028 『重力ナマステ』

「さてこの後だけど……」


 アイスを食べ終わり、ゲーセンを出た所。ノ割はまだどこかに行きたいらしい。

 まぁ、付き合うさ。

 映画、スタバ、アイス。奢ってもらった数だけ、俺は犬になる。


「次はどこに行くんだ?」


「あたしん家」


「きてきてあたしんち〜?」


「懐かしいわね」


「それで、そのあたしん家がどうしたんだ?」


「言い方を変えるわ、あたしの自宅に行くわよ」


「……なんで?」


 意味が分からない。映画に行くのも、スタバも、ゲーセンも……まぁ、理由が無くとも行く所だろうけど、ノ割の家に行く理由が全く分からない。

 しかし、その理由はすぐに分かった。ノ割が俺の顔を指差している。いや、正確には頭––––というか髪の毛を指差していた。


「長すぎ、切った方がいいわ」


「別にいいだろ」


「タダで切ってあげるわよ」


「よし、早く行こう、前髪が目に入って鬱陶しかったんだ」


 タダには弱い男、春日千草であった。




 *




 ノ割の家、ノ割美容室改め、Rose。

 そのバラ色の看板を見ていると、ノ割が「母親がバラが好きなの」と教えてくれた。

 なるほど、店名ってのはそんな感じで決めたりするのか。そのままじゃないか。ユーチュー部みたいなネーミングセンスだ。

 店内に入ると、いかにも美容室! といった感じのお洒落な匂いが鼻腔を刺激する。

 木目調の床に、大きな鏡、座り心地の良さそうな椅子に、シャンプー台。

 なるほど、この辺で一番いいとノ割は自負していたが、それも頷ける雰囲気の良さがある。

 しかし、店内にお客さんはおらず、従業員も居なかった。

 振り返ってドアを確認すると、さっきは気が付かなかったけれど、「close」の看板を見つけた。


「美容院ってのは、火曜日が定休日じゃなかったのか?」


「あら、詳しいわね」


「妹に教わった事がある」


 妹は一か月に一回は髪を切りに行くからな。出かける前と何も変わらないのだから、行く必要は無いと思う。


「お洒落な妹さんね」


「そうなのか?」


「中学生でそれを知っている子は、大体お洒落さんよ」


「あれ、うちの妹、中学生って言ったけ?」


「……言ったわよ、忘れちゃったの?」


「そう言われると、言った気はするな」


 ダメだな、若年性認知症かもしれない。どうにも先程から忘れっぽい所があるようだ。

 そういえば、休みで従業員が居ないのだから、俺の髪は誰が切ってくれるのだろうか?

 ノ割のお父さんとか、お母さんなのだろうか。聞いてみよう。


「なぁ、俺の髪は誰が切ってくれるんだ?」


「あたしに決まってるじゃない」


「じゃあ、明日学校でな」


「待ちなさい」


 Uターンした俺の手をノ割はガシッと抑えた。


「いや、だってノ割が切るんだろ⁉︎」


「不安なの?」


「不安だよ!」


 絶対、ナインテールにされる!


「なら、いい事教えてあげる。姫先輩の髪を切っているのはあたしよ」


「よし、頼んだ」


 それを言われたら、もうなんか安心だよね。あの綺麗な髪を整えてるのがノ割だってんなら、そりゃ、お任せするさ。


「じゃあ、まずは髪を洗ってあげるからこっちに来なさい」


 そう言ってノ割は俺をシャンプー台に案内した。

 高そうな椅子と、設備である。


「こういうのって、いくらくらいするんだ?」


「これは八十七万」


 高そうではなく、高いであった。俺はその高い椅子に腰掛け、身体を預ける。シートがほんのりと温かい。


「温かいな」


「シートにヒーターが付いてるの」


「床暖房みたいな感じ?」


「ホットカーペットみたいな感じ、要らないなら切るけど」


 春とはいえ、まだ少し冷えるため、その心遣いに俺は甘える事にした。


「あった方がいい」


「はいはい、それじゃあ椅子を倒しますよー」


 言って、ノ割は俺の後頭部を軽く押さえながら、椅子を倒してくれた。なんか、手付きがプロである。


「よくやるのか?」


「ううん、姫先輩とシェンカちゃんだけ。男の人をやるのは初めてよ」


 美容免許とか持ってないしね、とノ割は付け足した。


「その、免許がないのにやってもいいのか?」


「友達の髪を切るのに、ダメもいいもないでしょ」


「確かに」


 お金を取らなければ、みたいな感じなのだろうか。よくは分からないけれど。


「普通は顔にシートをかけるんだけど、ハルはいっか」


「まぁ、タダでやってくれるなら贅沢は言わないよ」


「じゃあ、お湯をかけるわよー」


 そう言ってからノ割はシャワーを出し、ゆっくりと俺の頭皮にお湯を当てる。


「熱くない?」


「大丈夫」


「そう、良かったわ」


 その後、ゆっくりとお湯を頭に馴染ませてから、軽く水気を切り、シャンプーを二回ほどプッシュする音が聞こえた。

 泡だてる音、そして髪を洗う音。

 頭皮と髪を撫でるような洗い方であり、これがプロの技かと俺は感心してしまった。

 とても心地がいい。帰ったら俺もこうやって髪を洗おう。


「お客様、かゆいところはございませんかー?」


「大丈夫だ」


「お客様、頭は悪くありませんかー?」


「失礼なやつだな!」


「こら、動かない」


「すいません」


 理不尽に怒られた。


「いい子にしてないと、顔に水をかけるわよ」


「そういうの俺は良くないと思うな!」


 どうやら、逆らう事さえ許さないらしい。暴君ノ割である。

 しかし、ノ割の指がまるでマッサージをするかのように頭皮を刺激するため、文句なんて言葉が出ることはなかった。


「洗うの上手いな」


「でしょー?」


「コツとかあるのか?」


「グラビティタッチよ」


「それは重力を操る特殊能力か何かなのか?」


「それはアニメの見過ぎよ」


 いや、だってさ、いきなりグラビティとか言われたらさ、そう思うじゃん?

 ノ割の説明によると、触れるか触れないかの絶妙な力加減の事らしい。力を入れると言うよりも、触れるだけと例えると分かりやすいかもしれない。

 それにしても、髪を人に洗ってもらうってのは結構眠くなるものである。


「眠いなら、顔に水をかけてあげるわよ」


「間に合ってます」


 バレていた。しかしノ割はそんな危ない事をする事はなく、水ではなくお湯を俺の頭に当てる。

 お湯を弱めに出して、シャワーノズルを直接頭皮に押し当てるような洗い方である。

 帰ったらやってみよう。

 その後トリートメントを髪に馴染ませてから、再びお湯で洗い流され、髪の水滴を軽く絞ってから、椅子を起こされた。

 また、後頭部を支えられながら。これがプロか。


「じゃあ、拭いてあげるから。耳の中とか入ってないかしら?」


「大丈夫だ」


 少し大きめなオレンジ色のタオル。頭を軽く包み込んでから、ガサガサとするのではなく、ポンポンと叩いて水分を吸い取るような拭き方。帰ったら俺もやろう。今日だけで三つも学んでしまった。

 その後、タオルをターバンのように髪に巻かれた。


「ナマステ」


「はい、じゃあ、こちらへどうぞ」


 俺のボケは無視され、今度は正面にある大きな鏡のある椅子へ案内された。


「本日はどうなさいますかー? お任せですねー」


「まだ何も言ってないぞ」


「切ってもらうんだから文句言わない、任せておきなさい。気に入らなかったら、姫先輩の胸を揉ませてもらえるようにお願いしてあげるわ」


「それは、大丈夫なのか⁉︎」


 少し声が裏返った。Rで表すなら、Яだ。リバースした。Яeverseだ。

 いや、アインシュタインかよ。ダ・ヴィンチかよ。どうして天才って生き物は鏡文字が好きなのかね。姫先輩も鏡文字が好きだったりするのかな。

 そういえば『QP』って、小文字にすると『qp』だ––––絶対好きだ。

 じゃなくて、もし本当に姫先輩にそんな事をしようものなら、どんな反応をされるか分からない。

 よく俺をからかうためにそういう事を言う彼女だけれど、実際にやったら軽蔑されかねない。姫キックが飛んでくるかもしれない。

 だが、ノ割は胸を張る。


「大丈夫よ、それだけ自信があるって事だと思いなさい」


 ノ割は美容師が持っていそうなハサミやら、串やらがたくさん入ったホルダーを腰からぶら下げながら着々とカットの準備を進めている。

 まぁ、姫先輩のもやってるって言ってたしなぁ。


「じゃあ、任せるよ」


「それでいいのよ」

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