第11話

2019/08/30 00:13

 ネイサンは凍てつく夜気の中を走った。一人の少女の手を引き、励ましながら。

 脇腹の痛みは追いかけてくる連中への恐怖で、体の奥の方で小さく疼く程度に感じられた。捕まったら連れ戻される。ネイサンは時折、後ろを振り向き、エスメラルダとその遙か後方を確認する。彼の眼には闇の中に浮かぶ無数の篝火が見えた。押し寄せる一団の雪を踏みしめる音が近くなってきている。

 エスメラルダが膝をついて屈み込んでしまった。彼女の体力はピークを過ぎている、突然、下半身の力が抜けたように崩れ落ち、それでも前進しようと歯を食いしばり、立ち上がろうとする。ネイサンは彼女を勢いよく抱き上げると背中にしょって歩き出した。

「下ろして! 自分で走れるから」

 エスメラルダの負けず嫌いは相変わらずだが、声もネイサンの頭を叩く力も弱り切って頼りないものだった。


 未来をただ一人見据えるという能力は孤独を感じて、時に嫌になるものだったが急時の時にはこれほど頼りになる能力はない。

 膝下まである雪に覆われた大地をもう、二〇刻も行けば逃げきれる。

 皆が、悪魔の地だと恐れ近寄らなかった未開の大地がそこにある。


「悪魔の定義なんて自分勝手なものだよ。エスメラルダは僕が悪魔に見えるのか?」

 返事がない僅かの間に、様々な考えが過り寂しくなったが、エスメラルダの両腕がネイサンの首を抱きしめるように優しく覆った。もう、返事をする余力もないらしい。

「未来を見通す予言者は、世に破滅をもたらす悪魔なり」

 ネイサンの頭の中で村人の恨みの声が鐘の音の余韻のように響いていた。

 必死に未来を睨んで観測するが、到達すべき道に異邦人が群がり、銃を手に持って追ってを威嚇している。だが、それは希望がついえた後の事だった。


エスメラルダが雪原に一人、うつむせになって倒れている。彼女の下腹部から血が流れ出ている事に、動揺したが、辛抱強く未来の場面を見る。

 やがて、悪魔が乗り移った如く、禍々しい表情をした顔見知りの村人が鉈のような物を彼の顔に叩きつけた後、意識が現実に帰った。最悪の結末だった。



 行動次第で未来が変化しうる事を教えてくれたのはエスメラルダだった。彼女の手引きがなければ、村の教会の裏で、柱に捕らわれ火であぶられている所だった。彼女はそんな未来ばかりが見えて生きながら死人になっていたネイサンを無理矢理引きずり出し、逃亡を試みた。すると別の地獄に景色が変わったが、二人で極寒の中を歩いている地獄だった。だが、生きてはいて先が未確定の希望ある地獄のただ中だった。


 これから二人は死ぬが、行動次第で未来が変わる。

 それが唯一の希望だった。ネイサンは必死に頭を回転させては、己の中に宿る少し先の未来を見通す魔法の力で、生き残るための策を練り続けた。彼の瞳に映る、二人が助からない残酷な未来をたくさん見つめ続けた。大事な人が、死んでいく未来を何度も何度も。寒さと嫌悪と、絶望で狂ってしまいそうだった。これでは火に焼かれて死んだ方がマシだと後悔した。


 ネイサンは立ち止まり、後ろを振り返った。

 宙に浮いた篝火が光の左右に引きながら、やってくる。

「何やってんの、ここまでやって諦めたら・・・・・・」

「観念したよ。さようなら、エスメラルダ」

 冷たい手で頭を何度も殴られる。手袋をどこかで落としたんだな、と思った。エスメラルダをそっと背中から下ろしてやる。無言で睨んでいる彼女に笑顔で応える。上下のマツゲに雪がかかって泣いているように見えた。

「・・・・・・なんてね。これからだよ。助かる方法が一つある。僕の懐に入れたベレッタを渡す。僕の体温で暖まってる。寒気に長く晒されると動作不良を起こして発砲できなくなる、渡したら迷わず引き金を引いて」

 ネイサンは両手の手袋を外し、エスメラルダの右手を握った。少しでも暖めて引き金を引くための処置だ。

「困った時は神様にお願いをするんだ、エスメラルダ。神父様がお祈りするための数字の組み合わせで

「ホントに大丈夫? 私も魔法の本を読んだよ?」

「僕も読んだ。僕が悪魔に見える?」

首を左右に振って、彼女が微笑んだ。

「神は正しい者を導いてくださる」

ネイサンは神様は人間の善悪の外にいる存在だと思っている。そして魔法も。

「馬上の陰に。そいつが落っこちたら空馬に二人で飛び乗る。いいね?」

 エスメラルダは頷いた。

「馬を奪って逃げるんだね」

「そういう事だ。ちゃんと、助かる。さっき見てきたから」

 それでエスメラルダは助かる。

緊急時なのにわざと困らせる事を口にするのは、彼女の本音が行動に見えるからだ。心が暖かくなり、勇気が出る。最期の我儘、最期まで楽しかった、ネイサンは別の気持ちを伝えた未来を見たが彼女にとって呪いになってしまった。今は希望を見るべき時だ。

馬の蹄が雪をかく音が近づいてくる。

「もうすぐ、あの木の陰から出てくる。今だッ!!」

 エスメラルダは受け取ったベレッタの引き金を即座に引いた。

 その後突然、彼女の体が乱暴に掲げられ、気づいた時には宙を舞っていた。ネイサンが放り投げたのだった。上手く、馬の背中に彼女の腹部が当たり、痛みをこらえながら手綱を必死で掴んでいる様を確認すると笑みがこぼれた。馬の尻を拳で殴りつけ、馬は彼方へと猛然と速度を上げて走り去った。


 エスメラルダが遠ざかっていく。必死に手を延ばし、何かを叫びながら。最後まで暖かい子だったと心の中で謝辞を延べ、ネイサンは現実へと向かって足を踏み出した。煌々と輝く松明のオレンジ色の火が悪魔が乗り移った人々の表情を暴いていた。馬上から転がり落ちた陰に光が差し、その正体を見たが、彼女も周囲の村人と同じ表情をしていた。彼女はエスメラルダが走り去った後の暗闇を睨んでいた。

(姉さんか)

 かつての姉だ。そう思う事にした。

 ネイサンはもう、未来を見なかった。その必要はなくなったからだ。

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