題へと切り込んだ。
「誓太、もう出会った幽霊とその母親とは会わせたのか?…いや会わせてたとしてもどちらでもよい、ただしよく聞け」
もはやこちらの応答を待っていないほど、師匠にしては珍しく焦った口調で、それは言われた。
その刹那、
「………!!!」
それはまるで、ジグソーパズルの最後の1ピースをはめ込んだ、あるいは、ナンバープレートの最後の1マスを埋めた、そのような爽快感。
萌恵沙の欠落した記憶、謎に俺を意識し、俺に意識させる言動、萌恵沙が萌恵沙でない理由、
そして、盟子。
カチリ、と、頭の中で響いた気がした。
全てが繋がった、としか言いようがないその現象は、俺の身体に衝撃を与える。
そしてどうしようもなく、泣きたくなった。
何も言わずに、俺は電話を切った。
「おい誓太…」
相太の言葉を無視し、俺はリュックに手を入れると、
「っ、それって」
捺実は思わず呟く。俺が取り出したのは、素材は子供のおもちゃの、
初日に相太に使った、ピコピコハンマーだった。
「…何をする気だ?」
倉之助の問いに、俺は実演すると目で教えた。そして研は薄々察している様子。
「…やっぱり天才だな」
「お世辞を言っても何も出ないぞ」
澄まして答える研にフッと笑い、今度は萌恵沙に近づいた。
「…萌恵沙さん」
ブツブツと呟き続けていた萌恵沙は、言葉を止めて俺を見上げた。
「…もういいですよ、私は私がわからなくなりました。あとは何とか自分でするの」
「失礼します」
萌恵沙の話を聞かずに、その一言を放つと同時に、ピコピコハンマーを——普段の何十倍もの力を込めたものを躊躇いなく振り下ろした。
その瞬間、
「うっ!!」
とてつもない衝撃波がピコピコハンマーが萌恵沙にぶつかったところから放たれ、その眩しさに目をくらます、と思うや否や、俺の身体は宙に浮いていた。
いや違う、吹き飛ばされたのだ。
俺の後ろでは4人とも同様に吹き飛ばされ、萌恵沙は俺たちとは逆の方向に身体を仰け反っている。
その身体から、何かが飛び出た。
あまりの眩しさにそれが何なのかはわからず、シルエットすらまともに確認できなかったが、その影に向かって、俺は声を張り上げた。
「───盟っ」
そして、その言葉を言い切る前に、俺は意識を失った。
「——いや会わせてたとしてもどちらでもよい。ただしよく聞け、そこにいる幽霊は本来の姿ではない。誓太らが町を出る時、精霊がその幽霊の姿を目撃したとついさっき言ってきた。精霊は、——その霊に盟子の気を感じたそうじゃ。しかしその姿はどう見ても盟子が成長した姿には見えずに無視していたらしいが…。あのバカが。
よいか、その霊を精霊が今日初めて確認したということは、その霊は外来である可能性が高い。つまりは誓太の友人に憑いていた霊じゃろう。そして思い出せ、盟子の能力を。
…その霊の中に、盟子はいるはずじゃ」
いつもの様に、俺は盟子と遊んでいる。
しばらくして相太達が来て、今度は6人で。
この楽しい時間が永遠に続けばいいと、いや、永遠に続くだろうと疑いもせず、俺はヘラヘラと笑っている。
だが場面は一変し、気がつくと盟子が軽トラックの荷台に乗っている。
私、行かなくちゃ、じゃあね。
事情についていけず、俺は運転席と助手席に座っている盟子の母親といないはずの父親に助けを求めるも、2人はまるで俺が見えていない様子で前を見つめている。
やがてトラックが走り出した。
俺はトラックを追いかけて走りながらずっと叫んでいた。
止まれ!危ない!
俺にははっきりと見えた。トラックの進行方向に、得体の知れない禍々しい空間が広がっているのが。しかしトラックは止まる気配がない。
盟子!
俺の必死の叫びが届いたのか、盟子が振り向いた。その瞬間、周りの風景が一変し、真っ白い空間の中、俺と盟子だけが取り残される。
盟子は呆気にとられている俺を見て、微笑んでこう言った。
——私を、見つけて。
まるで寝ている間にどこかを殴られたかのように、俺は目をカッと開いて素早く起きた。速すぎて立ちくらみがするほどだった。
そしてボヤけた頭の中から記憶を引っ張り出し、事情を理解して、周りを確認する。
「う…」
ちょうど倉之助が、のっそりと起き上がったところだった。続いて研、捺実、相太と続く。
後ろを振り返ると、まだ萌恵沙が目を回して倒れていた。屋上の柵に引っかかるような形で、何とか漂ってしまうことは防いだらしい。
しかし、どこにも盟子らしき姿は見当たらなかった。
「…くそっ!」
時間を確認すると、萌恵沙の母親の家を訪問してからだいぶ時間が経っていた。もしかしたら遠く離れてしまっているかもしれない…。
しかし、探さないという手はない。
「みんな、後を頼む!」
「え、ちょっと誓太!?」
俺は素早く実体化のハケを萌恵沙に振り、捺実の制止を聞かずにすぐさま走って階段を降りていった。
「事情は多分研が全部わかってる!」
「おい、僕に丸投げかよ」
「頼む!」
階段を降りる手間さえ惜しく感じた俺は、二段飛ばしで飛び降りるように階段を駆け下りた。
「…ったく」
研はしょうがない、と諦めたような表情で俺を見送った。
「ね、ねえ、どういうこと?全く何言ってんのかわかんないんだけど…」
「お、おい!萌恵沙さんが萌恵沙さんじゃなくなって…、あれ、でも服装が同じ…、って!目の下にホクロあるよちゃんと!」
「顔が変わってる…」
捺実、相太、倉之助が順に訴えてくるのを、研は「まぁ待て説明するから」と諌める。
「しかしどう説明するかな…」
学ぶのは得意でも学ばせるのが不得意な研は、説明をどう構成するかしばし考えていたが、
「…いやいい、もうストレートに結論を先に言うぞ」
面倒になってそう切り出して、研は3人、…ではなく、起き出した萌恵沙を含め4人に向かって説明した。
「えーと、盟子の幽霊は、萌恵沙さんの中に入ってたんだ」
しばらくの沈黙。呆気にとられて誰も何も言わない。自分の説明が悪かったのかと研は慌てて補足を付け足した。
「あー…、も、萌恵沙さんが思い出した記憶の中に、盟子が目をじっと見つめてから記憶がない、って言っただろ?つまりは盟子は一度、萌恵沙さんの意識に干渉したことになる。だけれど、…僕はこの手の専門じゃないから具体的には言えないけど、その時に不具合があって、盟子は萌恵沙さんの中に入り込んじゃったんだ、多分。ほら、最初に萌恵沙さんが相太に憑いてた時みたいに」
「俺みたいに?何でそりゃまた…?」
「だから僕は専門じゃないんだって。…多分、誓太が前に言ってたけど、幽霊が曖昧な存在だからだと思う。肉体を持っていないし、何よりイレギュラーな存在だから…。盟子も調節は出来なかった可能性は充分あるよ」
「で、でもそれは事実?」
捺実が詰め寄って研に聞く。捺実よりも身長が低い研は、やや押さえつけられる体制で「落ち着いて」と何とか耐える。
「でも、これは事実だ。この説を元に考えると、今までのことの辻褄がぴったりと合うんだ」
「ぴったりと…?」
捺実の呟きに、研はコクリと頷く。
「萌恵沙さんの断片的な記憶、あれは全部、盟子との共通の記憶だ。邦雄町に暮らしていた事実と、母親との2人での暮らし、同じ住む地域…、細かい事実は違っても、大まかな情報は一致する。母親の顔を見るまで忘れてたのとかは、脳内の意識が萌恵沙さんのと盟子のとで混ざって混乱したからじゃないのかな…?」
「あ、それって…」
萌恵沙が途中で口を挟んだ。今まで聞いた声とは違った声なので、一瞬周りが驚く。
「何となく、誓太に気持ちがいってたのも、盟子さんと意識が混ざってたから…」
当たり前のように話しているが、周りからするとそうだったのかと初耳である。
「でももう全く気にならない。むしろタイプじゃないし」
タイプじゃないんかい、とまさかのオチに総ツッコミである。
「それとさ…、盟子との昔の夢、見なかった?」
「あ…見た。でも毎日じゃないけど」
「その日、萌恵沙さんが失踪した日だよね」
失踪って、他に言い方はないのか、と文句を言いたいところだが、実際その日だったのでそっちに気をとられる。
「行動的に、身体を操作しているのは萌恵沙さんの意識。だけど、盟子は能力を駆使して僕らにここにいることを伝えようとしてたんじゃないのかな…?混ざってるから、記憶を呼び起こす程度しか出来なかったんだろうけど」
「…でも誓太があのピコピコハンマーを振ったってことは、もう盟子は萌恵沙ちゃんの身体から出てきたってことだよね!?萌恵沙ちゃんの顔も本来の姿みたいだし…、ねぇどこにいるの?」
捺実の訴えで再び押さえつけられ、ほぼ押し潰されるような体になった研。必死に抵抗して、今わかることを話した。
「それがわかったら苦労しないよ…。あの衝撃で僕たちだけじゃなくて萌恵沙さんも気絶してたでしょ、幽霊が気絶って納得いかないけど…。ということは、盟子も当然気を失っているはずだよ。初日に萌恵沙さんから川に流されたっていう話から、幽霊でも物質の流れを無効化は出来ないみたいだから、どこか行っちゃったと思う…。だから誓太があんな必死になってここを出て行ったんだ」
「そ、そうよね…」
諭すように研が言うと、捺実が萎れたように力を抜いた。空気が悪くなったと感じた研は努めてやる気のある声を出す。
「…とにかく、今出来ることからやらないと。まず、もう一度萌恵沙さんとお母さんを会わせよう。本来の姿になったのだから、拒否されることはないはずだし」
研はそう言って萌恵沙を見るが、
「で、でもまた否定されたら…」
萌恵沙は既に意気消沈していた。無理もない、実の母親に仕方ないとはいえ、一度拒まれたのだ。そのショックがどれほど大きいのかは、それを体験していない研たちにはわからない。
「…ねぇ研、もう少し待っていた方が、」
捺実が元気もなくそう言うが、研はそれを完全に無視した。萌恵沙に歩み寄る。
「行こう」
その一言だけを、研は萌恵沙に伝えた。
「…もう、私には自信が、」
「行こう」
萌恵沙の言葉に強引に重ねて、もう一度。
「…ねぇ、私のことも気にかけ」
「行こう」
萌恵沙に発言権を許さず、更にもう一度。あまりの強引さに捺実たちは呆気にとられ、止めることを考えていなかった。
「…何で?何でそこまで言うの?」
萌恵沙の目には涙が溢れていた。その顔に研は少しギョッとするが、その臆病な自らの気持ちを振り払い、答える。
「…一度でも、『逃げた』記憶を作って欲しくないから」
「『逃げた』記憶…?」
要領を得ていない萌恵沙は、濡れた目で研を見上げる。
「…一度逃げると、その記憶がいつまでも頭にこびりついて、更に次の『逃げ』を誘発する。一度の経験は、同じことを2回目以降をすることを容易にする。容易にするから、ズルズルと沼にハマって…、やがて取り返しがつかなくなる」
研は、その沼に完全にハマった1人だった。彼は全てにおいて、彼の最善手を出すことは出来なかった。…勉強面も、友人面も、そして家族に対しても。
一番の有名大学の合格者に対して、「次元の違う人間」と口走ったことがある。それは、そこまで『逃げない』ことが出来ることに関してであった。
友人関係も、疎遠しがちだった。話すことはあっても、共に遊ぶ仲間はクラス内にいない。
彼の唯一の救いは、5人組だけだった。
彼は5人組と以外に、友好な関係や結果を残すことは無かった。彼は5人組内でしか、自らの立ち位置を確立することが出来なかった。
彼は、5人組がもし解散することになることになったら、1人で生きることを余儀なくさせられる存在だった。
そのことが、自分が哀れだと証明する材料となることを、彼は今更ながら知った、いや、自覚したのだ。
萌恵沙と、関わったことで。
「僕は、萌恵沙さんに感謝してる。萌恵沙さんのお陰で、僕が無意識に目を瞑っていた事実に目を向けられたから」
5人組以外の同い年の人と、話し、遊び、笑った。萌恵沙も何も知らない5人に、積極的に仲良くなろうとしていた。
研の男子校では、そのような人物はいなかった。いつしか、研には誰も手を差し伸べなくなった。
だから、それが研個人に向けられたものでなくても、萌恵沙のように屈託なく接してくる人が、研にとっては新鮮で、新境地に達した気分で、
その瞬間に、自分が思っている以上に繋がりを欲していることに気づいた。
「…だから、」
そんな存在の、萌恵沙だけには、
「…たったそれだけの理由だけど、僕を救ってくれた人に、僕と同じ失敗を踏んで欲しくないんだ」
たったそれだけの理由で、———それだけで何が悪い。
複数も理由を持ち合わせていなくて何が悪い。
かけがえのない、大きな事柄一つだけで決意を固めて、何が悪い。
研は、自分の中のもう1人の自分にそう言い聞かせるように、抵抗する自分を抑えきって、最後まで言葉を繋げた。
その顔を見た萌恵沙は、再び涙を流した。今まで流していた涙とは別物だった。
…次に涙を流したのは、母親に抱き締められた時だった。
「ごめんね、お母さん、萌恵沙を失った悲しさを引っ掻き回されたような気分で、萌恵沙をよく見ずに追い出しちゃった。…しっかりと見れば、萌恵沙だってわかってたかもしれないのに」
悲しませちゃったね、ごめんね、と母親は繰り返し泣きながら言った。萌恵沙も泣いていたが、正直に言うと母親の言葉はあまり耳に入っていなかった。さらに言えば屋上から再び母親の家まで来た記憶もない。恐らく動かない自分を誰かが引っ張ってきてくれたのだろうが、
途端、後ろに気配をやっと感じた。このまま母親に抱かれていたいが、気恥ずかしさが勝ってしまう。
「ちょ、長い…」
そう言って萌恵沙が母親から離れてしまい、その直後にしまったと思った。しかし母親は萌恵沙の想像とは逆に、笑った顔を見せる。
「そうよね、思春期だものね」
そういう理由でいいのかと多少びっくりするも、母親が顔を覆って泣き崩れたのを見て再び驚いた。慌てて母親の背中をさする。
「何で思春期で反抗的だから泣くのよ」
脳があまり活発ではないのだろうか、思わず考えていたことを口にする。
母親は覆っていた手を外し、顔を濡らしたままにっこりと笑って答えた。
「だって、自分の娘が成長している証じゃない」
——ああそうか、と腑に落ちた。腑に落ちて、その言葉から母親の気持ちを感じ取ると、…再び涙が溢れる。
自分の中に、特に目の付近にこんなにも水分があるとは驚きだった。さらに言えば幽霊であるのに。もうこのまま顔が枯れ果てるんじゃないのかと不安になりそうだ。
「…ええと、どうしよ」
後ろでそんな不安そうな声がかかり、思わず吹き出した。
さっき私に偉そうに語ってたくせに、そんな戸惑った声を出さないでよ。
どうする?と研は周りに助けを求めるが、捺実が無視をしたことから始まり、相太と倉之助までもが判断を研に委ねる。いつもと違う態度に研が戸惑い、そのキョドキョドした研の様子と、何やら手柄を譲る様子の3人の様子にまた吹き出す。
「と、とりあえず僕たちは席を外します。後は家族で、水入らず、ってことで…」
結局、研は無難な結論を出したようだ。その態度に萌恵沙は無性に膨れたくなる。
「えーと、萌恵沙さんのお母さん」
「…はい」
「幽霊は、やり残したことがあるからこの世に留まっています。だから、それを達成すると成仏して、消えてしまうと思います。…その時まで、納得いくまで話してあげてください」
「…もちろんです。それと、ありがとうございました。さっきまでいた男の子にも言ってあげてください」
誓太のことだろうとすぐに察しがつき、「ありがとうございます」と研は頭を下げた。
それじゃあ、と相太が一抜けし、倉之助、捺実と続く。取り残された研は、萌恵沙にも「じゃあ、頑張って」と一応労いの言葉をかけ、3人の後を追おうとする。
その背中に、萌恵沙は呼びかけた。
「ねぇ!」
研が驚いた顔で振り返った。彼の目には、私の顔はどう映っているだろう。多分、涙を流しながら、何故か余裕そうな顔をしているのだろうな、と想像しながら、
「あなたって、いい人ね。好きになっちゃいそう」
爆弾を投げつける時は月が綺麗だの言わずにストレートに。不思議と緊張はしなかった。
自信満々の対し、研はしどろもどろになった。「え?」と「は?」を繰り返し、手を出したり引っ込めたり、その様子が可笑しくて、嬉しいような悲しいような、そんな複雑な気持ちが溢れてくる。そして遅れて恥ずかしさが追いついた。
「…それじゃ、頑張ってね。『研ちゃん』」
そう言って、萌恵沙は扉を閉めた。——閉めきるまで、表情は変えずに出来ただろうか。
ふと前を見ると、母親が泣きながらもからかう表情で、しかもわざわざ質問をした。
「どうしたの?」
母親のその顔に少し腹が立つも、それすらも可笑しく感じた。だから萌恵沙は、まるで楽しむかのように、こう答えた。
「若気の至り、ではないのは確かだよ」
「じゃ、俺は研を待つ。2人組を組んで誓太を探そう。見つけたら連絡して」
マンションの入り口まで降りて、倉之助がそう言った。異論はないので、相太と捺実が先にマンションから出ていった。
「どうする?誓太と電話繋がる?」
「あいつ持ち歩いてるくせに手に持ってる時にしか電話に気づかないからな…。あと立ち止まっていてなお敏感になっている時」
4回目の留守番電話の音声を聞いて、相太は携帯から耳を離した。
「誓太も闇雲に探してるから…、でも流石に何か道を示すものを見つけないと無理よね。ねぇ誓太ならどうすると思う?」
「どうするって…」
捺実の問いに、相太は眉間にしわを寄せながら答える。
「…あいつはそこら辺を漂ってる幽霊に聞けるだろ。でも俺らは真似できないし…」
「…そうよね」
そして2人から会話が途切れる。交差点の信号が赤に変わり、渋々そこで立ち止まる。
「…ねぇ相太」
「ん?」
「萌恵沙ちゃんて、絶対研に惚れたよね」
突拍子のない捺実の発言に、相太は目を丸くする。
「…さぁ、俺にはわからないな。恋愛なんてしたことないし」
「嘘、今回町に戻るときに『恋愛がうまくいかねー』って言ってたじゃない」
「あの時は『モテねー』って嘆いてたんだよ。『モテる』と『恋愛する』は完全に別物だ」
「でも私が告白されたとか聞いた時に嫉妬してたじゃん」
「それは単に、女子と関わりのない男子の僻み。要は惚気話を許すか許せるかの問題」
「別に惚気じゃないけど」
「あーっ!もう話がなんか逸れてる!」
信号が青になり、相太は走り出した。慌てて捺実が後を追う。
「今は誓太のことに集中しろ!恋愛話の雑談はその後だ!」
「雑談じゃないっ!」
叫び声と共に、捺実が相太の腕を掴んだ。堪らず相太はその場で立ち止まらせられる。横断歩道の真ん中で相太は捺実にほとんど怒鳴りつけるように責めた。
「ちょ、危ないじゃねーか!」
「雑談じゃないのっ」
捺実は相太の言葉を無視し、再度同じ言葉を繰り返す。
「雑談じゃないって、どういうことだよ」
会話が噛み合わないことに不審感を抱きつつ、相太が聞くと、捺実は肩を震わせて俯いている。
「お、おい大丈夫か?」
捺実の態度に、責める口調から思わず気にかける口調となる。その瞬間、
「私が…」
捺実は突然相太の襟首を掴んだ。思わず相太が「おわっ」と声を上げると、
目の前に、捺実の顔が迫った。
「…私が!相太のことが好きだから!」
至近距離での、絶叫に近い声が耳に刺さり、捺実が言い終わった後、しばらく周りの音が消えた。やがて近づいてくるように、都会の生活音が耳に入ってくる。その間、相太は捺実の顔から目を逸らさずにはいられなかった。
しかし暴力的にも、クラクションが鳴り響く。
「やべっ」
既に信号は変わっており、2人の近くまで迫っていた車が、急かすように2度目のクラクションを鳴らした。相太は捺実の手を掴み、慌てて歩道まで連れてった。
「…おい捺実、お前、」
言われた言葉が衝撃的すぎて、咎める声にもなれず、…それよりもモニタリングされてるのではないかと思わず疑ってしまい、相太は口から確認するセリフを発しようとしたが、
まるで相太の意図をわかっているかのように、捺実は相太が掴んでいた手を握りしめる。そしてその上にもう片方の手も重ねた。
…まさか、——いや、自分の能力で薄々はわかってはいたのだが、
嘘じゃないのか。
「…なんで俺なの?」
相太は、気がつくとそう言っていた。もしかして捺実を信用していない発言になっているのではないかと、言い終わってから焦るが、自分の意思とは裏腹に、次の言葉も滑り出た。
「…俺、何も取り柄がないのに、能力だってみんなと違ってしょぼいし、陸上も、微妙なところしか行けてないし、そもそもモテたことも無いし、というか、捺実にしばかれてばかりいるし…」
滑り出たどころでは無い。次々と、自分を卑下する言葉が溢れ出てきた。——今まで捺実を想って、そしてその夢を幻滅させた内容を。
我ながら、酷いと思う。…でも仕方ないじゃないか、
ずっと好きだった人が、急に俺のこと好きだなんて言うなんて、動揺しない奴はもはや感情なんで持ってない奴だ。むしろ人間じゃない。
「…しばいてるなんて、人聞きの悪いこと言うじゃない」
よく見ると、捺実は引き笑いをしていた。しかし実際にしばかれているので、こちらとしては笑い事ではないのだが。
「…それに、あんた、」
捺実は顔を上げた。目が限界まで潤っているのに、それを零さないのがまた捺実らしい。
「私が、そんな表面だけで決める女だと言ってんの?」
「いや、そんなことじゃ」
違う、そうじゃない、言いたいことは。
「だって、中身も俺は薄っぺらいし、」
「ふーん、本当に?」
少し余裕が出てきたのか、捺実は涙目ながらも口が軽くなってきた。
「…なんで嘘言ってるって思うんだよ」
「だってそしたら私が相太を好きになる理由が無いじゃない」
こいつ、落ち着いてきたからって「好き」だなんてあっけらかんと、と苦虫を噛み潰す。収まってきていた心臓が再び狂ったように働き始める。
「…俺自身が言ってるんだ、好かれるような、自分で誇りに思えるところなんてない」
ふと、気づいた。何でだ、何で俺はこんなこと言っている?
捺実と両想いになれる絶好のチャンスなのに、何故俺はこれほど拒否しているんだ?
「…ほんと、わかってないんだから」
捺実は、まるで自分は持っていて相太が持っていないものを自慢するように、…実際その気分で、相太に笑っていった。
「相太、自分のことは自分から見えてることが全てだと思ってるでしょ」
「…そうじゃないとでも?」
「相太の反応からして、そうらしいね」
笑いながら、捺実は、相太の目をしっかりと見て、それを教えた。
「…あの日、盟子が、いなくなっちゃった日から、みんな、変わっちゃったの、わかってる?やんちゃだった研が大人しくなったり、喧嘩っ早い倉之助が無口になって、必要なこと以外あまり言わなくなったり。…誓太に関しては、見ただけでわかるけど、表情の中で笑った顔をほとんど見なくなった」
それぐらいはわかる。わからなかったら親友なんかじゃない。だから、…この3人があまりに変わりすぎたからかもしれないが、目立って変化が無かった捺実のことを、相太はあの時から心配していた。
「私、おこがましかったんだけど、みんなが壊れないようにしなきゃ、って思ったの。もちろん私も辛かったけど、盟子は自分のせいで、みんなとの関係が壊れちゃうことは絶対に望まない、って考えたから。…でも、その心配はいらなかった。それよりもむしろ、無理をしようとした私が助けられたの」
再び捺実の目に涙が溢れ出た。それを誤魔化すように、捺実は相太に向かって指をさした。
「…俺、か?」
それ以外の答えが考えつかず、捺実の勢いに押されてそう言うと、捺実は大きく頷いた。
「俺が…何をしたって」
「あんた、昔は引っ込み思案で、ほとんど誓太の陰に隠れてたのに、今じゃどう?馬鹿みたいに楽しそうで、みんなのムードメーカーに大変身よ」
皆がネガティブな方向に性格が変わる中、相太だけが、性格が明るくなった。それは何故か、
「あんたが、無意識にみんなの気分を少しでも明るくしようとしてたってことじゃないの?」
「…え、」
そんな訳ない、という言葉は、捺実の真剣な眼差しで黙殺される。
そうなのか?実際俺は無意識にそうなってたけど、てっきり俺のどっかが壊れたのかと思っていた…。
でも、捺実の説を否定したい訳じゃない。
「…それに気づいた時、もうぞっこん。もし相太と付き合えたら…」
捺実は、この上ない笑みを顔に広げた。
「円満な家庭を築ける、って思ったの」
「ご、ゴールインが前提か…?」
「全力で連れて行くつもり」
そこはやっぱりいつも通り強引なんだなぁ、と何故だか納得した。しかしいつもと違うのは次からだった。
「…あんたみたいな人、他の人に渡したくないもの。本当の優しさを持つ人」
あ、これは、
自分の中で硬い何かが、ぶっ壊れた感じがした。
「…捺実も、」
「ん?」
相太の呟きに、捺実は反応する。その顔を、相太はしっかりと見返した。
「捺実みたいな、人の利点を見つけられる人は、喧嘩しても必ずよりを戻せると思う」
俺にはもったいないくらいだ、と若干不満げに付け足す。
その呟きに、捺実は顔を真っ赤にし、…照れ隠しでこう返した。
「大丈夫、不倫でもしない限り。まぁ不倫なんて恐れるくらいに威圧感を与えてあげる」
「待て、ほっとけば不倫する前提で話を進めるな」
「ほんとかなー、ほんとかなー」
「本当だ!…だって、」
からかう様子の捺実の顔を見て、相太は挑戦的な表情を浮かべた。
やられっぱなしだと思うなよ。
「俺は、中学から既にお前を好きだった身だ。6年間の蓄積期間をなめるなよ」
今度は、捺実がうろたえる番だった。そして相太はその様子に心底満足し、「行くぞ」と言って捺実の手を引いて走り出した。
指が絡んだのは、ごく自然な流れだったので、過度に満足して死にそうだった。
風が強いからか、耳元で大きな音が常に鳴り響いている。
何故ここに来たのかはわからない。どうせなら、闇雲に探した方がよっぽど良かったかもしれない。
でも、ここを選んだ。
みんななら、——誓太くんなら、きっと見つけ出してくれる、そう信じて。
「…どんな顔で会えばいいのか、わからないよ」
唯一の心配要素は、それだけだったかもしれない。
だからそればかりを考えて、考えて、…別の思考が入り込んできて、途端に悲しくなって、幽霊なのに涙が溢れて、
「…ごめんね、みんな、ごめんね、誓太くん、本当に、ごめんね…」
霧山盟子は、誰も見ていないところで、1人で声を押し殺して泣いていた。
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